凛は風上に顔を向けた。
 その鼻先に、鋭いけものの匂いが漂ってくる。
 そして、血臭。
 普通の人間には察知することもできないかすかな匂いを、凛は感じ取る。
「あっちだよ、ゆきさん!」
 匂いのする方へ、凛は征貞を導いた。
 けれど地上を走っていたのでは、他の人間やその生活の匂い、自動車の排ガスの臭いなどが混じってしまい、遠くから漂ってくるかすかな匂いを嗅ぎ分けるのは、かなり難しい。
「凛、上へのぼれ!」
 征貞が人家の屋根を指さした。
「わかった!」
 凛は一気に跳んだ。
 電柱の上へ飛び上がり、小さな足場から、数m離れた二階建ての人家の屋根へ跳ぶ。
 くるっと宙でとんぼを切って、瓦葺きの屋根に飛び降りても、凛は足音ひとつさせなかった。
 そのまま、疾風のように走り出す。
 それは、人間の動きではなかった。
 屋根から屋根へ、時には電柱の先端を足場にして、凛は闇の中を疾駆する。ひるがえる銘仙の袖が、まるできれいな鳥の翼のようだ。
 いつもは、征貞から絶対にやるなと命じられている行為だった。人の街で、人と交わって暮らすのなら、けして人から怪しまれてはならない、と。
 征貞が凛に、人を超えるその能力を使えと命じるのは、非常の際に限られている。
 凛は風上に顔を向けた。
 高い場所にあがったせいで、地上よりもはっきりと血の臭い、そして遠吠えの響きをとらえることができる。
 ……なんだろう、あの声。
 高く長く響き渡るけものの声は、せっぱ詰まって、まるで誰かを呼んでいるようだ。
 凛には、この遠吠えの明確な意味まではわからない。種族が違うからだ。
 けれど、ひどく胸が騒ぐ。じりじりと痺れに似た熱いものが、身体中を走り抜ける。
「ゆきさん、あっち! あの四つ辻の向こう!」
 凛は屋根の上から、暗い街角を指さした。
 木造住宅が密集し、細い路地が迷路のように入り組んでいるあたりだ。表通りから少し奥に入れば、街灯の光もまったく届かず、どこが道か、どこからが人家なのかもよくわからない。
 だが、血臭は一段と濃くなっている。もう高い場所に昇って風向きをさぐる必要もない。地上にいる征貞にも、この臭いははっきりと感じ取れるだろう。
 凛は物音ひとつさせずに、地上へ飛び降りた。征貞の隣にぱっと駆け寄る。
 征貞は、凛が示した方向をまっすぐに見つめていた。
 そこは、高い板塀に囲まれた袋小路だった。板塀の向こうには黒々と生い茂る庭木が見えるが、人家の灯りは漏れてこない。側溝から饐えた臭いがただよう。
 その暗がりで、低く動く影がある。
「……ゆきさん!」
 思わず小さく声をあげた凛を、征貞は片手で制した。そのまま、凛を背後にかばう。
 そして、
「出て来な」
 低く、征貞は行った。
 錆びて、けれど肝の底にまでびんと響く声だ。
「いつまでもそんなとこで雪隠詰めになってたって、しょうがねえだろう。こっちへ来い」
 じり……と、征貞が前に出る。
 頭上の雲が切れた。
 頼りない月光が、それでも袋小路の奥を照らし出す。
 そこには、一人の男が倒れていた。
 一目で、もう息がないとわかる。うつ伏せになった身体からはらわたがはみ出し、砂利混じりの地面を赤黒く濡らしていた。
 そして、もう一人。
 十四、五才の少年が、なかば茫然と死体の傍らに立ち尽くしていた。
「あ……! あ、あの子……!」
 凛は征貞の袖にしがみついた。
「ゆきさん、あの子――!」
「わかってる。いちいち騒ぐな」
「ち、違う――違う! 違う、俺じゃない!!」
 いきなり、少年はわめいた。
 細い縦縞の入ったスタンドカラーシャツに、サスペンダーで吊った毛織りのズボン。洋装とはいえ、薄汚れて、かなり垢抜けない。月光に照らされた顔立ちは、まだどこかあどけないものを残していた。
「俺じゃない! 俺が見つけた時には、もう死んでたんだ!」
 ――ああ、この、声!
