「どうしましょう。すぐ彼女に会ってもらったほうが良いのかしら」
 細長い廊下を歩きながら、華子は言った。凛たちを客間に案内するつもりのようだ。
「でも彼女、このごろずっと身体の具合が良くなくて。昼間でもベッドから起きあがれないみたいなのよ。可哀想に、もう、ガラッ骨みたいに痩せちまって……」
 独り言みたいに言いながら、華子は廊下の突き当たりの扉を開けた。
 そこは、半円形のベイを持つ広いサンルームだった。
「わあ……」
 凛は思わず小さく歓声をあげた。
 部屋全体が白を基調にまとめられ、天井まで届く大きな窓には、上部にのみさりげなくアール・デコのステンドグラスが飾られている。家具もカーテンも可愛らしく繊細で、いかにも女性が好みそうな部屋だった。
 ……お洒落してきて、良かった。そう思わずにはいられない。
 ふだんどおり、よれよれの絣に膝の抜けた袴という恰好の征貞は、きれいな室内にあまりにも不似合いだ。せめて無精髭だけでも剃らせておけば良かったと、凛は後悔した。
 が。
「なんだ、そいつらは」
 白のサンルームには、先客がいた。
 細身の洋装にぴったりと身を包んだ若い男が、突然の闖入者を咎めるように睨み据えていた。
「あら清巳さん」
 少し驚いたように、華子が言った。
「ごめんなさい。あなたがいるとは思わなくて。この方たちはね――」
「誰だと訊いているんだ。答えろ、大浦」
 華子の言葉を無視して、清巳はドア近くに控えていた大浦に命じた。
 男にしてはやや甲高い、神経質そうな声だ。清巳の容貌もその声に似合って、人形みたいに端正だが、線が細く、どこかひ弱そうな陰りを感じさせる。
「あ、あの、会長。こちらの方々は……」
「あたしがお呼びしたのよ。この家から狗神を追っ払ってもらうためにね」
「ばかばかしい」
 ようやく清巳は、華子へ目を向けた。そして鼻先でせせら笑う。
「あんなものはただの情緒不安定、女にありがちなヒステリイだ。放っておけば、そのうちすぐにおさまるんだ! それを、寝惚けた女の戯言
(たわごと)を真に受けて、こんな得体の知れない連中を屋敷に入れるとは。お前もどこかおかしいんじゃないのか!」
「いいじゃないのよ! なにもあんたに金払ってくれって言ってんじゃないんだから!」
 華子も声をはりあげた。口調が、初めて会った時とはだいぶ変わっている。
「ヒステリイだろうがなんだろうが、家中の者がみんな怖がって、泣いてんのよ! 今月に入ってから、二人も女中が辞めてるし! みんなの気持ちを落ち着かせるためにお祓いしてもらうのが、なんでいけないのよ!」
「家内の恥をそこら中に喧伝
(けんでん)するつもりか! 騙されているのがわからんのか!」
 清巳は征貞を指さした。
「この男だっておおかた、どこかの詐欺師かどさ回りの役者くずれだろう。その男がでたらめな経文を唱えると、そっちの小娘が芝居して、悪霊が乗り移ったのなんのと大騒ぎしてみせるんだ。使い古された手だ。そんなもので私は騙されないぞ!」
「……よくしゃべる男だな」
 ぼそっと、征貞が言った。
「人間、やたら口数が増えるのは、内心怯えてる証拠だぜ」
「な……ッ!?」
 清巳が一瞬びくっと肩をふるわせるのが、凛にも見えた。どうやら図星だったらしい。
 ……やっぱり、この人も怖いんだ。
 当然かもしれない。粕谷家をとりまくけものの《気》は怖ろしく濃く、強大だ。先日吉原で出くわした、吉原中の女の怨念を吸い集めていた花魁の悪霊にすら、匹敵するかもしれない。
 ここまで強烈な気配の中にいれば、どんな鈍感な人間だって、なにかしらの違和感や恐怖を覚えずにはいられないだろう。
 まして清巳は、凛の目にもかなり小心そうに見えた。とてもこの広大な家屋敷の主人、まして巨大な財閥の総帥とは思えない。
「こ、この……ッ!」
