一瞬、凛は声をなくした。
 茫然とする少女の目前で、兵吾は片手で目元をおおい、二、三度まばたきをした。
 そしてふたたび見開かれた瞳は、冷たいはしばみ色ではなく、深紅の血の色をしていた。
「あ、あんた……。あんた、その、目――」
「母から受け継いだ」
 兵吾は深く息を吸い、言った。
 淡々として、感情のこもらない声。だが、語尾がかすかにふるえている。
「母はドイツ北部、黒い森地方の出身で――一族は、人狼の血を引いていた。数代置きに先祖帰りする者が現れて……俺が、それに当たったんだ」
 唇の端から鋭い犬歯、いや、牙がぎらりと光る。
「俺も、《まじりもの》だ」
 絶望を吐き出すように、兵吾は言った。
「狗神……。あんたも、狗神なの――?」
「それはこの国土着のものの名だろう。俺は人狼だ。大陸狼と日本狼が違うように、俺をこの国の連中と一緒にするな」
「そう……なの――」
 兵吾の全身を濃く包み込んでいた硝煙と鉄の臭いが薄らいでいくと、たしかにそこには、狼の匂いがあった。
 古く、猛々しく、剛き、神々の末裔の姿だ。
 この《気》を隠すために、兵吾はあえていつも拳銃と弾丸を手放さなかったのかもしれない。狼の匂いを硝煙の臭いでごまかすために。文明に狎れた人間たちには到底気づかないことだろうが、凛のように《人ならざるもの》なら、必ずこの匂いを察知するはずだ。
「どうして……。どうしてあんた、あたしに正体を見せるの?」
 兵吾がなぜそこまでして、凛を助けようとするのだろう。今までは凛を殺すと言っていたのに。
「俺の――仲間のためだ。俺を大人しくさせておくために、人質になっていると言ったろう。お前が生きていたほうが、仲間を救い出す機会も多くなるはずだ。たとえば、あのいかれた化学者どもがお前を切り刻んで調べているうちに、俺一人がここから逃げ出すとかな」
「うん……」
 凛は一応うなずいた。けれど兵吾の説明は、何の信憑性もない、口から出任せにしか聞こえなかった。
「心配するな。ここを逃げ出したら、すぐにお前を殺してやる。お前の飼い主と一緒にな。死体は一緒の墓に埋めてやる。そのくらいの情けはかけてやるさ」
 兵吾は凛の手首を強く握りしめた。
「来い」
 今度は凛も、逆らわなかった。
 ただ一言、ぽつりとつぶやく。
「……狗神、怖い――」
「贅沢を言うな。飢え死にするよりマシだと思え」
 そして兵吾は、冷え切った少女の身体を腕の中に抱え込んだ。
「で、これからどうすればいいんだ。言っておくが、俺はこういうのはやったことがない。お前が勝手にどうにかしろ」
「うん……。手かざしでも口移しでもできるけど……。一番楽なのは、心臓と心臓をできるだけ近くに重ねるの……」
 兵吾の胸に抱かれ、凛はくったりと身体の力を抜いた。
 が、押し当てた肌に、硬く冷たい違和感を感じる。
「あんた……。もしかして、まだ銃の弾丸を持ってるの?」
「あ? ――ああ、これか」
 兵吾はくつろげたシャツの襟元から、細い金の鎖を引っ張り出した。その先にぶら下がっていたのは十字架ではなく、純銀の弾丸だった。
「安心しろ。これはお前らを撃つためのものじゃない」
 ひどく暗い、思いつめた目をして、兵吾は小さな銃弾を見つめた。
「これは、俺の自決用だ」
 凛は思わず口元を手で押さえ、驚愕の声を飲み込んだ。
「人狼の性が抑えきれなくなった時、自我をなくして人間たちを襲い出す前に、俺は迷わずこいつで自分の頭を吹っ飛ばす」
「な、なんで、そんなこと……!」
「人狼は化け物だ。人間との共存はあり得ない。――人間でなくなる前に、俺は死ななければならない」
