その後ろから、ようやく仲間の男たちが追いついてくる。みなぜいぜいと息を切らし、声も出ない様子だ。兵吾だけが呼吸も乱さず、声を張り上げていた。
「この門の中に犯罪の容疑者が――人に化けた怪物が逃げ込んだのだ!」
「人に化けた怪物? そりゃ、ここは吉原でござんすからねえ。廓中、人の皮をかぶった化け物でいっぱいでござんすよ」
 蓮司は人を食った笑みを浮かべ、冷たく対人狼部隊の男たちを睥睨した。
 その後ろには、さまざまな見世の半纏を着た若い衆の姿が並んでいる。みな、色里につきものの暴力沙汰に対処するため、それぞれの店に飼われている忘八者だ。しかも騒ぎを聞きつけたのか、その数は続々と増えていく。
「吉原には吉原の法度
(はっと)というものがございやす。外界の法は通じませんのさ。この大門は、四ツに一度閉じたら、明日の朝、お天道様が顔を出すまでは、たとえお殿様でも天子様でもお通しするわけにゃあいかねえんですよ」
「きさま……ッ!」
 兵吾がぎりぎりと歯噛みする。
「――この、下郎
(げろう)が!!」
「はい、下郎でござんすよ」
 蓮司はせせら笑った。
「アタシゃ女衒でございますからね。下郎も下郎、女の涙に寄生する、ダニでござんすよ」
 そして木戸がばたんと乱暴に閉じられ、二度と開かなかった。






「店主、頼む! 部屋を貸してくれ!」
「ひ、ひえっ!? な、なんです先生、そのガキゃあ……っ!」
 血まみれの少年を背負ったまま、征貞は大黒楼へ駆け込んだ。
 仲居やお茶を引いていた女郎たちがきゃあっと悲鳴をあげ、一斉に逃げまどう。
「先生!? いったいどうなすったんです、その子はいったい――!」
 店内が騒然とする中、小紫が階段を駆け下りてきた。
「血が……! お怪我をなすったんですか!?」
「いや、俺じゃねえ。とにかく、こいつを寝かせる場所を貸してくれ」
「は、はい。ひとまずあたしの部屋へ!」
 小紫に案内されて、征貞と凛は大黒楼の二階へあがった。
 階段から続く長い廊下の両側には、女郎たちの部屋が並ぶ。そのほとんどに客の男が宿泊し、女郎と同衾しているのだ。なかには騒ぎを聞きつけて、細く襖を開け、のぞき見している者もいる。
 小紫の部屋は、二階のもっとも奥にあった。お職女郎だけあって、室内には舶来のランプや鏡など、小さいが洒落た調度品がいくつか飾られている。
 征貞は、小紫が敷いてくれた布団の上に少年を寝かせた。
「すまねえ。布団を汚しちまう」
「いいんですよ、そんなもの。それより、すぐにお医者さまをお呼びしますから――」
「いや……。たぶん、もう間に合わねえ」
 苦く、身体中の空気を吐き出すように、征貞は言った。
 少年の顔には、はっきりと死相が現れていた。弾丸は彼の右胸を貫通し、右の肺を完全につぶしていた。今まで息が持ったのが、不思議なくらいだ。
 喀血にまみれた唇が、ひく、とかすかに動いた。
「……ゆきさん!」
 凛は小声で征貞を呼んだ。
「なにか、言ってる。この子……なにか言ってるよ」
 かすかにこぼれる言葉を聞き取ろうと、凛は少年の上に身を伏せ、その唇に耳を近寄せる。
 征貞も同じく、耳を傾けた。
「……さ……。にい、さ――」
「兄さん? お兄さんを呼んでるの?」
「しッ」
 征貞に制され、凛はあわてて口を閉じた。
 少年は掠れる声で、うわごとをつぶやく。最期の力を振り絞り、懸命になにかを言い残そうとしている。それを聞き届けるのは、命の終焉に立ち会う者の義務だ。
「に、兄さん、どこ……。にいさ、……穂高
(ほだか)……っ」
「穂高? それがお前の兄の名前か!? お前の兄貴がここに――東京にいるのか!?」
「兄さんがいないと、群れが、滅ぶ……。ほ、穂高……。穂高、帰ってきて……」
 あとはもう、声にならなかった。
 かたく閉じられたまぶたに、涙がにじむ。ごぼっと嫌な音をたてて、少年は肺から大量の血の泡
