「だって、ゆきさん!」
征貞は、黙っていろ、と、小さく首を横に振った。
そして店主へ向かい、
「まあ、供養だけは念入りにしてやることだ。この離れを取り壊したら、せめて小せぇ祠
(ほこら)
でも建ててやんな。でねえと、第二第三の若駒太夫が出るかもしれんぜ。そうなったらもう、俺でも手に負えん」
「はい、承知いたしました」
店主はうなずいたが、憤懣やるかたないといった表情は隠しきれない。
吉原で死んだ女郎は、三ノ輪の浄閑寺、通称投げ込み寺に放り込まれてそれっきり、というのが、旧幕時代からのしきたりなのだ。
「それと――あれは、どうにかならねえか」
征貞はふと、庭を囲む黒板塀の外へ目を向けた。
「あれ、とおっしゃいますと、先生……」
「この街を囲む、あの堀だ」
吉原は街の外十里四方を、ぐるりと幅二間
(にけん)
の深い水堀、通称おはぐろ溝で囲まれていた。まるで小さな島のように、完全に周囲から切り離された区画なのだ。
「吉原はもともと、女の恨みつらみでできあがっているような街だ。そういう良くねえ《気》を、あの堀が全部堰き止めて、内に閉じこめちまってる。結界張ってるようなもんだ。できればあの堀は、全部埋めちまったほうがいいんだがな」
「それはちょっと、できかねますなあ。アタシ一人の一存でどうにかなるもんでもございませんし、まあ、貸座敷組合の連中はこぞって反対しますでしょうなあ」
店主はにやにやと嫌な笑い方をした。
「あの堀は、女郎の足抜けを防ぐためのものなんで。吉原には、なくてはならぬものでございますよ」
事実、大正十二年の関東大震災では、火災で逃げ場をなくした女郎たちが次々に堀へ飛び込み、大勢溺死した。この悲惨な出来事があってようやく、吉原を囲む堀はすべて埋め立てられたのだ。吉原のシンボルである大門もこの時に焼失し、以来、再建されなかった。
「お前ら、なにを遊んでいやがる! 店を開けるぞ、さっさと仕事しねえかい!」
店主は、廊下の隅や庭の端からのぞき見している従業員や女郎たちに怒鳴り散らす。そして、まだ興味津々の連中を追い立てながら、母屋へ戻っていった。
「これで全部……っと」
母屋と離れを結ぶ渡り廊下に張った札をすべて剥がし、凛はふうっとため息をついた。
最後の仕上げに浄めの塩を撒いている征貞にとことこと近づき、その袖を引く。
「ゆきさん、ゆきさん」
「どうした、凛」
「うん……」
凛はうつむいた。
そうやってかたわらに立つと、小柄な凛は征貞の胸ほどの背丈だ。影さえ、征貞の影の中にすっぽりと隠れてしまう。
「あたし、ここにはあんまり居たくない」
征貞の絣の袖に両手でそっとつかまり、強い腕にこつんと頭をもたせかける。
今、こうしているだけでも、女たちの嘆く声が凛の耳に響いている。生きている者、死んだ者、みな、汚泥の中でもがき苦しみ、すすり泣いている。
その声に、胸が締め付けられるようだ。
征貞はそんな凛の手を、けして振り払わなかった。黙って、凛のしたいようにさせてくれる。
彫りの深い顔立ちには、さすがに少し疲労の色がにじんでいる。
じゃきじゃきと鋏の音が聞こえそうなほど無造作に短くした髪は、手入れも悪く、まるで明治初期のざんぎり頭のようだ。流行のモダンボォイなんかとは全然違う。眉はくっきりと濃く、うっすらと無精髭の浮いた頬には、怨霊の爪が切り裂いたのか、まだ血のにじむ傷があった。
けれど征貞の表情には、微塵の迷いも悔いもない。力に満ちた目をして、まっすぐに前を見据えている。
その瞳を見ていると、手足を芯まで凍えさせるようだった凛の不安が、少しずつ薄れていく。
怨霊の嘆きは彼にもきっと聞こえているはずだ。それでも征貞は怖れない。それを、この世に在りもしないものとして黙殺するのではなく、その怒りも悲しみも、あるがままに受け入れてなお、揺るがない。
