どんどん痛みが増してくる。指だけでなく、身体中がずきずきと、まるでなにかに突き刺されているみたいに、痛い。
思わず背中をまるめ、未沙はタンデムシートから落ちそうになってしまった。
「どうした?」
バイクを発進させようとしていた薫平が、未沙の様子に気づき、慌ててバイクを停める。
「また、どっか痛いのか!?」
「う、うん……。大丈夫、ちょっとだけだから」
「大丈夫って顔じゃねーだろ、おまえ!」
薫平はいったんバイクを降りた。交通の邪魔にならないよう、いそいでバイクを路肩に寄せる。
未沙もタンデムシートから降りた。
そのまま道端にしゃがみ込んでしまいそうになるのを、薫平に励まされ、なんとか立ち上がる。
「もうちょっとがんばれ。そこの建物の陰に入ったほうが、風とかよけられっからさ」
まわりの人間には聞こえないよう、薫平は小声でささやく。
未沙はふらふらと、ビルとビルのすきまの細い路地へ入った。日陰になるが、薫平の言うとおり、冷たい風はよけられる。
けれどもう、立っていることもできない。未沙はそのまましゃがみ込んだ。目の前も次第に暗くかすんでくる。
薫平もエンジンを切ったバイクを押して歩道を横切り、未沙のそばへ来た。
停めたバイクのそばにしゃがみ、未沙の顔をのぞき込む。
「大丈夫か? そんなに痛てーのか?」
これなら、傍目には薫平がバイクの状態を調べているように見えるだろう。
なにせ未沙の姿は、薫平以外には見えない。歩道のまん中で薫平が未沙に話しかけていたら、他人の眼には、薫平はただのアブナイヒトだ。
「水とか……あ、そっか。飲めないのか、おまえ。じゃ、ゆっくり、大きく息吸ってみろ。できるか?」
「うん……」
言われるとおり、未沙はどうにか深呼吸してみようとした。
初めはつらくて、浅くしか息が吸えなかった。
が、何度か深呼吸を繰り返すうちに、次第に痛みも鈍くなり、呼吸も落ち着いてくる。息苦しさにかすんでいた視界も、次第にはっきりしてきた。
「どうしたんだろ、あたし――」
なにをしたわけでもないのに。
ただ、住んでいる街のことを思い出し、両親のことを考え、パパとママがきらいになった理由を思い出して――。
「……あ――」
未沙は顔をあげた。
今の未沙は、精神だけの存在。だから、精神のありようが、すべてを決める。すべてを支配する。
精神が不安定になれば、それが肉体的な不調のように感じられる。不安や哀しみ、恨み、憤り、そういうマイナス指向の感情は、そのまま肉体の感覚になって跳ね返ってくる。
たしかに、そう、誰かに教わった。
……じゃあ、今の痛みも?
もう一度、開いたてのひらを見つめる。
あの鋭い痛みは、哀しみの痛さだったのだろうか。両親をきらいになった、あの時の哀しさが身体中に広がって、冷たい鋭い痛みとして感じられたのだろうか。
薫平と出会う前に、身体中に重たくのしかかっていた息苦しさも。
あれは、これから自分がどうなるのかという、不安。なにをすればいいのか、どこへ行けばいいのか、なにひとつわからない、迷い。無力感。
自分で自分を信じられない、恐怖。
そして、淋しさ。
生きていたころからずっと感じていた、誰にもわかってもらえないあの淋しさ。
それがより明確な苦しさになって、未沙に襲いかかってきたのだろうか。
薫平がそばにいることで、痛みがやわらぐ理由も、それならわかる。
だって薫平がいれば、未沙はひとりじゃないから。
薫平が生前未沙と関わった人たちより、特別未沙を理解しているとか、そんなことはありえない。薫平だって、未沙のことなんか全然わかってないに違いない。ついさっき会ったばかりなのだし。
けれど。
顔を見て、互いに話ができる人がいる。未沙がここにいるとわかっている人が、いる。
そう思うだけで、指から、足の爪先から、一気に全身をかけめぐる痛みが、嘘のように消えてなくなった。
生きている時だって、自分はずっとひとりきりだと思っていた。
親も友達も、誰も本当の未沙をわかってくれない。なにか話してみたって、そんなのは全部うわべだけ、意味なんかひとつもありはしない。お互い、調子だけあわせて、その場をとりつくろうためだけのもの。そんなくだらないおしゃべりになんて、なんの価値もないと思っていた。
本当の心を打ち明けられる相手がひとりもいない自分は、この世界でひとりぽっち、なんて孤独なのだろう、と。
でも、本当にひとりぽっちになるということは、そんな生易しいものじゃなかった。
それは、すべてに拒否されること。