(あぶく)を吐き出した。
 血まみれの手がよろよろと中空に伸ばされる。一瞬、なにかを掻きむしるように指が動き、その手がばたりと布団の上に落ちた。
 そして、二度と動かなかった。
「……先生――っ!」
「すまねえ、小紫。見ねえでやってくれ」
 顔を伏せ、ぎりぎりと奥歯を噛みしめながら、征貞が言う。膝の上で握り締めたこぶしが、堪えきれない無念と怒りにふるえていた。
 小紫は一瞬息を呑み、そしてすぐに征貞たちに背を向けた。そのまま、かたく目を閉じる。
「はい、先生。先生が良いとおっしゃるまで、あたしは決して目を開けません」
 少年の亡骸が変貌していく。
 人の容姿が消え、腕は前脚になり、長い尾が現れる。
 全身がうす茶色の堅い体毛におおわれ、特に首回りから背中にかけては、濃い灰色がかったたてがみが美しい光沢を放っていた。
 大きな尖った耳、鋭い牙。血泡を噴いた口元から、だらりと長い舌がはみ出す。
 金茶色の瞳は、二度と光を宿すことはない。
 そこに横たわっていたのは、半身をべったりと血に染めた若い狼の死体だった。
「……狗神
(いぬがみ)――」






「……周防
(すおう)が、死んだ――」
 暗闇の中、青年はぽつりとつぶやいた。
 目の前にいる者の顔さえはっきりと見えない、濃い闇の中だ。唯一の光源は天井近くの小さな窓だ。だが、そこから射し込む月光は、埃まみれの床に小さく窓の形を描くだけだった。
「周防……弟が、死んだ……」
「弟さん? 山にいるんじゃなかったの?」
「俺を捜しに、街へ出て来てたんだ。――馬鹿野郎。山を離れるなと、あれほど言ったのに……!」
 青年の嗚咽が響く。懸命に押し殺しても、込み上げる涙が止まらない。
 闇の中に、ほのかに白い手が浮かび上がった。涙に濡れた青年の頬をそっと包み込む。
「穂高……」
 わずかな光に浮かび上がったのは、まるで月光がそのまま人の姿をとって現れたかのような、儚く美しい少女だった。
 少女の頬にも、幾筋もの涙がつたっていた。
「穂高。ごめんなさい。私のせいで……」
「違う。きみのせいじゃない」
「いいえ。みんな私のせいよ。私を救おうとしたばっかりに、あなただって、こんなところに囚われて……!」
 じゃらッと、耳障りな金属音が響く。青年の左足首は、猛獣でもつなぐかのように、重い鉄の足枷
(あしかせ)と鎖とで柱につながれていた。
 何度も外そうと試みたのだろう、足枷には小さな傷がいっぱいつき、青年の足首は皮膚がすりむけて、爛れたように血まみれになっていた。
 ほかにも、青年の腕には無数の注射針の痕があり、消えない青痣になっている。
「違う! もう言うな!」
 青年は、両腕に強く少女を抱きしめた。
「ねえ、逃げて、穂高。あなた一人なら、逃げられるはずよ」
 少女は青年の胸から顔をあげ、涙に濡れた目で彼を見上げた。
「私がいたんじゃ、あなたの足手まといになるわ。私なら、ここに残っても平気よ。怖くなんかないから……」
「馬鹿なことを言うな! 俺一人で逃げてどうする!」
「このままずっと、ここで飼い殺しになっているつもりなの!? こんな、いつわりの姿のままで……。いいえ、それだけじゃないわ。このままじゃ、いつかきっと、あなたは殺される……!」
 少女はまっすぐに青年を見つめた。青年もじっと、少女の黒い瞳を見つめる。
「穂高。私の命は、あなたがくれた命よ。あなたが死んでしまったら、私も生きていけない」
「月絵……」
 唇が触れ合う。
 接吻は涙と、かすかに血の味がした。
 互いの頬に触れ合い、髪を撫で、見つめ合う。何度も、互いの名前だけを繰り返し呼ぶ。愛する者がそこに生きて在ることを、何度でも確認するように。
 そして青年と少女は、まるで生まれた時からひとつの彫像であったかのように、互いを抱きしめたまま、いつまでも動かなかった。