 凛は思わず、両手で耳をふさいでしまった。
 少年の叫び声は、鋭利な刃物みたいに凛の聴覚に突き刺さる。ふつうの人間には少し甲高い男の子の声にしか聞こえなくても、凛にとっては、本能的な畏怖をかきたてる響きなのだ。
 少年の全身から、殺気立ったけものの匂いが強く立ちのぼる。追いつめられ、今にも反撃に移ろうとしている野生動物の気配だ。
 だが征貞は、淡々と少年に語りかけた。
「わかってる。誰も手前が殺ったなんて、言ってねえだろう」
 征貞は軽く両手を広げた。武器になるものは何も持っていないと、示したのだ。
「く、来るな! こっち来るなっ!」
 少年の放つ刺々しい気配で、凛は息がつまりそうだった。
 ――怖がっている。凛が少年の持つ気配に、匂いに怯えているのと同じく、少年もこちらを、人間を怖がっているのだ。
 少年は、少しでも征貞の視線から隠れようと板塀の影の中に小さく身を縮めながら、目だけはぎらぎらさせて、こちらを睨んでいる。征貞が近づく様子を見せれば、すぐに猛々しい唸りをあげて威嚇する。
 暗がりの中、ぎらりと牙が光るのが見えた。
 少年の身体が、内側から少しずつ膨れあがっていく。
 少年は両手を地面についた。
 髪が逆立ち、四肢が変形する。次第に少年の姿が変貌しようとしていた。
 が。
「うるせえぞ、お前。少し黙れ。近所中を叩き起こすつもりか」
 征貞は表情ひとつ変えなかった。
 行儀悪く懐に手を突っ込み、ぼりぼり胸元を掻きながら、まるで昔からの知り合いの子供を叱るように、少年に言う。
「このへんに住んでるヤツぁ、職人や工場の労働者がほとんどだ。みんな、朝が早えんだよ。もうちっと静かに、寝かせといてやれ」
「え……」
「おら、お前があんまり喚くから、その声でどっかの赤ん坊が起きちまったぞ。夜泣きが聞こえるだろう。可哀想だと思わねえか」
 その言葉に、少年は初めて気がついたようにあたりを見回した。
 変貌が止まった。
 そこにある影はもう、四つんばいになったごく当たり前の人間のそれでしかない。
 少年は征貞を、その正体を探るようにじっと見つめた。そしてようやく、後ろに隠れていた凛に気づく。
「その子……。まさか――」
「俺の連れだ。お前とは種族が違うが、まあ似たようなもんだ。……ま、お前にゃ、いちいち説明しなくてもわかってんだろうがな」
 少年は驚きの表情を浮かべ、食い入るように凛を見つめた。
 凛はつい、さらに征貞の後ろへ隠れようとしてしまう。
「凛、逃げるな。こいつは、お前を取って食いやァしねえとよ」
「あ、あんた、いったい……」
「それは俺が訊きてえよ。お前、いったいなにをしに来た」
 征貞はゆっくりと少年に近づいた。
「とにかく、こんなところで立ち話してたんじゃ、剣呑すぎらあ。官憲にでも見つかった日にゃ、俺が人殺しの容疑でしょっ引かれちまう」
 来い、と、征貞は手を差し出した。
 少年はその手をじっと見つめる。
 戸惑いながら、征貞の表情と、差し出された大きな手とを、何度も見比べた。
「……大丈夫だよ」
 ささやくような小さな声で、凛はぽそりと言った。
 人間に怯える少年の気持ちが、凛には良くわかる。自分の中にある自然の掟と、目の前の強く優しそうな手と、どちらを選べば良いかわからないのだ。
 同じ経験を、かつて凛も、したことがあるから。
「この人は、大丈夫。信じていいんだよ」
「お前……」
 少年は立ち上がった。
 凛を見つめ、
「お前の、主
(あるじ)か?」
「ん……、ちょっと違う。似てるけど――」
