プロローグ

    これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる
          賽の河原の物語り 聞くにつけても憐れなり
                           (賽の河原地蔵和讃より)

 あたりは血の海だった。
 八畳と六畳の続き部屋は、旧幕時代からの吉原の伝統を色濃く残している。漆塗りの小さな鏡台、壁際に飾られた豪奢な掻取
(かいどり:綿入りの打ち掛け)。床の間の野花は、この部屋に住む女郎が活けておいたものだろうか。
 六畳間の布団には枕が二つ並べられ、枕元の行灯
(あんどん)とともに、女郎と客を待っていた。
 だが、それらはすべて、べったりと血にまみれている。
 仕出し屋から運ばれた料理は膳ごとひっくり返され、障子にも壁にも血飛沫が飛んでいる。
 異臭がする。
 赤黒い泥濘の中に、人間の死体がごろごろと転がっていた。
 仲居、遣り手婆、店の代紋を染め抜いた半纏姿の若い衆。みな、この妓楼で働いていた者たちだ。一人だけ上等の紬を着ている男は、登楼した客だろうか。
 彼らはみな一様に、腹を真横に切り裂かれていた。
 大きく開いた傷口からピンク色のはらわたがはみ出している。いや、誰かが掴んで引きずり出したのか、床一面にぶちまけられている。
「いない……。いない、いない、どこにも――」
 女のすすり泣く声がした。
 死体の間に、女が一人、座り込んでいた。
 髪は鼈甲の簪で飾り立てた立兵庫、派手な打ち掛けに胸の前で大きく結んで垂らした金糸の帯。吉原でも格式の高い店の女郎にしか許されない、豪華な身なりだ。
「どこ……。どこなの、坊。あたしの坊。母さんだよ。隠れてないで、出ておいで……」
 ぐちゃ、ぐちゃ――と、泥を踏んでこね回すような音がする。
 座り込んだ女郎が、死体の腹に両手を突っ込み、かき回しているのだ。
「出てきておくれ、坊
(ぼう)。……あたしの、坊――ッ!」
 はらわたが引きずり出され、まき散らされる。
「もうよしな、花魁」
 低い声がした。
 廊下側の障子が開く。
 男が一人、惨劇の間に足音もさせずに入ってきた。
 よれよれで折り目もなくなった袴に色褪せた蚊絣
(かがすり)の着物、その胸元からのぞくスタンドカラーのネルシャツも薄汚れて黄ばんでいる。惣籬(そうまがき:もっとも格式の高い妓楼)なら、間違いなく門前払いを食わせるような身なりだ。足元には足袋もなく、裸足だ。
 男は身を屈めたまま、後ろ手で静かに障子を閉めた。
 そして、出口をふさぐようにすうっと身を起こす。障子を透かしてこぼれる廊下からの灯りに、その姿が逆光となって浮かび上がった。
 飛び抜けて背が高く、鴨居の低い日本家屋では梁に頭をぶつけてしまいそうだ。肩も広く、けれどその逞しい体躯からは不思議と威圧感は感じられない。
 男は一歩、惨劇の中へ足を踏み入れた。
 その顔にはわずかな動揺も見られない。静かに、うずくまる女郎へ近づいていく。
「よしな、花魁。いくら他人の腹ぁかっさばいたところで、あんたの可愛い坊は、見つかりゃしないぜ」
 花魁が、男のほうを振り向いた。
 その顔は、生ある人間のものではなかった。
 皮膚は腐って崩れ落ち、半ば骨が露出している。紅をさした唇には蛆が這い、眼窩に眼球はなく、暗く虚ろな二つの穴の奥で青白い鬼火のような光がゆらめく。
 これだけは生前と変わらず美しい衣装は、袂も裾もべったりと血にまみれていた。
 唇がかすかに開いた。そこからこぼれる息は、耐え難い腐臭だった。
 が、男の表情は何の変化もなかった。静かに、どこか哀しげな眼をして、屍鬼と化した花魁を見つめている。まるでそこにいるのが、死してなおうごめくおぞましい化け物ではなく、在りし日の美しい花魁そのままであるかのように。
