「私にも、どうしても逢わなければならない人がいるの。彼が……彼が、こんなことをするなんて、あり得ないわ。私は、信じない……ッ!」
 かたく身をこわばらせ、立ち尽くす二人に、対人狼部隊の一人が近づき、声をかけた。
「この屋敷の使用人か? 誰か、お前たちを迎えに来てくれる者はいるか?」
 事件の衝撃で声も出せずにいる少女たちを、ひとまず家族か縁者のもとへ帰したほうがいいと判断したのだろう。
 凛と月絵はわずかに目と目を見交わし、うなずき合った。
「は、はい。あたし、浅草の……」
 このさい、間荘のおばちゃんに親類に仕立てて、凛が嘘をつこうとした時。
「きさま、あの時の《まじりもの》か」
 冷たく、鋼のように張りつめた声がした。
 はしばみ色の瞳が、凍りつくような憎悪をたたえて、凛を見据えている。
「その二人を逃がすな。どちらも化け物だ」
 インバネスコートの裾を黒い翼のようにひるがえし、副島兵吾がまっすぐに近づいてくる。
「報告したはずだ。数日前、浅草近辺で子供に化けたけものを連れた魔術師に遭遇したが、逃げられた、と。そいつが、その使い魔だ」
「兄弟副島!」
「隣の女からも、かすかだが人狼の気配を感じる。こいつが《粕谷の人狼》かもしれん」
 兵吾は月絵を指さした。
 周囲の隊員たちが、低く驚愕の声をもらす。月絵はほっそりとして頼りなげな、可憐な娘だ。衣服は血で汚れているものの、こんな弱々しげな少女が、まさか十数人もの人間を無惨に喰い殺した人狼だなどとは、とうてい信じられないのだろう。
「ど、どうしてそんなことが言えるんだ、兄弟副島。悪魔祓い師
(エグゾジスト)でもない貴君が……」
「私の五感を疑うのか。今まで、私が一度でも化け物の正体を見誤ったことがあるか!?」
「い、いや、貴君を疑うわけではないが――」
「この女の正体も、少し調べればすぐに明らかになるはずだ。本部教会へ連れていけ」
 周囲を取り囲む隊員たちが、一斉に月絵を取り押さえようと手を伸ばした。
「――違うよ!!」
 凛は、声をはりあげた。
「月絵さんは違う! 狗神なんかじゃない!!」
「小娘……ッ!」
 拳銃の銃口を月絵に向けようとしていた兵吾は、思わぬ反論に、苛立たしげに口元を歪めた。
「きさまごとき、汚らわしい《まじりもの》の動物霊になにがわかる!」
「だって、違うもん! ここに居た狗神は、雄だったもの!!」
 凛は袂から折りたたんだ手ぬぐいを出した。兵吾の鼻先に突き付けるようにして広げられたそれには、昨日、征貞が見つけた茶色いけものの体毛が載っていた。
 白い革手袋に包まれた兵吾の指先が、その体毛をつまみあげる。
 軽く臭いをたしかめ、やがて兵吾はうなずいた。
「たしかに、雄だな」
 そして、月絵に向けた拳銃を降ろす。周囲を取り囲む隊員たちにも、離れろと手で合図する。
 凛は小さく安堵の吐息をついた。
 ……でも、どうしてこの人、ここにいた狗神が雄だって、わかったんだろう? それは、征貞にもわからなかったことなのに。彼が信じる神様の力なのだろうか。
「だが、この女が《粕谷の人狼》と無関係だという証拠にはならん」
 一度降ろされた銃口が、ふたたび上げられた。今度は凛に向かって。
「そしてきさまが人をたぶらかす化け物である事実に、変わりはない」
 かちり、と小さな音がして、撃鉄が起こされた。
「言え。貴様の飼い主はどこにいる」
「知らない」
 凛は即座に答えた。本当に知らないのだから、そうとしか言いようがない。もっとも、
「知ってたって、絶対言わない」
「飼い主への忠義立てか? きさまのような化け物に、そんなしおらしい思いがあるものか!」
 兵吾は声を荒げた。
「きさまがここにいるということが、きさまの飼い主――あの男も、粕谷の人狼計画になんらかの形で関与していたという何よりの証拠だ! やつの居場所に、必ず人狼がいる!!」