    二、月下の孤影

      いのち短し 恋せよ少女 朱き唇褪せぬ間に
          熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日はないものを
                              (劇中歌「ゴンドラの唄」より)

 少年の遺体は、その夜のうちに大黒楼から運び出された。
 それは廓内で女郎が変死した時と、まったく同じだった。敷布と菰
(こも)に包まれ、誰の目にも触れないようこっそりと、投げ込み寺へと運ばれていく。
 出会った時の姿はどうあれ、絶命した今はけものの姿になっている。人間として葬ることはできない。墓地の片隅に埋葬してやるのが、凛たちにできる精一杯のことだった。
「あの子……。お兄さんを捜してたのかな」
 粗末な土饅頭の墓に、小紫が用意してくれた線香と花を手向け、凛はぽつりとつぶやいた。
 墓標に刻んでやるべき少年の名前すら、わからなかった。
 翌朝、凛と征貞は、泊まり客らが起き出すより先に、大黒楼を出た。
 夜が明けたばかりの遊郭は、妙に白々として静まり返り、昨夜の桃源郷ぶりが嘘のようだ。
「穂高……て、言ってたよね。お兄さんの名前。弟が死んじゃったこと――たぶんまだ、知らないんだよね……」
「いや、どうだろうな」
 並んで歩く征貞が、ぼそっと言った。
「狗神は、土蜘蛛
(つちぐも)と並んでこの国でもっとも古い神々の一族だ。もしかしたらその能力が、すでに異変を報せているかもしれん」
「そうかな――」
 せめて、そうであればいいと、凛は願った。
 同じ血を持つ同胞
(はらから)が、彼の死を悼んでくれたなら。
 誰にも知られず、縁もゆかりもない街の片隅に独りぽっちで眠るなんて、あまりにもあの少年が可哀想だ。
 吉原の外の街はすでに目覚め、一日の活動を開始している。乗合自動車や路面電車がけたたましく行き交い、日々の労働へ向かう人々を大勢運んでいた。
 その喧噪の中、何の変哲もない街角に、黒山の人だかりが出来ていた。
「ええい、立ち止まるな! 往来の妨げだ!!」
 いかめしいヒゲ面の巡査が、警棒を振り回して人々を追い払っている。
 けれど野次馬の数は増えるばかりだ。
「ゆきさん、あそこ……」
 そこは昨夜、あの少年と出会った場所だった。
 袋小路をふさぐように立入禁止の縄が張られ、警官たちが忙しなく動き回っている。
「怖いねえ、また野犬かい?」
「今度は腹をばっくり食い破られてたってさ」
 野次馬たちがうわさしているのは、昨夜、少年の足元にあった死体のことだろうか。
 あの死体は、間違いなく人間だった。常識的に見れば、殺人事件だ。警察が捜査を行うのも当然だろう。
「大の男を一撃で噛み殺すなんざ、並みの野犬じゃねえ。子牛みてえにでっけェやつだって話だぜ」
「そんな化け物がこの帝都をうろついてんのかい!? 冗談じゃねえ。おッとろしくて、六区へもおちおち遊びに行けねえじゃねえか」
「いや、それがね……」
 昂奮して上擦った声で、あるいはことさら思わせぶりに声をひそめながら、人々は口々に事件のうわさをしていた。
「どうも、犬じゃねえらしいとよ。お前さんたちも聞いたことがあるだろう? そら、例の……」
「ああ。あの、海の向こうから来たってぇ化け狼……」
「こらァッ!! 誰だ、流言飛語をまき散らしとるのは!」
 野次馬どもの会話を聞きつけて、巡査がどなる。
「これは野犬だ、野犬のしわざなのだ! 狂犬病に感染した野犬が、帝都を徘徊しとるのだ!!」
「狂犬病……!」
 狂犬病が日本に伝播したのは、一七〇〇年代。江戸幕府、八代将軍吉宗のころと言われている。その症状から恐水病などとも呼ばれ、有効なワクチンがなかった時代、人畜共通の怖ろしい伝染病として猛威を振るっていた。