この人のそばにいるだけで、自分は生きていけると思うのだ。
「凛。――影」
ふと、征貞が小声でささやいた。
「え?」
征貞が示す床の上を見ると、そこには征貞と凛の影法師が並んで伸びていた。
が、凛の影には、人間にはあり得ないものがついていた。
頭部の左右にひとつずつ、大きなけものの耳が生えている。
「あっ!」
凛は反射的に、頭の上に手をやった。
そこにはなにもない。黒くつややかな髪が、形良く小さな頭を包んでいるだけだ。
だがよく見れば、凛の影には腰の後ろにも大きな尻尾が揺れている。
「最後まで気ぃ抜くな。誰が見ているとも限らねえんだぞ」
「うん、ごめんなさい」
征貞が凛の頭上に手をかざすと、影法師に生えたけものの耳と尻尾はぱっと消えた。廊下に映っているのは、オイルランプの灯りに揺れるごくあたりまえの少女の影だけになる。
「もうちょっと待て。今、蓮司が礼金を受け取ってくるから」
「うん……」
その時、
「先生。――修験者
(しゅげんざ)
の先生」
優しい声に、征貞と凛は振り返った。
店の者がみな仕事に向かった後でも、小紫は一人、渡り廊下の隅に立ったままだった。
「ねえ先生。さっきの……、若駒のお姐
(ねえ)
さんが抱っこしてた赤ちゃんって……」
「ああ。若駒太夫の、水子にされた赤ん坊だ。こいつが、賽の河原まで降りていって見つけてきたんだ」
征貞は腕組みし、顎で凛を示した。
「こいつはちょっと特別でな。この世とあの世を行き来できるんだ」
まだ不安げな小紫に、征貞はまっすぐに彼女を見つめ、力強くうなずく。
「もう大丈夫だ。花魁は、逝くべきところへ逝ったんだ。可愛い赤ん坊といっしょにな。今は二人、きれいであったけえところで、しあわせになってるぜ」
「そっか。赤ちゃんと二人で……。良かった。お姐さん、赤ちゃんを殺されちまったって、ずっと泣いてたから……」
そして小紫は、少し身を屈めるようにして、凛の顔をのぞき込んだ。
「お嬢ちゃんにもお礼言わなくちゃね。ありがとう」
優しく声をかけられても、凛はまともに返事もできなかった。誉められたのが恥ずかしくて、きれいな小紫に見つめられるのがなんだかとても居心地悪くて、つい、征貞の後ろに隠れてしまう。
「おい。なにやってる、凛。人見知りするような年令
(とし)
でもねえだろう」
「いいんですよ、先生」
やがて小紫は、ふと二人に背中を向け、袂で目頭を押さえた。
「ごめんなさい。いやだ、あたしったらみっともない――」
「いいや」
征貞はかすかに微笑み、低い声で言った。
「それでいい。今は泣いて、喜んでやってくれ。離ればなれだった母子が、やっと巡り逢えたんだ。残された者たちも、それを嬉しいと思ってやることが、一番の供養だ」
「……先生」
黒目がちの小紫の瞳がうるみ、ぽろっと涙がこぼれる。小紫は両手を合わせ、征貞を拝んだ。
「おいおい、よしてくれ。俺ぁ仏様じゃねえよ」
「でも、だって先生」
「その先生ってのも勘弁してくれ。俺は、ただの咒禁師だ」
照れたのか、いささか困惑の表情を見せる征貞に、小紫がくすっと小さく笑った。
「でもやっぱり、あたしにとっては先生ですよ。若駒のお姐さんを助けてくださった、大事な先生」
――凛はなんだか、だんだん腹が立ってきた。
小紫太夫はきれいな女郎だ。笑みもしぐさも優しくて、話し声は少し低く、耳に快い。これならお職を張るのも当然だろう。
「若駒のお姐さんは、豆どん
(女郎見習いの少女)
だったあたしに、とっても優しくしてくれて……。あたしも、本当に血のつながった姉さんみたいに思ってました。だから……あの事件のあと、お姐さんが成仏できずにまだお店に取り憑いてるってわかった時は、怖いとか、気味が悪いとかって言うんじゃなくて、ただ……お姐さんが可哀想で、可哀想で……っ!」