 どなりつけようとして、清巳は言葉につまった。
 そして、いきなり激しく咳き込む。
「う――う、げっ! げほッ! く、が……ッ!!」
「清巳さま!?」
 大浦があわてて駆け寄った。
「ち、ちょっと、大丈夫、清巳さん!?」
「私に近寄るな!!」
 清巳は身体をくの字に曲げ、苦しげに咳き込み続けた。ようやく咳がおさまった時には、その顔は紙のように白く血の気を失い、冷たい汗が浮かんでいた。
「ほんとに大丈夫なの? ねえ、ちゃんとお医者さまに診てもらったほうが――」
「うるさい! 私を病人扱いするな!」
 支えようとした大浦の手をも、清巳は乱暴に払いのける。
 征貞は呆れたように吐息をつき、ぼりぼりと頭を掻いた。
「その、狗神憑きの女が暴れ出すのは、いつも夜中なんだな? じゃあ今夜一晩、様子を見させてくれ。話は全部、それからだ」
「……好きにするがいい」
 吐き捨てるように、清巳は答えた。
「だが、あまりあちこちうろつかぬことだな。殊に、裏庭の土蔵の付近には、西欧から輸入した猟犬を放し飼いにしてある。この頃、こそ泥が多くなったのでな」
 まるで、いかにも征貞と凛がこの家の財物をくすねに来た、とでも言いたげな口振りだった。
「家の者以外の人間にはすべて襲いかかるよう訓練してあるから、うかつに近寄ると、手足の一本くらい食いちぎられるかもしれんぞ」
「独逸
(ドイツ)かどっかの犬ですって。土佐犬よりもでっかくって、ほんと、おっかないわよ。清巳さんの命令しか聞かないの」
 華子が小声でささやいた。
「大浦さんの怪我も、どうやらその犬に噛みつかれたらしいのよ」
 清巳はそのまま、目礼もせずに征貞の前を通り過ぎ、サンルームを出ていこうとした。
「大浦。なにをしている、早く来い!」
「は、はい。会長……」
「まったく、きさまは誰の使用人だ! 主人を放り出して、こんな茶番に付き合うとは!」
「申しわけございません。お許しください」
 そして清巳は、足音も荒くサンルームを出ていった。
 大浦が足を引きずりながら、あわててそのあとを追う。
「ごめんなさいねぇ、ヤなもん見せちゃって」
 あっけらかんと華子が笑った。
「仲悪いのよ、あたしたち。ま、当然っちゃ当然だけど」
「お兄さん……なんでしょ?」
 つい、凛は訊ねてしまった。依頼人の家庭の事情に首を突っ込むなと、いつも征貞に言われてはいるのだが。
「戸籍上はね。あたしと月ちゃんにとっては義理の兄、雪代
(ゆきよ)さんには弟ってことになるのかな」
 華子はどさっと身を投げ出すように、ソファーに座った。来客用らしいテーブルの煙草に手を伸ばし、火をつける。それがやけにさまになっていた。
「あたしら三人とも、清巳さんと血のつながりはないの。一応、先代さまの養女ってことになってるけど、ほんとはみんな、先代の妾だったのよ」
「め、妾!?」
「ほら、知らない? 赤新聞とかが、政治家や華族のお偉いさんがどこそこに何人妾を囲ってるって、片っ端から書き立てるじゃない。畜妾糾弾キャンペーンとか言ってさ。そんなふうにマスコミに叩かれるのを防ぐためにさ、妾を養女って形で籍に入れて、ごまかしてたのよ」
 華子はぷかあっと口から白い煙を吐き出した。
 凛は思わず、ぱっとソファーから飛び退いた。
「あーあ、やっぱりあたしにゃ無理だわあ。良いとこ育ちのお嬢さまの真似なんてさ」
 ほんとは本所の下町生まれよ、と、華子は笑った。
「それなのに、実情はどうあれ表向きは粕谷の籍に入ったのだから、名前に恥じない品格を保てだなんて、あのお坊ちゃま、うるさくてさあ。まるで女学校教師のいかず後家みたい。あんなんだから二三にもなって、まだ独り身なのよ」
 このがらっぱちな言葉遣いが、華子の本来のしゃべり方なのだろう。それでも彼女のあでやかさは少しも損なわれていない。むしろ親しみを感じ、さらに魅力的に思えるくらいだ。
