うつろな表情で、月絵がこっちを見る。その動作は妙に鈍く、まるでからくり仕掛けの人形みたいだ。
「は……な、て……」
 青ざめた唇がふるえ、低くかすれた声がもれた。
「はなて――解き放て……。我を、ここから、解き、放て……」
「月絵さん!?」
 まるで、どこか遠い別の世界から響いてくるような、陰に籠もる声。
「我を……この家より解き放て……。さもなくば、さらなる災いがもたらされるぞ……」
 血まみれの手がのろのろとあがり、凛と女中たちのほうへ伸ばされる。
 華子が見たという狗神憑きの女は、女中などではなく、月絵のことだったのか。そして大浦は、自分の恋人をかばって、とっさにあんな嘘をついたのだろうか。
「キャアッ! ひィッ、ひ、人殺しいいッ!!」
「た、助けて! 殺されるううッ!!」
 女中たちが一斉に金切り声をあげた。
「ちょっと落ち着いてよ、お姉さんたち!」
 悲鳴に負けないよう、凛は精一杯の声を張り上げた。
「い、いやああっ! 化け物、狗神憑きよおっ! 助けて、誰かあッ!!」
「食われる、食い殺されるッ!!」
「死にたくないいーっ!!」
「しっかりしてよ! ちゃんと見て、誰も死んでなんかいないってば!」
 凛は女中たちの腕をつかみ、力いっぱい乱暴に揺さぶった。
「あれは違うってば! 人の血じゃない、あの人は狗神憑きなんかじゃないよ!」
 その時。
 鼓膜をつんざくごとく、銃声がとどろいた。
 凛の全身が一瞬で硬直する。
 血臭をかき消す、硝煙の臭い。
 銃声の余韻が暗く広い庭に殷々
(いんいん)とこだました。
「――ちぃ。外したか」
 どこか金属質な、耳障りな声。
「てめえ……」
 大きく目を見開いたまま硬直してしまった凛を抱きかかえ、征貞が低く言った。
「問答無用で猟銃ぶっ放すなんざ、穏やかじゃねえな。仮にもてめえの義妹
(いもうと)だろう」
「化け物を妹に持った覚えなど、ない」
 鈍色に光る猟銃を構え、清巳がゆっくりと近づいてくる。
 真夜中だというのに、清巳は髪も乱さず、舶来のスーツにぴったりと身を包んでいた。
 その弾丸は標的をかすりもしなかったらしい。月絵は自分の足でしっかりと立ち、清巳を燃えるような目でにらみ据えていた。
「だから私は、こんな女を家に入れるのは反対だったんだ。この女の生まれ育った山里は、昔から狗神憑きの言い伝えが数多く残る地域でな。中でもこの女は、列車の転覆事故に巻き込まれても、たった一人無傷で生き残った、化け物だ!」
 清巳はふたたび、銃口を月絵へ向けた。
「死ね、化け物めッ!!」
「やめて!」
 凛は懸命に声をふりしぼった。
「違う! この人は違う、撃っちゃだめ!」
 が。
「うわああああッ!!」
「な、なに!? 今度はなに!?」
「裏庭のほうか!? ――まさか!」
 清巳の意識が一瞬、逸れる。
 その隙に、征貞が清巳に飛びついた。猟銃を奪い取り、塀の向こうへ投げ捨てる。
「なにをするっ!」
「うるせえ、邪魔だ!」
 清巳を蹴り倒し、征貞は走り出した。
「凛、来い!」
「あい!」
 冷たい地面を蹴って、二人は中庭を走り抜けた。
 裏庭へ向かうため、広い母屋を大きく回り込む。
 そこには小さな竹林が造られ、中庭よりもさらに暗い。その向こうに白壁の土蔵が並んでいなければ、人家の庭とはとうてい信じられなかった。
 きゃん、きゃんっ、と、情けない声が聞こえる。
 清巳が自慢していた猟犬たちが、両脚の間に尻尾を丸め、藪に頭を突っ込んで怯えている。
「ゆきさん。あそこ……」
 凛はひとつの土蔵を指さした。
 鉄の扉が開いている。
 土蔵へ入るための階段に、もたれかかるようにして一人の男が倒れていた。
「大浦さん!?」
 凛は慌てて大浦に駆け寄った。
