銃声。悲鳴。けものの咆吼。
 嵐のような物音が、蔵の外から聞こえてくる。
「ゆ、ゆきさん!」
 凛は思わず、征貞にしがみついた。
「ゆきさん。今……!?」
「ああ。俺もたしかに聞いた」
 暗い虚空を見上げ、征貞はうなずいた。
「あれは、狼だ」
 征貞は片腕で凛を胸元に抱え、月絵を背後にかばう。
「ぐああああッ!!」
「た、助け――誰か、あ……ぎゃああッ!!」
 続けざまに響く、断末魔の絶叫。
 甲高く炸裂する銃声。砂利を蹴散らして逃げまどう、何人もの足音。
 そしてまた、悲鳴。男、女、若い者、老人。さまざまな人間たちの、言葉にすらならない叫び声が入り交じる。
「な……、な、なにが起きてるの……っ」
 引きつったように、月絵がつぶやいた。
 扉の向こうで荒れ狂う気配は、人のものではない。狗神ですらない。
 なにか、もう《見たことのないもの》だ。
 凛の全身が硬直する。
 このすさまじい《気》を感じるだけで、泡を噴いて失神してしまいそうだ。
 こんなどす黒い悪意の塊に凛が触れたのは、両親が殺されたあの夜だけだ。恐怖と憎悪に駆り立てられて、人間としての正気を失ってしまった村人たちが、これと同じ《気》を、凛と父母に向かって放っていた。
 そしてさらに、絶命する人間たちの思いが、まるで矢のように凛の神経をつらぬいていく。
 恐怖、絶望、理由のない死に対する怒り、死んでも死にきれないこの悔しさ――剥き出しになった人間の生々しい感情が、まるで限界まで打ち鳴らされる打楽器の響きのように、凛の精神に流れ込んでくる。
 ――いや、いや、いや……。死にたくない。助けて。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくないぃ……!
「しっかりしろ、凛ッ!」
 征貞が怒鳴った。
「凛ッ! 目ぇ開けろッ! 凛!!」
「あ……。あ、ゆ、ゆきさん……っ」
 ふるえる唇で、凛はかろうじて征貞の名を呼んだ。
 焦点を失いかけ、大きく見開かれた瞳の前で、征貞はゆっくりとうなずいた。
「自分で立てるな、凛」
「う、うん……」
 しっかりしなければ。ここで失神したりすれば、征貞の足手まといになる。凛は血がにじむほど強く唇を噛み、床を踏みしめる両脚に力を込めた。
「お前らはここにいろ」
 征貞が、凛の身体から手を離した。
「ゆきさん!? なにするつもりなの!?」
「外へ出る。様子をたしかめるには、それしかねえだろう」
 征貞はそう言うと、蔵を閉ざす鉄製の扉に、肩から全力で体当たりした。
 だんッ! と、大きく蔵の扉が鳴った。だが、黒い鉄の扉は征貞一人がぶつかったくらいでは、小揺るぎもしない。
「ちぃッ!」
 征貞は二度、三度と体当たりを繰り返す。そのたびに扉は、強固に征貞の身体を跳ね返した。
 外の騒ぎはますます酷くなる。もう銃声も聞こえない。ただ、勝ち誇るようなけだものの咆吼と、人間たちの悲鳴とが重なり合うだけだ。その悲鳴も、やがて次々に消えていく。人の血とはらわたと、けものの唾液との臭いが入り混じった悪臭すら、感じられるようだ。
 けれど征貞は怖れない。そこに――この扉の向こうに、救いを求める者の手があるからだ。
「くそおおッ!」
 征貞は扉の前で身構えた。ふところから五鈷金剛杵を構え、真言を唱えようとする。
 が、それを制するように月絵が叫んだ。
「無理です! そんなことをしたって、この扉は破れないわ! 人間のあなたに破れるくらいなら、もう、彼がとっくに――!」
「彼!?」
 その言葉に、征貞が振り返る。扉をぶち破ろうとするのを止め、一瞬、月絵を見た。
 次の瞬間、外の騒動がぴたりと止まった。
 まるで時が止まったように、すべての物音がやみ、あたりがしんと静まり返る。
「え……」
 凛たちは息を呑んだ。
 悲鳴も銃声も聞こえない。聞こえるのはただ、自分たちの呼吸音だけだ。
