こんな惨たらしい行動が、本当に彼らの望みだったはずがない。
 かつて人であったものが、人を殺し、人を喰らって、それで満たされるはずがない。
 けして満たされることのない飢えに突き動かされ、急き立てられて、ひたすらに虐殺を繰り返すしかない。最後には仲間を喰らい、自分自身を喰らうしかなくなるのだ。
「天・元・行・躰・神・変・神・通・力ッ!!」
 征貞は早九字の印を切った。
 ――殺してやるしか、彼らの苦しみを解き放つ手段が、ない。
「そうだ。闘え、咒禁師。どうせそいつらは開発過程でできた試作品、失敗例ばかりだ。きみが殺さなくても、いずれ薬殺処理に回される。なんの気兼ねもいらんぞ!」
 人狼の強靱な毛並みは、鋭い刃をもはじき返す。狙うのは目、あるいは耳まで裂けて大きく開いた口中の、もっとも奥。それしか刃のとおる箇所がない。わずかな急所めがけて、征貞は続けざまに槍を繰り出した。
 その様子を上からつぶさに観察し、大浦と仲間の研究者たちは、しきりに記録を取ったり、人狼の動きを指さしながら熱心に議論したりしている。
「ああ、そうだ。きみが人狼に殺されたとしても、我々は一向にかまわない。最後まで生き残った人狼の内臓と血液を、実験に使うだけだ。共食いでも戦力強化に一定の効果があると実証されているんでな。――いや、術師を喰わせても、やはり共食いなのかもしれん。どちらももとは人間だったわけだしな。この点は議論の余地があるな」
 一匹の人狼が、征貞の左腕に食らいつく。
 がっぷりと食い込んだ牙は、殴っても蹴っても外れない。
「この――くそおおッ!!」
 征貞は右手に握った槍を一旦手放した。その手で、ふところから五鈷杵を掴み出す。
「おん・あみりてい・うん・はったッ!!」
 五鈷杵で人狼の脳天を叩き割る。
 血と脳漿
(のうしょう)が噴水のように噴き出した。ようやく牙が外れ、茶色の身体がどうっと床に崩れ落ちる。
 だが、攻撃は終わらない。次々に人狼が襲いかかってくる。
 征貞は爪先で短槍を蹴り上げ、ぱっと右手で掴んだ。
 傷ついた腕に激痛が走る。が、ためらうひまはない。続けざまに槍を繰り出し、人狼の目を、喉ぶえをつらぬく。
「やるじゃないか、咒禁師! これなら、すばらしいデータが採れそうだ!」
 大浦がまるではしゃぐ子供のような声をあげる。
「そうだな、大浦。今度こそ、実験が成功するかもしれん」
「かもしれん、じゃない。成功させるんだ。こいつの肝臓と血液を使って、完璧な人狼兵士を完成させるんだ! そして、必ずあの爺どもを見返してやる! わずか二、三年で思うように成果が出ないからと言って、我々の貴重な研究を簡単に切り捨てた軍上層部に、この結果を突き付けてやる!」
「ああ、そうだ! 我々の研究成果を、闇から闇に葬られてたまるものか!!」
「今度は血液だけでなく、髄液も使ってみよう。脳にもなにか効用があるかもしれん!」
「比較対象物はどうする? 今のところ、実験継続が可能なのは、あの一体しかいないし――」
 研究者たちはガラス窓にへばりつき、喜々として議論を続ける。
「こいつで成功したら、さらにまた強力な術師を手に入れる必要があるな。なにか伝手はないか?」
「兵士一体の強化に術師一人を使うのでは、間尺が合わないぞ。最低でも術師一人で兵士一〇人、二〇人と強化できなければ、大量生産ができない」
「あっちを見ろ。同属の人狼兵士の死体はやはり食い残している。自然界の肉食獣と同じく、柔らかい臓物のあたりしか食おうとしていない」
「ふむ。あれでは残った部位の始末にも困るな。怪物の出現を装って街に放置するのにも、限界がある。人体すべてを有効に活用できる方法が発見できれば、問題は一気に解決できるのだがな」
「ああ。ヤツが正気をなくして暴れ出すたびに、いったいいくつの死体を始末させられたことか。非合理すぎる。無駄は極力はぶくべきだ。肝臓の使用に耐えうる術者は、そうは多くないんだからな」
 彼らの議論には、人間の尊厳も殺人への罪悪感も、なにもない。
「てめえら……ッ!!」