 征貞もソファーには座らず、大きな出窓のほうへ近づいた。
「ここから庭へ出られるのか? 少し、歩いてみてえんだが」
「大丈夫だと思うわ。清巳さんの犬たちも、昼間は犬小屋につないであるから」
 華子は煙草を消し、立ち上がった。そして庭へ出るためのガラスの扉を開ける。
 凛もいそいそと庭へ出た。広いサンルームとはいえ、煙草の臭いがつらかったのだ。
 庭は美しく手入れされ、さまざまな花が咲き乱れていた。濃い緑の松や楓の向こうに見える漆喰の白壁が、清巳の言っていた土蔵だろう。
 広い敷地内には、ほとんど人の気配が感じられなかった。
「何人くらい住んでるんだ、ここに」
「粕谷家の人間は四人よ。清巳お坊ちゃまと、先代の三人の妾。雪代、月絵
(つきえ)、華子。あとは住み込みの下男が二人と運転手、料理番、女中が六人……いえ、五人だったわ。こないだ、また一人辞めちゃったから」
 華子は指を折って数え上げた。
「そうそう、大浦さんもここに住んでるのよ。先代さまが生きてらした時分からね」
 それでも、この広い屋敷にはあまりに少ない人数だ。
「お坊ちゃま……清巳さんは、奥さまのお子さん?」
「――凛!」
 よけいなことを訊くな、と、征貞が目で制する。
 けれど凛は、好奇心を抑えられなかった。
「ええ、そうよ。子供は清巳さん一人だけ。先代さまは、もっと欲しかったみたいだけど。清巳さんはあのとおり、身体があんまり丈夫じゃないし。だから三人も妾を家に入れたのかもね」
「奥さまは?」
「十年も前に亡くなったそうよ」
 華子は庭を見回し、ため息をついた。
「ほんとはあたしも、こんなとこさっさと出て行きたいんだけどさ。旦那は死んじまったし、清巳さんとは顔あわせりゃケンカばっかりだし」
「ここ……出て行って、どうするの? 華子さん」
「決まってるじゃない、嫁に行くのよ」
 華子はにこっと笑った。
「あたし、これでも長屋じゃ一番の料理上手だったんだから。洋行帰りの若さまなんて贅沢は言わないわ。腕のいい大工か働き者の魚屋か、好みの男がいたら、さっさと結婚しちゃう!」
 そして声をひそめ、凛にこっそり耳打ちする。
「実を言うとね、あんたんとこの先生も、けっこうあたしの好みよ。あたし、ああいう下駄みたいな顔したごッつい男が好きなのよ」
「下駄……!」
「清巳さんみたいな、なよなよしたのが一番苦手。男はとにかく頑丈なのが一番だわ」
 下駄みたい、という華子の感想を、ぜひとも征貞に教えてやろうと、凛は思った。
 庭は次第に夕暮れの茜色に染まろうとしている。白亜の洋館もほのかな紅色に染まり、夢の城のように美しかった。
 その美しい風景の中を、征貞はなにかを確認するように、一足ごとに地面を踏みしめ、歩いている。なにか探しているのかもしれない。
 そんな時、凛はけして征貞に声をかけなかった。必要があれば、征貞のほうから呼んでくれるはずだ。
 華子は手近な庭石に腰を下ろした。凛もその隣にちょこんと座る。
「あーあ、こんなあたしでももらってくれる男がいたら、明日にでも嫁に行っちゃうんだけど。鍋釜つめた茶箱ひとつ、引っ担いでさあ」
「なに貧乏くさいこと言ってんのよ、華子。そんなこと言ってたら、本当に身ひとつで屋敷を叩き出されちまうわよ」
 横から、ふいに声がした。女にしてはやや低く、張りのある声だ。
「雪代さん」
「あたしらは妾じゃない、れっきとした粕谷家の養女なんだよ。この家屋敷だって財産だって、あたしらにも受け継ぐ権利があるんだから」
 庭木の陰から姿を見せたのは、和服姿の女性だった。年令は華子より少し上だろうか。上品なあさぎ色の友禅を着ているが、唇は紅く、女優髷に結い上げた黒髪は濡れたようにつややかで、どこか妖艶なものを感じさせる。雪代という清楚な名前がいささか似合わないほどだ。