死んだ花魁をそんなふうに慕っていたのなら、大切な人の魂を救ってくれた征貞を、思わず拝んでしまうのも、良くわかる。
でも。
「ねえ、先生。どうか今夜は、あたしの部屋へ泊まっていって下さいな」
小紫は、まだ涙の残る目ですがりつくように征貞を見上げた。
「だがお前、今日は公休日だって――」
「あんなの、うそですよ。お姐さんのことが心配で、のほほんと客の相手なんかしてられなかったんです」
「気持ちはありがてえが、俺もいろいろと閑じゃねえんだ。悪いが――」
「そんな、先生! 今夜一晩くらい……」
征貞の手を握ろうとして、だが小紫は、はっと気づいたように慌てて手を引っ込めた。
「あ! それとも先生、お坊さまだから……。そうですよね。女郎のお接待なんて、ご迷惑ですよね?」
「いいや。俺は僧侶や神職じゃねえよ」
征貞は首を横に振った。
「俺はたしかに、真言密教、修験道の流れを汲む術者――咒禁師だが、本山派
(熊野山伏)
には属していない。まあ、当山派
(真言醍醐寺を中心とする回国修験者)
に近いが……。俺のお師匠にあたる方は、明治維新の神仏判然令の時に、御山に帰属せずにそのまま野に下った人だった。だから俺も出家の身じゃない。飲食などにもほとんど禁忌はないんだ。酒も煙草も飲
(や)
るぜ」
――己のみが深山幽谷で孤高の悟りを保っても、人の声は聞こえてこない。人とともにあり、人と交わってこそ、その中に隠れるもっとも弱き声、かそけき声が聞こえてくる。征貞が彼の師から受け継いだという信念を、凛も折に触れ聞いたことがある。
「まあ……」
小紫は嬉しそうに微笑み、あらためて征貞の手を取った。征貞の骨張った指に、子供みたいに自分の指を絡める。
「じゃあお願い。今夜だけでも、泊まっていって下さいな。あたし、女郎だから、これしかお礼ができないんです……」
――なんで、こうなる。
凛は、唇をへの字にひん曲げた。
征貞は、何故か女にもてる。このむさ苦しい外見、無愛想な態度にも拘わらず。
いや、何故なのかは、凛にもわかっている。
……ゆきさんは、優しいから。
それも、社会の底辺で虐げられている者たち、もっとも弱い立場の者たちに、征貞は限りなく優しい。自分の力の限りを尽くして、彼らを救おうと手を差し伸べる。
あの花魁の幽霊だって、征貞はけして力ずくで祓おうとはしなかった。おそらく征貞なら、それも可能だったはずだ。現世に戻れないよう地獄の辺土にたたき落とす、あるいは呪物を用意してその中に封じ込め、地中深く埋めてしまうなど、力任せの方法はいくらでもある。
だが征貞は、そうはしなかった。哀れな女の魂が本当に求めていたものを見つけて、その恨みを解き放ち、幸福に旅立たせてやったのだ。
牛馬、あるいはそれ以下の扱いしかされない苦界の女たちに、征貞だけは、一人の人間、自分と同じ存在として、きちんと正面から向き合ってくれる。
征貞に惚れる女たちはみな、その優しさに惹かれているのだ。
……だからあたしも、ゆきさんのそばに置いてもらってるんだけど。
でも。
「ゆきさん」
ぶすったれた声で、凛は征貞を呼んだ。
「ゆきさん。ねえ、ゆきさんってば」
絣の袖をつんつん引いても、征貞は振り向きもしない。
「あたし、今までお姐さんや朋輩たちが、なんであんなに間夫
(まぶ:女郎の恋人、ひも)
に入れあげるのか、わからなかった。男なんてみんなおんなじ、あたしらを食い物にすることしか考えてないじゃないかって……。でも、今ようやく、みんなの気持ちがわかりました」
「小紫」
「先生みたいな男なら、あたしも間夫にしてみたい。――いいえ、先生。あたしの……!」
「ゆきさんッ! ゆきさん、ゆきさんってば!」
ついに凛は、征貞の手を掴み、その甲に爪をたてて思いきりつねった。