「わかっているはずだぜ。あんたの坊はもう、ここにゃあいない」
 うう……、と、低く花魁の唇からけもののようなうなり声が洩れる。
「せっかく身ごもった赤ん坊を、無理やり腹から掻き出されて、その上、その傷も癒えねえうちから、また次から次へ客をとらされて……。死んでも消えねえあんたの無念は、良くわかる。だが、このままじゃああんたは、坊の待つところへ行けねえんだぜ」
 淡々と諭すように、男は語りかけた。
「あんたは逝かなきゃならねえ。坊だって、おっ母さんがいっしょじゃなけりゃあ、あのきれいで優しいところへは逝けねえんだ」
「坊……。坊、あたしの……!」
 眼球を失った眼窩から、涙がふきだす。それは濁った血の色をしていた。
 身をふるわせて、怨霊がすすり泣く。力なく、あまりに哀しいその声は、子供を亡くした母親以外のなにものでもない。
「そうだ。早く行ってやれ。坊は、賽の河原でおっ母さんを待ってるぜ」
 男は懐に手を入れ、細長い紙切れを取り出した。
「のうまく・さまんだ・ばざらだんかん・せんだ・まかろしゃだ・そわかや・うんたらた・かんまん。のうまく・さまんだ・ばざらだんかん……」
 低く、不動明王真言を唱える。
 一切の障害を打ち砕き、悪しき心をねじ伏せて仏の救いへ導くという不動明王の真言と梵字が印された封じの札が、ぽうっと淡い光を放ちはじめた。
 が。
「おまえが……」
「なに?」
「おまえが坊を盗ったのかあああッ!!」
 怨霊が、吠えた。
「坊、坊ぉッ! 返せ、あたしの子を返せええッ!!」
 打ち掛けの袖口から、白骨化した腕が鋭く伸びた。
 男がかざした封じの札を払いのけ、男の顔面めがけて骨だけの指が突き出された。その両眼をえぐり出そうとする。
「うわあっ!?」
 間一髪、男は後ろへ飛びすさった。
 そのまま、がたんッ!と大きな音をたてて、背中から障子にぶつかる。
 怨霊が追う。空を跳び、一気に間合いを詰めてくる。
 その姿が膨れあがる。打ち掛けを内側から引き裂き、まるで熱気球が膨らむように、ず、ずず……と膨張していく。その影が部屋全体を覆い尽くす。
 生前はむしろ小柄で華奢だったと聞かされていた花魁は、死霊と化した今、頭で天井をこすり、両手を広げると壁から壁に届くほど巨きく膨れあがっていた。
「ちくしょう……っ!」
 男はちらっと背後をたしかめた。
 障子は、がたがた揺れはするものの、逞しい男がぶつかっても、倒れも壊れもしない。
 彼自身が貼っておいた、結界の札のせいだ。
 目の前には、彼の腹を切り裂こうと爪を構える怨霊。もう、その姿は男の視野すべてをふさぐほど巨大になっている。
 逃げ場が、ない。
「おい旦那、征貞
(ゆきさだ)の旦那! 大丈夫(でぇじょぶ)か、まだ生きてんのかよ!? 生きてんなら返事しろ、おいこら、クマ公ッ!」
 障子の外から声がした。
「ああ、生きてるぜ」
 肩で荒く息をつき、男は答えた。怨霊が放つ瘴気で、次第に呼吸が苦しくなってくる。
「いいか蓮司
(れんじ)。この障子は、俺がいいと言うまで絶対に開けるんじゃねえぞ」
「わァってるよ」
 蓮司と呼ばれた若者は、廊下で障子をしっかり抑えながら、そう答えた。
「頼まれたって開けるもんかい。化け物と心中すんのは、拝み屋のあんたの仕事だろ」
「死んでたまるか、くそったれ!」
 執拗に眼球を狙う怨霊の爪を、数珠を巻いた拳で受け止め、はじき飛ばす。
 はじかれた白骨の手は、反動で柱の角にぶつかり、ぐしゃりと砕けた。
 が、そのくらいで怨霊の動きが停まるはずもない。
 今度は首を絞めようと両腕を一気に伸ばす。
 その腕をかわし、ぱっと身を低く沈める。そのままの姿勢で鋭く水平に数珠を振り回し、怨霊を打ち据えようとする。
 怨霊が宙に飛び上がり、それをかわす。
 そのまま天井に貼り付いた怨霊が、今度は頭から敵を押し潰そうと飛びかかる。