 だがあの荒れ狂う《気》はまだ、扉の外に厳然として存在している。何らかの理由で傷ついたのか、それとも単に殺戮への飢えが満たされただけか、少しずつ鎮まり、弱まっていた。
 重苦しいほどの静寂の中、じゃり、じゃり……と玉砂利を踏んで蔵へ近づいてくる足音が聞こえる。
 そして、リズミカルで小気味よいノックの音が響いた。
「出て来てもらおう。咒禁師・各務征貞」
 がちゃり、と重たい音がした。扉の閂が外されたらしい。
「だ……、だめ! だめだよ、ゆきさん!」
 扉に手をかけ、内側から押し開けようとした征貞に、凛は渾身の力でしがみついた。
「凛!」
「行っちゃだめ! 罠だよ、絶対に!」
 この扉の向こうに待ち受けているものは、あまりに危険すぎる。みすみす罠が待つとわかって、征貞を行かせるわけにはいかない。
 凛はきゅっと唇を噛んだ。
「あたしが行く」
「凛!?」
 凛は一度、胸の奥まで深く息を吸い込んだ。
 そのまま息を止め、えいッと宙へ飛び上がる。
 くるっと一回転し、ふたたび床に降り立った時には。
 そこにはもう一人の征貞が立っていた。
「な……ッ!?」
 月絵が声にならない悲鳴をあげる。
 よれた着物もひざの抜けた袴も、ぶっつり切った髪も無精髭の一本一本にいたるまで、鏡に映したようにそっくりな二人の征貞が、向かい合って立っている。
「――凛!」
「だめ。ゆきさんはここに居て」
 だが、あとから出現した征貞のほうは、その口から聞こえるのは凛の声だった。
 他の人間そっくりに化けること。これも、凛の妖狐としての能力――最大の能力だ。
「あたしがゆきさんに化けて、時間を稼ぐから。ゆきさんはその隙に、ここから逃げて」
「そんな真似ができるか、馬鹿野郎!」
 凛はにこっと笑った。――実際それは、征貞の顔であるのだが。本当の征貞なら、けして見せない表情だ。
「大丈夫。あたし、ゆきさんのことならなんでも知ってる。どんなことでも、真似できるよ」
「そんなことを言ってんじゃねえッ!! さっさと術を解け!」
「やだ。ゆきさんこそ、どっかに隠れてて」
「凛ッ!!」
「心配しないで。ゆきさんは、あたしが必ず守ってあげる」
 そう――征貞のためなら、生きることも死ぬことも、なにも怖くない。
 この命も、身体も、すべて征貞のためだけにある。
 だが、征貞はきっと、このまま大人しく蔵の中に隠れていてはくれないだろう。申し訳ないけれど、気絶させていくしかない。
「ごめんね、ゆきさん。ちょっとだけ、寝てて」
 凛は両手を征貞の首もとに押し当てた。このまま一気に征貞の《精気》を吸い取れば、彼を失神させることができるはずだ。
「いい加減にしろ、凛ッ!!」
 征貞は凛の手を乱暴に払いのけた。
 そして今度は逆に征貞が、凛の額に右手を押しつけた。
「やだ、ゆきさん! なにすんの、離して!」
「――おん・しゅちり・きゃらろは・うんけん・そわかッ!!」
 この世の魔を調伏する降三世明王の真言が唱えられる。
 ぱっと、まばゆい純白の光が炸裂した。
 そして次の瞬間には、もう一人の征貞の姿は消えていた。
 小振り袖に行灯袴
(あんどんばかま)の凛が、どさりと床の上に倒れ込む。
 凛はあきらめなかった。もう一度とんぼを切ろうとする。
 が、身体に力が入らない。高く飛び上がるどころか、起き上がることすらままならなかった。
「く……っ!」
「そら見ろ。この狗神の《気》の中で、お前が消耗しねえはずがねえだろう。たとえ俺に化けたって、変化
(へんげ)の術が五分と保ちゃしねえだろうが!」
「だ、だって、ゆきさん……っ!」
 扉が、だん、だ、だんッ! と、苛立たしげに叩かれる。
「なにをしている、各務ッ! 一人では歩くこともできんのか!」
「うるせえな。ぎゃあぎゃあ喚くな。おしめが濡れた赤ん坊でもあるめえしよ」
