「ち、違うよ。逃げるなんて、あたし、そんなつもりじゃ……」
「じゃあなんで、あんた一人、こんなとこに居んの? どこ行く気だったのよ」
ひどく冷たい黒い瞳が、突き刺すように未沙をにらむ。
「違うってば。あたし、だって、薫平が……」
――自分の意志でここまで来たわけじゃない。たまたま取り憑いた相手がこの列車に乗ったから、自分は引きずられてきたようなものなのだ。
これまでのなりゆきを説明しようにも、声が全然出てこない。まるで喉が干涸らびてしまったみたいだ。
……なんで? どうしてこの子、こんなに怒ってんの?
唯那の顔には、ほとんど感情らしいものは浮かんでいない。仮面みたいに無表情で、両眼はあいかわらず無機物みたいだ。
でも、わかる。唯那は未沙に悪意を抱いている。
自分自身の感情が未沙の身体を苦しめるように、唯那の感情もまた、未沙には肉体的な感覚としてつたわってしまうようだ。
剥き出しの悪意が、ひたひたと波のように自分のほうへ押し寄せてくるのをはっきりと感じる。
未沙も唯那も幽霊――精神だけの存在だから、お互いの感情を隠せない、ということだろうか。
……あたし、なんかこの子に酷いことしたっけ?
未沙は思わず、唯那から逃げるため、後ろへ下がろうとした。
が、その背中が、どん、と誰かにぶつかる。
「えっ!?」
振り返れば、
「ひどいなあ、梨々ちゃん」
細面のハンサムな顔立ち、少しブリーチの入った軽めの髪。耳元にメタリックシルバーのピアスが飾られているのに、未沙は初めて気がついた。
「シ……ショーン、さ、ん――」
「ぼくたち、死んでからもずうっと一緒にいようって、約束したんじゃなかったっけ?」
整った優しげな顔立ちに、おだやかな笑みが浮かんでいる。
けれどその笑顔は、未沙にはまるでつくりもののように思えた。
ショーンは未沙の肩に両手を置いた。
……この人は、あたしにさわれるんだ。
半分マヒしてしまったみたいな頭のかたすみで、未沙はそんなことを思う。薫平は未沙にさわることができなかったのに。ショーンが、未沙と同じ幽霊だからだろうか。
「生きているうちは運が悪くて、一緒に居られなかったよね、ぼくたち。出逢うのが遅すぎたからね。でも、だから死んでからはずっと一緒にいられるんだよね? そうだろ、梨々ちゃん」
未沙の肩にあごがくっつきそうになるほど顔を寄せて、ショーンはささやいた。
その息に、かすかな腐臭を感じる。
……まさか、もう腐っちゃってるの、この人。もう、死んでるから――。
いや、これも、彼の精神の中にひそむものを、未沙が嗅覚として受け取ってしまっているだけなのだろうか。
大きく骨張ったショーンの手が、がっちりと未沙を捉えて離さない。硬い指先がぎりぎりと肩に食い込む。
「い……ッ!」
未沙は思わず、悲鳴を噛み殺した。
「や、やめて! 離して!!」
未沙はもがいた。なんとかして、ショーンの手を振り払おうとする。
けれど彼の指先はますます強く未沙の肩に食い込むばかりだ。
目の前には、能面みたいに表情のない、唯那の顔。ただその眼だけが、かみそりみたいに鋭い冷たい光をはなって、未沙をにらんでいる。
「許さないよ。あんた一人、逃げるなんて」
「に、逃げるって、だから、なんのことよ。あたし、そんなつもりは――」
「だって、あんたが先に言い出したんじゃない。死んじゃいたいよねって」
妙に抑揚のない声で、唯那は行った。
その眼は未沙を見つめたまま、まばたきもしない。まるで黒く不透明なガラス玉みたい、と、未沙は思った。
「あんたが言ったんだよ。早く死にたい、この世界から消えてなくなりたいって。そう言って、あたしを誘ったんじゃない」
「うそ……。そんなはず……」