「あの男が、あんたが連れてきたって拝み屋なの?」
「そうよ。大浦さんが探してきてくれたのよ。すっごい霊能力持ってんですって」
「ふうん……。人は見かけによらないねえ」
 雪代は猫みたいに目を光らせ、征貞を眺めた。
 舌なめずりせんばかりのその表情に、凛は思わずぞっとした。雪代は間違いなく、混じり気なしの人間だ。なのにまるで、人の生き肝を食い漁る鬼女のように思える。
「華ちゃんの情人
(イロ)かと思ったわよ。清巳のボケナスが、えらい剣幕だったからさ」
「そうなら良かったんだけどねえ。第一、惚れた情人
(おとこ)がいるんなら、こんなとこ、さっさと逃げ出してるわよ」
 華子はけらけら笑って言った。
 だが雪代は、ぎらりと凄みのある光を目に宿す。
「あたしは絶対、出ていかないよ。もらう物もらってからでなきゃ、誰が出てってやるもんか。いくら旦那が死んじまったからって、あんな青びょうたんに追い出されてたまるもんか」
 青びょうたんとは、清巳のことだろうか。
「雪代さん、まだそんなこと言ってんの?」
「当たり前じゃない。粕谷家の養女でいりゃあ、一生遊んで暮らせるんだよ。このまま財産も分けてもらえずにお払い箱なんて、冗談じゃないよ!」
「あたしゃ長持ひとつに鍋釜布団詰めて、持たしてもらえりゃ、それで充分なんだけど。ついでに引っ越し用の大八車でも貸してもらえりゃ、もう言うことないわ」
「まったく、欲がないね。あんたも月絵も。あきれるよ」
 雪代は冷たく華子を見くだした。
「じゃああんたたちは、あたしが清巳のぼんくらを追ン出して、この粕谷の家を乗っ取っちまっても、文句はないんだね?」
「やぁだ、雪代さん。そんなこと、できるわけないじゃないのさあ」
「できないって思うのは、あんたに度胸と才覚がないからよ。あんたにも、月絵にもね」
 華子はもう返事もしなかった。ただ軽く肩をすくめて見せる。
 そんな華子に、雪代はさらに小馬鹿にしたように、ふん、と、小さく鼻を鳴らした。
「まあ見ててごらん。あたしにゃとっておきの切り札があるんだから」
 そして彼女は、足早に日本家屋の母屋のほうへ歩いていった。
「……もの凄え女だな」
 雪代の後ろ姿を見送り、それまで黙っていた征貞がぼそりとつぶやいた。
「まあね。雪代さん、以前は柳橋一番の売れっ妓だったし」
「辰巳芸者か。どうりで威勢が良いわけだ」
 辰巳芸者とは江戸城の東南、辰巳の方角にあたる柳橋の芸者たちを指す。男まさりの気っ風の良さが売り物のため、旧幕時代から男物の羽織を着て、男名前で座敷に出ていた。現在、女性の和服にも羽織が一般化しているのは、この辰巳芸者の風俗が広まったものである。
 凛はため息をついた。
 これだけの人間に接触すれば、いつもならすぐに狗神憑きの臭いを嗅ぎ分けられるはずだ。少なくとも、今まで会った人間の中で、誰が一番多く狗神憑きの者と接触しているかくらいは、察することができただろう。
 だが今は、それすらわからない。屋敷中に充満する狗神の強烈な《気》に気圧されて、嗅覚が完全にマヒしてしまっている。
 妖狐の鼻が利かないと、不安でしかたがない。まるで目隠しして迷路に飛び込んだみたいだ。
 もしかしたら、清巳が飼っている舶来の猟犬のせいもあるかもしれない。今は犬小屋につながれているようだが、妖狐としての凛の気配を察知しているのか、ひどく猛々しく、威嚇する気配がつたわってくる。
 それとも、この家に渦巻く人間たちの悪意と欲望が、凛の感覚を狂わせているのだろうか。
「先代は、とにかく生きのいい女が好みだったようだな」
「あら、そうでもないわよ。若くて美人なら、なんでも良かったみたい」
 華子はちらっと視線で、洋館の二階を示した。
 ベランダの窓が開き、そこからほっそりした人影が夕陽の茜色の中に現れる。