 殺気立った怒鳴り声に、征貞はにやりと口元を歪めるようにして笑い、うそぶいた。
 そして、自分から扉のほうへ歩き出す。
「だめ……だめ、ゆきさん、行っちゃだめ!」
 凛は懸命に手をのばした。征貞の袴の裾を掴もうとする。
 行かせてしまったら、彼の命すら危うくなる。
 だが征貞は、静かに笑った。
 あたたかく、力に満ちた、征貞の笑み。
「死なねえよ、俺は」
 征貞の手が、凛の首筋に触れた。
 唇がわずかに動き、真言が声にならぬまま、流れ出す。
 びくッ! と、凛の身体が跳ねた。
 次の瞬間、凛はすべての意識を手放し、気絶していた。
 音もたてずに、征貞の腕の中へ倒れ込む。
「……莫迦が」
 苦く、あふれ出す感情を噛み殺すように、征貞はつぶやいた。
 くったりとしてしまった少女の身体を抱きかかえ、蔵の奥へと運ぶ。すべての力を失った凛の身体は、泣きたくなるほど小さく、軽かった。
 そして征貞は、扉に向かって歩き出した。
「お嬢ちゃん。悪りいが、しばらくその莫迦の面倒を見てやっちゃくれねえか」
「え……」
「なに、今まであんたが面倒みてたのと、たいして変わらねえ。むやみに小突いたり蹴飛ばしたりしなけりゃあ、こいつもめったやたらに噛みつきゃしねえからよ」
 征貞は五鈷杵をふところにしまうと、脛に結わえ付けていた三ツ折れ短槍を外した。かちり、と小さな金属音を響かせて、鋭く尖った両刃の槍を組み立てる。
 扉が開く。
 ずらりと並んだ銃口の列が、征貞を出迎えた。
 あたりは地獄絵図だった。
 銃口の放列の後ろには、血まみれの死体がごろごろと転がっている。食いちぎられたのか、ぼろぼろの腕や脚、丸太のようになった胴体。そこからはみ出すはらわた。半分になった顔、恨みを込めたまま見開かれ、硬直した目。ほとんどが、この粕谷邸に住み込んでいた使用人たちのようだ。
 屋敷は、炎に包まれていた。洋館の美しいステンドグラスはこなごなに砕け、窓から真っ赤な火柱が噴き上がる。日本家屋の母屋も火の粉をまき散らし、今にも焼け崩れようとしていた。
 けれど、それだけの火災の中、誰も消火をしようとしない。すべての建物を燃えるがままにしている。
 この蔵は風上に位置し、裏庭とそこに植えられた竹や樹木が火の粉や熱を遮るため、延焼の危険はなさそうだった。粕谷邸全体が広大な庭を備え、また近隣の住宅も同様に木々や池などがある庭に囲まれているため、強風でも吹かないかぎり、隣家へ飛び火する心配だけはない。消火設備がまだ貧弱だったこの時代、類焼を食い止める最大の方法は、庭や空き地、道路など、建物と建物の間に広い空間を作っておくことだけだった。
 遠くからけたたましい鐘の音が聞こえる。ようやく消防庁が動き出したらしい。
 その惨劇の中、清巳が立っている。
「なんだ、ちゃんと武器を携帯していたのか。さすがだな、咒禁師」
 征貞の短槍を眺め、清巳はにやりと嫌味な笑いを浮かべた。
「こりゃあ一体、どういうことだ」
「見てのとおりだよ」
 清巳は平然と言う。炎に照らされる面差しには、この惨状に対する恐怖も嫌悪も浮かんではいない。むしろ喜々とした表情が見え隠れする。
「私たちはここや、粕谷製薬の研究所で、ある研究を続けていた。時代を変える――この新世紀にふさわしい、重要な研究をだ。だが今、その研究成果に思わぬ齟齬が生じている。その結果がこれだ」
 片手を広げ、背後の地獄絵図を示す。この男の目には、自宅が焼け落ちるさまもあまりに惨い人の死も、その無念の表情すらも、すべて研究のデータとしか映っていないらしい。
「研究成果は期待以上の数値を――破壊力を示した。すばらしい力だ。だが、それだけ強大な力ゆえに、通常の人の手にはなかなか制御することがむずかしい。そこで私は、きさまのように特殊な鍛錬を受けた者の能力を、研究に取り入れることを考えついた」
「俺の、力?」
