半分死んでいるのなら、全部死んじゃうことだって、ちっとも怖くない。
 ここまで来るあいだにだって、怖いとかやめたいとか、あるいは自分のしてることがどっか間違ってるんじゃないかとか、そんな思いは全然浮かんでこなかった。
 いや、自分はなにひとつ考えていなかったようにも思う。
 まわりが勝手に指示してくれるのに、黙って従っていただけ。他人の敷いてくれたレールに乗って、気がついたらここまで来てしまった。そんな感じだった。
 ……ううん、違う。違う、これは全部、自分で決めたこと。
 未沙は強く、自分に言い聞かせた。
 だって自分は、今まで一度も、自分の望むままに進むことなんかできなかった。
 進路も習い事も、親の言いなりだった。ファッションや好きな音楽は、全部他人の真似。基準はたったひとつ、「みんなと同じことをしていれば、まわりから浮かなくてすむ」。本当にそれが自分の欲しい服なのか、好きな歌なのか、自分に問いかけることさえしなかった。――できなかった。怖くて。
 だからこれは、ここに辿り着くまでのことだけは、すべてあたしが自分で決めたこと。
 これがあたしの望みなの。
 いかなくちゃ。早く、ここではない、どこかへ。
 あの掲示板で、この言葉を見つけた時の感覚だけが、自分にとっての真実。
 今、いっしょにいる仲間たちも、しきりに同じ言葉を口にしていた。
 いかなくちゃ。早く逝かなくちゃ。
 こんな世界、一日も早く捨てて旅立たなくちゃ。
 まるでお互いの言葉に急き立てられるように。
 それはもう、未沙自身の思考なのか、ただ他人の言葉をなぞっているだけなのか、それすらわからなくなっていた。
 そして未沙は、そんな自分に、少しも違和感を感じないのだ。
 やっぱりそれも、未沙が半分死んでる証拠なのかもしれない。
 ショーンから手渡された錠剤を見つめ、やがて缶コーヒーで一気に飲みくだす。
 コーヒーはとっくに冷めて、少し金属質な味がした。
「飲んじゃった? 梨々ちゃん」
 同じ錠剤を口に含みながら、ショーンが未沙に向かって手を差し出した。
「残ってるなら、それ、もらってもいいかな」
「あ……はい。どうぞ」
 未沙は缶コーヒーをショーンに渡した。
 会ったばかりの人と飲み物を分け合うなんて、本当はあまりいい気持ちはしなかったが。未沙がもう一度口をつけなければいいだけだ。
 ショーンはためらいもせずに、コーヒーを飲み干した。
 ふと気づくと、唯那が真っ黒い瞳でこっちを睨んでいる。
 彼女もまた、飲みかけの缶飲料を両手で握りしめていた。同じく睡眠導入剤を服用したのだろう。
 唯那は、ショーンが自分の缶飲料を受け取ってくれるのを期待していたのかもしれない。
 ――もしかして、シットしてんの、あの子?