 ぎりぎりと奥歯を噛みしめ、征貞はうなった。全身朱に染まり、その姿はまるで地獄の鬼神のようだった。
「てめえら、絶対そこから逃げるなよ」
 地を這うような声。身体中から怒りが噴き上がり、まるで陽炎のようだ。
 征貞は血にまみれた指を、まっすぐに研究者たちへ突きつけた。
「俺は、すぐにそこまで昇っていってやるぞ。てめえらがここで何をやったのか、思い知らせてやるッ!!」
「ああ、是非そうしてくれ。清巳の馬鹿犬に噛まれた傷がまだ痛むんでな。そこまで降りていくのはもうたくさんだ」
 大浦の顔には喜色すら浮かんでいた。純粋に目の前の惨劇を、順調に進行する実験として、興味深く、期待を込めて観察しているだけなのだ。
「早く来い、咒禁師! 生きのびたかったら、そいつらを皆殺しにしろ。蟲毒の瓶
(かめ)の、最後の一匹になるまでな!」





     四、屍を越えて

         興亡 すべて夢に似て
             英雄 墓は苔むしぬ
                           (文部省唱歌「鎌倉」より)

「散開しろ! 一ヶ所に固まるな!」
 左右の肩から吊った二つのガンホルダーから拳銃を引き抜き、兵吾は怒鳴った。
 ともに四五口径、並みの人間なら両手でも扱いかね、下手に撃てば反動で肩が外れかねない代物だ。それを兵吾は、利き腕の左とともに右手でもまったく同じように扱える。
「一発で仕留めようと思うな! まず足を狙え! 動きを止めたところで、心臓、頭と撃ち抜いて、確実にとどめを刺せ!!」
 東京西部。普段はまったく人の近づかない山中深くに、粕谷財閥の秘密研究所はあった。
 本来なら誰一人通るはずもない山中に真新しい砂利道が敷かれ、自動車のタイヤ痕が複数残されていたのだ。
 粕谷月絵はまったく迷わず、まっすぐに対人狼部隊の車列をこの山中へ導いた。
「どうしてきさまが、秘密研究所のことを知っていた。きさまは粕谷家の養女とはいえ、しょせんは先代の妾にすぎないのだろう」
 そんな者に、国家機密にもかかわる研究の事実を教えるはずがない。実際、ほかの二人の妾、雪代と華子は、惨殺死体となって粕谷邸内から発見されている。ことに雪代は遺体の損傷が激しく、ほとんど人間の形状をとどめていなかった。
 帝都をさわがせる連続猟奇殺人から粕谷財閥に辿り着くまでにも、かなりの時間がかかってしまった。
 軍の独断で行われていた研究ではあっても、日本国政府はひたすら彼らをかばい、情報を隠匿しようとした。政府が保持するすべての情報を吐き出させるには、ヴァチカンと、それを信奉する西欧諸国からの強い圧力が必要だったのだ。
 それでも、たいした情報は出てこなかった。すべては軍部が闇から闇へ葬ろうとしていたのだ。
 これで、もし研究が行き詰まらず、軍上層部が人狼部隊計画を白紙撤回すると決断しなければ、兵吾たちは今も粕谷の名前に到達できなかっただろう。
 多くの人命を犠牲にして造り上げた人狼は、人間としての理性を欠片も持ち合わせず、他者からの命令に従うどころか、人の言葉さえ理解できない、本当のけだものであったらしい。
 しかもその戦闘力だけは当初に期待したとおり、ふつうの人間などまるで歯が立たない。鉛の弾丸を跳ね返したという記録も提示された。ひとたび狼の本性を剥き出しにして暴れ出したら、誰にも止めるすべがないというのだ。
 そんな化け物が、ただ闘争本能に突き動かされるまま、目に映るものすべてに牙を剥き、殺戮を続けるのだ。
 食い止められるのは、自分たちしかいない。兵吾は、インバネスコートの上から、強くロザリオを握り締めた。
 ヨーロッパでは充分にその効力が証明された、純銀の弾丸。この極東の、それも人造の人狼にも効くだろうか。
 ――最悪、またあの能力を使うほかはないだろう。
 懊悩を押し隠す兵吾に、月絵はまっすぐ前を見つめたまま答えた。
「私も、この研究所で研究対象にされたことがあるからです」
「なんだと!?」