 そんなことはない、と、凛は言ってしまいそうになった。征貞は凛に言った。人として生きるも、人ではなくなるも、それは凛の自由だ、と。どんな姿になっても、生きる権利があると。
 ……多分これが、兵吾の選択なのだ。人間でなくなったら、死を選ぶ。その兵吾の決意を否定する権利は、凛にはない。
 凛は黙って目を閉じた。そして、兵吾の胸にもたれかかる。
 兵吾の精気が、その生命が怒濤のように流れ込んでくる。
 その力は激流のように荒々しく強く、凛は息が詰まりそうだった。
 征貞から精気をわけてもらう時とは、まるで違う。兵吾が人狼の血を引いているせいなのか、それとも彼の魂がこれほど荒ぶるものだからなのか。
 凍えきった身体が一気に熱を帯び、火照り出す。くらくら目眩がする。
 征貞以外の――人間の男以外の精気を身体の中に取り込んだのは、初めてだ。まるで風邪で発熱しているみたいなこの火照りは、凛の身体が狗神の《気》を拒絶しているからかもしれない。
「おい、どうした。まさか俺の《気》を喰って、食あたりしたとでも言うんじゃないだろうな!」
「うん……。でも、それに近いかも――」
「いい加減なことを言うな。――おい、寝るな!」
 苛立たしそうに兵吾がどなる。
「ぐうたらしているひまはないぞ。――そら」
 顎で、唯一の扉を示す。
 そこから、荒っぽくノックの音がした。
 凛は顔をあげ、兵吾の胸元から身を起こした。
 ふらつく脚を踏みしめて、なんとか一人で立ち上がる。まだ少し目眩は感じるものの、どうにか自分の力で立っていられそうだ。
 妖狐の鋭い嗅覚は、まだ戻ってきていない。征貞の存在も、この建物の中にいるだろうとは思うけれど、それは凛の願望に近い。はっきりとそれを裏付ける感覚はなにもないのだ。
 これは体力の消耗だけではなく、すぐそばにこれだけ強く狗神の《気》を放つ兵吾がいるせいだろう。完全に鼻がばかになっている。粕谷邸の蔵から連れ出された時から感じていた疲労感、身体の不調は、兵吾のそばにいたせいだったわけだ。
 凛はすっかり汚れてしまった小振り袖の袂をはたき、袴の折り目を整える。
 兵吾も脱ぎ捨てた上着を拾い、ふたたび袖を通した。
 鉄製の扉が開き、鈍く光る銃口が二人に向けられる。
「出ろ」
 扉の外には、白衣姿の男たちだった。本当なら似合うはずもない銃が、彼らの手にはしっくりと馴染んでいる。
「私の兄弟たちはどこだ」
 男たちを睨み、兵吾は言った。
「答える義務はない」
「私のコートと銃を返せ。あれはこの国では手に入らない特別なものだ」
「うるさい! 命じているのはこちらだ! 仲間に危害を及ぼしたくないなら、我々を怒らせないことだ」
 先頭に立つ男が、銃口でこっちへ来いと指示をする。
 凛はちらっと兵吾の様子をたしかめた。
 兵吾は、人質をとられているせいなのか、黙ってその指示に従った。
 凛もそのあとに続き、半地下の暗い部屋を出た。
 白衣の男たちに周囲を取り囲まれ、長い廊下を歩き出す。廊下にはところどころに小さな白熱灯の明かりがあるだけで、かなり暗い。ずっと暗い部屋にいた凛や兵吾はあまり気にならないが、男たちの中には別にカンテラを灯している者もいた。
 いや、兵吾も不自由なく歩ける理由は違うようだ。
「この目に戻すと、俺は、通常の視力はほとんどなくなるんだ」
 ぼそっと、凛にのみ聞こえるよう、ささやく。
 この目とは、深紅の狗神の目。今、兵吾は、狗神の力のみで周囲の様子をすべて察知しているらしい。
 どのくらい歩かされただろうか。長いと感じたのは、胸いっぱいに不安を抱えているせいで、実際はそれほどでもなかったかもしれない。
 やがて階段の前で、一行は立ち止まった。