 ばかばかしい。
 未沙は半分あきれてしまった。
 これから死のうって人間が、初対面の相手に好意を寄せたり、嫉妬したり。
 そんなふうに他人についていろんなことを想ったり悩んだりするのがうざくて、相手の気を惹こうとしたり、少しでも「良い子」の自分を見てもらおうと嘘に嘘をかさねたり、そういう無駄な努力にもう疲れちゃったから、自分たちは死を選ぶのに。
 メールの文面から想像していた唯那は、そんなくだらない感情なんか超越して、もっと遠いところだけを見つめているような、純粋な子だと思っていた。
 ……だいたい、あんた、『心は男』なんでしょ? だったらなんで、女のあたしにやきもち焼いたりするわけ? 睨む相手、違うじゃん。
 やっぱり、ネットでの関係は架空の世界。お互い架空の相手と話し合っていただけで、現実は違うということだろうか。
 ……まあ、いいか。
 だんだん頭の芯がぼうっとしてくる。クスリが効いてきたのかもしれない。
 未沙は今まで、この手の薬は一度も使ったことがない。だから薬効も早く出るのだろう。指先の感覚まで鈍くなってきたようだ。
「ねえ、もうそろそろいいんじゃない?」
 やがて、細い声でぼそぼそとアユが言った。
「あんまり時間かけてると、誰かに見つかる可能性が高くなるわよ。急ぎましょう」
 アユに急かされ、一行は車内に戻った。
 火の熾る七輪も運び入れる。
 未沙は、三列シートの一番後ろに座った。
 隣には当然、唯那が来るものと思っていた。
 が、彼女がドアに手をかけるより先に、さっとショーンが未沙の隣に乗り込んでしまう。
 ショーンはさっさと中央座席のシートを起こし、他の者が後部座席に入れないようにしてしまった。
「ありがとう」
 人形のような無表情と緩慢な動作で、アユが中央座席に乗り込む。シートに座ると、彼女はふたたび錠剤を口に放り込んだ。ちらっと見えただけだが、一〇錠近くを一気に飲み下したらしい。
「このくらい服まないと、もう効かないのよ、私」
 もともと青白かったアユの顔が、さらに白く、蝋人形のようになる。やがてアユはぐったりとシートにもたれかかり、動かなくなった。
 続いて、唯那。おじさんは運転席だ。
 車内に乗り込む瞬間、唯那はひどく悪意のこもった眼で、未沙を睨んだ。
 未沙は気づかないふりをした。
 もう、なにをするのも、ものを考えるのすら、おっくうだった。
 おしまい。もう、みんなおしまいになる。
 足元に置かれた七輪から、息苦しいほどの熱気が立ちのぼってくる。
 ショーンが粘着テープで窓やドアの隙間を目張りしている。運転席ではおじさんが、同じ作業をしていた。
 ……手伝ったほうがいいのかな。
 そう、思ったけれど。
 身体が重くて、動けない。
 まるで誰かに胸元をつかまれ、ぐいぐい上から押さえつけられているみたいだ。
 未沙はぐったりとシートにもたれかかった。そのまま上半身が、ずるずると倒れ込んでいく。もう起き上がることもできない。
 みぞおちのあたりを強く圧迫され、胃液が逆流しそうになる。
 吐き気がこみあげる。
 頭が割れそうに痛い。
 目の前に火花が飛び散って、叫びだしたくなる。けれどどんなに口を開けようとしても、声はまったく出なかった。
 かわりにひどく苦い、熱いものが逆流してくる。喉の奥を突き刺されるみたいな痛みが走る。
 ごぼっと嫌な音がして、なにかが喉を逆流し、口からあふれ出した。
 苦しい。苦しい。苦しい。
 まるで泥の沼に頭から沈められたみたいに、未沙はもがいた。
 本当は、指一本動かせなかったのかもしれない。
 咳き込もうとして、それもできず、ただぜいぜいとあえぐ。喉の奥でごろごろとヘンな音がした。
 手足の感覚がどんどんなくなり、けれど胸を丸太で圧迫されるような苦しさだけは、どんどん増していく。
 助けて。助けて。助けて。
 眼球が、内臓が、身体の外に飛び出しそう。
 頭が割れる。ほら、もう内側から破裂して、血が出てるよ。だってこんなに、目の前が真っ赤なんだもん。