「だってお前、《管狐》
(クダギツネ)だろう?」
 少年がさらに近づいてきた。
 板塀が斜めに落とす濃い影の中から、少年の姿が完全に現れる。
 その時。
 銃声が、とどろいた。
 凛の頬をかすめるように、一瞬、疾風が駆け抜けた。黒髪がひとすじ、引きちぎられる。
 少年のほっそりした姿が、ぐらりと揺れた。
 血煙があがった。
 厚ぼったいシャツのコットン地に、鮮血がほとばしる。
「き、ィ……ッ!」
 悲鳴をあげそうになった凛の唇を、征貞の大きな手がぱっとふさいだ。
 征貞の強い腕が、しっかりと凛を抱きしめる。
 二人の目の前で少年の身体が、まるで積み木が崩れるように、どうッと地面へ倒れ込んだ。
「な……っ。な、なに? なにが……っ」
 なにが起きたのか、まるでわからない。
 硝煙の臭いが凛の嗅覚を刺激する。
 全身の毛が逆立ち、血が一気に逆流するようだ。息もできない。征貞が抑えていてくれなければ、凛は金切り声をあげてわめき出していただろう。
 銃弾と、それがもたらす死。それは、凛にとってこの世でもっとも怖ろしい存在だった。
「しとめたか?」
 冷徹な声がした。
「致命傷にはなったはずだ。純銀の弾丸を使用しているからな」
「一撃で確実にしとめろ。やつらの生命力を甘く見るな。心臓か頭を吹っ飛ばせ」
 凛を腕に抱えたまま、征貞がゆっくりと振り返る。
 凛は、顔もあげられなかった。ただ懸命に、征貞にしがみつく。
「う、くぅ……っ」
 かすかなうめき声がした。
 倒れ伏した少年が、呻いている。肩から入った弾丸がその身を貫通したのか、うつ伏せになった背中が、半分近く真っ赤に染まっていた。さらにあふれだす血液が地面を赤黒く濡らしていく。
 それでも少年は、ふるえ、地面に爪をたてて、懸命に起き上がろうとしていた。
「まだ、息があるのか。さすがに化け物だな」
 じゃり、と、堅い靴が地面を踏みしめる音がした。
 征貞の肩越しに、黒く光る長靴の爪先が見える。
 ふわりと裾が広がり、膝まで届く黒のインバネスコート。その下も同じく黒の洋装のようだ。コートの袖口から覗く手は、真っ白な手袋に包まれている。
 同じ服装の男たちが七、八人ほど、袋小路の出口を塞ぐように立っていた。
「そこをどけ」
 一人の男が前へ進み出た。その手には、撃鉄を起こした大きな拳銃が握られている。
 凛はさらに強く、征貞にしがみついた。
「怖れる必要はない。今、その化け物の息の根を止めてやる」
 銃口が少年の後頭部に向けられた。
 それを遮るように、征貞は腕を伸ばした。自分の身体で、瀕死の少年をかばう。
「どけ」
 洋装の男は、同じ言葉を繰り返した。その声がまだかなり若いことに、凛はようやく気がついた。もしかしたら、征貞よりも年下かもしれない。
「聞けねえな」
 征貞は言った。
「まだ、子供だぜ」
「化け物だ」
 若者の握る銃は、微動だにしない。この距離で発砲すれば、弾丸は征貞の腕を貫通し、少年の頭を破砕するだろう。
「見ろ、その死体を。帝都で同様の殺人が続けざまに起きていることは、きさまも知っているだろう。これ以上被害を出すわけにはいかんのだ」
 小紫が言っていた化け狼のうわさ。彼はそのことを言っているのだろうか。
「こいつが殺ったんじゃねえ。自分でそう言った」
「化け物の言葉を信じるのか」
「ああ、信じるね」
 征貞は若者を正面から睨み据える。
「問答無用で子供
(がき)を撃ち殺すような連中は、俺ぁ信じる気になれねえな」