世界中から忘れ去られ、なにもかもが無に帰ること。
幽霊という、誰からも見てもらえない、声も聞いてもらえない存在になって初めて、未沙は本当のひとりぽっちの怖さを知った。
もしも薫平が未沙に気づいてくれなかったら。
きっとこの怖さに耐えきれず、未沙は消えてしまっただろう。
忘れ去られた淋しさ、怖さを忘れるために、自分自身の存在を忘れて、この世界から消えてなくなるしかなかったはずだ。
「大丈夫か? もうちっと、がんばれるか」
「うん。もう平気」
心配そうに未沙の顔をのぞき込む薫平に、未沙は小さくうなずいて、笑顔を見せた。
本当は、まだちょっとつらい。肘から先がずきずきと冷たく疼くようだ。少しでも気を抜いて、自分自身の存在があいまいになれば、そこから未沙の全部が消えていきそうな感じがする。
でもこの痛みを、その理由を、薫平に説明したところで、きっと彼にはまったくわからないだろう。未沙にだってまだ、すべてが理解できたわけでも納得できたわけでもない。
そしてなにより、世界すべてに拒否されるその恐怖は、それをかいま見た者にしか、わからない。
薫平にはそんな孤独も恐怖も、縁がないだろうし。なんとなく、そんな感じだ。
「おれん家まで、まだちょっと距離あっけど……。そこまで、もうちょっとがんばれ。部屋について少し休めば、きっと良くなっから」
「ありがと」
いつの間にか陽光はかたむき、あたりは茜色に染まっていた。東の空はもう夕暮れの藍色に変わり始めている。
薫平も、完全に日が暮れてしまう前に、自宅へ帰りつきたいだろう。
未沙は立ち上がった。まだ少しめまいがするけれど、このくらいならなんとか我慢できる。
「行こ、薫平」
「あ、ああ」
薫平がふたたび単車のエンジンを始動させる。
できるだけ平気な顔をして、未沙はひょいとタンデムシートに座った。
「あんま無理すんなよ。つらくなったら、すぐに言えよ」
「心配しないで。もう平気だってば」
……大丈夫。あとちょっと、がんばれる。薫平の家に着くまでくらいなら、きっと。
そう自分に強く言い聞かせれば、身体はその思いに従うはずだ。未沙はそう考えた。
淋しさやむなしさが身体の痛み苦しみとして感じられるなら、もうちょっとがんばれると言い聞かせる気力が、きっとその苦痛を押さえ込んでくれる。
大丈夫、大丈夫。だってあたしは、ひとりじゃないよ。今は薫平がいっしょに居てくれるよ。
未沙は何度も、胸の中でそう繰り返した。
その思いどおり、背骨から頭のてっぺんまで凍りつくみたいだった鋭い痛みは、もう襲ってはこなかった。その名残は身体のあちこちにわだかまっているけれど、このくらいならもう無視できる。
そして二人を乗せたバイクは、幹線道路沿いに広がる商業地域を離れ、やがてなだらかな丘陵地帯に広がる古い住宅地へと入っていった。
薫平はバイクの速度を落とした。とどろくような排気音も、少しだけ抑えられる。
街にはぽつりぽつりと街灯がともり始めていた。
家路を急ぐ子供たちや、買い物帰りの主婦らとすれ違う。みんな、どこかで見たような雰囲気の人々だ。
昨日までの未沙も、あの人たちと同じだった。街角ですれ違っても、誰の印象にも残らない、ありふれた風景の一部。
未沙がいなくても、きっとすぐに誰か別の女の子が、未沙の穴を埋めてしまうだろう。
……いけない。
未沙はきゅっと唇を咬み、自分に言い聞かせた。
だからそうやって、クラいことばっか考えてると、また身体痛くなっちゃうし。
……だからって、なにを考えればいいんだろう。
……考えるだけでしあわせなことなんて、思いつかない。
未沙はふと、薫平の背中を見つめた。
薫平には、あるのだろうか。思い描くだけで、どんな暗い思いも吹っ切れるほど、しあわせなことが。
薫平だけではなく、今、この世界でふつうに生きて、笑っている人々はみんな、それほど幸福な思いをいつも胸の中に抱えているのだろうか。
――そんなはずがない、と、未沙のどこかで、小さく声がしたような気がした。
けれど未沙は、その声を無視した。
未沙と同じくらいの苦しみを抱えてる人間なんて、ほかにいるはずがない。
だってそうでなければ、死を選んだ意味がなくなってしまう。誰もが、表情すら変えずに日々耐えている苦しみに、未沙だけは耐えることができなくて逃げ出してしまったなんて、絶対に認めない。
だからあたしだけが、こんなに苦しいの。哀しくて、つらくて、そのせいでこの身体は重たくなりすぎてしまったの。