「あ痛えッ!? な、なにしやがる、凛!?」
「もう帰ろう! ほら、蓮司さんが礼金持ってきてくれたよ!」
凛が示した母屋の戸口では、茄子紺色の派手な着流し姿の若者が、よう、と軽く手をあげていた。その手には白い封筒がある。
「あらまあ。そういうことですか」
「なんだ。何が『そういうこと』なんだ」
凛の視線を優しい表情で受け止めて、小紫は意味ありげにふふっと笑った。
「大丈夫。お嬢ちゃんの大事な男、盗りゃあしないから」
「莫迦言え、小紫。こんな小娘……」
「あら先生。ちいちゃくたって、女は女ですよ。――ねえ?」
小首を傾げて笑いかける小紫に、凛は答えることができなかった。目を伏せて、茱萸みたいに紅い唇を、きゅっと噛む。
「あーあ、残念。あたし、本気で先生のこと、間夫にしたいって思ったのに」
「なんだい姐さん、間夫を探してんのかい?」
蓮司が話に割り込んで来た。
「だったら俺、どうよ? こんなむさ苦しいクマ公より、ずっと美い男だろ?」
自分で言うとおり、蓮司はすらりと背の高い優男だ。髪を女のように長く伸ばし、うなじで一つにくくっている。そして春だというのになぜか、薄手の襟巻きを首元に飾っていた。
「いやァよ、蓮ちゃんなんか。女衒なんか間夫にしたら、どこに売ッ飛ばされるか、わかりゃしない」
「ひでぇなあ。そりゃたしかに、俺ぁ女衒だけどさあ」
小紫は軽くため息をつき、蓮司の横を素通りして、母屋へ向かって歩き出した。
「それじゃあ先生、おやすみなさい」
「ああ。お前も一晩くらいゆっくり休め」
母屋への引き戸を開けようとして、小紫はふと振り返った。
「そうだ。お帰りでしたら、人力車か円タク、呼びましょうか?」
「いや、いらねえよ。そんなに遠かぁねえし、歩いていける」
軽く手を振る征貞に、小紫は眉をひそめた。
「でも先生。近頃はいろいろと物騒ですよ。ついこないだだって、柳原の土手で人殺しがあったし、それに、ほら……」
気丈な表情に、怯えの色がにじむ。
「蓮ちゃんだって、知ってるでしょ? 例のうわさ――」
「ああ、あれかい? 帝都に西欧渡りの化け物が出るって、あのうわさ」
蓮司は気楽そうにけらけら笑った。
「バカでかい狼が人間に化けて、手当たり次第に通行人を襲って食い殺すってんだろ?やだねえ、姐さん。そんなん信じてんのかい? 赤新聞の読み過ぎだぜ」
「だって――。あたしのお客の中にも、狼の遠吠えを聞いたって人、何人もいるのよ」
「犬だってサカリがつきゃあ、一晩中吠えまくるさ」
デマだよ、と、蓮司はぱたぱた手を振った。
「だいたい人に化けて男をたぶらかすってったら、狐か狸と相場が決まってらぁな。なあ、凛ちゃん?」
「え……っ」
いきなり名前を呼ばれて、凛はびくっと小さく肩をふるわせた。
「日本の狼は、明治三八年に絶滅した」
低く、少し錆びた、耳に心地よい声で征貞が言った。
「それに、狼が意味もなく人間を襲うという話も、俺には信じられんな。昔から山では、狼は神聖な動物、神の使いとして敬われてきた。農耕神、火除けの神として狼を祀る神社も少なくない。狼を害獣として目の敵にし始めたのは、維新以降のことだ」
「だから、西欧から来た化け物だろうって言われてんじゃないですか。あっちの化け狼は、見境なしに人間を食い殺すらしいって……」
「姐さん、取り越し苦労だよ。見ただろ? 旦那の能力をさ」
蓮司がにやりと笑う。
「だいたいこんなクマ公、狼どころか本物の熊と出くわしたって、熊のほうが肝つぶして逃げ出しちまうよ」
「どうした、凛。なにむくれてやがる」
「べつに……。むくれてなんか、ない」
夜の街を歩きながら、凛はこつん、と石を蹴った。
「凛」
征貞は凛の手をつかみ、ぐいと自分のほうへ引き寄せた。