「おん・きりきり・おん・きりきり・おん・きりうん・きゃくうんッ!」
 渾身の力を込めた呪縛の真言も、一瞬、怨霊を怯ませるだけだ。
 その抵抗が逆に怒りをかきたてたのか、怨霊の姿がさらに膨れあがった。肌は金属のようにどす黒くなり、二つの眼窩では赤い光が渦巻いている。大きく開いた口からは、悪臭を放つ涎がだらだらと止めどなくしたたり落ちていた。
「返セ、返セ、返セッ! アタシノ坊ヤヲカエセエエッ!!」
 怨霊の絶叫に、建物全体がびりびりとふるえる。いや、その叫びに、この妓楼が共感し、みずから共鳴しているかのようだ。
 鏡台や屏風が倒れた。びしいッと鋭い音がして、窓の磨りガラスにひびが走った。
「まったく、『場』が悪いぜ……」
 咒禁師
(じゅごんし)・各務征貞(かがみゆきさだ)はつぶやいた。
 ここは吉原。江戸初期より三百年、女の血と涙で塗り固められた街だ。
 ここで死んでいった何百、何千という女たちの恨みと憎悪を吸い込んで、花魁の怨霊はますます大きく膨れあがっていく。
 怨霊の皮膚や着ている打ち掛けに、無数の女の顔や、水子にされた赤ん坊の顔が、浮いては消え、現れては怨霊とともに泣き叫ぶ。その咆吼は人間の耳に聞こえる範疇をはるかに超え、並みの人間なら一瞬で鼓膜をぶち破られてしまいそうだ。
 真言も印も早九字も、もはやその膨張を抑えられない。
 ぎ、ぎぎ、ぎ、と、骨と骨がこすれあい、脳天まで響くような音をたてる。
 だが、怨霊がどれほど押そうとも、障子も襖もけして破れない。柱や壁、障子の桟
(さん)、いたるところに貼られた結界の札が、かろうじて怨霊をこの離れに閉じこめ、建物が内側から破裂するのを防いでいるのだ。
「ガエセエエエッ!! アダシノ、アダヂノ子ヲガエセエエエエッ!!」
 咆吼がとどろいた。
 怨霊の腕が伸びた。
 左右から鞭のように鋭く伸びた怨霊の腕が、征貞の首に絡みつく。
「ぐ、うっ!」
 腐肉の残る骨が征貞の喉を締め上げる。そのままじりじりと持ち上がり、征貞の長身を宙づりにした。
「うあああッ!?」
 呼吸がつまる。
 脂汗が吹き出す。全身が痙攣する。
 全体重が首にかかり、頸骨
(けいこつ)が今にも砕けそうだ。
「ちくしょう、凛
(りん)、まだかっ! 早くしろおッ!!」
 視界が歪む。喉の奥でごろごろと嫌な音がして、必死で暴れていた両脚が力を無くし、だらりと垂れ下がった。
 目の前に無数の火花が散り、やがてすべてが暗闇に飲み込まれようとした時。
 ……赤ん坊の、泣き声がした。

    二つや三つや四つ五つ 十にも満たない嬰児
(みどりご)
            賽の河原に集まりて 父上恋し母恋し
     恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり
               悲しさ骨身を徹す
(とおす)なり…… 

 地蔵和讃が聞こえた。
 細く愛らしい、少女の声が唄っている。
 そして、赤ん坊の泣き声。
 力なくか細い、今にも絶えてしまいそうな声だった。
「……花魁」
 閉ざされた六畳の暗がりに、いつの間にか一人の少女が立っていた。
 十三、四才ほどだろうか、少女は、市松模様に撫子を散らした銘仙に半幅帯を文庫に結び、重たげに見えるほどのつややかな漆黒の髪を、肩のあたりでふっさりと切り揃えている。
 その腕には、白いおくるみに包まれた小さな赤ん坊が抱かれていた。
「花魁……。坊だよ。あんたの可愛い赤ちゃんだよ」
 少女は、もはや人の姿もとどめていない怨霊に、ゆっくりと近づいていった。
「ねえ、抱いてあげてよ。おっ母さんが恋しくて、泣いてるんだよ」
「……坊ォ……」
 そうだよ、と、少女はうなずいた。
 少しあがりぎみの大きな瞳が、いっぱいに涙をたたえていた。