「あれは……」
「月絵ちゃん。粕谷の雪月花、最後の一人よ」
 凛は思わず息を呑んだ。朴念仁の征貞でさえ、ほう、と小さく感嘆の吐息をもらす。
 そこに立っていたのは、細い月のように美しく、透き通るような少女だった。
 茜色の陽光に染まっていても、その抜けるような肌の白さは変わらない。背中まで滝のように流れ落ちる黒髪、最高級の絹のブラウスでさえ重たげに見えるほど細い肩。
 物思いにふけっているのか、遠くをぼんやり眺める表情は、どこかひどく淋しそうだ。声をかけるのすら、ためらわれるほどに。
 まるで少女雑誌の美少女画のようにはかなげで、今にも消えていきそうな姿だった。
 やがてベランダにもう一人、背の高い人影が現れる。
「……あ!」
 凛は思わず、小さく驚きの声をあげてしまった。
 それは大浦だった。
 大浦はベランダの端に立ったまま、月絵になにごとか声をかけていた。月絵はうつむいたまま、小さくうなずいているようだ。
 無論、庭からでは二人の話は聞こえない。
 けれど凛は、今は見えない妖狐の大きな耳が、ぴん、と跳ねるのを感じた。
 妖狐の聴力なら、ベランダのひそひそ話も聞こえてしまう。立ち聞きは良くないとわかっているけれど、つい、好奇心が先に立ってしまった。
「……あまり外の風にあたっておられますと、お身体に障ります」
 低くひそめた大浦の声が聞こえる。
「やめて。私にそんな言葉遣いはしなくていいはずでしょう」
「ですが……」
 大浦はためらっているようだった。が、やがてそっと月絵に近づいていく。
「このお屋敷にいる間は、私は清巳さまの使用人ですから」
 月絵は小さく哀しそうに吐息をつき、何も答えなかった。
 二人の話し声は聞こえても、さすがに逆光になったその表情まではうかがい知ることはできない。
「さあ、お部屋へお戻りください」
「もう少し外を見ていたいんです。お願い」
「月絵さま……」
 だが、やがて庭の人影に気がついたのか、大浦はぱっと飛び退くように月絵から離れた。
「――失礼いたします」
 そしてあわててベランダから室内へ戻ってしまった。
 月絵もそのあとを追い、姿を消す。
 ちらっと見えたその表情には、怯えの色が浮かんでいた。
「あら。悪いことしちゃったかしら」
 子供みたいにぺろっと舌を出し、華子が言った。
「大浦さんもいい男なんだけどねえ。しょうがない、月絵ちゃんにゆずるわ。だって月ちゃん、あたしなんかよりずうっと可哀想なんだもの。ほんとに独りぽっちなのよ」
「家族が、いないの?」
「流行り病で両親とも早くに死んじまったんですって。それで、同郷のよしみで先代さまを頼って上京したそうよ」
 くすん、と、華子は小さくすすりあげる。どうやら月絵の孤独に同情しているらしい。
「あたしなんざ、本所に帰れば、父ちゃん母ちゃんにやッかましい弟が三人もいるけどさあ。月ちゃんにはだぁれもいないのよ。抱きしめてくれる優しい人がいなけりゃあ、淋しくって淋しくって、とっても生きていけないわ」
「うん……」
 凛も同じだ。親も兄弟もなく、征貞がいなければ、とうてい生きていられない。
「あら。あんたも月ちゃんに同情してくれるの? 優しいねえ」
 華子は凛を抱き寄せた。小さい子にするみたいに、凛の頭をなでなでする。
「じゃああんたも、さっき見たこと、絶対に清巳さんに告げ口したり、しないわよね?」
 清巳は死んだ父の妾たちを毛嫌いしているらしい。自分の使用人が妾の一人と恋仲になるなど、絶対に許さないだろう。
 恋人たちが引き裂かれてしまうのは、あまりに可哀想だ。
「あい。約束する」
「ありがと! ほんと、いい子ね!」
 華子の指にはまだちょっと煙草の臭いが残っていたけれど。