「ですが私には、あなた方が考えているような、人ならざるものの能力はなにもありません。だからすぐに研究所から解放され、粕谷の屋敷に移されたのよ。二四時間、ずっと監視されていたけれど」
「だが、それなら連中は、お前のいったいなにを――」
 兵吾が月絵をさらに問いつめようとした時。
 悲鳴のような音を響かせて、急ブレーキがかけられた。
 兵吾もあやうく助手席から投げ出されそうになる。
「な、なにごとだ!?」
「兄弟副島、あれを――!!」
 兵吾は車外へ飛び出した。
 目の前には、高い塀に囲まれたコンクリートの大きな建造物。
 その真っ平らな屋根や門柱、鋭い鉄柵の上に、黒い陰がいくつもうずくまっている。
 うう……と、低く、けもののうなり声がする。敵を威嚇する声だ。
 四つ足のけものの臭い。吐く息は毒気にも似ている。そして、血の匂い。
 ぎらぎらと、飢えと敵意をたたえて光る目は、血のように赤い。人ともけものともつかぬその姿。
 毛むくじゃらの四肢にはぼろぼろの衣服の残骸がまとわりつき、かつてはそれが人間であったことを示している。まるで、人間という種族の醜悪な戯画のようだ。
 ――醜い。兵吾は怒りすら感じた。
 本物の人狼はもっと美しく、気高い姿をしている。活きる力と雄々しさに満ちたものだ。
 気づけば背後にも、黒いけものの影が迫る。
 兵吾たち対人狼部隊は、三〇匹以上の人造人狼に取り囲まれていた。
 兵吾はインバネスコートの裾を跳ね上げた。
「ぐがアアアァッ!!」
 けだものどもが一斉に咆吼した。
 建物の屋根から一〇m以上を一気に跳躍し、兵吾に真上から襲いかかる。
 喉の奥まで見えるほど大きく開かれた口が、そこに並んだ刃物のような牙が、兵吾を頭から噛み砕こうと迫る。
「このォッ!」
 銃を構えるのが、間に合わない。
 兵吾は片手でインバネスを剥ぎ取り、弧を描くように大きく振り抜いた。飛びかかってくる人狼を、真横から力いっぱい打ち据える。
「ぎゃんッ!!」
 茶色の大きな塊が一撃ではじき飛ばされた。土煙をあげて、どさッと地面に叩きつけられる。
 が、このくらいで止められるような相手ではない。人狼は瞬時に起き上がり、ふたたび兵吾へ躍りかかった。
「総員、戦闘用意ッ!!」
 隊員たちが即座に銃を構える。
 兵吾も左右の手にそれぞれ拳銃を握った。非常事態にのみ見せる、二丁拳銃だ。
 銃声が炸裂した。
 一瞬、狙いをさだめるだけで、兵吾は次々に人狼の眉間に銀の弾丸をぶち込む。大口径の弾丸は一撃で敵の頭蓋を粉砕し、頭の上部半分をふっ飛ばすほどの威力だ。
 濁った血潮と脳漿をまき散らしながら、茶色の巨体がどうっと倒れ込む。
 兵吾の周囲に、次々に化け物どもの死体が積み重なる。
 だが、ほかの隊員たちには、同じ戦果は期待できなかった。
 彼らの拳銃は三五口径で、威力は兵吾のものより格段に落ちる。ライフル銃を構える者も、すさまじい速度で走り回る四つ足のけものには、狙いをさだめることすらできない。
 一瞬で敵の急所を見きわめられる兵吾の動体視力が、尋常ではないのだ。
「ぎゃあッ! た、助けてくれえッ!」
「え、援護を! 援護してくれ、兄弟副島ッ!!」
 悲鳴があがった。
 人造人狼たちは、強敵である兵吾からは一旦離れ、弱者に攻撃を集中する戦法に出た。
 円を描くように隊員たちを取り囲み、一ヶ所に追い込む。
 もともと狼は集団で狩りをする動物である。群れを率いる頭領の指示のもと、陣形を組み、逃げる獲物をたくみに誘導し、追いつめるのだ。
 この出来損ないの人造人狼にも、その狼の本能は宿っているというのか。追いつめられた隊員たちはまるで、無力な羊の群だった。
「うわああああッ!」
「ち、父と子と、聖霊の――ぎゃああッ!!」
「撃てッ! 撃て、撃ち殺せッ!」
 すでに生き残っている者はわずか数名。その者たちが、一台の車を盾に、四方の人狼に向かってやみくもに発砲を続けている。
「でたらめに撃っても無駄だ! 群れの頭目を狙え!」
 が、叫ぶ兵吾自身にも、指揮を執っているのがどいつなのか、判断がつかない。
 ――どういうことだ!?