 腕に抱いた赤ん坊を、そっと花魁の霊へ差し出す。
「賽の河原で、鬼どもにいじめられて泣いてたのを、やっと見つけてきたんだ」
「ああ、坊……。坊、あたしの……っ」
 からり、と乾いた音がした。
 征貞の首に絡みついていた怨霊の腕が、ほどけた。
 腐肉の蛇のように伸びきっていた腕が音もなく縮んでいき、骨は露出しているものの、人間の腕の形に戻る。
 征貞はその場にどさりと尻餅をついた。喉に詰まった唾液を吐き出し、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返す。
 花魁が赤ん坊を抱き取った。
「坊……」
 ああ、おお、というような、無邪気な赤ん坊の声がする。
 おくるみの中から、小さな、ぷっくりした可愛い手が伸びた。懸命に花魁の――母親の頬に触れようとしている。
「坊、坊や、坊や……っ!」
 母が子供に頬擦りをした。
 怨霊の姿が変わっていく。
 狂気を宿していた眼窩にふたたび穏やかな光が戻り、腐り落ちていた肌までが、もとの白さを取り戻す。
 その肌を、あふれる涙が濡らしていた。
 瘴気が消えていく。
 やがてそこに、優しげな女の霊が姿を現した。
「坊、坊……。やっと逢えた……。やっと、母さんのところに戻ってきてくれたんだね……!」
 征貞はゆっくりと立ち上がった。後ろ手で軽く障子の桟を叩き、
「蓮司。障子、開けろ」
 合図に応え、外から障子が開けられる。
 冷たく澄んだ夜の空気が、さあっと室内に流れ込んできた。
 征貞は、静かに真言を唱え始めた。
「おん・かかかび・さんま・えい・そわか。おん・かかかび・さんま……」
 賽の河原で迷い泣く子供たちの霊魂を、自らの御衣の裾でかばい、慈しむという地蔵菩薩。その地蔵菩薩を讃える真言だ。
 締め上げられた喉にはまだくっきりと赤黒い痣が残り、征貞の声は少し嗄れている。けれど真言はとうとうと続き、あたりを満たした。
 やがて暗がりの中、まるで幻燈のように、おぼろに長い階段が浮かび上がった。
「な……、なんだ!?」
 驚きの声を漏らしたのは、廊下の隅に控えていた蓮司だろうか。
 妓楼の部屋から障子を抜けて、半透明の階段が暗い夜空へ伸びていく。階段の向かう先には、ぽうっとほの白く、やわらかな光が見えている。
「凛。狐火を飛ばせ」
「あい」
 凛と呼ばれた少女はこっくりとうなずくと、右のてのひらにふうっと息を吹きかけた。
 すると彼女の指先に青白い小さな火の玉がともる。
 宙に浮かんだ火の玉は、母子にそっと寄り添った。赤ん坊のそばで、あやすようにふわふわとしばらく漂ったかと思うと、二人の道案内をするように、その前に出て、足元を照らし出す。
「その灯りについていけ。そうすれば、道に迷うこたぁねえ」
 花魁が立ち上がった。我が子をしっかりと胸に抱いて、小さく頭をさげる。
 そして、あの世へ旅立つ階段をゆっくりと登り始めた。
 狐火に導かれたその足取りに、迷いはない。腕に抱いた赤ん坊の顔を見つめ、なにごとか話しかけながら、一段、また一段と登っていく。

    彼の嬰児の所作として
       河原の石を取り集め 是にて回向の塔を積む
     一重積んでは父のため 二重積んでは母のため
         三重積んでは故里の 兄弟我が身と回向して……

 地蔵和讃を、凛が唄う。
 中空で花魁は何度か振り返り、凛と征貞に頭をさげた。
 やがて階段が一段ずつ、現れた時と同じく、下から透けて音もなく消えていく。
 そして、吉原屈指の大妓楼「大黒楼」に取り憑いていた怨霊は、ついに姿を消した。





   一、人狼の少年

     二〇世紀の東洋は
        怪雲 空にはびこりつ――
              (旧制第一高校寮歌「アムール河の流血や」より)

 時は、春。