 凛は、階段をあがれと命じられた。白衣の男が二人、拳銃をかまえながら凛の後ろを歩く。
 が、兵吾はそのまま廊下をさらに奥へ進むよう命じられた。
 兵吾とも離されて本当に一人きりになってしまったことに、凛は凍えるような不安を覚えた。
 けして兵吾を信頼しているわけではないが――できるはずがない。ここを出たら真っ先に自分たちを殺すと宣言している男だ――彼はこの場でただ一人、凛と同じ立場にいる者だった。
 同じく囚われの身であり、同じく、人間ではないもの。
「早く歩け!」
 暗い廊下の奥に消えていく兵吾をじっと見つめていると、白衣の化学者が乱暴に凛を小突いた。
 凛は唇を噛みしめ、苦痛の声を飲み込んだ。こんな連中に、絶対に弱味など見せたくなかった。
 ふらつかないよう懸命に足を踏みしめ、階段をのぼっていく。
 何度か踊り場を抜け、長い階段をのぼりつめた先に、金属製の扉があった。細い隙間から白く、人工の光が漏れている。
 扉が開いた瞬間、目を刺すような光に、凛は思わず顔をそむけた。
「遅かったな」
 聞き覚えのある声がした。
 扉の奥の小部屋へ入り、凛は小さく息を呑んだ。
「……大浦さん――」
 大浦は周囲の男たちと同じく、薬品の臭いがしみついた白衣を着ていた。その姿にはぎこちなさはまったくない。これが本当の彼なのだろう。
「……月絵さんが、死んだよ」
「ああ、そうか。それは残念だった」
 眉ひとつ動かさず、大浦は言った。
「彼女にはもう少し試してみたい事項もあったんだが、まあ、死んでしまったものはしょうがない。これ以上実験を進めて手に負えなくなるより、その前に始末がついて、かえって都合が良かったのかもしれん」
 冷酷な返事も、大浦の白衣姿を見た瞬間になかば予想がついていたものだった。
 小部屋は壁の一面が大きな窓になっていて、その向こうにある大きな部屋が見渡せる。窓の向こうは地下まで吹き抜けのようになっているらしい。
 部屋の隅には、兵吾の仲間たち、対人狼部隊の生き残りたちがひとまとめに縄で縛られ、座らされていた。
「清巳はどうした? あいつも死んだのか?」
 凛はもう返事もしなかった。
 代わりに、凛を連れてきた化学者の一人がうなずく。
「多分、死んだろう。確認はしていないが、狼形態の穂高に喉を喰い千切られていた。あの状態で生きていたら、それこそたいしたものだ」
「そうか。まあいい。この実験が成功すれば、もう粕谷財閥から資金提供を受ける必要もなくなる。あんなうらなりの若旦那にへいこらする必要も、もうないんだ」
「大変だったな、大浦。この研究が公にできない間は、お前は粕谷財閥の社員という形で、清巳のご機嫌をうかがい、資金調達をしていたんだからな」
「ああ。もうその苦労も完全に終わりだ。当のお坊ちゃんが死んでくれたおかげでな」
 大浦は軽く肩をすくめ、自分が書いた記録を仲間たちに見せた。
「人間を人狼化させる血清はすでに完成している。あとはその効果をいかに安定させるか、だ。だが、その方策もすでに見当はついたぞ。見ろ、すばらしいデータだ。あの男を詳しく調べれば、必ず有効な血清や体内組織が見つかるはずだ」
「ほう、これはすごい! 三〇体以上の人狼兵士を、たった一人で!」
「いっそあの男を基礎にして、人狼兵士に改造したほうが良いんじゃないのか!?」
 化学者たちは一斉に窓ガラスにへばりつき、期待を込めた目で階下を見下ろした。
「だが、あいつを人狼にしてしまったら、人狼強化に必要な肝臓や血液が採取できなくなる。ジレンマだな」
「それは、もう一人から採取すればいいさ。あの金髪が、咒禁師と同じ程度の戦闘能力を呈示してくれれば良いんだがな」
 ……金髪? 咒禁師?