「安心せい。近々、東京府庁、保健省などと協力して、大々的な野犬狩りを行う予定だ。だから、家庭で犬を飼っとる者は野犬と間違われぬよう、けして放し飼いにしてはならんぞ! 首輪、引き綱を必ずつけ、しっかりつないでおくように!」
 だが、集まった野次馬たちは巡査の言葉に納得した様子もなく、不安げに事件現場を覗き込んでいる。うわさ話も止まる様子がない。
 群衆は、不安なのだ。
 日露戦争に勝利し、日本は一躍アジアの雄
(ゆう)として国際舞台へ躍り出た。だが国内はまだあまりにも貧しく、矛盾に満ちていた。
 急激すぎる社会改革はさまざまなひずみを生み、明治三八年の日比谷焼き討ちに代表される民衆暴動も、日本各地で頻発した。
 巨大な政商、財閥による富の寡占と、次第に肥大していく軍部の権力。一般市民はそれらの向こうに、やがて来る暗黒の時代を予見していたかもしれない。
 だが、それをはっきりと口に出すことは許されなかった。人々は蓄積していくばかりの不安を、特権階級のスキャンダルやグロテスクな猟奇殺人のニュース、得体の知れないうわさ話に夢中になることで、少しでも忘れようとするほかはなかったのである。
 やがて、その人垣の向こうに、凛はふいに、飛び抜けて背の高い姿を見つけた。
「あ……! ゆ、ゆきさん、あれ――あの人……!」
 日本人離れした容姿と、ゆたかに波うつダークブロンド。黒い翼のようなインバネスコートも、昨夜と同じだ。
 副島兵吾は、この場の責任者らしい私服刑事と、何事か話し合っていた。
 昨夜の顛末を説明しているのか、時々、兵吾が現場を指し示し、鳥打ち帽をかぶった私服刑事は、それを熱心に手帳へ書き記している。刑事がやたらとぺこぺこ頭をさげているのは、華族である兵吾の身分に遠慮しているからだろうか。
「凛。行くぞ」
 低く、征貞が言った。
 凛も黙ってそのあとに従う。
 兵吾がこちらに気づく前に、この場を離れたかった。
 万が一、兵吾が凛たちに気づいたとしても、まさか昨夜のようにいきなり銃口を向けたりはしないだろう。彼の目には凛の本性が見えているらしいが、ほかの警官や野次馬たちには、凛はどこにでもいそうな小柄な少女としか映らないはずなのだから。
 ……あの、目。
 侮蔑と憎悪に満ちたあのはしばみ色の瞳を思い出すだけで、おなかの底から手足の先まで、ぞうッと冷たいものが走り抜ける。
 あれは真実、凛を殺そうとしている目だった。
 ……どうしてあの人、あんなにもあたしを殺したいと思うんだろう。
 凛は、彼になにもしていないのに。
 ただひっそりと、征貞のそばで生きているだけなのに。
 純粋なヒトではない。ただそれだけの理由で、生きていてはいけないなんて。
 兵吾は本当に、そう信じているのだろうか。人ならざるもの、彼の神が許さぬものは、すべて死すべきだ、と。
 たしかに、凛の母親は人間ではなかった。
 純白の体毛の妖狐が人の女に化け、ふつうの人間であった凛の父と結ばれたのだ。
 かつては凛自身、母の正体を知らなかった。なにも知らないまま、家族三人、山間
(やまあい)の小さな村で平穏に暮らしていた。
 父は無口だが、優しい人だった。猫の額ほどの田畑をたがやし、冬にはしばらく山にこもって炭を焼くこともあった。頬擦りされると、ひげがちくちく痛かった。
 母はとても美しい女
(ひと)だった。凛の覚えている母はいつも笑顔で、優しい声で歌を唄っていた。
 あやかしの狐と人間の男が、どこで出会って、どのように想いを通わせたのか、誰も知らない。
 二人とも、凛が幼いうちに死んでしまったからだ。
 ――殺されたのだ。同じ村に住む村人たちの手にかかって。
 父は、自分の妻と娘がヒトではないことを、ひた隠しにしていた。
 母も妖狐の能力を封印し、娘の凛をごくふつうの人間の娘として育ててきた。