 狼ならば、ボスは必ず群れの先頭にいるはずなのに。
「た、弾丸が、弾丸が切れた……ッ!!」
 もっとも若い隊員が、悲痛な叫びをあげた。
 蒼白な顔面で、弾丸が出ないとわかっていながら、何度も何度も引き金を引き続ける。
「た、た……助けて……ッ! 神様――!!」
 彼がすがった神とは、いったい誰だったのか。若者は一撃で喉ぶえを喰い裂かれ、絶命した。
「この――化け物どもがぁッ!!」
 兵吾の絶叫が響いた。
 左右の銃の引き金を、続けざまに引く。もはや狙いをさだめるのももどかしい。本能と鋭い勘が告げるままに、次々と汚らわしい出来損ないどもを撃ち殺す。
 銃の轟音がとどろくたび、並みの人間の倍ほどもある巨体が、茶色い毬のように吹っ飛んだ。
「父と子と、聖霊の御名に於いて、弥栄
(アメン)ッ!!」
 すさまじい反動が、手から肩、背骨までを揺るがし続ける。血飛沫が飛び、硝煙の臭いが濃く立ち込めた。
 生き残った隊員たちは、かたく目を閉じ、頭を抱えてただ地面に伏すしかなかった。
 やがて、三〇体以上いた人造人狼もそのほとんどが頭を吹っ飛ばされ、ただの肉塊と化した。
 さすがに肩で荒く息をつきながら、兵吾は周囲を見回した。
 仲間たちはまだ数人、生き残っている。車にしがみつき、あるいは地面に伏して頭を抱えたその姿からは、戦闘意欲などまったく感じられない。ただの迷える子羊だ。
 人狼どもも、残るは数体。兵吾を取り囲み、じりじりと近づいてくる。身を低くし、うなり声をあげながら、一斉に飛びかかる機会を狙っている。
「弾丸は……」
 兵吾はすばやく二丁の銃の弾倉を確認した。
 予備の弾丸も使ってしまった。もう、銃に装填されているのが最後の弾丸だ。
 だが、装填された弾丸で充分に、この化け物どもを始末できるはずだ。
 そう思って、ふたたび銃を構えようとした時。

 うぉおううう……おううう……うおおおぅぅ……

 高らかに、遠吠えが響いた。
 深い山々にこだまし、まるで仲間を呼び集めているかのようだ。
 それはあきらかに、狼の声だった。
「ま、まさか――ッ!?」
 兵吾は研究所の建物を振り仰いだ。
 その屋上に、一人の青年が立っている。
 フランネルのシャツに細身のズボン。足は、素足だ。さらさらした髪が、風に揺れていた。
 逆光になってその顔はよく見えないが、おそらく兵吾よりも二、三才年下だろう。すらりとした身体つきはまだ少年の面影を残し、手すりもない屋上の突端に立ちながら、危険などまったく感じていないようだ。どこか楽しげにすら見える。
 だが兵吾を見据えたその瞳孔は、深紅の血の色に染まっていた。






 突然、醜い狗神もどきの襲撃を受けた時。
 凛は、この隙に逃げ出せると思った。
 対人狼部隊の隊員たちは、兵吾を先頭に車外へ飛び出し、狗神もどき――兵吾たちの言葉を借りるなら、粕谷財閥が開発した人造人狼と闘っている。
 あれは絶対に狗神なんかじゃない。かと言って、人間でもない。粕谷邸の土蔵の中で感じた、わけのわからないおぞましい《気》は、こいつらのものだったのだろうか。
「月絵さん、逃げよう!」
 隊員たちはつぎつぎと人造人狼の牙にかかり、斃されていく。対等以上の闘いを続けているのは、兵吾だけだった。
 兵吾も仲間たちの命を守るのに精一杯で、車内に残った凛たちなど、ほとんど眼中にないようだ。
 今なら、逃げ出せる。
 ――兵吾たちの車に乗せられ、粕谷邸を離れても、凛の疲労感は増すばかりだった。
 凛と月絵はロールスロイスの後部座席に並んで座り、兵吾は前の助手席に乗り込んだ。運転するのは別の隊員だ。
 広い車内にはまだ余裕があったが、怯えている少女たちに気を使ったのか、他の隊員たちは別の車に分乗した。
 それでも凛は、自分へ向けられた彼らの敵意をひしひしと感じていた。
 おまけに、同じ車に乗る兵吾の全身には濃く硝煙の臭いが絡みついている。今はコートに隠れて見えないが、彼が銃と純銀の弾丸を身につけていることも、あきらかだ。
 この、銃の存在感がなによりも凛の神経を逆撫でし、疲弊させる。
 凛はうつむき、膝の上でぎゅっと両手を握りしめていた。
 ……ゆきさん。
 懸命に怺えていても、その名前が口をついて出そうになる。
 ……ゆきさん、どこにいるの。
 怖いよ。この人たちみんな、血と火薬の臭いがする。みんな、誰かを殺すことしか考えてないんだ。怖いよ……!!