「そうだ。きさまのような咒禁師、祈祷僧、修験者、陰陽師など、古来からの呪術、体術をきわめた実力者たちだ。大浦は、華子の頼みを聞き入れてきさまに接触を図ったのではない。私のために、私たちの研究のために、きさまを捜し出してきたのだ。この広い帝都東京からな」
 大浦は、清巳の斜め後ろに立っている。手には清巳と同じく拳銃が握られ、征貞に狙いを定めている。その袖口からは、まだ真新しい包帯がのぞいていた。
 よく見れば他にも、後ろに並ぶ男たちの中にまだ血のにじむ傷を抱えた者がいる。もしかしたら、折り重なって倒れる死体の中にも、彼らの仲間が混ざっているのかもしれない。
 いったい、ここでなにが起きたというのか。
 火災の煙と吐き気のする血臭との中に、征貞はたしかに、けものの臭いを感じていた。
 清巳たちが制御できないと言った《力》とは、いったい何を指し示すのか。
「嫌だ、とは、言わせてくれねえようだな」
「命がいらないなら、断れ。ただし、その場合に失われるのは、きさまの命だけではない。後ろの蔵で寝ている、あの小娘の命もなくなるぞ」
「――凛に手を出すな」
 低く、呻るように征貞は言った。
 両眼にぎらりと凄みのある光が宿る。全身から気迫と怒りが噴き上がるようだ。
 清巳たちも気圧され、びくりと身を強張らせた。
「そ、それは……、あの娘の命は、きさま次第だ。娘を助けたいなら、きさまのその能力、身体、命、すべて私に差し出せ」
「……くれてやれねえな」
 目を閉じ、征貞はぽつりとつぶやく。
「俺の命は、とっくにあいつにくれてやっちまったんだ。お前らにくれてやるものなんか、欠片も持ち合わせちゃいねえよ」
 そしてゆっくりと階段を降り、自分から清巳たちのほうへ近づいていく。
「いいぜ。お前らの道楽に付き合ってやる。そのかわり、凛には絶対に手を出すな」
「いいだろう」
 清巳もうなずいた。
「我々に必要なのは、きさまのような強大な術師、敵と闘える男だけだ。あんな貧相な小娘、何の役にもたたん。まあ、あと三年もすれば、いろいろと使い道もできるだろうがな」
 下卑た冗談に、だが、追従の笑いを浮かべる者さえいなかった。
「おとなしくしていろよ。ここにも数人の見張りを残していく。もしもきさまが暴れたら、即座に蔵に火を放ち、中の小娘を焼き殺すぞ」
 清巳の配下の手で、ふたたび蔵の扉にがっちりと錠が下ろされる。
 征貞の短槍も、ふところに納めていた五鈷杵も取り上げられた。その上、両腕を背中で縛りあげられ、目隠しもされる。
「よっぽど信用がねえらしいな、俺は」
 征貞はふてぶてしく笑った。
 清巳も、自分の小心さを嘲笑われたことに気づいたらしい。表情を歪め、きりきりと奥歯を噛み鳴らす。
「ふん……。そんな態度をとっていられるのも、今のうちだけだ。――急げ。消防庁や警察が来てからでは、身動きが取れなくなる」
 拳銃で征貞の背を乱暴に押し、歩けと命じる。
 その先には数台の黒い乗用車が停車していた。
「きさまを待つ、《命の坩堝》
(るつぼ)へ案内してやる」






 粕谷邸の火災は、母屋と別館をほぼ全焼して、明け方近くに鎮火した。
 風もほとんどない夜、防火に優れた建材を使用した邸宅にしては、異様に火の回りが早かった。かすかに油の臭いがすると主張する者もおり、誰もが放火を疑った。
 放火の証拠を探す消防隊員や警察官、そして近隣の住民は、焼け跡からさらに凄惨なものを発見することになる。
 それは、あきらかに火災が死因ではない、おびただしい数の死体だった。
「な、なんだ、これは……ッ!!」
 食いちぎられ、引き裂かれた死体。すさまじい力で壁に叩きつけられ、頭も腹もつぶれて中身が飛び出した死体。そして、身体中に銀の弾丸を撃ち込まれた死体。
 酸鼻をきわめる状況に、誰もが言葉をなくした。現場指揮権を持つ者も、誰にも何の指示も出せずに、案山子のように立ち尽くす。火事場での死体に何度も遭遇している消防員でさえ、耐えきれずに庭の隅で嘔吐した。