 若者の表情がかすかに変わった。端正な美貌が月光に照らし出される。極力、平常を保とうとしているらしいが、形良い眉が不愉快そうにひくりと動くのが、凛にも見えた。
 征貞は、腕に抱えていた凛の身体をそっと離した。そして小声でささやく。
「しっかりしろ、凛! 自分で立て!」
「う、うん……」
 凛は何度か浅く息を吸い込んだ。まだ深く呼吸することはできない。けれどふるえる足で精一杯踏ん張って、征貞に寄りかからず、自分の力で立つ。
「どけ!」
 若者は拳銃のグリップで征貞の肩を小突き、乱暴に押しのけようとした。
 が、征貞の身体は揺らぎもしなかった。少年と凛とを背後にかばい、男たちの前に立ちはだかる。
 若者の眉が、さらに不愉快そうに吊り上がる。
「……貴君はなにか誤解しているようだな」
 こころもち顎をあげ、征貞を見くだすようなその仕草は、ひどく尊大に、同時に自然に見えた。他人に命令を下し、意のままに動かすことに慣れている者の態度だ。
 彼の顔を見つめ、凛ははっと気づいた。
 ……瞳が、はしばみ色をしてる。
 月光の下、やや青白く見えるその顔は、純粋な日本人のものではなかった。
 陰影の深い整った容貌は、あきらかに西洋の血を感じさせる。肌のきめ細かさや輪郭の細さは東洋のものだが、夕暮れの小麦畑みたいな髪の色は、東洋人にはありえない。
 日本人にしては飛び抜けて背の高い征貞と対峙しても、彼はまったく遜色ない。
 よく聞けば、彼の言葉にもわずかに妙な抑揚があった。
 その後ろにいる彼の仲間たちは、みな、生粋の日本人のようだったが。
「我々はヴァチカン法王庁の命を受け、人々を化け物どもの驚異から救うべく組織された、対人狼部隊だ」
「……ばちかん――対、人狼部隊?」
 聞いたこともない言葉を、凛は口の中で繰り返した。
 キリスト教に対する禁教令は明治六年に解かれたが、それでもまだ大半の日本人にとって、キリスト教関係の用語や思想はかなり馴染みにくいものだった。
 自分の言葉を裏付けするように、若者は左手でインバネスの襟元から銀のロザリオを引っ張り出し、征貞の前にかざして見せた。
「私は副島兵吾
(そえじまひょうご)男爵、父は元外交官で、貴族院議員だ」
 宝石を嵌め込み、精緻な象眼に飾られた十字架を見た瞬間。
 凛はくらっと視界が歪むのを感じた。
 立ちくらみを起こしたように、思わず地面にしゃがみ込んでしまいそうになる。
 怖い。
 ……なんで? なんでこんなに、怖いのだろう。
 西洋文明において正義と力の象徴であるそれは、だが凛にとっては、あまり見慣れない、ただのきれいな装飾品にすぎない。その形や色に怯えるはずなどないのに。
 ――あたし、どうしたんだろう。
 だがここでへたりこんで、征貞の足手まといになることだけは、絶対にできない。凛は奥歯を噛みしめ、ふるえる両脚に懸命に力を込めて、踏みとどまった。
「その男爵さまが、こんな子供にいったい何の用だ」
「言っただろう。我々は十字軍の流れを汲む、ヴァチカン法王庁直属の対人狼部隊だ。神の御名と栄光において、神と神の造り給うた人の子らに対し仇なす化け物どもを、一匹残らずこの地上より駆逐する。それが我々の使命だ」
「使命……ね」
「我々の活動は、日本国内においても国家権力によって承認されている。人狼、吸血鬼、もしくはそれに類する化け物どもの誅戮
(ちゅうりく)に関する限り、すべての優先権は我々にある」
 兵吾の声は冷たく、人間らしい感情なんて微塵も感じさせない。迷いもなく、同時に、彼が本当にその言葉を心から信じているのかさえ、わからない。