吉原大門へ続く五十軒町は、夜が更けてもかなりの人出でにぎわっていた。気をつけていないと、行き交う人と肩がぶつかってしまいそうだ。
まして小柄な凛は酔漢たちの視野にも入らず、突き飛ばされて転んでしまいかねない。
「ちゃんと前見て歩け」
「あい。ごめんなさい」
征貞の手が離れる。凛は彼の速度に合わせて、精一杯の早足で歩き出した。
「ああ、そろそろ一〇時か」
懐中時計を確かめ、征貞は独り言のようにつぶやいた。
夜一〇時には、吉原の唯一の出入り口である大門が閉ざされる建て前だ。現実には、閉まるのは深夜十二時であるが。そうなると、翌日の午後二時に昼見世
(ひるみせ)
が開くまで、一般客は吉原に入ることはできない。江戸初期、日本橋人形町付近に旧吉原が開かれてからの伝統だ。
これはおはぐろ溝と同じく、吉原を現世とは隔絶された別天地と見せる演出であるとともに、女郎たちが逃亡するのを防ぐためでもある。明治、大正と御代が移り変わり、ありんす言葉はほぼ消えてしまったが、女郎を縛り付ける有形無形の鎖だけは、今も強固に残されているのだ。
大門が閉まる前に廓内へ駆け込もうとする者。反対に、慌てて帰路に着くひやかしの客たち。
その喧噪の中を、征貞と凛は浅草のほうへ向かって、黙って歩いていった。
浅草は、五区のあたりが奥山と呼ばれていた江戸時代から見せ物小屋や芝居小屋が立ち並び、庶民の娯楽の中心だった。明治以降も六区を中心に一大歓楽街として発展し、中でも明治二三年に完成した凌雲閣
(りょううんかく)
、通称十二階は、浅草のランドマークとして絶大な人気を誇っていた。
道路は大型自動車や路面電車の往来に耐えられるよう舗装され、道幅も広げられた。その両側にはずらりと電柱が立ち並ぶ。電線が網の目のように張り巡らされた空は、なんだか息苦しそうだと、いつも凛は思っていた。
古くからの家屋は次々に取り壊され、防火にすぐれた煉瓦や石材、モルタルなどを用いた洋風建築に変わっていく。
「やっぱり、円タクでも頼みゃあ良かったか」
暗い足元を眺め、征貞はぼそっと言った。
五十軒道を抜けると、あたりはいきなり暗くなる。喧噪は風に乗って聞こえてくるが、不夜城・吉原の灯火も、もうここまでは届かない。
頼りなげな月明かりに照らされて、二人の影法師だけが埃っぽい地面に伸びていた。
「遅せえぞ、凛。疲れたなら疲れたと言え」
大股でさっさと歩く征貞から、凛はどうしても遅れがちになる。何度か立ち止まり、苛立ったように振り返る征貞に、凛はけれど首を横に振った。
「ううん、平気。歩けるよ」
今はこうして歩いていたい。口には出さないけれど、征貞と二人、並んで歩くのが嬉しいのだ。
「久しぶりの現金収入だ。明日はなにか、旨いものでも食いに行くか」
「え、いいの? ゆきさん」
「ああ。たまにゃいいだろう。蓮司が、あのど吝嗇
(けち)
店主にだいぶふっかけてくれたからな。もっともあの野郎、きっちり一割抜いていきやがったが」
それが周旋屋の商売だと、舌を出して笑っていた蓮司の顔が思い出される。
凛はくすくす笑った。
「そんなら、ゆきさん。油揚げ買ってよ。そんで、下宿のおばちゃんにお鍋いっぱい煮てもらうの」
「油揚げ? それだけでいいのか?」
「あい! あたし、おばちゃんが煮たお揚げがいっとう好き!」
月はいつの間にか雲の陰に隠れ、闇はねっとりと濃くなってくる。どこからか甘く、花の香りがながれてきた。
やがて、道端で凛はふと足を止めた。
「あれ……」
そこには、安政年間に建てられた豪農の家屋敷があるはずだった。
が、今は古い家屋を取り壊している最中なのか、敷地をぐるりと縄で囲ってある。瓦や漆喰の破片が、道路にまで散らばっていた。
「このお家、庭にお稲荷さんの祠があったはずだけど……」
解体中の建物を眺めても、それらしいものは見あたらない。