「官憲の諸君。公務遂行ご苦労だった」
 うろたえる人々を突き放すように、冷たく冴え冴えとした声が響いた。
「この場所――粕谷財閥当主・粕谷清巳邸は現在、我々、対人狼部隊の管理下にある。貴君らの捜査権限の及ぶところではない。即刻立ち去りたまえ」
 黒く広がるインバネスコート、揃いの黒い洋装、白の革手袋、黒い長靴。そして、胸に輝く銀色の美しいロザリオ。
 彼らの握る銃には、死体に撃ち込まれていたものとまったく同じ、純銀の弾丸が装填されていた。
 対人狼部隊を率い、副島兵吾は、群衆の前に一歩進み出た。
「我々は神の御名のもと、神と人に対する裏切り者を処刑する権限を与えられている」
「し、処刑って、あんたら……! そりゃ、人殺ししてもかまわねえってことかよ!?」
 消火活動に駆り出されていたのか、近隣の邸宅に住み込む使用人らしい男が、兵吾に詰め寄ろうとする。
 だが、それを警官が押しとどめた。
「よせ、逆らうな! この連――いや、この方々は、外交官と同じ特権を持っていらっしゃるんだ」
 畏怖と怒りの入り交じった表情を見せる警官に、兵吾は尊大にうなずいて見せた。
「ここに住んでいた者らは、もはや人であって人ではない。人ならざるものと通じ、他の人命を犠牲にして、神と人の世を裏切ったのだ。誅戮されてしかるべき化け物だ」
 狼狽の消えない人々を、対人狼部隊の隊員たちが追い散らす。
「さあ、立ち去れ! 調査の邪魔だ!」
「我々はまだ、もっとも忌まわしい敵を追いつめなくてはならんのだ。この屋敷に匿われていたおぞましい闇の生き物! 人に化け、人を喰い殺す、あの人狼
(ヴェアウルフ)を!」
「う……あ、うるふ――?」
 耳慣れない言葉に、人々は一斉に互いの顔を見合わせた。それは何だと隊員たちに食い下がる者もいる。
「狼だ。人に化ける巨大な狼! お前たちも知っているだろう、帝都で頻発していた惨殺事件を。狂犬病の野犬のしわざと言われていたが、そんなはずはないと、お前たち自身、考えていたのではないか!? たかが野犬が、一撃で大の男を喰い殺せるものか、と」
 隊員の一人が声を張り上げ、人々を押しとどめる。対人狼部隊極東支部の中でも、もっとも弁舌が立つ男だ。日本政府の役人とさまざまな交渉を行う時も、大概この男が部隊の代表として論陣を張る。
「すべてはこの人狼のしわざだったのだ。この怪物は、日中は人間に化けて、そ知らぬ顔で我々の中に立ち混じり、夜になるとその本性をあらわして巨大な狼となり、人を襲い、喰い殺すのだ!」
 大きなどよめきが広がった。人々は互いに顔を見合わせ、恐怖の声をあげる。
「そ、そんなものが本当にいるんですかい!?」
「お前たちが知らぬだけだ。この国は二六〇余年の永きに渡って国を閉ざし、海外からの正しい情報を一切遮断してきたからな」
 兵吾は冷たく言い放った。
「人狼、人虎
(ヴェアタイガー)、吸血鬼(ヴァンパイア)――闇にひそむ怪物(モンスター)どもはみな、悪魔のしもべ。神のつくりたもうた人の子の、天敵だ。お前たちの言葉にも、これらのものどもを指す単語はあるではないか。鬼、妖怪、化け物……。これら人ならざるものはみな、人間を喰い殺す、人の敵だろう」
「これ以上被害を出さないためにも、我々は一刻も早く人狼を退治しなければならんのだ! さあ、これ以上我々の邪魔をするな! 散れッ!!」
 人々はみな、まだ納得できないという顔をしていたが、隊員たちが手にする拳銃には逆らえない。命じられるまま、すごすごと粕谷邸の火災現場を立ち去るしかなかった。
「あきらかに放火です。ここにあった研究資料などを焼却するのが目的でしょう」
「体毛は採取できないか? 建物からは無理だろう、庭を捜せ」
「生存者はいない模様――あ、いや、兄弟副島! あれを!」