 昼間と同じ地味なスーツはあちこち引き裂かれ、血がにじんでいる。眼鏡もなくなり、顔には刃物で切り裂いたような鋭い傷が刻まれていた。
 征貞が抱え起こすと、大浦はかすかにうめき声をもらした。
「息はある。……怪我も、それほど深くはねえようだ。命に別状は――」
「ゆ……ゆきさん……」
 茫然と、凛は征貞を呼んだ。
 暗い土蔵の内部を見つめ、指をさす。
「ゆきさん。あれ……。あれ、は――」
 そこには、喉元から下腹までを縦一文字にばっくりと切り裂かれ、もの言わぬ骸となった粕谷華子が横たわっていた。





   三、流血の箱庭

       恋の命を尋ぬれば 名を惜しむかな 男子ゆえ
          友の情けを尋ぬれば 義のあるところ 火をも踏む
                    (旧制第三高校寮歌「人を恋うる歌」より)

 見開かれたまま、もうなにも映さないガラス玉みたいな目。唇にはばら色の口紅が残っている。その表情はあまり歪んではおらず、頬や額にまで血飛沫が飛んでいたけれど、生前の彼女の快活な美貌はほとんど損なわれてはいなかった。
 それゆえに、首から下の無惨な傷が、あまりにも残酷で哀しい。
「華子さん……。華子さん、どうして……っ」
「華子だと? あのあばずれがどうかしたのか」
 冷酷な声がした。
 振り向いた凛と征貞の目に映ったのは、ずらりと並んだ銃口だった。
「……これだけでけえ家に猟銃が一丁きりなんて、思うほうが甘かったな」
 清巳の手には黒光りする拳銃が握られている。その後ろに並ぶ男たちはみな、慣れた様子でライフル銃を構えていた。
 銃口の列の後ろには、月絵の姿もある。後ろ手に縛られ、無理やり引きずられるその姿は、嵐に吹き散らされる花のようだ。
「立て」
 傲慢に、清巳は命じた。
 傷ついた大浦の身体をふたたび階段に横たえ、征貞は立ち上がった。
「やけに人数が多くねえか? この屋敷に住み込んでる男の使用人は、せいぜい三、四人だって聞いてたんだが」
「借りているのさ。用心のために、さる組織からな」
「組織?」
「きさまが知る必要はない」
 清巳は背後の男たちに、小さく顎をしゃくって合図した。それに従い、男たちの一人が気を失った大浦を抱えて立ち去る。
「さて、と。これを見られてしまった以上、きさまらをここから帰すわけにはいかなくなった」
 華子の無惨な亡骸を見ても、清巳は眉一つ動かさなかった。まるでそこにあるのが、壊れた機械か蝋人形であるかのようだ。身内を殺された怒りや悲しみなど、微塵も感じられない。
「華子は病死として処理する。事実を公
(おおやけ)にして、粕谷の名を汚すわけにはいかんからな」
「そんな……! 華子さんは殺されたんだよ!? 犯人をつかまえなくちゃ――」
「犯人なら、ここにいる」
 突き飛ばされ、月絵がよろよろと清巳の前に膝をついた。
「この女は狗神憑きだ。華子は身を以て、おのれの言ったことを証明したわけだな」
「違うわ! 私は絶対に、華子さんを殺したりしない!」
 初めて月絵がはっきりとした声をあげた。
「うるさい!」
 清巳は拳銃の台座で、力任せに月絵を殴りつけた。
 小さく悲鳴をあげ、月絵が地面に倒れ込む。
「その血まみれの姿以上に確かな証拠があるか!?」
 倒れた月絵を、清巳はさらに蹴りあげた。
 が、突然激しくげほげほと咳き込む。その咽せ方は尋常ではない。あきらかに、どこか身体の具合が悪いようだ。
 ようやく咳がおさまると、ぜいぜいと荒く息をしながら、清巳は背後の男たちに命じた。
「死体を運び出せ。今夜のうちに片づけろ」
「清巳さま。この者たちはいかがいたしましょう」
「そうだな……」
 清巳の銃口はふたたび征貞に向けられた。まっすぐに征貞の心臓を狙っている。
「この土蔵にでも閉じこめておけ。死体の始末がついたら、考える」