 それでもこうして彼女にぎゅうっと抱っこされるのは、少しも嫌じゃないと、凛は思った。






「ま、お前を連れてきたのも、あながち無駄じゃなかったな。俺一人だったら、庭先で野宿しろと言われたかもしれん」
 布団の上であぐらをかき、征貞は言った。
「でも、ご飯はおばちゃんのほうがおいしかったよ」
「贅沢言うな。この家の主人にとって、俺たちは招かれざる客なんだ。使用人は主人の意向に従うしかねえだろう」
 二人に古参の女中頭が用意してくれたのは、日本家屋の母屋の一室だった。
 あまり使っていないのか、部屋の空気はよどみ、少し湿っぽかった。
 征貞は愛想の悪さをさほど気にする様子もない。だが警戒を解いてはいないらしく、脛にくくりつけた三ツ折れ短槍は、そのままだ。
 三本の短い金属製の筒は、江戸時代からある三ツ折れ短槍を征貞が独自に改良したものだ。それぞれの端を螺子
(ネジ)のように差し込み、つなぎ合わせることで、一本の鋭い槍となる。室内でも使いこなせるよう、その長さは五尺ほどと、通常の槍よりもやや短い。が、持ち運びの時は筒の中に折りたたまれている両端は、両方ともが鋭く研がれた刃になっており、また柄も金属製のため、使い方次第では非常に強力な武器となる。
「家の中が荒れていると、ろくでもないものが寄り集まりやすい。悪いモノに取り憑かれたから、家の中が荒れていったようにも見えるが、大概は逆だ。人の心が荒んでいるから、良くねえものを次々に呼び寄せちまうのさ」
 征貞は独り言のようにつぶやいた。
「――なに、見てるの? ゆきさん」
「ん? ああ」
 ランプの灯りにかざしていたものを、征貞は手のひらにのせて、凛の前に差し出した。
「ゆきさん。これって……!」
 それは、茶色いけものの体毛だった。一部、腹の毛なのか、白い柔毛
(にこげ)も混じっている。
「犬……じゃない。これ」
「やっぱりそうか」
 征貞は凛の手に茶色い毛玉をのせた。
「雄……だね。若い雄の狼」
 凛は毛玉を鼻先に近づけ、くん、と匂いを嗅いだ。いくら狗神の気配で鼻が利かないとは言え、現物が目の前にあれば、さすがにその匂いは嗅ぎ分けられる。
「怪我してるみたい。少し血の匂いがする。それに……」
 似てる、気がする。あの少年に。
 同じ群れで生まれ育った者たちだけが分かち合う、同じ山々の匂いだ。
「たしかか?」
 征貞はそう念を押した。
 そう言われると、確信が持てない。
「確実でないなら、よけいな先入観は持つな。思わぬ間違いをしでかすことがあるぞ」
「あい、ゆきさん」
 凛はこくりとうなずいた。
「お前はもう寝ろ。ただでさえ狗神の《気》にやられて、ろくに妖力も使えねえんだ、今は少しでも身体を休めることを考えろ」
 そう、征貞が言った時。
「きゃあああああ――ッ!!」
 突然、女の絶叫が響いた。
「な、なにっ!? なにかあったの!?」
 凛ははじかれたように飛び起きた。
「凛、行くぞ!!」
「あ、あい!」
 征貞は部屋の外へ飛び出した。凛もあわててその後を追う。
 廊下に出ると、征貞は一切の面倒を省き、真鍮製の雨戸を蹴り倒した。
 冷たい空気が、ごうッと渦を巻いて室内に流れ込んでくる。
 同時に、むせ返るほどの濃い血臭が。
 ころげるように、二人は庭先へ飛び降りた。
「きゃああッ!! ぎゃあ、いやああッ!!」
「た、助けて、誰かあああッ!!」
 壊れた蓄音機みたいな、すさまじい悲鳴が響く。
 寝間着姿の若い女中が三人ほど、中庭のすみにかたまって、泣きわめいていた。
「あ、あ、あれ……。見て、あそこ――!」
 ふるえる指先が指し示したところには。
 青白い月光を浴びて、両腕から腹部までをべったりと血に染めた月絵が立っていた。





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