 ああ、もうなにも見えない。
 助けて。
 やだ。どうしてあたし、こんなことしたの。
 もうやだ。やめて。誰か助けて。
 内臓が口からあふれ出してるよ。
 つぶれる。身体がつぶれる。
 そう思ったのが、すべての最後だった。
 そして未沙は、死んだ。





 ――死んだ。
 あたし、死んだ。
 なのに、足がまだある。
 もっともその足は半透明に透けて、踏みしめる地面が見えていた。
 手をかざすと、やっぱり透けている。手のひらの向こうに、痩せた枝と、どんより曇った上空が見える。
 自分で自分の手をさわると、一応まだ感覚がある。妙ににぶいような気もするが。
 そばの樹木に触れると、かさかさした樹皮の感触が指につたわってきた。
 樹のそばまで行くのも、枯れ草を踏んで歩かなければならなかった。たとえば空中をふわふわ漂ったり、念じただけですうっと身体が移動したり、そういう幽霊らしい事象
(こと)はなにも起こらない。
 生きている時にあんなにわずらわしかった身体の重さも、まだ残っている。
 服装も、死んだ瞬間と同じ、フリルつきのミニスカに水色のパーカー、ルーズラインのブーツ。パーカーの胸元に染みがついているのは、絶命の瞬間にもがき苦しみ、嘔吐したものらしい。
「あ、やだ」
 つぶやいて、未沙はパーカーを脱ぎ捨てた。
 薄いブラウス一枚になっても、寒いとは思わない。幽霊だからだろうか。
 なのに身体の重たさや、胸の奥にわだかまる息苦しさは、生きていた時となにも変わらない。むしろ、だんだん苦しさが増してくるようだ。
 この苦しさに耐えられなくなったから、未沙は死を選んだはずなのに。
 なんだかもう、わけがわからない。
 中途半端で奇妙な感覚だった。
「あら。ちゃんと拾っておいたほうがいいわよ、それ。ただの洋服じゃなくて、それもあなたの魂の一部なんだから」
 うしろから、細い声がした。
「え……?」
 未沙はふりかえった。
 そこには、長い髪の女性が立っていた。
 未沙と同じく、その身体は半分透けて、輪郭もどこかあやふやだ。少し強く風が吹けば、まるで砂山のようにくずれていってしまいそうに見える。
「今のあなたは現実の肉体を離れた幽体、霊魂なのよ。私もそうだけど、ほんとうは具体的な姿形もない、エクトプラズムのかたまりなの」
「……はぁ?」
 未沙は思いっきり、首をかしげた。
 女性は唇の端だけをつり上げるように、うっすらと笑った。
「言ってみれば、今のあなたは精神だけの存在。現実の肉体がないから、ほんとは服なんか着てるはずもないの。でも服をまとっているのは、精神が生きていた当時の姿をまだ明確に記憶しているからよ。生きていたころの自分の姿を、忠実に再現しているだけなの。だからこの服も、あなたの魂の一部が変形したようなものなのよ。魂がやがて過去の自分を忘れれば、その姿もどんどんくずれてくるはずよ」
「はあ、そうですか」
 返事はしたけれど、全然理解できない。
 正直言って、この手のオカルト系の話は、苦手だ。そっち系の話ばかりしているオタク少女たちもクラスにいたけれど、未沙はめったに話にくわわることはなかった。
 その上。
「え、と……」
 ――誰、だっけ。
 一瞬、未沙は考え込んだ。
「いやだ、アユよ。さっきまでずっといっしょにいたじゃない」
「あ、ああ……。うん、そう。そうだよね――」
 未沙はあいまいにうなずいた。
 ……そうそう、そうだった。さっき、いっしょの車で、死んだんだっけ。
 アユから睡眠導入剤をもらったことも思い出す。昨夜、待ち合わせ場所で初めて会った時のこと、アユというのが架空のハンドルネームであること、その名前がなかなか印象に残らなかったことなど、ひとつひとつ思い出してくる。
 けれど、そのどれもが、妙に現実感をともなわない。まるで教科書で読んだだけの事項のように、覚えているけれど、自分の身の上に起こったこととしての実感がわかないのだ。
 それに。
 ……アユさんて、こんな顔だったっけ?