 凛は、自分を押さえていた化学者の手を振り払い、窓際に駆け寄った。
 他の化学者たちを押しのけるようにして、ガラスの向こうを確かめる。
「……ゆきさん!」
 そこには、征貞がいた。
 さきほど、研究所の外で凛たちを襲った人狼の出来損ない、あの醜い化け物の死体が、征貞の回りに折り重なるように倒れている。その数さえわからないほど、たくさん。
 屍山血河の中に、征貞は独り、立っていた。
 片肌脱ぎになった着物は、もはやもとの色目もわからない。左袖も大きく引きちぎられ、怪我をしているのか、その手首からはぼたぼたと鮮血がしたたっている。無論、傷はそれ一つだけではないだろう。
 征貞の得物である三ツ折れ短槍も、人狼の牙を受け止めたためか、湾曲していた。
 肩で大きく息をつき、殺戮の惨状の中で、まるで悪鬼のような姿をして。
 それでも。
「良かった……。ゆきさん、生きてた……っ!」
 凛はとっさに、窓ガラスを手のひらで叩いた。
「ゆきさんっ! ゆきさん、ゆきさんっ!!」
 割れんばかりにガラスを叩き、何度も征貞の名前を叫ぶ。
「やめろ! この小娘! 窓を壊す気か!」
「いい。声を聴かせてやれ」
 凛を殴ろうとした化学者を、大浦が止めた。
 凛の襟首を掴み、その顔が歪むほど強く窓に押しつける。
「見ろ、咒禁師!」
 大浦は階下に向かって声を張り上げた。
「お前が飼っている狐の小娘が、ここにいるぞ!」
 征貞がようやく顔をあげた。
 その目が、たしかに凛の姿を捉える。
 征貞の目にわずかに安堵の色がよぎるのを、凛は見た。
 けれど征貞はなにも言わなかった。ただ、呼吸に合わせて大きく肩が上下している。もう口をきくのもつらいほど、疲弊しているのかもしれない。
 凛は唇を噛みしめ、懸命に声を飲み込んだ。
 今、ここで凛が泣きわめいても、征貞には何の助けにもならない。返って彼の重荷になるだけだ。
 だから、我慢しなければ。傷つき、ぼろぼろになった征貞の姿に、どんなに泣きたくても、叫びたくても。彼によけいな迷いを与えてはいけない。
 もう逃げて、と、胸の奥で何度も繰り返す。もう逃げて。あたしのことなんかほうっておいて、ゆきさん、逃げて。
 そんなにぼろぼろになるまで闘ってくれたのに、もうこれ以上、あたしのために傷ついてくれなくて、いいから。
 逃げて――生きて。
 あふれ出す思いは、ただ涙になってこぼれ落ちるばかりだった。
 やがて征貞の後ろで、扉が開いた。
 もう独り、黒っぽい背の高い姿が、地獄絵図の中へ進み出てくる。やはりインバネスコートはまだ返してもらえていないようだ。
「それから、ヴァチカンの魔術師! お前の仲間もここにいる。少々薄汚くなってはいるが、命に別状はない」
「俺は、魔術師ではない! 対人狼部隊の戦闘員だ――修道騎士だ!」
 兵吾が怒鳴り返す。が、それを大浦は鼻先で嘲笑った。
「騎士でも武士でも、なんでもいい。とにかくお前も、普通の人間ではないそうだな。清巳がそう言っていた」
 化学者たちが対人狼部隊の生き残りたちを引きずり、窓際に並ばせる。
「おのおの、自分の同胞が大切ならば、我々の指示に従え」
 窓を開け、そこから身を乗り出して、大浦は眼下の二人に命じた。
「お前たち二人で殺し合え」
 勝ち誇るように、大浦は笑った。
「お前たちは蟲毒の瓶の最後の二匹だ。どちらか生き残ったほうから、人造人狼の機能を強化・安定させるための生体臓器を摘出する。無論、勝ったほうの人質は無事に解放してやる。我々に必要なのは、お前たち二人だけだ。雑魚が何人いようとも、有効な研究成果は得られない。――ああそれから、勝っても相手にとどめは入れるなよ。負けたほうは既存の血清を使って、人狼兵士に改造する。本物の人狼から生成した血清とはいえ、さすがに死体を生き返らせる力はないからな。なにか、質問は?」