だから、だから……。
けれど、どんなに自分に言い聞かせても、あの息苦しさも冷たく鋭い痛みも、もう襲ってはこなかった。
陽が落ちると、風が急に冷たくなった。
そして、街が完全に夜の闇に沈んだ頃。
「着いたぞ」
一軒の住宅の前で、薫平はバイクを停めた。
なんの変哲もない、小さめの庭付き一戸建て。二階の窓に灯りがともっている。
「あれ。おれ、また部屋の電気つけっぱにしちまってたのかあ」
『森島』と表札の出た門をくぐり、薫平は玄関のドアノブに手をかけた。
「あ。母さん、また鍵しめてねえ。ったく、不用心だなー」
ドアを開けた薫平は、未沙を手招きした。
「階段登った突き当たりが、おれの部屋。先行っててくれよ。おれ、バイク、ガレージに入れてくっから」
「う、うん。でも――」
「たぶん母さんにはおまえのこと見えねえと思うけど、とりあえずちょっとは気ぃ使ってくれよな。あんま足音とかたてねえようにしてさ」
「うん、わかった」
そろぉっと、忍び込むように、未沙は薫平の家へ入った。
玄関先でブーツを脱ぎ、両手に提げて、そろそろと廊下にあがる。
「おじゃましまぁす……」
いちおう、小声であいさつをささやいて、一歩ずつゆっくりと廊下を歩く。
ふとわきを見ると、アコーディオンカーテンで仕切られたダイニングキッチンに、人の姿があった。
未沙の母と同じくらいの年令の女性が、ダイニングテーブルに顔を伏せて、うたたねしている。
きっと、薫平のお母さんだろう。
「しょうがねーなー。こんなとこで寝てっと、また風邪ひくぞ」
うしろでぽそっと声がした。
いつの間にか、薫平が戻ってきている。
「あれ。もうバイクしまってきたの?」
「ああ。――ほら、先行ってろよ。母さんが目ぇ醒ますと、いろいろうるせーからさ」
薫平にうながされ、未沙は階段を昇り始めた。
ふりかえると、薫平は眠っている母親の肩にカーディガンをかけてやっていた。
「――優しいね」
「見てたのかよ」
自分の部屋に入るなり、未沙にそう言われて、薫平は少し照れたようにそっぽを向いた。
「ま……。おれン家、母一人子一人の母子家庭だからな」
「そうなんだ。……お父さんは?」
「この家建ててすぐに、ガンで死んじまった。おれが中坊ん時」
「そ、そうだったんだ……」
未沙は言葉につまった。
……悪いこと、聞いちゃったかな。
いささかしょぼんとしてしまった未沙に、薫平は苦笑した。
「なによけいな気ぃ使ってんだよ。おまえらしくねーじゃん」
「なによ! あたしだって、ちゃんと思いやりとか、あんだからね!」
「遠慮はぜんぜんねえけどな」
「……悪い!?」
未沙はムッとして、つい言い返した。
「いいじゃん、べつに! だいたい、あたし、きらいなの。ヘンに遠慮して、他人に気ぃつかってばっかいたら、結局、ほんとに言いたいことなんかなんにも言えなくてさ、自分にうそばっかつくことになっちゃうじゃん!」
「そっかなあ……」
「そうじゃん! 家じゃ親の顔色ばっかうかがって、学校に行けば、クラスで仲間はずれにされないように、みんなと同じテレビ、みんなと同じアーティスト、雑誌、ファッションて、まわりが言うことばっか気にして――。そんな、もうやなの。ほんとはあたし、そんなの全然興味ないのに、無理してみんなの話題についていこうとしてさ。毎日、学校行くたんびにすっげー疲れて……たまんなかったの!!」
思ったことを、一気にぶちまける。
しゃべり出したら、もう停められなかった。
今まで胸の中に溜まっていた、どろどろと汚い、熱く重苦しいものが、一気に噴き上がり、言葉になってあふれてくる。
こんな思いは、誰にも打ち明けたことなどなかった。
でも、今なら声に出して、言いたいだけ言い放つことができる。
なぜなら、未沙はもう、死んでいるから。これ以上悪い状態になんて、なりっこない。なにがあっても、誰になにを言われても、傷つく心配なんかしなくていい。
「学校の友達に話合わせてやんの、そんなにいやだったのか」
「そうだよ! だってあたし、あの子たちみんな、きらいだったもん! 学校も家も、全部きらいなの!!」
薫平は、未沙の言葉を咎めようとはしなかった。
ただちょっとだけ、小っちゃい子にするみたいに、未沙に笑いかけて。
「そっかぁ。ま、そんな時もあるよな」
とだけ、言った。
「え……」
「うん、おれもそーゆー時、あったし。なんかもー、会うヤツ会うヤツみんな気にくわなくて、ぶっとばしてやりてーッて時がよ」
「薫平も?」
