最後の一匹を、穂高が捕まえた。
 左手で頭部を、右手で相手の左腕をつかむ。
 めきめきめき……と、嫌な音がした。
 青年は、生きたまま人狼の左腕をもぎ取った。まるで幼い子供が昆虫の脚や触角をもいでしまうように。無造作に、なんのためらいも、罪の意識もなく。
 鮮血が噴水のようにほとばしり、青年のほっそりした全身を真っ赤に濡らす。
 そのさまは、あきらかに尋常ではなかった。
「ほ……穂高……っ!!」
 身体の奥底から絞り出すように、月絵が穂高の名を呼ぶ。だがその必死の声も、彼にはまったく届かない。
 髪から、指先から、ぽたぽたと返り血をしたたらせ、穂高が振り向く。
 その視線の先には、兵吾がいる。
 乱れた呼吸を整えながら、兵吾は二丁拳銃を構えた。
 にィ……と、穂高が笑う。間違いなく、兵吾をも殺す気だ。
 す、と穂高が身をかがめた。
 次の瞬間、その身体は銀灰色の狼になっていた。
 銀色のつむじ風が兵吾めがけて突進する。
 兵吾の二丁拳銃が火を噴いた。
 続けざまに轟音がとどろく。
 銀色狼は右に左に跳躍し、その弾丸をかわす。
 純銀の弾丸が狼の耳をかすめた。やわらかな体毛が引きちぎられ、尖った耳から血が噴き出す。
 けれど狼は怯み
(ひるみ)もしなかった。
 地を蹴って高く飛び上がり、兵吾の喉ぶえ目がけて躍りかかる。
 兵吾はそれに向かって引き金を引いた。
 が、銃声は聞こえなかった。
 かち、かちっという小さな鈍い手応えだけが返ってくる。
「……弾丸
(たま)が切れたッ!」
 死んだ若い隊員とは違い、兵吾は神に祈らなかった。
 手の中でくるっと銃を回転させ、まだ熱い銃身を掴む。そして迷わず、銃の握りで狼の眉間を叩き割ろうとした。
 思いがけない反撃に、狼が牙を剥く。グリップは狙いをそれて狼のこめかみあたりに激突し、次の瞬間、狼の牙が兵吾の左腕にがっぷりと食い込んだ。
「うァッ!!」
 狼はそのまま力まかせに兵吾の身体を振り回し、地面に叩きつけた。
 砂埃の中、狼は三度若者の姿になる。
 穂高は兵吾の身体に馬乗りになった。その両手は、兵吾の喉を渾身の力で締め上げていた。
「穂高! 穂高、やめて!! 私の声が聞こえないの、穂高あッ!!」
「待って、月絵さん! あの人、なんかおかしい! ふつうじゃないんだってば!」
 凛は月絵にしがみつき、必死で引き戻そうとした。
 ――穂高の《気》が、おかしい。
 これだけ近くにいて、相手の姿をこの目で見ているのなら、その《気》にひそむさまざまな思いや感情を、多少なりとも読みとることができるはずだ。人が人の顔を見てある程度その感情を察することができるように、いくら妖狐の能力が疲弊しているとはいえ、そのくらいはできるはずなのに。実際、凛は穂高の《気》の中に、死んだ少年との相似を見いだせたのだから。
 だが、穂高の《気》には、なんの感情もなかった。
 読みとれるのは、剥き出しにされた闘争本能。兵吾に対する敵意すら、ない。まるで荒れ狂う風雨の向こうに、真っ暗なでなにも見えない深淵があるようだ。
 今の穂高には、兵吾と人造人狼の区別すらついていないのかもしれない。
「な、なんなの……。まさかあの人、眠ってるわけじゃないんでしょ!?」
「眠って……!? まさか、穂高――!」
 月絵ははっと気づいたように、顔をあげた。
「薬物を投与されているんだわ」
「や、薬物……って、薬? まさか――」
「粕谷製薬が研究していた中には、そういう薬物もあると聞いていたわ。戦場で兵士たちの恐怖心を取り除き、無条件で上官の命令に服従させるための薬物……。心を麻痺させ、ただ、生物としての闘争本能だけを暴走させて――」
 月絵はまばたきもせずに、穂高を見つめていた。まるで一瞬でも目をそらせば、そのまま彼を見失ってしまうとでもいうかのように。
「ごめんなさい、穂高。ごめんなさい……私のせいで――」