 階下の二人はなにも言わなかった。
 征貞の瞳は幽鬼のように昏く、けれどその奥に煮えたぎるような怒りを秘めている。
 兵吾も、まるで感情を感じさせない鉄面皮だった。
「おい金髪。素手では分が悪いだろう。武器を用意してやる。何がいい」
「俺の銃を返せ。二丁ともだ」
「それはできない。飛び道具じゃ、今度は相手が不利になりすぎる」
 兵吾は一瞬、不愉快そうに黙り込み、そして声を張り上げた。
「――サーベル!」
 その要求に、化学者の独りが小部屋を離れ、すぐに一振りのサーベルを持ってきた。対人狼部隊の誰かが携行していたものを取り上げてあったらしい。
 開いた窓から、サーベルが投げ落とされる。
 兵吾はその剣を左手でぱっと掴んだ。
 それが、戦闘開始の合図になった。
 細身の剣を、兵吾が真横に振り抜く。
 征貞は間一髪後ろへ跳び、その切っ先をかわした。
 間髪入れず、兵吾がサーベルをふるう。攻め立てる。
 征貞は巧妙にその剣先を見切り、最小限の動きのみで兵吾の斬り込みをかわし続ける。
 が、兵吾がじりじりと間合いを詰めていく。征貞を壁際に追い込もうとする。
 兵吾がわずかに足を滑らせた。床に散らばる人狼のはらわたを踏みつけたのだ。
 その瞬間、征貞が攻勢に転じた。
「斉ィあッ!!」
 裂帛の気合いとともに、短槍が稲妻のように繰り出される。
 兵吾はその穂先を、サーベルの刃ではなく柄のガードで受け止めた。渾身の力ではじき飛ばす。
 崩れた体勢を無理に立て直そうとはせず、兵吾はそのまま横へ転がった。受け身をとって、すぐさま立ち上がる。
 その左手には、征貞の短槍が抉った傷が大きく口を開けていた。鮮血がほとばしる。
 征貞の顔面にも、兵吾のサーベルが切り裂いた鋭い傷があった。
 金属が火花を散らしてぶつかりあう、甲高い響き。二人の荒い息づかいが、広く暗い空間に満ちた。
「今のところ、互角か?」
「いや、よく見ろ。咒禁師が押されてるぞ」
 化学者どもの見解どおり、次第に征貞のほうが劣勢になりつつある。
 ――あたりまえだ。
 凛は、血が吹き出るほど強く唇を噛んだ。
 狗神の《気》の中で、時間の感覚さえはっきりしない。けれどあそこに倒れている人造人狼たちすべてを征貞が斃したのだとしたら、征貞はどれほど長時間、闘い続けているのだろう。
 まして、今、征貞が対峙している相手は、あんな出来損ないなんかではない。海の向こうから渡ってきた、本物の人狼なのだ。
「すばらしい。両方ともすばらしい実験体になるぞ」
「こうなると、穂高を失ったのはやはり痛かったな。あいつからはまだ、相当量の天然人狼の血清が採取できたはずだ」
「しかし、過度の薬物投与で、あいつの精神状態はもう修復不可能だったろう。しかたないさ。なに、天然の人狼を失っても、我々の手でそれを凌駕する人狼兵士を造り上げればいいだけだ」
 兵吾の刃が疾風のようにひるがえる。そのたびに、征貞の肩に、腕に、鮮血が散った。
 額を斬りつけられたのか、流れ落ちる血で右目がふさがれている。
 人造人狼との闘いから引き続き、もう征貞の身体には無傷の部位など残っていない。
「ゆきさん……!」
 ついに、言葉があふれてしまった。
「ゆきさん、もうやめて!!」
 凛は叫んだ。
「無理だよ、ゆきさん! そいつには絶対勝てない!」
 少女の声に、二人の男は天井近くを振り仰ぐ。
「もうやめて、逃げて! あたしのことなんか、どうでもいいから! ゆきさんだけは逃げてよッ!!」
「うるせえ、黙れ、凛ッ!」
 征貞が怒鳴った。腹の底までびんと響く声だ。
「わめくな、気が散る! 黙って見てろ!!」
「ゆきさん……っ」
 凛は両手を窓ガラスに叩きつけた。