 だがその秘密は、いつか近隣の住人たちに知られてしまっていた。
 ある夜、手に手に鋤や鍬、松明、そして猟銃を持った男たちが、村はずれにあった凛の家を取り囲んだ。
 藁葺きの屋根に火が放たれ、家から飛び出した三人に、容赦なく鉛の散弾があびせられた。
 化け物を殺せ。化け物を退治しろ。彼らは口々にそう叫んでいた。
 あの夜のことを、凛は今、はっきりと思い出すことができない。
 あまりに哀しいことやつらいことがあると、生きものはその記憶を封印して自分の心を守ることがあると、征貞は言っていた。
 ――逃げろ。早く逃げろ。父はそう叫び、暴徒と化した村人たちの前に懸命に立ちはだかった。
 母は妖狐の本性をあらわにし、大きな美しい白狐となって走り出した。幼い娘をその背に乗せて。
 その背後から、何発もの弾丸と怒号が追いかけてきた。
 追っ手を振りきって森の中へ逃げ込んだ時、母は全身朱に染まっていた。凛がどんなに呼んでも、泣きながらその身体を揺すっても、もう二度と目を開けてくれなかった。
 絶命した母親のそばで、どのくらい泣いていただろう。
 悲しみと恐怖、寒さと空腹とで、凛がなかば意識を失いかけていた時。
 征貞が、小さな仔狐の前にあらわれた。
「俺といっしょに来い」
 そう言って差し出された、大きくあたたかい、強い手。
 最初、凛はその手にさわることができなかった。
「だって……だって――」
 みんな、凛に死ねと言った。
 昨日までふつうに付き合い、ともに暮らしていた村人たちが突然、銃や刃物をふりかざし、凛と父母を殺そうとしたのだ。
 化け物は死ね。人に化け、人を騙すけだものめ。よくも今まで、俺たちをたぶらかしていたな。人ではないものは、生かしておけぬ。彼は口々にそう叫んでいた
 ……そうなの? あたしは、生きてちゃいけないの?
 人間じゃ、ないから。
 だから父さんも母さんも、殺されてしまったの?
 だが。
「生きろ」
 征貞はそう言った。
「お前が生きていたいと望むなら、自分は死ぬべきだと納得できる理由がないのなら、あきらめるな。生き続けろ。おまえがあきらめないかぎり、誰も、お前の命を奪う権利はねえ」
 ……いいの? あたし、生きていてもいいの?
 ヒトじゃないのに。それでも、生きていていいの?
 言葉にならない問いかけに、征貞は力強くうなずいてくれた。
 両手に乗るほど小さな仔狐を、征貞は自分のふところに入れ、村人たちの目をかすめるようにして山を下りた。
 征貞の胸は、あたたかかった。直に触れたその肌から、精緻で優しい鼓動が、凛の身体につたわってくる。征貞の精気が、命が、凛の中に流れ込んできていた。
「お前の母親に呼ばれたんだ」
 のちにその夜のことを、征貞はそう語った。
「俺はお前の母親に約束した。娘を――凛、お前を必ず守り抜く、と。俺の命があるかぎり、お前をけして死なせはしない」
 その誓いを、征貞は今も果たしている。
 凛は一旦、母の同胞である稲荷の眷属のもとへ預けられた。王子稲荷の祭神、征貞らが「王子の御前」と呼ぶ方のもとへ。関八州、十八万社に及ぶ稲荷神社の頂点に立つ神である。
 けれど凛は、征貞とともにあることを望んだ。
 俺の命があるかぎり、と、征貞は誓ってくれた。
 ならば征貞が救い、守ってくれたこの命を、彼のために役立てたい。
 ……ゆきさんが、言ってくれたから。あたしに、生きていてもいいと、言ってくれたから。
 だからあたしは、生きていける。
 そう。たとえ、誰が何と言おうとも。誰に、どれほど憎まれ、排斥されようとも。
 咒禁師・各務征貞とともにあるかぎり。
 最後に、凛はちらっと兵吾のほうを盗み見た。
 その時。
 はしばみ色の目が、まっすぐに凛を見ていた。
「――えっ!?」
 凛は慌てて目を伏せた。
 人垣の向こうの兵吾にぱっと背を向け、征貞のもとへ駆けていく。
 ……こっち、見てた?