「月絵さん!」
 今度は、凛が引き留める隙もなかった。
 月絵はふらっと前へ出て、そのまま殺し合う二人の若者に向かって走り出した。
「穂高、穂高……ッ!!」
 穂高の鋭い爪が兵吾の皮膚を深くえぐり、鮮血が洋装の衿にまでしたたり落ちる。
「ぐ……が、ァッ――!」
 兵吾の唇が見る間にどす黒く変色していく。口の端から白い泡が噴きこぼれた。
 穂高の口元に喜悦の笑みが浮かぶ。獲物が絶命する、その断末魔の痙攣を両手で、全身で感じとり、歓喜している。
 その腕を、白い華奢な手が力いっぱい掴んだ。
「やめて、穂高! もうやめてっ!!」
 月絵が必死に穂高へしがみつく。
 穂高の右腕を胸元に抱え込み、兵吾から引きはがそうとする。
「お願い、もうやめて! こんなことしちゃいけないの、わかって、穂高!」
 だが、答える言葉はない。
 穂高は無言のまま、力まかせにその手を振り払った。
 腕の一振りで月絵の身体は吹っ飛び、地面に叩きつけられる。
「きゃあっ!」
「月絵さん!」
 それでも月絵は、懸命に穂高へ手を伸ばした。
「私の声も聞こえないの……!? ねえ、穂高、こっちを見て! 私を見て!!」
 必死の訴えに応えるものは、猛々しいけもののうなりでしかない。
 だが月絵はよろめきながら立ち上がり、ふたたび穂高に取りすがろうとする。
 その時、
「……危ない、月絵さん!」
 凛はぱっと風上に顔を向けた。
 鉄と、火薬の臭い。
 誰かが銃を構えている。明確な殺意が風に乗って届く。
「伏せてッ!!」
 警告は一瞬、遅かった。
 銃声がとどろいた。
 月絵の胸元に、深紅のばらが咲いた。
 凛の、そして穂高の目の前で、月絵の身体がぐらりと揺れ、ゆっくりと弧を描くように倒れていく。
「あ……あ、ぁ……っ」
 かすれた声が、青年の口からこぼれた。
 それは凛が初めて聴く、人間としての穂高の声だった。
「月絵ええェッ!!」
 横たわった月絵の身体が、見る間に血に染まっていく。弾丸は背中から胸へ貫通したらしく、その口元には、喉の奥からあふれ出す動脈血がしたたり落ちていた。
 その唇が、かすかに動いた。
 凛は息を呑んだ。
 ……穂高さんの名前を、呼ぼうとしてるんだ。
 月絵は懸命に笑みを浮かべようとしている。やっと自分の名前を呼んでくれた、自分を見つめてくれた恋人に、応えるために。
「――余計な真似を」
 上擦った、癇に障る声がした。
 がしゃん、と大きく機械音が響く。清巳が不慣れな手つきでライフル銃の空薬莢を排出した。
「あ、あんた……っ! あんた、なんで月絵さんを――!!」
 凛は叫ぼうとした。だが身体にほとんど力が入らない。立っているだけで精一杯だ。声はふるえ、清巳の耳にまで届くかどうかさえ疑わしかった。
「勘違いするなよ、小娘。私は月絵を狙ったわけじゃない。そこの化け物を始末しようとしただけだ。ついでにその不法侵入者もな」
 清巳は顎で穂高と兵吾を示した。
 兵吾はぜいぜいと苦しげに呼吸しながら、ようやく立ち上がろうとしていた。
 その後頭部に、銃口が押し当てられた。じゃき、と、撃鉄の起きる音が響く。
 気がつけば、凛も、生き残った数名の対人狼部隊の隊員たちも、銃を構えた男たちに取り囲まれていた。
 男たちは服装こそ白衣だったり、ありふれた洋装だったりとまちまちだが、その身のこなしはあきらかに軍人としての鍛錬を受けている。
 兵吾もそれに気づいているのか、無抵抗のまま両手をあげた。
「そいつらはローマから派遣された魔術師かなにからしい。実験に使えそうだと大浦たちが言っていた。研究所へ連れていけ。特にその金髪の男は、ただ者じゃない。油断するなよ」
 清巳が横柄に指示を出す。
「それから、その小娘もだ。そいつは人間じゃないぞ」
 そして清巳は高く笑った。どこか調子の狂った、たがが外れたような笑い声だった。朱に染まった月絵を見下ろし、