「ゆきさんは、そんなことしてない!!」
 銃口が突き付けられる。冷たい金属の塊が、ごり、と凛の額に押しつけられた。
「言ったはずだ。この銃には、すべての魔術を打ち砕く純銀の弾丸が込められている、と」
「き、兄弟副島!?」
 対人狼部隊の隊員たちも、さすがにこれには狼狽した。
 彼らの目にも、凛は小柄なごく当たり前の少女としか映っていないのだ。その額に押しつけられた銃口は、あまりにも凶暴に見えた。しかも兵吾の指は引き金にかかり、今にも引こうとしている。
「よ、よせ、兄弟副島! こんな子供を殺して、もしも間違いだったらどうする!」
「それでもかまわん。この屋敷にいた以上、粕谷の悪魔どもの協力者と見なすのは当然だ。誅戮するに充分な理由だ」
 凛の中で、すうっとなにかが鎮まっていった。
 今まで、恐怖と怒りで呼吸もつまりかけ、まるで頭がぱんぱんに膨らんで今にも破裂しそうに感じていたのに。
 今はなにも感じない。頭の中がようやくまともに活動し始めたみたいだ。
 仲間にも信じてもらえないのに、それでも兵吾はかまわないのだろうか。誰一人として自分を理解してくれないのに、他者の命を奪い続けることが、苦しくはないのだろうか。
 おそらくそれには、彼のこのきわだった容姿も関係しているだろう。兵吾は、周囲の隊員たちとはあきらかに異なる外見をしている。
 人はなんらかの集団を形作った時、それに属さない、自分たちとは異なるものを嫌い、排斥し始める。一対一で向かい合った時にはお互いの違いを素直に認め、受け入れることができるのに、ひとたび集団となって仲間意識を持ったとたん、自分たちと違うものを受け入れられなくなるのだ。凛自身、それゆえに故郷を追われ、両親を殺された。それが、人間という種族の持つ性なのだろうか。
 兵吾の瞳に一切の迷いもためらいもないのは、誰も彼を信じていないから。誰からも信用されないと兵吾自身知っていて、それでもかまわないと、自分の勤めを全うするのだと覚悟を決めているからだ。
「あなたは間違ってないよ」
 凛は小さくつぶやいた。まっすぐにはしばみ色の瞳を見つめながら。
「あたしは狐だもの。半分人間で、半分狐。稲荷明神のお使い狐だよ」
 その言葉に、隊員たちが大きくどよめく。信じられない、という声が聞こえる。
 凛の告白を聞いても、兵吾は眉ひとつ動かさなかった。今まで自分を信じなかった仲間たちに、自分の言ったとおりだろうと勝ち誇ることさえしない。
「もしもあたしがここで死んだら、ゆきさんを許してくれる?」
 静かに、凛は言った。
「あなたは、あたしがゆきさんのそばにいるから、ゆきさんも悪いヤツだって決めつけてるんでしょ? たしかにあなたの言うとおり、あたしは人間じゃないもの。だったらあたしがいなくなれば、ゆきさんを責める理由もなくなるでしょ」
 兵吾の、はしばみ色の瞳。もう、この瞳を怖いとは感じなかった。
「あたし、ここで死んでもいい。だからゆきさんには、もう何もしないで」
「きさま……ッ!!」
 兵吾の表情が歪んだ。怒りや驚愕というより、まるで、身体のどこかが突然鋭く痛み出したみたいに。
「あたしは何にも悪いことしてない。でも、ゆきさんに何もしないと約束してくれるなら、その銃を撃ってもいいよ。あたしを殺して、いいよ」
「信じられるかッ! きさまのような化け物が、飼い主のために命を投げ出すだと!? そんな見え透いた嘘に騙されるものか!」
「可哀想な人だね、あなた」
 ぽつりと凛はつぶやいた。
「今まであなたは、誰かを好きになったことがないの? 誰かを好きになれたら、その人のために死ぬことなんか、少しも怖くなくなるんだよ」
「う、うるさいッ! 黙れッ!!」
 兵吾の腕に力がこもる。