 彼の信仰のシンボルである十字架ではなく、彼自身のこの声と、鋼鉄のような光を放つあの瞳とが、怖いんだ。凛はそう思った。
 ……だって。まるで人間じゃないみたい。
「どけ」
 再度、兵吾は言った。これ以上同じことを言わせるな、と、言外に宣告している。
 その後ろに居並ぶ対人狼部隊の男たちも、銃を構え、じりじりと征貞たちのほうへ進みだそうとしていた。
 だが征貞は動かなかった。
 背中に凛と少年をかばい、男たちの前に立ちはだかる。
 見上げる凛の目には、広い征貞の背中がさらに一回り大きく、力が満ちていくように見えた。
「まだわからないのか。そいつは人狼だ。人間じゃないと言っているんだ!」
「それがどうした」
 眉ひとつ動かさず、征貞は言った。
「熊だろうが狼だろうが、子供と、子連れの母親には手を出さねえ。それがこの国の《あたりまえ》だ」
「きさま――!」
 苛立ち、兵吾の頬に血の気がさしてくる。初めて、人間らしい感情がほの見えた。
 凛は後ろから盗むように、征貞と兵吾の表情とを交互に見比べた。
 二人の主張はまるで噛み合っていない。いつまで経ったって、平行線のままだろう。
 やがて凛の視線に気づいたのか、兵吾が凛を見た。
 一瞬、なにかを見透かすような目をして、凛を見据える。
 その目に、凛は身体中の血が凍りつくような恐怖を感じた。わずか一瞬なのに、自分のすべてが、内臓から血管、微細な神経の一本一本にいたるまで、なにもかもが彼の目の前にさらけ出されてしまったかのようだ。
 そして兵吾は、征貞に向かってにやりと笑った。
「そうか。きさま、土着の呪術師か」
「なんだと?」
「そんな薄汚い《まじりもの》を連れているところを見ると、おおかた、詐欺師まがいの拝み屋のたぐいだろう。その人狼も、きさまの飼い犬だったのか?」
 ……まじりもの?
 兵吾が吐いた言葉を、凛は胸の内で繰り返した。
 それは、自分のことだろうか。いったい、どういう意味だろう。
「まじりものだから、まじりものと言ったんだ。人と、人ならざるものが交わって生まれた、汚らわしい禁忌の生きもの……。この世にあってはならぬ存在だ!」
 兵吾の握る銃が、今度は凛へ向けられた。
 彼の後ろに居並ぶ男たちが小さくどよめき、一斉に凛を見た。驚きと恐怖、そして激しい嫌悪の入り交じった目で、突き刺すように凛を睨む。
「四つ足のけものの臭いがするな。きさまの親は、野のけだものと交わってきさまを生んだのか。穢れた欲望のために人であることを自ら捨てて、化け物になり果てたわけだ」
 冷酷な声が、凛をあざ笑う。はしばみ色の瞳が蔑みを込めて凛を見くだしていた。
「心配するな。この銃に込められているのは、浄められた純銀製の弾丸だ。どんな強固な呪いや魔術をも、一撃で粉砕する。きさまがどれほど頑丈な化け物でも、痛いと思う間もなく死なせてやる」
 銃口はぴたりと凛の眉間に狙いを定めていた。
「きさまの飼い主も、すぐに後を追わせてやる。人でありながら化け物と通じ、人の誇りを汚した者を、生かしておくわけにはいかないからな」
 凛は息を呑んだ。身体がまるで棒きれみたいに硬直して、声も出せない。
 ……どうして。
 汚い、禁忌のもの? この世に生きていてはいけないもの?
 なぜ、こんなひどいことを言われなければならないのだろう。どうしてこの人は、こんなにも憎悪に満ちた目で凛を見るのだろう。
 この人――あたしを、ゆきさんを、殺す気なの?