「まだ息があるようだな。今すぐ楽にしてやるぞ。仮にも義妹だ、兄としてそのくらいの情けはかけてやる」
 ふたたびライフルの銃口を月絵に向けようとした。
 その時、狼が咆吼した。
 銀灰色の美しいけものが、疾風となって清巳に襲いかかった。
「うわああぁッ!!」
 清巳がライフルを振り上げた。続けざまに引き金を引く。
 まわりの軍属たちも、狼めがけて発砲した。
 何十発もの弾丸が銀色狼の身体に突き刺さった。
 けれど狼は止まらなかった。全身を朱に染めて、高く跳んだ。
 かつて人々はその姿を、凶津神
(まがつかみ)と呼んだ。人間がこの列島に根付くはるか以前より、この大地と森林とに君臨していた猛き神。もっとも純粋な命の姿だった。
 その牙は狙い過たず、清巳の喉ぶえを喰い千切った。
 清巳は声もなく、あお向けに倒れた。
 その表情は、大きく目を見開き、ただ驚愕だけを浮かべていた。
 清巳の上に、狼もどさりと倒れ込む。銀灰色の毛並みはもとの色もわからないほど血にまみれ、その身体は二、三度鈍く痙攣し、それきり動かなくなった。
「……し、死んだのか――?」
 かすれた声で誰かがつぶやいた。
 だが、応える声はない。誰も、狼のそばに近寄って、手を触れ、その生死を確かめる勇気はないのだ。
「か、かまうことはない。どうせそいつは、もう用済みだったんだ。このまま放っておけ!」
「とにかく、研究所内へ戻ろう。それしかあるまい」
 軍属の男たちは互いにうなずき合い、後ずさりするように研究所へ戻ろうとした。生き残った対人狼部隊の隊員たちをも銃で乱暴に小突き、急き立てる。
 仲間たちを人質に取られたためか、兵吾も黙って従っていた。
 凛も、いきなり強く腕を引っ張られた。
「きゃっ!」
「お前も来い!」
 凛は必死でその手を振りほどこうとした。だが、腕にも脚にも力が入らない。少し身動きするだけで、息が苦しくなる。
「は、離してっ! やだ、さわんないで!」
「騒ぐな、このがき!」
 力まかせの平手打ちが飛んでくる。
 小柄な凛の身体は簡単に吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられた。
 凛はそのまま、立ち上がることもできなかった。
 狗神の濃い気配の中で消耗しきった体力を、気力だけで補ってきたが、それももはや限界だった。
「おい。あまり手荒にするな。その小娘とこっちの金髪は、大事な実験体だぞ」
 男の一人が、まるで俵のように凛の身体を肩へ担ぎ上げる。
 自分がどこかへ運ばれていくのを、凛はぼんやりと感じた。だがその感覚もすぐに遠くなり、なにも感じられなくなっていく。
 最後に凛の目に映ったのは、最期の力を振り絞り、恋人へ手を差し伸べようとしている月絵の姿だった。
 その唇からは、もう彼の名も出ない。それでも月絵は、穂高に向かってその手を伸ばそうとしていた。
「月絵さん……」
 男たちはまるで逃げ込むように、研究所内へ戻る。
 研究所の門扉が堅く閉ざされた。
 あとにはただ、もの言わぬむくろが散乱するばかりだった。






「……痛ぅ――」
 堅い床の上で、凛はのろのろと身を起こした。
 どのくらい気を失っていたのだろう。まだ頭の中がぼんやりしている。まるで濃い霧がかかっているみたいだ。身体のあちこちが痛むが、その痛みさえ妙に鈍く、どこか遠くからつたわってくるように感じられた。
 視界もなんだか歪んでいるみたいだ。あたりが薄暗いのは自分の視力に問題があるからではなく、ろくに灯りもない部屋に閉じこめられているからだと気づくまでにも、かなり時間がかかった。
 四方は冷たいコンクリートの壁に囲まれ、床は剥き出しの地面だ。小さな扉は鉄製で、錆が浮いている。明かり採りの小さな窓は天井近くにあり、外も暗いのか、光はほとんど入ってこない。