 銃の引き金が引かれようとした、その時。
「待って!」
 その腕に、月絵がしがみついた。
「《粕谷の人狼》のことなら、私が知っています! 彼らがどこへ行ったかも、知っているわ!」
「なんだと!?」
「本当です。私は粕谷月絵。粕谷清巳の義妹です。清巳さんたちがここでなにをやっていたか、私はすべて知っています!」
 月絵は、兵吾の拳銃を両手で掴んだ。精一杯の力で、銃口を凛から逸らそうとする。
「粕谷製薬は、東京西部の山中に秘密研究所を持っているの。私がそこまで案内してもいいわ。その代わり、この子を離してちょうだい」
 兵吾が冷たい目を月絵に向ける。他の隊員たちも、突然の言葉に月絵を信じていいものかどうか、判断しかねているようだ。
「もしこの子に指一本触れたら、私は何も喋らない。ここで死ぬわ。そうなったら、あなたたちは自分で秘密研究所を探さなくてはならない。どのくらい時間がかかるかしら。その間にも被害はどんどん拡大してしまうのではなくて!?」
「いいだろう。そこまで案内しろ」
 兵吾が銃を降ろした。
「ただし、この化け物を解放することはできん。ともに連れていく。きさまが虚偽の情報で我々を惑わせようとした時には、迷わずこの娘と、きさまを殺す」
「……わかりました」
 それ以上の譲歩は引き出せないと思ったのか、月絵もうなずいた。
 兵吾は仲間の隊員たちのほうへ振り返った。
「車を裏へ回せ。ここの後始末は後続部隊に任せ、我々は人狼を追いかけるぞ!」
 隊員たちにうながされ、月絵と凛は互いに手を取り合うようにして歩き出した。
「月絵さん、どうして――」
 うつむき、周囲に聞かれないよう小声でそっと、凛は月絵に話しかけた。
「あなたのためだけじゃないわ。言ったでしょう、私にもどうしても逢いたい人が……逢わなくてはならない人がいるのよ」
 思いつめたように目を伏せる月絵は、その名のとおり月光のような美しさだった。
 そして一行は、廃墟と化した粕谷邸を後にした。あの美しかった白亜の洋館は、もう面影もとどめていなかった。






 征貞を乗せた粕谷財閥の乗用車は、真夜中の帝都を西に向かって疾走した。
 当初、なめらかな舗装道路を走っていた車は、やがてひどく荒れた山道へと入っていった。標高も少し上がっているらしく、気圧の変化を感じる。
 がたがたと揺れる悪路をどのくらい走っただろう。
 やがて車が、次々に停車した。征貞の乗った乗用車も急ブレーキを踏んで停車する。
「降りろ」
 頬骨にごりっと銃口が突き付けられた。
 目隠しが外された時、征貞は深い森の中にいた。
 周囲は木楢
(こなら)や椚(くぬぎ)が生い茂る、鬱蒼とした広葉樹林。春とはいえ山間の空気はきんと冷たく張りつめて、芽吹きの緑はまだほとんど見えない。
 目の前には、耐火煉瓦を中心とし、その他にも建材としてまだ珍しいコンクリートをふんだんに使用した大きな建物がそびえていた。実用性のみを追求したのか、ゆとりのなさを感じさせる直線的な造りだ。金属製の扉、窓にはすべて鉄柵が嵌められている。武骨すぎる造りは、まるで訪れる者をことごとく拒否しているかのようだ。
 狭い庭と、建物の奥に見える貯水タンク。そしてさらに、四角い箱を伏せたような別棟の建物も見えてくる。
 それを取り囲む高い塀には、鋭く尖った鉄柵が植えられている。門柱に看板はない。門の内側に門番小屋らしいものが備えられているが、現在は無人だった。
 ここがいったいどんな施設なのか、皆目わからない。粕谷財閥の関連施設であることは間違いないだろうが。
 背中を銃口で押され、征貞は黙って建物の門をくぐった。
 玄関の鍵は大浦が所持していた。
 建物内部はひどく暗かった。東京などの大都市圏を中心に生活の電化は急速に進んでいたが、さすがにこんな人里離れた山奥まで電線を引くことは無理らしい。