 色白で細面の美しい容貌に、まったく見覚えが感じられない。初対面の人を見るようだ。
 とりあえず、彼女の言うとおりに、投げ捨てたパーカーは拾ってみる。襟元の汚いしみが気になって、袖をとおす気にはなれないが。
「その汚れだって、あなたが死んだ時の状態を無意識のうちに再現しているだけよ。自分はこういう姿だったって。あなたが望まないなら、消えるはずだわ」
「そうなの?」
「だってそうじゃない。そんな汚れ、あなたの人格の一部でもなんでもないでしょ? 私はこうやって死んだんだって、自分の死の状況をはっきりと誰かに見せつけてやりたいなら、別だけど」
 未沙はその言葉に、一瞬眉をひそめた。そんな悪趣味なこと、する気はない。
 が、ちょっと考えて、納得する。たとえば誰かに殺されて、自分を殺した犯人を恨んでいるなら、死の状況を正確にとどめておきたいだろう。おまえのせいでこんな悲惨な目に遭ったんだぞ、と、見せつけてやりたいはずだ。
「そっかぁ……。幽霊が怖いカッコしてるのって、そのせいとかもあるんかも……」
 ヘンなことに感心してしまう。とにかく自分は幽霊になりたてなのだから、右も左もわからない迷子みたいなものなのだ。
「よく知ってるんですね。えーと……あ――」
 また一瞬、彼女の名前が出てこなかった。
 未沙のつまづきに、アユは気づかなかったらしい。
「言ったでしょ、私、今までに二回も失敗してたって。その時に、仮死状態みたいなのも体験してるの。幽体離脱っていうのかしら、今のあなたとそっくりだったのよ。自分が死んだってことになじめなくて、ふらふらしてるうちに、現世に引き戻されちゃった」
 ぼそぼそと語り続けるその口調は、かすかに自慢げですらあった。
 アユは、透けて、色彩もぼやけている自分の身体を、どこか淋しそうな眼をして眺め回した。
 そして、自分よりもはっきりしている未沙の姿を、一瞬うらやむように横目で見る。
「今、苦しいでしょ? あなた」
「え……」
 未沙はのろのろとうなずいた。
「それはね、精神の不安定さが肉体の不調のように感じられているからよ。精神だけの存在だから、不安とか哀しみとか、精神状態を悪化させるマイナスの感情が、肉体的な苦痛のように感じられるの。そりゃ不安よね。死んで、天国にも地獄にも行けずにいきなり魂だけの存在になっちゃったんだもの」
 未沙は黙って、機械的にうなずいてみせた。
「私もつらかったわ。幽体離脱して、ぼろぼろになった自分の身体を見下ろしてた時。チューブとかマスクとか、いろんなものごてごてつけられた自分の身体を見てるのって、ほんと、最低の気分だったわよ。だってすごく醜いんだもの」
 まるでその光景が目の前にあるかのように、アユは首を横に振った。
「医者とか看護師とか、なにさまのつもりかしらって、いつも思ったわ。あたしは死にたいのに、むりやり生き返らせて……。何度も『やめて、このまま死なせて』って言ってるのに、誰も聞いてくれないの。で、結局、もとの不格好な身体に押し込められちゃって――。ああ、また死ねなかったって思うだけで、胸とかおなかとか、締め付けられてるみたいに痛くて苦しくなって……。病院を出て、普通の生活に戻っても、あの苦しさはずっと消えなかった。そのたびに思ったわ。こんな世界、間違ってる。こんなところで生きていけるわけがないって。だって自由に死ぬことすら許してくれない世界なのよ? 自由に生きられるわけがないじゃない。この気持ち、あなたならわかってくれるわよね? いっしょに逝こうって決めた、仲間だもの。私たち」
「はあ……」
 てきとうにうなずいてはいるけれど、彼女の言っていることは、未沙には半分も理解できない。もう、まじめに聞く気にすらなれない。
 彼女もまた、未沙の反応なんてろくに気にしていないようだ。まるで自分で自分の言葉にうっとりと聞き惚れているように、とうとうとしゃべり続けている。
「でも……ほら。今度こそおしまい。消えてなくなれるわ。私、やっと――。どうせ生きてたって、誰も私のことなんか見てなかったもの。死んだって、誰も、なんにも変わらない。私はもともと、この世界に適応できなかったのよ。これで良かったのよね……」
 アユの輪郭がさらにはっきりしなくなる。彼女自身の言葉どおり、消えかけているのだ。
 未沙は彼女を見つめた。
 ……誰だっけ、あの人。
 ……なにか言ってるみたいだけど、よくわかんない。
「違う――。この世界が私を受け入れないんじゃない。私がこの世界を拒否するの。私が世界を捨てたのよ。みんな、忘れるの。こんな汚い、間違った世界のことなんか、みんな忘れて、しあわせになるの。ね、あなただって、同じでしょ? だから私たち、旅立つことを決めたんだものね。あなたも早く、その姿を忘れなさい。覚えていたって、生きていた時の感情がいろんな痛みや苦しみになって、つらいだけよ。こんな世界のことなんか、全部きれいに忘れちゃったほうがいいのよ」
 アユは歌うようにしゃべり続けた。
「そうよ、私はもういらない。こんな世界。今までの人生も自分も、みんな忘れて、これでやっと私はしあわせになれるのよ」
 だがその言葉はもう、未沙にはまったく理解できない。まるで知らない言語のようにしか聞こえないのだ。あるいはただの機械的なノイズのようにしか。
「でもうれしいわ。私たち、独りぽっちじゃないんだものね。同じところへ行けるとは限らないけど、私、あなたたちのことは忘れないわ。覚えていてあげる」
 未沙はこどもみたいにこくびをかしげ、アユを眺める。
 ……えーと――あれ、なんだっけ?