 二〇世紀初頭、明治からの文明開化で、東京は新しい時代と繁栄を謳歌していた。
 明治政府による拙速とも言えるほど急激な欧風化政策は、元号が大正と変わっても受け継がれ、東京の風景はわずか五〇年ほどで大きく様変わりした。
 街には自動車の数が増え、電線がはりめぐらされた。街を行く男性の五割が洋装し――反面、女性の洋装はまだ一割にも満たなかったが――、活動写真が最新流行の娯楽として社会を席巻する。アール・ヌーヴォー、アール・デコの装飾も美しい煉瓦街を、路面電車が走っていく。ミルクホールやカフェーでは蓮っ葉で魅力的な女給が男性客を出迎え、銀座を闊歩する断髪のモダンガァルは《イット》があるともてはやされた。
 その陰で、日清、日露の戦争は日本経済に大打撃を与え、国民の生活にも深刻な影響を及ぼした。そこへ天候不順による大凶作が重なって、農村では若い娘の身売りがあいついだ。重税を払うために売れるものは、もはや人身しかなかったのである。
「終わったぜ」
 がらりと、渡り廊下から母屋へ続く扉を開けて、征貞は、その陰でふるえていた人間たちに声をかけた。
 後ろでは凛が、障子や襖に貼った封印の札を一枚一枚ていねいに剥がしている。
「あーもう……。ゆきさんてば、またこんなに乱暴に貼っちゃって。お札、クシャクシャになっちゃった。これじゃ次に使えないよ」
「しょうがねえだろう。時間がなかったんだ」
「あ。このお札、上下さかさまだよ。これじゃ効果ないじゃん」
「うるせえ! 俺が貼りゃあ、逆さだろうが何だろうが、ちゃんと役に立つんだ!」
「あ、あのぅ……」
 顔中に脂汗をしたたらせ、ガマの油状態の中年男が、おそるおそる征貞に声をかける。小太りの冴えない風体のこの男が、妓楼「大黒楼」の主人だ。
 大黒楼は吉原でも屈指の大店で、抱える女郎は常時二〇人以上を数える。
 明治以降、色里の娼婦はすべて自由契約制となった。移動、廃業の自由が明文化され、旧幕時代のように店に隷属することはなくなったのだ。
 女郎屋は貸座敷業者と名を改めた。店主はあくまで女郎に部屋を貸しているだけ、そこで身をひさぐのは女郎の自由意思、というわけだ。
 が、そんなものはもちろん、名目だけにすぎない。
「い、今のはいったい、なんだったんで……?」
「ああ、あれか。あれは、お前の見たまんまのことだ」
「いや、だからそれが、何がなんだか、アタシにゃさっぱりわからねえんで……」
「あたし、見ましたよ。お姐
(ねえ)さんが赤ちゃんを抱いて、幸せそうに空へ昇っていくのをね」
 まだ廊下にうずくまったままの店主の後ろから、若い女が声を張り上げた。
 長い黒髪を櫛巻きにした若い女が、母屋の戸口に立っている。着ているのは雪輪紋の小袖で、化粧もしていない。女郎にしてはずいぶん地味な身なりだ。
「なんでぇ、小紫
(こむらさき)! お前、まだそんな服装してやがるのか。お祓いが終わったらちゃんと店を開けるって、言っておいたろう! さっさと支度しねえかい!」
 店主は慌てて立ち上がった。今まで腰を抜かして這いつくばっていた恰好悪さをごまかすように、精一杯えらそうにふんぞり返って、女郎を怒鳴りつける。
「いやだ、おとうさん。あたし、今日は公休日だって言ってあるでしょ。揚げ代だってちゃんと払ったじゃない」
 妓楼の店主や女将を、父、母と呼ぶのも、色里の慣習だ。
 この場合の公休日とは、生理中で客が取れないことを言う。そうやってやむなく商売を休む時でも、女郎は店主に部屋代を支払わねばならない。手持ちの金がなければ、それは店への借金になる。
 店主はさらに不機嫌そうに顔を赤黒く染め、ぶつぶつ文句を言い続けた。
「さっさと終わらせろ、そんなもの。お前はうちのお職なんだぞ。何日もぷらぷら遊んでられちゃ、こっちが困るんだ!」
「はいはい」