 男たちは華子の死体を布でくるみ、運び出した。その間ずっと口もきかず、表情ひとつ変えなかった。淡々と機械のように、命じられたことをこなす。
 そして凛と征貞、気絶した月絵は、ろくに光も入らない土蔵の中に閉じこめられた。
 華子の血潮でまだべったりと濡れている、蔵の中に。






「まったく怖ろしいねえ。同じ屋根の下に、あんな狼憑きの化け物が住んでいたなんて」
「なにが言いたい、雪代」
「あら。雪代お姉さまと呼んでもいいのよ、清巳坊ちゃま」
 甘ったるく鼻にかかる声で、雪代は癇に障るしゃべり方をした。
 洋館の二階、サンルームの真上にあたる部屋が、清巳の書斎だった。
 大きな黒檀の机と、壁一面の書棚。そこを埋め尽くす革張りの洋書。重厚で壮麗な調度は、腺病質
(せんびょうしつ)の清巳にはかなり不似合いだ。
 この書斎の窓からは、裏庭も、そこに立ち並ぶ漆喰の蔵も一目で確認できる。
 真っ暗な庭にまるで小さな島のように浮かんで見える土蔵を、清巳は冷たい目で眺めていた。
「月絵も、あの蔵ん中に閉じこめてるの? 拝み屋の連中といっしょに。そんなことして、あの連中が月絵に食われちまったら、どうすんのよ。狗神憑きなんでしょ、あの女」
 にやにや笑いながら近づいてくる雪代に、清巳はもう返事もしなかった。
「やっぱりあんたも、月絵が殺ったなんて思っちゃいないんでしょ。いくらあの子が山里の出だからってさ。――ま、あんたには都合が良かったわよね。華子は死んで、ついでに月絵の始末もつけられるんだもの」
 あざ笑うようにしゃべり続ける雪代に、清巳は神経質そうに眉を寄せた。
「でも、あたしはそうはいかないよ。あんなお人好しの間抜け女とは違うからね」
「さっきから、何が言いたいんだ。用がなければ、私の部屋からさっさと出ていけ!」
「いいのかい、あたしにそんな態度とって。あとで後悔するよ」
 雪代は深紅に塗った唇で、にやりと勝ち誇ったように笑った。
「先代の旦那の赤ん坊がいるんだよ。このお腹ん中にはね」
「――なんだと!?」
「そうさ。旦那が待ち望んでた、あんたの弟か妹だよ。出来損ないの嫡男に替わってこの粕谷家を継ぐ、丈夫で賢い跡取りさ!」
 清巳は一瞬、呆れたような表情をした。
 そしてすぐに、くくく……と、喉の奥に絡みつくような声で笑う。
「馬鹿を言え。父は三ヶ月前に病死した。子供などできるものか」
「あら。死ぬ間際まで、旦那はとても健康だったわよ。充分、子供が作れるくらいにね」
 猫のように目を光らせ、雪代はじりじりと清巳に近づいていった。
「そうよ――病気で死ぬような兆候なんか、なんにもなかった。旦那は……」
「黙れッ!」
 清巳はヒステリックに怒鳴った。
「その腹の子が、父の子だという証拠がどこにある! おおかた、どこの馬の骨ともわからん男の胤だろうが! そんな赤ん坊を、粕谷の家の者だなどとは絶対に認めんぞ!」
「おやそうかい! じゃああたしも言ってやるよ! 先代を――この子の父親を殺したのは、あんただってね!!」
「な……ッ!?」
 清巳は絶句した。
「な、なにを、きさま……っ」
「おやまあ。そんなに泡食っちゃってさあ。どうやら図星だったらしいねえ」
 勝ち誇り、雪代が小気味よさそうに笑う。
「何の証拠があって、きさま――!」
「証拠? そんなもん、これから探しゃあいくらでも出てくるさ。あたしは旦那から聞かされてたんだよ。子供の時分から病気ばっかりして、いつおっ死ぬかわかんないぼろ雑巾みたいなあんたに、粕谷財閥は任せられない。一日も早く、あたしら妾に丈夫な跡取り息子を生ませて、あんたを廃嫡
(長男としての相続権を取り上げること)したいってね! 同じことを、あんたも聞かされていたんだろ!?」
「きさま……」
 呻くように、清巳は言った。