「――あ」
 ふと気づくと、月絵が心配そうな目をして、凛を見つめていた。
 凛が顔をあげると、黙って励ますように小さくうなずく。
 だがその顔色は紙のように真っ白だった。唇も色を失い、小刻みにふるえている。
 ……そうだ。
 月絵もまた、大切な人が清巳たちに囚われていると言っていた。
 独りぽっちで怖いのは、自分だけじゃない。
 身体のふるえが止まった。心臓まで凍りついているみたいだった全身に、五感がしっかりと戻ってくる。
 大丈夫。今、この車は、征貞のいる場所へ向かっている。征貞に近づいている。
 ほんの少し離れていただけで、こんなにも怯えて啼きそうになって、なにも見えなくなるなんて。こんなことを知ったら、征貞は凛のことをどんなに不甲斐なく思うだろう。
 ゆきさんの力になりたい。その足元を、半歩先を照らす灯りになりたい。そう願って、凛はこの人の世で生きることを選んだのだから。
 そして月絵も、同じことを思っているだろう。彼女の大切な人のためなら、どんなことだって怖れない、と。
 ……考えなくちゃ。
 このまま兵吾たちの捕虜でいたら、征貞に会えたとしても、彼の足手まといになってしまう。月絵も大切な人を取り戻せないだろう。
 なんとかして、逃げ出さなくては。それも、できるだけ征貞に近づいた時点で。
 征貞の邪魔にならないよう。死ぬことは簡単だ。
 けれど、征貞は凛に「生きろ」と言った。
 あの言葉を、凛は忘れない。
 ……あたしが死ぬのは、ゆきさんのためにできることが、なに一つなくなった時。
 今はまだ、その時じゃない。
 あたしはまだ、ゆきさんのためになにもしていない。
 そして凛たちを乗せた車は、月絵の道案内どおり、森の奥深くにひっそりと佇む粕谷製薬の研究所に到着した。
 だが一行を出迎えたのは征貞でも清巳でもなく、おぞましい人造人狼の群れだったのだ。
「散開しろ! 一ヶ所に固まるな!!」
 兵吾は片っ端から人狼どもを撃ち殺していく。一発の無駄弾もない。
 すべての人狼を倒し、兵吾が凛たちのことを思い出すまで、あまり時間はかからないだろう。
「急いで!」
 凛と月絵はそうっと後部座席のドアを開け、車の外へ出た。
 立ったら、すぐに兵吾に見つかってしまう。しゃがんで、車の陰に隠れながら逃げるしかない。
 這うようにして、二人が森の中へ逃げ込もうとした時。
 狼の遠吠えが響いた。
「うそ……っ!?」
 いいや、この声は間違いなく、本物の狼。狗神だ。
 振り返ると、研究所の屋上に誰かが立っている。
 背は高いが、ほっそりとしてしなやかな、若い柳のような影。
 その影が、ぐらりと揺れた。
 高い建物の上から、地上へ向かってまっすぐに身を投げる。
「きゃ……ッ!!」
 凛は両手で自分の唇をふさぎ、かろうじて悲鳴を抑えつけた。
 しなやかな人影が、中空でくるっと回転する。
 次の瞬間それは、銀灰色に輝く美しいけものに変じていた。
 音もなく大地に降り立つその姿に、凛は思わず目を奪われた。
 まったく無駄のない、流れるような身体の線。それを包む銀灰色の毛並み。喉から腹にかけてはやや白く、たてがみのあたりは少し色が濃い。着地の時も、走り出しても足音もさせず、まるで実体のない影が駆け抜けていくようだ。
 濡れた鼻面、尖った耳、宝石のように光る目。すべてが野性の力と品格に満ちている。