 が、しばらくその場に立っていると、突然、電灯がともった。
 まばゆい白熱灯の光に、征貞は思わず目をつぶった。
「自家発電さ」
 自慢げに清巳が胸を張る。
「この研究所の裏手には、大型発電機を備え付けてある。軍部から供給された、重油を燃料にする最新型だ。コストが非常に高くつくのが難点だがな」
「軍部だと!?」
 思いがけない言葉に、征貞は驚きを隠せなかった。
 くくく……と、喉の奥に絡みつくように、清巳は笑う。
「そうだ。我々は大日本帝国陸軍の付託を受けている。彼らはみな、陸軍の特殊研究員だ。医学、生体化学、人類学などの専門家であると同時に、戦闘訓練を受けた軍人でもある」
 清巳は背後に並ぶ男たちを示した。ならば、この連中が妙に銃の扱いが手慣れているのも、死体が山積みになった惨状に顔色一つ変えないのにも、納得がいく。
「まさかきさま、これだけの研究を一企業単独で行えるとでも思っていたのか? 粕谷財閥がいかに巨大な政商グループであろうとも、さすがに不可能だよ。軍部の全面協力、及び基礎研究データの提供があってこそ、我々の研究も成功し得たのだ」
 革靴の音を高く響かせて、清巳は歩き出した。征貞もそれに従えと銃で肩を押される。
 長い廊下を延々と抜け、やがて突き当たりの階段を下りろと指示された。
「驚いたな。地下室まであるのか」
 が、清巳は一人、階段を上がり始めた。
「私は階上で待っている。あとはいつもどおりにな。任せたぞ、大浦」
「わかりました、清巳さま」
 地下へ向かう階段は灯りもなく、大浦はカンテラを灯して足元を照らしていた。
「我々も驚いたよ」
 大浦は振り返りもせずに言った。
「まさかお前が、抵抗もせずに大人しくついてくるとはな」
「暴れてやったほうが良かったのか?」
 征貞はにやりと笑った。オレンジ色の灯りに照らされた凄みのある表情に、銃を持った軍の研究者たちでさえ、一瞬たじろぐ。
「ちと、伝言を頼まれててな。それを届ける相手が、ここにいるんじゃねえかと思っただけだ」
 大浦が一瞬、びくりと身をこわばらせた。表情を読まれないように顔を伏せる。
「その伝言……、受け取る相手は、もはやどんな状態も届かない状態かもしれないぞ」
「そうかもしれねえな。だが頼まれた以上、できるだけのことはしてやりてえのさ」
 階段を下りるとすぐに、大きな金属製の扉があった。
「ここが終着点か?」
 ずっと背中に突き付けられていた銃口が、ようやく離れる。両手の戒めが解かれ、短槍と五鈷杵が征貞の手に返された。
 観音開きの扉が、ぎぎ……と、軋みながら開いていく。
「入れ」
 なかば突き飛ばされるようにして、征貞は扉の内側へ入った。
 征貞が入ると同時に、慌てて扉が閉じられる。がちゃッと耳障りな金属音が響き、鍵までかけられてしまった。
 そこは部屋というより、まるで地面を四角く掘り下げて、天井まで四方を耐火煉瓦で固めただけの大きな穴だった。
 出入り口は二つ、征貞が入ってきた扉と、向かい合わせにもうひとつ、扉がある。
「つくづく、俺を閉じこめておきてえらしいな」
 いきなり、バチッと鋭い破裂音がして、照明が灯った。
 真上から煌々
(こうこう)と白熱灯の光が降りそそぐ。それを白い壁が乱反射して、あまりのまぶしさに目が痛くなる。
 天井が高い。二階部分まで吹き抜けらしい。
 そこに、妙に上擦った癇に障る声が、殷々と反響した。
「ようこそ、咒禁師どの。我らが《命の坩堝》へ!」
 清巳の声だった。
 壁の最上部に、ガラス張りの大きな窓がある。まるで庭を眺める張り出し窓のようだ。
 ガラスの向こうに、清巳がいた。