 黒檀の机に置いた両手が、小さくふるえている。
「親戚連中だってみんな、あたしの味方につくはずさ。あんたが父親から疎まれてた出来損ないだってのは、みんな知ってることだからね! それでもあたしをこの家から追い出そうとするなら、言ってやる。あんたが旦那を――実の父親を毒殺したってね!」
 雪代は清巳に指を突き付けた。
「そうなんだろう!? そうでなきゃ、仮にも養女として籍に入れてもらい、子供までできたあたしが、死に目にも会わせてもらえない、棺桶の中の死に顔さえ見せてもらえないなんてことあるもんか。旦那の死体から毒の痕跡を発見されるのが怖くて、さっさと火葬にしちまったんじゃないのかい!?」
「……そうか――」
 うつむき、表情を隠したまま、清巳は低くつぶやいた。
「きさまがそこまで言うのなら、しかたがないな……」
「え……。な、なにを、あんた――」
 右手がのび、机の端に置いてあった呼び鈴を鳴らす。
 りん、と涼やかな音が響いた。そして、わずかな間をおいて、書斎の扉が開く。
「お呼びでしょうか、清巳さま」
 入ってきたのは大浦だった。
 顔面や衣服の下からのぞく傷が痛々しい。わずかな身動きにも痛みが走るのか、時々、かなり苦しげに眼鏡の下の表情を歪ませる。
「大浦。またお前の力が必要になった」
 その言葉に、大浦はさっと顔面を青ざめさせた。
「き、清巳さま!? しかし、今夜はまだ、屋敷内に部外者もおりますし――」
「うるさい! 黙って私の言うとおりにしろ!」
 甲高く上擦った声で怒鳴りつけられ、大浦はうなだれた。そのまましばらく考え込み、やがてのろのろと視線をあげる。
「わかりました。ですが……あの能力はいまだ開発途中です。不測の事態も起こりえます。それをお忘れなく」
 苦悩のにじむ声に、清巳はひどく優しげな猫なで声で答えた。
「ああ、わかっている。これはお前の罪ではない。すべては科学の発展と、この国の未来のためだ。すばらしい研究成果じゃないか」
「はい、清巳さま……」
 大浦が背広の内ポケットから小さな金属製の箱を取り出した。手のひらに乗るほどのそれは、注射器と血清のような薬品が納められたアンプルケースだった。
 が、注射器を持つ大浦の手は、怯えるように小刻みにふるえていた。
「なにをためらう、大浦。急げ」
 清巳は自分から大浦のそばに歩み寄った。いかにも親しげにその肩を叩き、はげます。
「ああ、そうか。いいんだ。華子の死は、お前のせいではない。お前が責任を感じる必要はないんだ」
「な、なに言ってんの、あんたたち……。まさか、華子を殺したのは……!?」
 清巳はにやりと笑った。ようやく勝ち誇るように。
「急げ、大浦。お前だって、守りたいものがあるのだろう? 迷うことはない。お前の大切なもののために、与えられた力を使うんだ」
「は、はい――!」
 ぱき、とかすかな音をたて、ガラス製のアンプルが割られた。注射器の中に薬品が吸い込まれていく。
「あの女は、見てはならないものを見たんだ。私たちの――いや、粕谷財閥の、新しい研究の成果を」
「研究の、成果だって……!?」
「ああ、お前にも見せてやろう。地獄で父に会ったら、話してやるがいい。出来損ないだと思われていた嫡男は、実は優れた先見の明を持ち、先代よりもずっと素晴らしい経営手腕を発揮して、粕谷財閥を大いに発展させているとな!」
 注射針が鈍く光った。
 薬品が体内に送り込まれる。
 変貌が始まる。
 黒い影が、大きく膨れあがっていく。
「私は父に毒なんか盛ってはいない。父には、我々の研究の礎になってもらったのだよ。お前たちに死に顔を見せなかったのは、遺体の損傷があまりにも激しくて、直視に耐えない状態だったからだ。――父は、この研究の最初の検証をしてくれた。我々が造り上げたものの具体的なデータを採取させてくれたのだ。この、他に類を見ないすぐれた戦闘能力を、身を以て証明してくれたのだよ」