「壊しちゃったのかなあ――」
明治政府によって国家神道が整備され、広く喧伝され始めると、それまで日本の社会に根付いていた土着の信仰、民間伝承のたぐいは、急速におとろえていった。
日本の宗教観は、日本古来の神々と、大陸から渡来した仏たちが混然と溶け合った神仏混淆である。
寺の住職が鎮守の別当
(神職)
を兼ねるというのも、珍しいことではなかったし、修験道などを見ても、その修行は、厳しい自然の中に神を見出し、その前にぬかずいて、御仏をたたえる真言や経を唱える。
厳格な一神教を信仰する外国人には奇異に映るこの感覚も、千年をかけて日本人が育んできたおおらかな宗教理念なのだ。
が、欧米列強と肩を並べることを至上命題とした明治政府は、西洋文明、キリスト教社会から野蛮と決めつけられた伝統は、ことごとく捨て去った。慶應四年
(一八六八年、九月に明治へ改元)
の神仏判然令で、それまでの神仏混淆を一切否定し、なおかつ素朴な自然崇拝、祖霊信仰のおもかげを残していた神道を、国家神道として強引にひとつに束ねてしまった。
そうやって、それ以外の信仰や概念を遅れている、非文明的だと切り捨てることは、国民の意識と価値基準を一点に集中させ、強力な中央集権国家を築くのにもっとも適していたのだ。
その結果、地域社会、家庭内などでこぢんまりと祀られ続けてきた小さな社や祠などは、次々にうち捨てられることになってしまった。
明治三九年に出された神社合祀令では、神社は一町村に一つにまとめよと規定され、その結果、鎮守の森として各地で親しまれてきた森林も無計画に伐採され、町中のみならず、里山すら無惨に荒廃する結果となった。
「ああ……。もう稲霊
(いなだま)
もいなくなってる……」
無人の解体現場を見やり、凛は小さくつぶやいた。
「可愛い子だったのに。かむろ姿で……」
凛は無くなってしまった祠を探すように、その場から動こうとしなかった。
「あの子、いっつもここん家の家族のこと、楽しそうに話してくれたんだ。二代前の祖母ちゃんは油揚げ煮るのがとっても上手だったとか、今度来た若い嫁さんは《緑の手》を持ってるから、きっと田畑が栄えるだろうとか――」
何代にも渡って、家族とこの家を見守り続けてきた神霊を失って、この家はいったいどうなっていくのだろう。
そして、消えてしまった霊は、いったいどこへ行ったのだろう。もしも自分が同じようになったなら、どこへ行けばいいのだろう。
こんなことばかりが積み重なっていったなら、この国は、いったい。
「凛」
「うん。ごめんね、ゆきさん」
凛は小走りで征貞のそばへ戻った。
「凛。東京はもう、お前らにとって居心地の良い場所じゃない。王子の御前
(ごぜん)
のところへ戻るなら――」
「ゆきさん!」
凛は思わず、征貞の袖を掴んだ。
征貞の横顔を見上げ、小さな子供みたいに首を振る。
「そんな、ゆきさん。あたし……!」
言いつのろうとした凛を、征貞は突然、片手で鋭く制した。
「静かにしろ!」
「え……」
征貞の表情が変わっている。怖いくらい、真剣だ。
命じられるまま、凛も口を閉じ、耳を澄ました。
その時。
おおぉ……うぉお、おおぅ……んん……
闇を切り裂くように鋭く、けものの遠吠えが響き渡った。
「ゆ、ゆきさん、今の……!」
「まさか――」
凛はあわててあたりを見回した。
征貞も、自分の耳が信じられない、という顔をしている。
が、ふたたび二人の耳に、高く、長く尾を引く遠吠えが届いた。
さっきより、近い。
――犬じゃ、ない。凛にはわかる。この声は絶対に、犬じゃない。
「ゆきさん!」
「おう!」
遠吠えの響くほうに向かって、二人は走り出した。
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