そんなはずない、と、未沙は言おうとした。
自分から積極的に死のうって言い出した覚えは、ない。
たしかに、死にたいという願望は持っていた。泡のように消えちゃいたいねと、まるで口癖みたいに、唯那と交わすメールの中に何度も書いた。
でもそれは、漠然としたあこがれ、夢物語のようなもので、いつ、どんな方法で実行しようなんて具体的な話は、一度も書いた覚えはない。
練炭による一酸化炭素中毒という方法を提示したのはショーンだし、ショーンを未沙に紹介してくれたのは、唯那だ。
「最初に言ったのは、あんたでしょ?」
棒読みみたいに、唯那はくりかえした。
「あんたが死にたい、死にたい、でも一人じゃ淋しくて死ねないよって言うから、あたしはつきあってあげたんだから。なのにあんた、自分一人だけ逃げ出すんだ? そんなん、ずるいって言ってんだよ」
「ち、ちが……っ」
唯那が手をのばし、未沙のほほをすうっと撫でた。
そのとたん、まるでそこを切り裂かれたみたいに、鋭い痛みが走った。
「……ッ!!」
未沙は唇を噛みしめ、懸命に悲鳴を押し殺した。
この痛みは唯那の感情。未沙へ向けられた、唯那の怒りや憎悪だ。
生きている人間がさまざまないじめや嫌がらせを受けて傷つき、萎縮してなにもできなくなってしまうように、今、精神だけの存在になった未沙は、他人から向けられる剥き出しの悪意に触れてしまうと、それだけで激しい痛みを感じてしまう。傷ついて心が萎縮することは、すなわち未沙の全部が小さく固く縮こまり、なにもできなくなってしまうことだ。
けれど唯那は、未沙が今感じている恐怖や戸惑いに、なんら動じる様子は見せない。唯那には、未沙の感情はまるでつたわっていないのだろうか。
「一緒に死ぬんだよね、あたしたち。あんたがそうしたいって、言ったんだから」
……なんで? なんであんた、そんなに怒ってるの。あたしになんか、恨みでもあるの?
あんたが死んだのって、あたしのせい?
あんただって同じじゃん。あの掲示板を見て、自分も死にたいって願っていたんでしょ? メールにだって、いつもあたしと同じようなこと書いてたじゃない。こんな世界にいたくない、もっと自由になれるところへ早く旅立ちたいって。梨々ちゃんといっしょに逝けたらいいねって。
……あたしじゃない。あたしじゃないよ。最初に言い出したのは――!
なのに全部、あたしのせいにするの!?
「ぼくたちは一緒だよ、ねえ、梨々ちゃん。ずうっと一緒にいるために、同じ場所で、一緒に旅立ったんじゃないか」
肩に食い込むショーンの手が、ずしりと重たく感じられる。まるで大きな石でも載せられたみたいだ。
そんな約束、した覚えはない。そう言おうとしても、かすれる声すら出てこない。
未沙は思わず前屈みになった。後ろからのしかかる重みに、そのまま転んでしまいそうだ。
身体ごと押し潰されてしまいそうな重苦しさ。息もできない。
これは、あのワゴン車の中で味わった息苦しさ。圧迫感。絶命の瞬間の苦しみだ。
「や……っ。い、いや……!」
背中を冷たい汗が流れる。
未沙は懸命に足を踏みしめた。倒れないようにするだけで、精一杯だ。
「なに、がんばっちゃってんの?」
唯那がささやいた。優しげで、だからこそよけいにぞっとする。
「ねえ、苦しいんでしょ? 我慢なんかしてると、よけいつらくなるばっかりだよ」
「だって……。だ、だって――」
未沙は懸命に首を横に振る。けれど、情けないくらい動きに力が入らない。わずかに、長い髪がぱさっと揺れただけだ。
「ねえ、どこ行く気だったの?」
また、唯那は同じ質問を繰り返した。
うつむき、視線を合わせまいとする未沙を追いかけるように、わざわざ身を屈めて、未沙の顔を見上げながら。