隊員の一人が、裏庭の方角を指さす。
 そこには、数名の隊員に守られるようにして、二人の少女が立っていた。






 重苦しい、夢もない眠りの中に、凛はいた。
 まるで胸の上に重石
(おもし)を乗せられたように、息苦しい。それでも、疲れ切った身体は目覚めることができない。
 早く目を覚まさなくてはいけないのに。そして、征貞を追いかけなくてはならないのに。どうしてこの身体は、自分の思い通りに動かないのだろう。
 泥のような眠りの中で、凛は懸命にあがいていた。
 やがて、苦しいだけの眠りからようやく目覚めた時。
 明かり取りの窓から、白茶けた朝の光が射し込んでいた。
 蔵の中の様子は、昨夜となにも変わらなかった。床は血に濡れ、片隅には月絵がうずくまっている。ただ、征貞の姿だけがない。
「ゆきさん……いない――」
 征貞がいない。
 自分の居る場所、置かれた状況を思い出すより先に、まずそのことだけを認識する。
「目が、醒めたの?」
 月絵が顔をあげた。
「ゆきさんは?」
「行ってしまったわ」
「そんな……!」
 凛は立ち上がった。
 ひどく頭がふらふらする。身体にまったく力が入らず、まっすぐ歩くこともままならない。
 妖狐の嗅覚も力も、ほとんど回復していないようだ。蔵の外がどういう状態なのか、昨夜のあの化け物がいったいどうなったのか、その気配をさぐることもできない。
 それでも、凛は扉に近づいていった。
「待ちなさい。どこへ行くつもりなの」
「ゆきさんを探すの。……ゆきさんのそばに、行かなくちゃ」
「無理よ! その扉には、また鍵がかけられてるのよ。昨夜、錠前の音が聞こえたもの」
 だが、その時、がちゃりと大きな金属音が響いた。
 錠前が外され、扉が軋みながらゆっくりと開く。
「驚いたな。まだ生きている者がいたぞ。それも、若い娘が二人だ!」
「え……!」
 凛の目に飛び込んできたのは、黒いインバネスコートに白の革手袋、黒い長靴
(ブーツ)
「対人狼部隊、ばちかんの……っ!」
 蔵の扉を取り囲むように、同じ隊服に身を固めた対人狼部隊の戦闘員たちが立ち並ぶ。
「きみたちは、この屋敷の人間か」
 扉を開けた隊員が、凛に尋ねた。まだ奥にいる月絵にも、出てこいと手招きする。
「あ、あの、あたしは……」
「なぜこんなところに居たんだ? ああ、いや。この土蔵に隠れていたから、命が助かったのだろうな。賢明だった」
 隊員の背中越しに、むごたらしい亡骸が目に入る。
「見ないほうがいい!」
 隊員は両手を広げ、凛と月絵の視界を少しでもさえぎろうとした。
「すまない。我々の到着が遅れたばかりに……。なんの罪もない者たちを、人狼の犠牲にしてしまった……!」
「人狼――!?」
 月絵が息を呑む。
 凛はかたく口をつぐんだ。
 彼らはたしかに、副島兵吾の仲間だろう。だが、凛が彼らの敵と見なされる存在であることには、まったく気づいていないらしい。
 どうやら凛の正体を見抜けたのは兵吾だけであり、その情報も部隊全体には行き渡っていないようだ。
「知らん顔していましょう」
 小声で、月絵もささやいた。
「このまま何も知らないふりをして、隙を見て逃げましょう」
「逃げるって……どこへ?」
「追いかけたいのでしょう? あなたの大切な人を」
 そう……追わなくては。征貞を、死なせたくないから。凛はこくりとうなずいた。
 なにができるかなんて、わからない。なにもできないかもしれない。
 けれど凛の知らないところで、征貞が傷つき、たった一人で死んでいくなんて、嫌だ。
 そんなことはさせない。絶対に。
「私もよ」
 月絵が言った。その美しい面差しは恐怖に青ざめてはいるが、強い決意が宿っている。





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