 どうやらこの部屋は、半地下のようになっているらしい。
 それ以上のことを考えようとしても、頭がまったく働かない。
 全身にまとわりつく、荒々しい狗神の《気》。この部屋に、建物中に充満している。
 息をするだけで、この狗神の力に押し潰されてしまいそうだ。
「やっと目が覚めたのか」
 冷たく低い声がした。
「え……」
 両腕を床についてどうにか上半身を支え、凛は顔をあげた。
 暗がりの向こうに、人影がみえる。
 凛はとたんに、全身をびくっと強張らせた。
 火薬と血の臭いがする。兵吾だ。
 片膝を立てて壁際に座り、鋭く光る刃物みたいな目で、じっと凛を見据えている。
 その肩に翼のようなインバネスコートはなく、シンプルな黒いスーツ姿だ。しきりに肩から脇にかけてを気にしているのは、本来ならそこに吊っていた二丁の銃を奪われたからだろうか。
「お前の飼い主はどこだ。この研究所の中にいるのか」
「え――ゆきさん……? ゆきさんは――」
 それすら、わからない。
 近くにいるのか、いないのか、征貞の気配も読みとれない。
 凛はもはや、立ち上がることすらできなかった。
「俺の兄弟たちも連れていかれた。俺とお前だけをこうして別にしたということは、あのいかれ化学者ども、実験に使えるのは俺とお前だけだと判断したんだろうが……」
「きょうだい?」
「対人狼部隊の仲間のことだ。俺たちは、神の御前
(みまえ)にみな平等な兄弟だ」
「そう、なの……」
 兵吾の説明も、ろくに理解できない。
 ……ほんとに、まずい、かも――。
 ともすればふたたび途切れてしまいそうな意識の隅で、凛は思った。
 このまま狗神の気の中に居たのでは、いくら大人しくしていても妖力が回復するどころか、消耗していく一方だ。もうすぐ人の姿さえ保っていられなくなるだろう。
 そうなる前に、人間の――強い男の精気を分けてもらう必要がある。
 けれど、ここに征貞はいない。
 凛はぐったりと床に倒れ伏した。もう、このまま眠ってしまいたかった。
「どうした。どこか撃たれでもしたのか」
「……ちがう」
 掠れる声で凛は答えた。
「つかれたの。――少し……」
 そのまま、凛は尻尾を丸めた仔狐みたいに、小さく身体を丸めてしまった。
 もう指一本動かせない。
 身体が冷たい。胸の中に響く鼓動さえ、少しずつ遅くなり、不規則になっていくようだ。
 ……壊れてく。
 自分がゆっくり壊れて、溶けていくのを、凛はぼんやり感じていた。
 少女の身体の輪郭が次第にあやふやになってくる。まるで気化するようにかすみ始め、人から人ならざるものへと変わっていこうとする。
 その時。
 強い手が、いきなり凛の手首を掴んだ。
「……きゃっ」
「来い」
 兵吾は乱暴に凛を引きずり起こそうとした。
「お前は狐の眷属だと言ったな。なら、男の精気が要るんだろう」
「え……?」
 疲れきった頭では、彼の言葉の意味もすぐには理解できない。
「どうやるんだ。血を啜るのか。それとも禿鷹のようにはらわたごと喰らわねば精がつかんのか」
「な、なにを……。あんた、なに言ってんの――」
「頭の悪い子供
(がき)だな。俺の精気をわけてやると言っているんだ」
 兵吾は手袋をはずし、ジャケットをむしりとるように脱ぎ捨てた。
 スタンドカラーの襟元をゆるめると、くっきりと刃物で刻みつけたような鎖骨が見える。
 凛は思わず、こくりと小さく喉を鳴らした。
 凛の目には、兵吾の精気が、生命力が滾々
(こんこん)と湧き出す泉のように映っている。やや不安定に揺らめいているが、まばゆく熱く、まるで真っ白に輝く篝火のようだ。
 それは疲れ果て、餓えた凛にとって、たまらない甘露だ。
 ……喰べたい。
 凛の内側で、なにかがこっそりささやく。
 ひとが、稲や、魚や、茸や鳥や、ひと以外のものを食べて、命をつないでいるように。