「誰か、あんたを待ってる人でもいるわけ?」
「……え?」
ダークレッドのルージュにいろどられた唇が、にぃぃ……っと、笑った。
「いるわけないよね、そんなヤツ」
――いない。誰もいない。未沙を待っている人なんか。
「わかってんでしょ、あんただって」
唯那の思いが、無言のうちに染みてくる。
誰も未沙を待っていない。未沙を必要としていない。世界中で誰一人、未沙を必要としてくれる人なんて、いない。
「そ、んな……」
「ちがうの? じゃあ言ってみなよ。これから先、どうするつもりだったの。なんか、やりたいことでもあったわけ?」
「あたし……。あたし、は――」
未沙は答えられなかった。
やりたいことなんて、見つからない。
「ね? がんばったって、無駄なんだよ。あんたにできることなんて、なんにもないんだから。どっかへ行こうとしたって、その先に待ってる人なんて、誰もいないんだよ……」
唯那の言葉が、どんどん未沙の中に染みとおっていく。同じ言葉が何度も何度もこだまして、身体の中にどろりと重たくよどみ、溜まっていくばかりだ。
――あたしにできることなんて、なんにもない。
誰もあたしを必要としてくれない。
世界中が、あたしなんていらないって、言ってる。
そうだ。だからあたしは、死ぬしかなかったんだ……。
目の前が次第に黒っぽくかすんできた。
「大丈夫だよ、梨々ちゃん」
背後から、ショーンがささやく。
「きみはぼくといっしょだよ。ひとりきりじゃない、ぼくたちはずっといっしょなんだ。だから淋しくなんかないんだよ」
ショーンの腕が、肩から胸へと回され、未沙にしがみついた。重たく暑く、ねばりつくみたいな感触。
その感触が、さらに未沙の身体中にまとわりつく。まるでショーンの腕がゴムみたいにずるずるっと伸びて、未沙の全身をぐるぐる巻きにしているみたいだ。
けれど未沙は、今、ショーンが、そして自分がどんな状態なのか、たしかめることはできなかった。
もう目の前は真っ暗だ。なにも見えない。
頭も重たくて、ぼうっとかすんでいる。まともな思考がどんどん消えていく。
「わかるでしょ。もう、あんたは終わりなの。なんにもできない。どこへも行けない。あんた、とっくに終わっちゃってるんだよ」
そう……なのかな――。
頭の中に響く声が、唯那のしゃべっていることなのか、それとも自分自身の思考なのか、それすらわからなくなっている。
……そう、なのかも。だってあたし、死んでるんだもん。
……もう、なんにもできない。
消えていくしか、ないんだ。
この世界から、あたしは忘れ去られる。
だってしかたない。あたし、自殺したんだもん。
自分で自分を殺しちゃったんだもん。
「それだけじゃないよ……」
低く、猫がぐるぐると喉を鳴らすような声で、唯那がささやいた。どこか、ひどくうれしそうな響きを秘めて。
「あんたは、あたしも殺したんだ」
「え――」
「いっしょに死のうって……、一人じゃ死ねないから、お願い、いっしょに死んでって、あたしを誘って、あたしにも自殺させた。あんたは、あたしを殺したの……」
唯那の言葉を、未沙はもう、胸の中で否定することもできない。そんなわずかな意志すら、残っていない。
「大丈夫だよ、梨々ちゃん。ぼくがずうっとそばにいてあげるからね」
背後からおおいかぶさるようにして、ショーンがささやく。
「ぼく、すごいうれしかったんだよ。きみに初めて逢った時から、ああ、こんな可愛い子といっしょに死ねるんだって、思ってさぁ……」
ショーンの手が、未沙の髪をかきあげる。肩からうなじ、あごのあたりを、嬉しげに撫で回す。
その感触だけは、妙にはっきりと感じ取ることができた。
「ねえ、知ってる? きみって、すごいぼくの好みなんだ。この長い髪とか、顔とかさ……」