 それは、明治三八年に絶滅したと言われている、ニホンオオカミの姿だった。
 ……なんて、きれい――。
 あれこそが本物の、狗神。
 月絵も息を呑む。
 だが、凛は自分の感覚を疑った。
 どうして。こんなに近くにいたのに、どうして今まで、この狗神の存在に気がつかなかったのだろう。
 玲瓏と澄み切った、森の息吹のようなこの気配。この国の大地にもっとも古くから根付いてきた、強く猛き神の《気》。
 この《気》が、わからないはずはないのに。
 そしてこの気配は、たしかにあの少年と――今は投げ込み寺の片隅に眠るあの狗神の少年のものと、酷似していた。
 けものが跳躍した。
 鉄柵の植わる高い塀を、軽々と飛び越える。その動きはまるで銀色の風のようであり、優雅ですらあった。
 銀色狼は、そのまま一気に兵吾へ襲いかかった。
「畜生、このおッ!!」
 兵吾も即座に反応する。銀色狼めがけ、続けざまに発砲する。
 が、しなやかな姿が、一瞬にして視界から消え失せた。
 純銀の弾丸は背後の樹木にあがり、むなしく木っ端くずをまき散らす。
「どこへ行った!?」
 消えたのではない。狼が、銃弾を避けたのだ。
 兵吾が銃口を向けた瞬間、真横へ跳び、弾丸を躱した。その動きは、凛ですら目で追うことができなかった。
 一瞬の隙をついて、銀色狼が兵吾に躍りかかった。
「しまった!」
 刃のような牙が迫り、鋭い爪が兵吾の腕に突き立てられる。
 その瞬間、狼の姿はふたたび、さきほどの青年に変わった。
 青年はそのまま兵吾の上にのしかかり、どうッと地面に押し倒す。
「――穂高!!」
 月絵が叫んだ。
「穂高、穂高あッ!!」
「あぶない、月絵さん!」
 車体の陰から飛び出そうとした月絵を、凛はあわてて押しとどめた。
「だめだよ、月絵さん! 今、出てったら、あぶない!」
「離して! あれは穂高よ、私の穂高なのよ――!!」
 月絵は泣き叫んだ。凛の腕をふりほどこうとめちゃくちゃに暴れ、青年のほうへ懸命に手を伸ばす。
 あの青年が、月絵の大切な人。どうしても逢わなければならない人だったのか。
 だが。
「良く見て! あの人、……なんか様子がヘンだ!」
 人造人狼どもがうなる。
 人間の姿に戻った銀色狼――穂高を、その姿ゆえに仲間と認識しなくなったのか、それとも獲物を横取りされて腹をたてたのか。穂高を取り囲み、猛々しくうなりながら、じりじりとその包囲網をちぢめていく。
「があああッ!!」
 一匹の咆吼を合図に、人狼どもが一斉に穂高へ襲いかかった。
 青年が声もなく笑うのが、凛には見えた。
 ひゅ、と軽い風切り音がして、穂高の右腕が振り抜かれる。
 人狼の巨体が吹っ飛んだ。
 背後の樹木に激突し、衝撃で太い樹木までが、ばきばきッ……とすさまじい音をたてて、へし折れる。
「な……っ!?」
 ふわり、と、穂高が宙へ跳んだ。
 突進してくる人狼を軽々と飛び越え、その肩に両手をついて逆立ちする。まるで舞うがごとく、音ひとつたてない美しい身のこなしだった。
 次の瞬間、穂高の足が旋回した。
 襲ってくる人狼どもを次々と蹴り倒す。ごぎッと鈍い音がして、太い首が一撃でへし折れた。
 人狼どもがばたばたと地に倒れていく。
 それは闘いですらなかった。一方的な虐殺に近い。





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