 ひとならざるものがひとを食べても、何ら不思議はない。
 命はみんな、己の同胞以外の命を食べて、生きている。それが自然の摂理だから。
 喰べたい。目の前の、これを喰べたい。凛の中の《人ならざるもの》が叫ぶ。
 けれど。
「――だめッ!」
 凛は渾身の力と勇気を振り絞って、兵吾の手を払いのけた。
「だめ。今は――だめ。抑えが効かないの」
 これだけ妖力を消耗した状態では、ほんの一口二口吸っただけで止めるなど、到底できない。飢餓状態の人間が食べ物を目の前にして自制できないように、凛も一旦兵吾の精気を吸ってしまえば、この身体が満足するまで精を吸い取るのを止められないだろう。そして妖狐の性が充足するまで精気を吸い取ってしまったら、相手の男の命はない。
「……来ないで」
 凛は懸命に後ずさりした。少しでも兵吾から、彼のまばゆい精気から離れようとする。
「来ないで。お願い。……あんたを殺したくないの――!」
 兵吾は一瞬、戸惑うような表情を見せた。まるで、凛の言ったことがまったく理解できないというように。
 が、すぐに口元を歪めて、皮肉な笑いを浮かべる。
「殊勝なことだ。それとも、人殺しになるのが怖いのか。人間でもないくせに」
 凛は答えなかった。
 冷たい土の上にうずくまり、消えてしまいそうな意識を懸命に保とうとする。
 やがて少女は、そのまま、ぽつりと言った。
「……約束したから」
「約束?」
 兵吾は問い返した。
「あの男に約束したからか。けして人間を殺さない、と」
 ちがう、と、凛は首を横に振った。
「ゆきさんがあたしに約束してくれたの。……ゆきさんの命を、あたしにくれるって」
 ――あの夜。
 凛の両親が殺された夜。征貞が凛を救ってくれた夜。
 両親の仇である村人たちを、殺してはいけないと、征貞は言った。
「恨むのも、憎むのも、しかたがない。その感情を押し殺せとは言わない。だが、あいつらの血でお前の手を汚すな」
 人ならざるものが人を殺せば、必ず討っ手がかかる。人間は、自分たちの同胞を殺したものをけして許してはおかない、と。
「その時にお前を追ってくる連中は、あんなただの村人なんかじゃない。相応の修行を積んだ術者ばかりになるはずだ。《人喰らい》を退治するわけだからな」
「ゆきさんみたいな人たちが……あたしを追ってくるの?」
「ああ、そうだ」
 そうなれば、凛が逃げ延びられる可能性など、万に一つもない。
「その前に、必ず俺のところへ来い」
「え……」
 その時、凛は征貞の真意がわからなかった。
 怖いくらい真剣な彼の顔を見上げ、しばらく考える。そして、うなずいた。
「うん。そしたら、ゆきさんがあたしを殺してくれるんだね」
 憎悪や恨みの感情に負け、自分がおぞましい《人喰らい》になってしまう前に。
 征貞がそれを止めてくれる。
 妖狐の本性が抑えきれなくなり、他者の命を奪ってしまう前に。罪を犯す前に、征貞が必ず凛を殺してくれる。そういう約束をくれたのだと、思った。
 哀しいけれど、でもそれが一番いいことだろう。凛だって、誰かを殺してまで生きていたくはない。けれど《人喰らい》になってしまったら、そんな自分の心さえ忘れてしまうのだ。この身体に残り、支配するのは、ただ餓えきったけものの本性だけになる。
 征貞も凛をそんな化け物にしたくはないと、思ってくれたのだろう。凛はそう思った。
 だが、征貞は首を横に振った。
「俺は、お前を殺さねえ」
「……ゆき、さん?」
「人を喰いたいという妖狐の性がどうしても抑えられなくなったら……その時は、必ず俺のところへ来い。そして、俺を喰え」
 凛は絶句した。
「俺を喰え。凛」
 征貞はゆっくりと、もう一度繰り返した。
「俺も一応は修行を積んだ高位の術者だ。俺の肝を喰い、生き血を啜れば、俺の能力を取り込んでお前の妖力は格段に強くなる。なまじな陰陽師や坊主が太刀打ちできる相手じゃなくなる」