「たしかに凛の母親は、人間じゃねえ」
 ふいに、征貞が言った。
「凛の母親は、王子稲荷の眷属、お使い姫の妖狐だった。――だが、てめえの言うような存在じゃねえ。一千年の永きに渡ってこの国の水と田畑を見守り続けてきた神霊……小さな女神だ」
「神とは、この世にただ御一人しか居られぬ! きさまが言っているのは、汚らわしい動物霊にすぎん!」
「それはてめえの神様の話だろう。俺の神じゃねえ!!」
 征貞は怒鳴った。
「凛、狐火を飛ばせッ!!」
「あい!」
 凛は両手をかざした。
 思いきり息を吸い込み、手のひらの上に吹きかける。
 ごうッと激しい音をたて、無数の火の玉が飛び出した。
 青白く燃え上がる鬼火が、まるで生き物のように宙を飛ぶ。男たちの顔面にぶつかり、焼き払おうとする。
「うわああっ!?」
「ぎゃあッ!!」
 人の皮膚が、髪が焦げる悪臭が立ち込めた。
 凛はさらに狐火を飛ばした。
 鬼火を追い払おうとやみくもに腕を振り回す者。両手で顔を覆い、地面を転げ回る者。野太い絶叫と悲鳴が響く。
 が、蒼い狐火は執拗に男たちにからみつき、離れない。
 男たちの身体が次々に青白い炎に包まれ、人の形をした松明のように燃え上がる。
「ぎゃあああッ! た、た、助けてくれええッ!」
 男たちのすさまじい絶叫が響きわたった。
「行くぞ!」
 征貞は少年の身体を肩の上に担ぎ上げた。
 地面に倒れてのたうち回る男たちを飛び越え、走り出す。
 凛もその後を追った。
 征貞がどこへ向かっているのか、凛にはまるでわからないけれど。
 ……ゆきさんについていけば、大丈夫。
 今は、それしか考えられなかった。
 二人はもと来た方向へ向かって、疾風のように走り抜けた。
「ま、待てっ!」
 兵吾が怒鳴った。
 彼の回りにも、蒼い狐火がばちばちと火花を散らしながら飛び交っている。ダークブロンドを焼き焦がし、真っ白な手袋にも絡みつく。
 が、兵吾はそんなものを意にも介さなかった。
「なにをしているか、馬鹿者! ただの目くらましだ!!」
 兵吾は周囲の仲間たちを怒鳴りつけた。
 わめき、のたうち回る男たちを、次々に襟首を掴んで横っ面をひっぱたく。
 撲りとばされてようやく、男たちは正気を取り戻した。無数の狐火は跡形もなく消え、男たちの身体には火傷の痕すら残っていなかった。地面を転げ回った時の土埃にまみれているだけだ。
「こ、これは……!?」
 男たちはなかば茫然と、自分たちの無傷の身体を眺めた。立ち上がることすら忘れている者もいる。
「愚か者が! あんな子供だましに引っかかるとは、どこまで間が抜けているんだ!」
「すまない、兄弟副島――」
「さあ立て! 神の栄光に泥を塗るつもりか!!」
 兵吾は征貞たちを追って走り出した。
「半数はここに残り、官憲に連絡して後始末をせよ! 残りは私について来い! やつらを追うぞ、化け物どもを逃すな!!」






 ぐったりとした少年の身体を背負ったまま、征貞はすさまじい速度で走り抜けた。
 険峻な岩場から岩場へ飛び移り、激流の沢や崖を命綱もなく登る修験道の修行で鍛え上げた、人間離れした脚力である。妖狐の力を全開にした凛でさえ、遅れずについていくのがやっとだ。
 少年の傷から噴き出す血は、征貞の着物までも真っ赤に染めていた。
「急げ、凛! 大門が閉まる前に、廓内へ駆け込むぞ!」
「あ、あい!」
 すでに歩く者もない五十軒道を一気に走り抜ける。
 その耳に、ごぉん……と、低く鐘の音が聞こえてきた。夜十二時、吉原大門の閉門を告げる引け四ツの鐘だ。
 ぎい――と、蝶番を大きく軋ませて、大門が閉ざされていく。
「待てッ!」
 振り返ると、兵吾が追ってくる。大きく広がったインバネスが、まるで黒い翼のようだ。
「ゆきさんっ!」
「止まるな、走れ!」
 間一髪、凛と征貞が内へ駆け込んだ瞬間。
 まさに追いつこうとしていた兵吾の目の前で、大きな扉が完全に閉ざされた。
「開けろッ! 開けないか、この――!!」
 兵吾はこぶしを振り上げ、大門を乱暴に叩いた。
「おあいにくでござんした。四ツを過ぎましたので、どうぞ明日お越し下さいまし」
 大門の横にある小さな木戸が開き、そこから蓮司がひょいと顔をのぞかせた。
 木戸はおはぐろ溝に面し、そこからおもてをたしかめることはできるが、通行することは不可能だ。
 大門を抜けずに吉原へ入ろうとするならば、深さ二m以上ある堀へ飛び込み、水苔でぬるぬる滑る石組みをよじ登らなければならない。しかも堀の水はよどみ、悪臭を放っている。その通称どおり、おはぐろのように真っ黒な汚水だ。
「我々は客ではない! 早く門を開けろッ!」
 兵吾は怒鳴った。





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