 小紫と呼ばれた女郎は適当にうなずき、やがて店主が背中を向けた隙に、あかんべえっと舌を出した。
「それより先生。本当なんですか? 若駒のお姐さんは、もう、本当に……」
「ああ。若駒太夫は赤ん坊を連れて成仏した。もう二度とここへは戻ってこねえよ」
 征貞は離れを眺めた。
 建物全体を押し包んでいた瘴気は、完全に消え去っている。
 豪勢な擬洋風
(洋風の趣を真似した日本家屋)の母屋と渡り廊下で結ばれた離れは、しんと静まり返り、何の気配もない。開いた障子の奥に見える畳にはうっすらと埃がつもり、かなり長い間、使われていなかったことを示している。点々と残っている足跡は、征貞のものだ。
 あの離れで、若駒
(わかこま)という源氏名の女郎が狂乱し、客の男や朋輩(ほうばい)女郎、止めに入った他の従業員までをも次々と惨殺し、自らも剃刀で喉を切り裂いて死んだのは、もう何年も前のことだ。
 先ほど征貞と凛が足を踏み入れていた流血の惨状は、怨霊と化した若駒の無念が、夜な夜な事件現場を再現していたものだったのだ。
 大黒楼では事件後も、現場となった離れを簡単に改装しただけで、上客をもてなす特別な客室として使用していた。もちろん、事件のことは従業員に堅く口止めして。
 が、この離れに泊まった客や敵娼の女郎は全員、若駒太夫の怨霊に遭遇し、惨たらしい殺戮現場の再現を目の当たりにさせられることになった。
 大黒楼に幽霊が出るとの噂はまたたく間に吉原中へ広まり、赤新聞
(スキャンダル記事専門の大衆紙)にも書き立てられた。
 文明開化で、西洋の合理主義が社会の基本理念に据えられて久しいが、人々の心の奥底にはまだ、この世ならざるもの、目に見えぬもの、人ならざるものへの畏れと祈りが残っている。
 街にまだ電灯やガス燈は少なく、夜の闇は濃く深い。子供たちは古老の語る一つ目小僧や大入道の昔話に息を呑んで聞き入り、新聞にさえ時折り「河童の木乃伊」だの「人語を解す馬」だのの記事が載る。ラフカディオ・ハーンの「怪談」、柳田国男の「遠野物語」は、人々にとってつい昨日の出来事、扉を一枚開ければそこに広がっている世界なのだ。
 大黒楼への客足は次第に遠のき、最初は鼻で嗤っていた店主も、夢枕に血みどろの若駒の怨霊が現れたのをきっかけに、ついに神仏にすがることを決意した。
 とはいうものの、吉原は不浄の色里である。高名な僧侶や神職たちが、色里の、それも女郎の魂を鎮めるためになど、来てくれるわけがない。
 かと言って、いい加減な町の拝み屋風情では、吉原中の女の怨念を吸って膨れあがった若駒の霊に太刀打ちできるはずもなかった。たいがいが、口から泡を噴いて失神し、戸板に乗せられて担ぎ出される羽目になった。
 最後に、かねてから大黒楼に出入りしていた周旋屋の蓮司が紹介したのが、在野の咒禁師、各務征貞だったのだ。
「なあ、ご亭主。悪いこたぁ言わねえ。あの離れはもう取り壊せ」
 征貞は無人の離れを指さした。
「はあ……。ですが先生――」
 店主は恨めしげに離れを見やる。
 特別な客をもてなすために建てただけあって、床柱、欄間の透かし彫り、調度のひとつひとつにいたるまで、ふんだんに金をかけてあるのだろう。だからこそ、人殺しがあった後でもそ知らぬ顔で使い続けてきたのだ。
「まったく、あのアマ。前借り金も払い終えねえうちにおッ死にやがったのに、死んだあとまでさんざっぱら迷惑かけやがって……」
 脂汗を拭いながらも、ようやく安堵したのか、店主が低く毒づく。
「おじさん、ひどいよ、そんな言い方……! あんたたちがそんなんだから、花魁だって――」
「よせ、凛」
 思わず店主に詰め寄ろうとした凛を、征貞が押しとどめた。




CONTENTS   NEXT
【1】
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送