 じっと見つめても、そこになにがあるのか、認識できない。
 ……あそこに、なにか、あるよね。でも……あれ、なんだっけ? 思い出せないや。
「どうしたの? 私の言ってること、聞こえないの?」
 アユは未沙に向かって手を伸ばそうとした。
 その手が、指先から消えていく。
 少しずつ、まるで砂の彫像が音もなく崩れるみたいに。
 あわてて未沙に駆け寄ろうとしたその足も、同じく消え始めた。
 なのに、未沙は顔色一つ変えなかった。まるでアユが消えていくことがごく当たり前であるかのように、ぼんやりと眺めている。
 アユはひきつった表情に、懸命に愛想笑いを浮かべようとした。
「ね、ねえ……。これでお別れなのよ。最後に『バイバイ』くらい、言ってくれないの?」
 アユがなにを言っても、未沙は何の反応もしなかった。
 その眼はガラス玉のように、なんの感情も映していない。
「ね、ねえっ! あなた、リナちゃん、ううん、リエちゃんだったわよねっ! 私の言ってること、ちゃんとわかって――わたしのこと、覚えてるわよね! ね、ねえ、ちょっと! 返事してよ!」
 アユは叫んだ。その声がどんどんヒステリックになる。
「ちょっとッ!! どこ見てんのよ、あんた!!」
 けれどその声はもう、未沙の耳に届いてはいなかった。
 消えていくアユの姿も、見えていない。
 いや、視界の中に捉えてはいるが、そこに誰かがいると、かつて人間だった存在、消えていく魂の姿があると、まったく認識していない。
 歩いている拍子に道端の雑草を踏んでも、誰も、そこに植物があるとか生命活動があるとか、そんなものを踏んだとすらふつうは認識しないように。
 日常の風景から、なにかひとつ小さなピースが欠落しても、それがあまりにも当たり前の風景であるがゆえに、なにが欠落したのかすら、誰も気がつかないように。
 空虚だけが、未沙の目に映っている。
「あたし、消えてんのよ、ねえ! このまま完全になくなっちゃうんだから、哀しんでよっ!! やめてとか逝かないでとか、ふつう言ってくれるもんでしょ!?」
 アユが懸命に訴えても、どなっても、応えてくれるものはなにひとつない。
 彼女の存在自体が、この世界を構築するもののなかから、欠落してしまったのだ。
「もしかして……ほんとに忘れちゃったの、私のこと――」
 茫然と、アユはつぶやいた。
 未沙はなんの反応もしない。アユの言葉は、自然の物音としか聞こえない。
「ち……違うのよ。そういう意味じゃないって……。消えたいって、全部終わりにしたいって、そういうことじゃないの! 苦しいのやつらいのはいやだけど、もう誰にも思い出してもらえないなんて、そ……そんなの、いやよっ!!」
 髪をかきむしろうとしたその手が、もうない。
 砂のオブジェが風にくずされていくように消えて無くなっていく腕を、アユは茫然と見つめた。
 周囲を見回す。その目に映る風景も、妙に色彩を失い、ぼやけていく。
 世界が消えるのではない。彼女の目が、視力が、なくなりつつあるのだ。
「う、うそよ! 誰かきっと、あたしのこと、覚えててくれるわよ! いろんな想い出があるもの! あたしといっしょにしゃべったこととか、したこととか、誰かが絶対、想い出に――」
 そしてアユは、自分の言葉に愕然とした表情を浮かべた。
「想い出……想い出って、あたし、なんにも……ない――っ」
 消えゆく姿で、アユは茫然とつぶやいた。










                              
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