「あ、あんた……っ。あんたは――ッ!!」
 雪代は張り裂けそうなほど大きく、目を見開いた。もう、悲鳴も出てこない。
 書斎の扉に飛びつき、必死でがちゃがちゃとドアノブを回した。が、扉にはかたく鍵がかけられていた。
「あっ、開かない、開かないっ!」
 雪代の目前に、巨大な影が迫る。真っ赤な目が光り、ごうごうと激しく熱いけものの息が吹きかけられる。
 そして、狼の遠吠えがとどろいた。






「さて、まいったな」
 征貞はたいしてまいってもいない口調でつぶやき、ぼりぼりと頭をかいた。
「しかし、坊ちゃま育ちってのは、あんなもんかね。閉じこめるのに、身体検査もしやしねえ」
 彼が言っているのは、袴の下に隠してある三ツ折れ短槍のことだろう。牢へつなぐのに武器も取り上げないなんて、たしかに間が抜けた話だ。
「これからどうするの、ゆきさん」
「まずは、ここから出ねえとな。こんなカビ臭えところで夜明かしなんて、冗談じゃねえ」
 暗くはあるが、目が慣れれば、どうにか物の輪郭くらいは判別できる。天井近くにある小さな明かり採りの窓から、月光が射し込んでいるおかげだ。
 蔵の外では、清巳の猟犬たちがけたたましく吠えている。凛たちを侵入者と見なしているのだろう。
「まずはここから出るのが先だな。凛、灯りをともせ」
「あい」
 凛は両手を揃え、ふうっと息を吹きかけた。
 小さな手のひらの上に、青白い狐火が灯る。
「……きゃっ!」
 月絵が押し殺した悲鳴をあげた。
「あ、ごめんなさい。びっくりさせちゃった?」
「い、いいえ……。だ、大丈夫よ。そう――似たようなもの、見たことがあるから……」
 月絵は肩で息をつき、懸命に自分を落ち着かせようとしているらしかった。
「でも……あ、あなた方って、いったい……」
 征貞は月絵のほうを見ようともしない。慎重に壁を調べ、どうにか明かり採りの窓まで手がかけられないかと、積んである長持や古い棚によじのぼったりしている。
「華子が言ってただろう。俺はただの拝み屋だ」
「華子さん……!」
 その名前に、月絵はさきほどの惨状を思い出したらしい。がっくりとうなだれ、すすり泣きをこぼし始める。
「華子さん、どうしてあんな……非道い……っ」
 蔵の床には、まだ華子の血潮がべったりと残っている。
 凛も唇を噛み、こみあげる涙を飲み込んだ。
 ……華子さんは、あんな酷い死に方をするような女性じゃなかった。そう、思う。ほんの少し話をしただけだが、あけっぴろげでお人好しだった彼女が、あんな残忍な殺され方をしなければならない理由があるなんて、絶対に信じられない。
 そしてその思いはおそらく、征貞も同じだろう。
 表面上は普段と変わりなく、ただむっつりとしているだけのように見えるが、その奥には激しい怒りが煮えたぎっている。
 他者にはほとんど見せない征貞の感情を、凛だけは読みとることができる。かたく握りしめた拳、額にははっきり血管が浮き上がり、次第に早くなる脈動すら測れるようだ。凛の妖狐の目には、征貞の全身から青白く抑えきれない怒りが炎のように噴き上がるのが見えていた。
「ゆきさん……」
 凛が小さく呼びかけても、征貞は振り向きもしなかった。
 ひとつ深く息を吐き、やがて平静な表情で月絵に声をかける。
「義理の姉妹が殺されて、哀しいのはわかるが、泣いてても何の解決にもならねえだろう。とにかく、この蔵から出るのが先だ。あんたも手を貸してくれ」
「え……」
 征貞は壁際に長持を積み上げ、それを足場に天井近くの明かり取りの窓に飛びついた。
「だめだ、こりゃ。完全なはめ殺しだ。開きゃしねえ」
 あきらめて、すぐに飛び降りる。