「あたりまえだろ。どんなヤツだって、ふつうに生きてりゃ、そういう時があるに決まってんじゃん」
「ふつうに生きてれば……」
薫平はいつだってのほほんとして、他人にムカついたり腹を立てたり、そんな荒れた感情なんて一度も持ったことがないみたいに見えていたのだが。
……そんなわけ、ないか。人間なんだもん。
それこそ、薫平の言うとおりだ。
でもそう思うことは、なぜか未沙をほっとさせた。
あの掲示板で自分と似た人たちを見つけた時と似ている。けれど、やっぱりどこか違う。
それは、パソコンで文字だけ眺めていることと、たとえ幽霊になってしまったとはいえ、会って、互いの顔を見てしゃべっていることとの、違いなのだろうか。
そう思うと、なんだかちょっと気恥ずかしくて、薫平の顔を見ていられなくなってしまう。
「ふんだ!」
未沙はことわりもせず、薫平のベッドに腰かけた。狭い、六畳ほどの洋室。そこしか座れる場所がないのだから、しかたがない。
室内は、未沙が想像したよりさっぱりと片づいていた。ベッドにライティングデスク、その上に置かれたノートパソコンは、ちょっと前のモデルだ。クロゼットは壁と一体化した押し入れ式。ほかに家具らしいものは、なにもない。床にはバイク関係の雑誌が二、三冊、放り出してあった。
ほんとうに必要なもの以外は、なにも置かれてない。それが、妙に薫平らしいな、と未沙には思えた。
無難に座っていられるコツも、もうつかんだ。ベッドに座っている自分、立っている自分。この部屋にいる自分をしっかり意識していれば、身体がものを突き抜けてしまうことはない。
……なんか、ヘンなの。
生きている時は、「自分は今、ここにいる」なんて、わざわざ自分自身に確認することなんてなかったのに。反対に、どこにいても、なにをしていても、その実感が持てず、すべてが他人事
(ひとごと)
、あるいは嘘で固めたまやかしのように感じられていた。本当に自分が生きているのか、疑いたくなるくらいだった。
死んでしまってからのほうが、なんでも言いたいことを全部言えて、自分自身の存在も強く感じ取れるようになるなんて。
「おまえ、腹減ってねえか?」
薫平の質問に、ちょっと考えて、
「ううん」
首を横に振る。
「そっか、幽霊だもんな。ふつう、メシは食わねえか」
……ほら、ね。
やっぱりあたし、死んでるのに。
その時、がたん!と階下で大きな物音が響いた。
椅子かなにかが倒れたようだ。
「母さん、またやってら」
薫平がぼそっとつぶやく。
「ったく、ドジなんだからよー。しょっちゅうなんかにぶつかったり、椅子蹴倒したりしてんだぜ」
まるでそのぼやきが聞こえたみたいに、階段の下から声がする。
「薫平! 薫平、いるの!?」
「ああ! 部屋にいるよ! そっちこそ大丈夫かよ!」
半分ほど開けっ放しにしていたドアから頭だけ出して、薫平は母親の呼びかけに答えた。
「おれ、明日早えから、もう寝るよ! 母さんも台所で居眠りなんかしてねえで、寝るんならちゃんと布団に入れよ! 玄関も戸締まりしといてよな!」
そして、母の返事も待たずに部屋の中へ引っ込む。
「明日早いって、どっか出かける予定でもあんの?」
そう言えば、ベッドの横には大きめのドラムバッグが用意され、着替えなどが乱雑に突っ込まれていた。
「旅行?」
「ああ。ちょっと、日本海のほうにさ」
薫平は机の上に置いてあったJRの切符を手に取った。
「おれ、海のほたるを見に行くんだ」
ACT 3 ふたりで
「海の、ほたる?」
耳慣れない言葉に、未沙は首をかしげた。
「えっと……。ああ、アクアラインのまん中にある、あれのこと?」
「ありゃ『うみほたる』。おれが言ってんのは、海ん中にいる生き物」
そう言って薫平は、視線で部屋の壁を示した。
そこには、真っ暗な夜の海を撮影した写真パネルが飾られていた。
空と海の境目もわからない、真夜中の海。左隅に白く映っているのは、撮影者が乗っている船の舳先らしい。眼下に広がる、どこまでも深く暗い群青色の海面は、水というよりも、もっとねっとりと濃いゼリー状の物質のように感じられた。
その水面の下に、無数の小さな光が浮いている。
おそらく高感度フィルムで撮影したのだろう。蒼く透き通るようなその光の群れは、まるで波の下にもうひとつの銀河が沈んでいるみたいだった。
「これって……」
「富山湾のホタルイカ」
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