気持ち悪い。悪寒が走る。
「ぼく、こういうの、夢だったんだ。何回彼女つくっても、すぐにダメになっちゃったし、受験も就職も、なにやっても上手くいかなかったけど、だから最期だけは絶対、ぼく好みの可愛い女の子といっしょに死にたいって思ってたんだ。そうすれば、その子は永遠にぼくの所有物
(もの)
になるだろ? けしてぼくを捨てたり、裏切ったりしない、ぼくだけのものにさ……」
「あんたのせいよ……」
唯那が呪文みたいにくりかえす。
「みんな、あんたのせいだ。あんたが悪いんだ……。あんたのせいで、あたしまで……! 許さない、絶対許さないからね……!!」
「大丈夫だよ、梨々ちゃん。ぼくたち、いっしょだからね――。ずっと、ずっといっしょだ。ぼくのものにしてあげるから……」
二人の言うことは、微妙にずれている。咬み合っていない。
唯那とショーンは、お互いが見えていないのかもしれない。
二人とも、自分の感情だけに意識が集中し、自分が望むもの以外にはなにも見えていないのだろう。唯那は未沙を恨み続け、ショーンは自分好みの女の子に執着するだけで、ほかのものは一切、意識の外なのだ。
「あんただけ逃げ出すなんて、許さない。あんたはもう、終わりなんだ。あんたが、これ以上なんかしようだなんて、絶対に許さないからね……!」
呪うような唯那の言葉も、ぜいぜいとうわずったショーンの呼吸音も、未沙には、はるか遠くからかすかに聞こえるだけのように感じられていた。
目の前はもう真っ黒に塗りつぶされている。なんにも見えない。
足元がひどく頼りない。まるで沼に浮く水草の上に立っているみたいだ。身体を支えようとしても、反対にずぶずぶと沈んでいくばかりだ。
全身にのしかかる、唯那とショーン、二人分の重み。未沙の全身にべったりとはりつき、隙間無く押し包んでいる。
喉がつまる。息ができない。
けれどその苦しささえ、ひどく遠いもののように感じられる。
……ああ、そうなんだ。
のろのろと、未沙は思った。
……これでおしまいなんだ、あたし。
……みんな、終わっちゃうんだ。
身体がさらに沈んでいく。二人分の重しをかけられて、足元から底なし沼に飲み込まれていく。
脚が、腰が、飲み込まれる。けれど未沙の胸にはなんの思いも湧いてこなかった。恐怖や悲しみや、そんなあたりまえの感情さえ忘れてしまったかのようだ。
……だってあたし、もう終わりなんだもん。
……なにもできない。誰にも必要とされてない。
……ここに残っていたって、なんの意味もない。
……居ちゃ、いけないんだ。あたしなんて、ここにいちゃいけない。
どこかへ行かなくちゃ。
消えてしまうべきなんだ。自分なんて、――なんて。
……ほら、もう自分の名前も思い出せないよ……。
未沙の身体が沈んでいく。かつて唯那とショーンであったものに巻きつかれ、おおわれて、そのままずるずると、無の暗闇に引き込まれていく。胸が、肩が、消えていく。
それでも未沙は、眉ひとつ動かさなかった。
ただ、うつろに見開かれた瞳から、ぼろりと涙がこぼれた。
……ああ、消えるよ。
……あたし、消えていくの。この世界から、完全に。
……だってしかたないよ。いちゃ、いけなかったんだもん。
あたしなんて、この世界に居ちゃ、いけなかったんだ……。
「――みさああああッ!!」
鋭い声が、響いた。
「未沙、未沙ッ! なにしてんだ、おまえッ! しっかりしろ、未沙ァッ!!」
激しい叱咤が飛ぶ。
「ばかやろう、返事しろ、未沙ッ! 聞こえてんだろ、なんか声出せって言ってんだよ、おらあッ!!」
……えっ!?
「未沙ッ! 未沙、聞こえねえのか!? てめえ、自分の名前も思い出せねえのかよ!!」
……名前?