「おい、あんた。この屋敷で暮らして長いんだろう。この蔵のこと、なにか知らねえか」
「無理よ、ここから逃げるなんて……」
「無理かどうか、試してみなけりゃわからねえだろう。俺たちはこの屋敷の間取りがわからん。あんたに手を貸してもらいてえんだ」
「手を貸すって……あ、あなた方、怖くないの!? 私が華子さんを殺したとは思わないの!? 私はこんな姿なのに!」
「だって、違うもん」
 ぽつりと、凛は言った。
「お姉さんのそれ、人間の血じゃないよ」
 月絵の着ている白いワンピースを指さす。その胸元から裾にかけて、べったりと汚している血の痕を。
「それ――鶏
(とり)の血でしょ。それも、死んでからちょっと経ってる。量からすると、一羽分じゃ足りないし、たぶん、何羽かまとめて絞めた鶏を血抜きした時に出たやつじゃないかな」
「え、ええ……。ええ、そうよ。出入りの八百屋さんに頼んで、近所の農家から分けてもらったの。――でも、どうしてわかるの!?」
「匂い」
 こともなげに、凛は答えた。
「人間と鶏じゃ、匂いが違うよ。当たり前じゃない」
「こいつの嗅覚は特別製だ」
 征貞が、ぽんと凛の肩を叩く。
「こいつの言うことを、俺は信じる」
 なんの気負いもなく、ごく当たり前の顔をして征貞は言った。
 凛は耳元を薄赤く染め、うつむいた。
 身体の芯からあたたかいものが湧き上がってくる。征貞に信じてもらえることが、なによりも嬉しい。そう言ってもらえる自分が、誇らしく思えるのだ。
 月絵はまだ納得しかねるように、凛と征貞を交互に見比べていた。
 が、やがて、彼女は静かに立ち上がった。蔵の一番奥まったところまで歩き、その床を示す。
「ここに……、隠し部屋があります」
「隠し部屋!?」
「ですが、外へは出られません。ここは、囚われた者をつないでおく、牢獄のようなものです」
 征貞は、月絵が示した部分の床を覗き込んだ。ゆらめく狐火の明かりでは細かい部分も見定めにくいが、やがて巧妙に隠された取っ手を見つける。
 床に組み込まれていた観音開きの扉を開けると、そこには広さ二畳ほど、大人の男がようやく立っていられる程度の小さな隠し部屋があった。
 まるで地下収納庫のようなこの隠し部屋からも、血臭がする。それはかなり古く、饐えたような腐臭をもともなっていた。
 剥き出しの土の床には、錆びた鉄の鎖が落ちていた。
 誰かが、ここに閉じこめられていたのだ。それも、かなり長い間。
 征貞は一旦、隠し部屋に飛び降り、地面を掘り下げて固めただけの壁を確かめた。そしてすぐに、土蔵の床へ戻る。
「まいったな。出口は本当にそこの扉だけか」
 土埃を払い落とし、征貞はどさりと長持に腰を下ろした。ばさばさっと着物の袂をさぐり、
「煙草は――吸えるわけねえか」
 苦虫を噛みつぶしたようにぼやく。
 だらけて、気を弛めているようにも見えるが、凛にはわかる。
 今、征貞は全身の神経を研ぎ澄まし、分厚い漆喰の壁の向こうの気配をさぐっている。
 さっきまで鼓膜が破れそうなほどうるさかった犬どもの声が、いつの間にかぱったりと止んでいる。まるで眠ってしまったか――それとも、皆殺しにされたかのように。
 異様な気配が、ひたひたとつたわってきていた。
 扉の外に、なにかがいる。
 どんどん近づいてきている。
 凛にも感じられる。
 それは、殺意だった。
 誰か特定の相手に向けられたものではない。生きとし生けるものすべてを憎み、滅ぼそうとするかのような、圧倒的な敵意、憎悪。
「まともじゃねえな」
 ぼそっと、征貞はつぶやいた。
 そして。
「――ぎゃああああッ!!」
 絶叫が聞こえた。
 




BACK   CONTENTS   NEXT
【7】
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送