「そんな……。そ、そんなの、やだ。できるわけないよ……!」
 ふるふると凛は首を横に振った。
「あ、あたしに……あたしに、ゆきさんを食べろって……、殺せって言うの!?」
「そうだ」
 征貞は淡々とうなずいた。
「俺を喰って、強くなれ。誰にも負けねえくらい強くなって、そしてお前は生きのびるんだ。凛」
 できるはずがない。
 征貞は凛に「生きろ」と言ってくれた人だった。父も母も死んだ今、征貞だけが凛の存在を許してくれる人だった。
 その人を殺してまで、どうして生きていられるだろう。
「お前が人として、この社会で人と交わりながら生きていくか、それとも人ならざるものとして、その本性のままに生きるか、それはお前自身が決めることだ。お前が選んだ生き方を、他の誰も責める権利はねえ」
 征貞の大きな手が、凛の方をしっかりと掴んだ。深い湖のような征貞の目が、まっすぐに凛を映していた。
「どんな姿でいようとも、どんな生き様を選ぼうと、お前はお前だ。お前の心が望むとおりの道を往け」
 凛はこくりとうなずいた。――征貞が返事を待っていると、そう思ったから。
 このひとは、許してくれる。たとえ凛がどんな姿になっても、どれほど血に染まっても。征貞だけは、ありのままの凛を受け入れてくれる。
 だから。
 このひとを哀しませたくない。
 この男が、人間であるから。凛は、人間を殺したくないと、願った。このひとの同胞を、傷つけたくない。自分の同胞が殺されて、哀しまない命はいない。それは、どんな生命にもそなわっている、種の保全の本能だ。
「俺の命があるかぎり、必ずお前は俺が守る。決して、お前を死なせねえ」
 その誓いがあるから。
 その時から、征貞は、凛のすべてになった。
 彼がいるから、生きていける。
 彼の命を失わせないために、自分も生きてゆく。
 たとえ世界中の人間が凛に向かって、死ね、殺してやると喚いても。
 征貞がいるかぎり、生きていける。
「ゆきさんはあたしに、すべてをくれると言った。たとえあたしが《人喰らい》になっても、ゆきさんはあたしを裏切らない。命をかけて、誓ってくれた。……だからあたしも、ゆきさんのためなら、いつだって死んでかまわない。なにも怖くない。ゆきさんを守るためなら、飢え死にだってなんだって、できる」
 兵吾を見据え、凛ははっきりと言った。
 兵吾はなにも言わなかった。
 ただ、あふれ出す何かをぎりぎりと噛みつぶすように、かたく奥歯を噛みしめ、凛から目を逸らそうとしなかった。
 だが、やがて、
「あの男を守りたいなら、まずは生きてここを出ることだ」
 兵吾はふたたび、凛のほうへ手を伸ばした。
「な……ッ! だ、だめだって言ったじゃない! 今は抑えが効かないって――!!」
 凛は兵吾の手を振り払おうとした。けれどその動きは妙に鈍く、まるで思い通りに動かない。
 自分の手首をつかんだ、兵吾の手のひらの熱さ。彼の身体からあふれ出す精気に、めまいがする。
「やめて、お願い……っ!」
「あの男はいつも、お前に精気をわけてやっているんだろう」
「そ、それは……っ。ゆきさんは、だって、特別なんだよ!! 咒禁師として修行を積んで、今もつらい山籠もりとかして、力を蓄えてるから――」
 いや、この飢えを満たすほどの精気を一気に吸い取ってしまったら、たとえ征貞といえども、どうなるかわからない。
「俺は平気だ。お前のような仔狐に少々齧られた程度で、どうにかなるような柔な身体はしていない」
「ちがう――ちがう! そんなんじゃないってば!!」
 凛は必死に叫んだ。
「お願いだよ! あたしに人殺しをさせないでよっ!!」
「違うッ!!」
 兵吾も叫ぶ。はらわたの底から絞り出すように。
「俺は――俺も、人間じゃない!!」





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