……あたし、の、名前?
「未沙っ! しっかりしろよ、未沙!! こっち見ろってば、みさぁっ!!」
……み、さ。
……そう。
……未沙。
……あたし、未沙。向野未沙だよ。あたしの名前――!
「未沙! 未沙っ!! 返事しろ、未沙っ!!」
……呼んでる。あたしの名前を呼んでる人がいる。
……行かなくちゃ。
……答えるの。あたしはここだよ、ここにいるよって。あの声に、答えるの。
……帰らなくちゃ。あたしを待ってる人のところへ――!!
思考が戻った。
すべての力をなくしていた存在に、意志の力が宿る。
「あ、あたし……、あたし――!」
未沙は眼を開けた。
まわりが見える。
光が、風景が、そこにある。
オフホワイトを中心にやわらかい色調でまとめられた、機能的で狭い新幹線の車内。駅のすぐそばまで来ているのか、減速しているのを感じる。
そして。
「……くん、ぺぃ……?」
見慣れた、人なつっこそうな顔。黒い、しゃきしゃきした短い髪、意志の強そうな眉。瞳にはひどく心配そうな、動揺した色が浮かんでいる。
「――薫平……っ」
「どうしたんだよ、おまえ。なにがあった!?」
優しい、力強い声。
……ああ、そうだ。この声が、あたしを引き戻してくれた。
薫平が未沙の名前を呼んでくれたから。
消えずに、ここへ戻ってくることができたのだ。
「あ、あたし……。あたし――」
胸の中がぽうっとあったかくなる。氷みたいだった指先にも、次第にそのあったかさが広がっていく。同時に身体の感覚が戻り、自分の呼吸や鼓動がはっきりと感じ取れるようになってくる。
「あたし、だから……今、ね――」
なにがあったのか説明しようとするけれど、けれどまともに言葉が出てこない。
その時になってようやく、未沙は自分がべったりと床に座り込んでいることに気がついた。
感覚は戻ってきたけれど、まだ立ち上がることができない。
「おまえ、どうしたんだよ」
茫然と、薫平がつぶやいた。
「薄くなってんぞ。おまえの身体、さっきよりずっと、透けてみえる……!」
「……え?」
未沙はのろのろと、自分の手を目の高さまで持ち上げた。
薫平の言うとおりだった。もともと半透明だった身体が、さらに透けている。輪郭もなんだかぼやけてきているようだ。
全身がすうっと冷たくなる。まるで無機物になってしまったみたいに。
「あ、あたし……。あたし、今、ね――」
未沙は懸命に声を絞り出した。
ふるえ、かすれて、まるでおばあさんの声みたいだ。自分の声とも思えない。それですら、今にも途切れてしまいそうだった。
「き、消えそうだったの……」
「うん――」
薫平はうなずいた。
「消えなきゃいけないって……思ったの。もう、なんにもできないから……」
また、ぼろっと涙が落ちた。
薫平がそれを拭おうと手を伸ばしかける。けれどその指先は、未沙にさわることができない。
「そう、言われたの。あたしにできることなんて、なにもない。あたしを待ってる人、誰も、いないから……」
やれること、やりたいこと。この世界に存在する理由が、なにひとつ見つからないから。
生きている時からずっと未沙を苦しめていた無力感を、唯那の言葉が思い出させた。そして今も、未沙の心をどす黒く塗りつぶしている。どうしてもそれを否定し、払いのけることができない。
その絶望が、未沙の存在をどんどん薄くしていく。この世界から消していっているのだ。
未沙は握った両手を顔に押しつけた。
……ああ、また世界がかすんでいくよ。なにも感じなくなっていく。
痛みも、苦しみも。淋しさも。みんな、思い出せない。
……あたしがあたしを忘れていく。世界が、あたしを忘れてしまうよ――。
「行こう」
ぽつりと、薫平が言った。
「おれといっしょに、海へ行こう。海のほたるを、見に行こう」
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