 あの人、あたしのこと、見てた!?
 そんなはずはない、と、懸命に自分へ言い聞かせる。
 兵吾が本当に凛たちに気づいているのなら、黙っているはずがない。無理やりにでも巡査たちの前へ引き出すはずだ。凛と征貞があの人狼の少年を――殺人犯人とおぼしき者を、逃がしたことに違いはないのだから。
「ゆ、ゆきさん。ゆきさん……っ!」
 凛は、征貞の袖にしがみついた。
「騒ぐな。びくびくしてたら、よけいに怪しまれるぞ」
 征貞はなにも見ていないかのように、さっさと歩き出す。凛も慌ててその後を追った。
 そして二人は、逃げるようにその場を離れた。
 兵吾も、彼の同胞である対人狼部隊の男たちも、二人を追いかけてはこなかった。
「ゆきさん、ごめんね」
 浅草の雑踏にまぎれるように歩きながら、凛は小さくつぶやいた。
 本当は、あんなふうに逃げ出す必要なんか、なかったはずだ。
 自分たちはなにも悪いことはしていない。
 あの少年を助けようとしたことを、征貞は小指の先ほども後悔していないに違いない。結果として救えなかったことが、今、彼の心の重荷になっているけれど。たとえ兵吾に呼び止められても、なんら恥じることはなかっただろう。
 けれど、あの場を逃げるように立ち去ったのは、ひとえに凛が怯えていたからだ。兵吾の存在そのものに完全に怖じ気づいてしまった凛を、征貞はかばってくれたのだ。
「お前ら妖狐の眷属は、もともと狗神とは相性が悪い。落ち着かねえのも無理はねえ」
「うん……」
 たしかにそのせいはあるだろう。昨夜、少年の遠吠えを聞いた時から、凛は身体中の神経がざわざわして、ひどく落ち着かなかった。今も高ぶった神経が休まらない。
「急いで帰るぞ。今なら、おばちゃんの朝飯に間に合うかもしれん」
 二人が暮らす下宿「間荘」は、浅草のはずれにある。六畳一間で食事つき、一階には大家のおばちゃんが住んでいる。ちなみに、周旋屋の蓮司も間荘の店子だ。
 二階の窓から十二階の風景はのぞめるが、六区の喧噪は聞こえない。長屋や木造アパートが軒をくっつけ合うようにして立ち並ぶ、せせこましくてどこかあったかい下町だ。
 間荘に帰ってくると、凛はほうっと大きくため息をついた。
 征貞とともに暮らす部屋は二階だが、階段をのぼるのすら億劫だ。征貞に支えられるようにして、やっとのことで上へあがる。
 狭い六畳間へ入ると、凛は畳の上でくるんと、尻尾を抱える仔狐みたいに丸くなった。
 小さな卓袱台に箪笥代わりの茶箱。征貞が一人で暮らしていたころは敷きっぱなしの万年床だった布団は、このごろはいつも凛がたたんで押入に片づけている。
 陽に灼けた畳と、歪んだ窓ガラス。埃っぽい空気の小さな部屋が、凛と征貞のテリトリーだ。
 この部屋には、凛を傷つけようとするものはけして近づかない。征貞の力が守っているから。
 ここでなら、安心できる。征貞と二人で暮らすこの部屋が、凛の《巣》だ。
「凛」
 小さく丸まってしまった凛に、征貞が手をのばした。
「こっち来い。腹が減ってるんだろう」
「……ゆきさん」
 凛はのろのろと顔をあげた。
 征貞はあぐらをかいて座ると、蚊絣の襟元をぐいとはだけた。
「だ、だめだよ、ゆきさん。あたしなら平気だから……」
「蝋燭みてえな真っ白な顔しやがって、何言ってやがる。子供が、くだらねえ気ぃ回すんじゃねえ」
 征貞は手をのばし、凛の腕をつかんだ。
 そのまま、少女の小さな身体を胸元に抱き寄せる。かつて小さな仔狐を自分のふところにかくまったように。
「ゆきさん――」
 凛はあきらめたように目を閉じ、大人しく征貞の胸にもたれかかった。





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