 こんなに近くに征貞がいるのに、ぼろぼろに傷つきながら闘っているのに、自分はなにもできない。彼の名前を叫ぶことさえ。
「おやおや。これは勇ましいことだ」
 大浦がせせら笑う。
「修行を積んだ術者というのも、気の毒なものだ。どんなに追いつめられても、虚勢を張らねば体面が保てない。自分からはけして敗北を認められない、弱音の一つもこぼせないというのは、さぞつらいだろうな」
 凛はもう、その言葉を否定しようとはしなかった。
 もはや言葉はなんの役割も果たさない。征貞の意志はすでに決まっている。
「あんたたち……殺されるよ」
 ぽつりと、凛はつぶやいた。
「覚悟したほうがいい。ゆきさんは絶対に、あんたたちを許さない」
 涙のにじむ大きな目で、凛は化学者どもをまっすぐに見据えた。
 生きとし生けるもののなかで、もっとも重い罪は、己れの仲間を殺すこと。同胞殺しだ。命は、他の命を喰わねば生きてゆかれない。だからこそ己れと近しいもの、己れの同胞は殺さない。それが命の理だ。
 けれど時には、己れの生存本能が、仲間を殺せと命じることがある。たとえば極限状態の飢餓、たとえば己れの直系子孫を守るため。
 それゆえなら、征貞はけしてその同胞殺しを責めないだろう。生きるために精一杯足掻いて、足掻いての罪ならば、きっと、自分にそれを裁く権利はないと言うはずだ。
 だが、生きるためでも、喰らうためでもなく、ただ愚かしく命の尊厳を弄び、踏みにじる者を。
 咒禁師・各務征貞は、けして赦さない。
 ――信じよう。
 凛は繰り返し、自分に言い聞かせた。
 信じるんだ、ゆきさんを。
 ゆきさんは敗けない。こんな、人の皮をかぶった化け物どもなんかに、絶対に敗けない――!!
 兵吾の刃が、次第に征貞を追いつめていく。
 兵吾はサーベルを目の高さで水平に寝かせ、刺突の構えを取った。
 横殴りの雹のように繰り出される剣に、征貞の防御が崩される。
 がくりと征貞の膝が崩れた。
「そうだ、殺せ! 殺せッ!!」
 大浦が絶叫した。
 その瞬間。
 銃声がとどろいた。
 大浦の後頭部から眉間へ貫通した弾丸は、前方の窓ガラスにぶちあたり、一瞬にして蜘蛛の巣状のひび割れを刻んだ。
 黒縁の眼鏡が吹っ飛び、床に落ちた。
 血と脳漿を噴き出しながら、大浦の身体がぐらりと倒れる。ひび割れたガラスに頭から突っ込み、その衝撃で窓ガラスはこなごなに砕け散った。
 白衣に包まれた身体が、地下フロアまで真っ逆様に落下していく。
 沈黙の中、ぐしゃりと嫌な音をたてて、大浦の身体は硬い床に叩きつけられた。砕けた頭蓋から濁った血潮が流れ出し、人造人狼の血液と音もなく混じり合っていった。
 ふたたび、二発。三発。続けざまに銃声がとどろく。
「ぎゃッ!」
「ぐあぁっ!!」
 短い悲鳴があがり、そのたびに白衣の化学者たちが胸や頭を撃ち抜かれ、床に倒れ込んだ。息が詰まるほど濃く、硝煙の臭いが立ち込める。
「――思い知ったか」
 白衣の男たちが一人残らず動かなくなってから、ようやく、吐き捨てるような声がした。
「ここは私の研究所だ。粕谷財閥は私のものだ。もうこれ以上、お前ら軍属の好き勝手にはさせないからな!」
 その姿に、凛は絶句した。
 同じく、人質になっていた対人狼部隊たちも、驚愕の表情を浮かべた。短い悲鳴をあげる者すらいた。
 首から下は、衣服の色もわからないほど血に染まっている。しかもその血はすでに乾き始め、煉瓦のような黒ずんだ赤茶色に変わり始めていた。
 手に握られた、大きなライフル銃。まだ銃口から白く細い煙をあげている。
 青白い肌、汗に濡れて額に貼り付いた前髪。薄く、どこか爬虫類めいて血の気のない唇。それは間違いなく、粕谷清巳だった。





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