 背後には白衣姿の研究員らが並んでいる。征貞を地下室へ案内した連中も続々と階上へあがっているらしく、やがて大浦も姿を見せた。白衣姿が嫌味なくらい、さまになっている。粕谷邸でのさえない背広姿が嘘のようだ。――実際、嘘だったわけだが。
「こんなことは釈迦に説法だろうが、《蟲毒》
(こどく)という呪術を知っているか」
「なんだと?」
「そう……。きさまらなら、穢れた外法だと言うかもしれんな」
 蟲毒とは、蛙なら蛙、蛇なら蛇と、一種類の動物を多数、ひとつの狭い穴や瓶などに閉じこめ、互いに殺し合わせる。そして最後まで生き残った一匹を術師自らが殺し、その恨みをすべて呪いの魔力と化して他人を呪い殺すという、古くからつたわる呪法である。
「無論私は、呪殺などという時代遅れの迷信を信じているわけではない。人を殺せるのは、もっと直截的な、目に見える力だけだ」
 反対側の扉が開く。
 ずる……ずる……と、なにかが出てくる。
 一匹、二匹――いや、一人、二人と数えるべきなのか。それすら判断がつきかねる。
 二本の脚で立ち、歩いてはいる。衣服らしいものも着ている。ぼろぼろに破れたそれは、もとは陸軍兵士の軍服のようだ。
 だがその顔面は前に突き出すように尖り、茶色い剛毛が密生していた。衣服の裾や裂け目から見える肌も、すべてけものの毛並みにおおわれている。足は湾曲し、手には巨大な爪がある。耳まで裂けた口には、唾液をしたたらせる牙がぞろりと並んでいた。
 上半身を中心に、人間の倍ほども膨れあがった巨躯
(きょく)。腕も長く、それに比べて足はかなり短く見える。
 それは、人であって人ではなかった。
「……狗神――!」
「人狼と呼べ。私たちの研究が造り上げた人造人狼――狼兵士だ!」
 まるで謡うように、清巳が誇らしげに声を張り上げた。
「膂力
(りょりょく)、脚力、持久力回復力、どんな能力をとっても、人間の数倍から数十倍。その皮膚は鉛の弾丸など簡単にはじき返し、どんな過酷な環境にも耐えられる。恐怖を知らず、敵を殲滅するまではけして闘うことをやめない。まさに理想の兵士じゃないか!?」
 十数匹の人狼が、じりじりと征貞のほうへ近づいてくる。その目には理性も――いや、どんな意思も読みとれなかった。まるで白濁した沼のようだ。
「きみは日露戦争における我が軍の戦死者数を知っているか? およそ八万だ。兵器の発達により、一度の戦争で出る戦死者の数はこれからも増える一方だろう。今後は、人海戦術こそがもっとも有効で、すべての戦いの基本となる戦法になる」
 淡々とした、まるで大学の講義をするような声が聞こえた。
「大浦……!」
「アメリカのように、日々膨大な移民を受け入れる国ならともかく、我が国のように国土も人口も限られた小国では、供給できる兵士の数にも限度がある。戦場において兵士が足りなくなるのは、目に見えている。だから、一体で一個小隊、いや中隊ほども戦果を期待でき、なおかつ頑丈で損耗率もきわめて低い人狼兵士が必要なのだ。これは、我が国の国際戦略の根幹を支える、たいへん重要な研究なのだ。きみもこの研究に参加できることを、感謝するんだな」
「ふざけんな」
 征貞は吐き捨てた。
「この、外道が……ッ!!」
 今、じりじりと征貞の周囲に迫ってくるものは、すでに人間ではない。けものでもなく、どんな種族、世界にも帰属することができなくなった、あわれなものだ。
 人間を――己れの同胞を、どうしてこんな悲惨なものに造り替えることができたのか。この者たちは、清巳や大浦の目には、同じ人間とは映っていなかったということか。
「我々は、人間に人狼の能力を与える血清を造ることに成功した。きみの目の前にいるのが、その血清注射を受けた者たちだ。だがやはり、これにもまだ問題が多くてな」
 人造人狼たちが、征貞を取り囲んだ。餓えて大きく開かれた口からは、耐え難い悪臭がする。
 その時、ふいに、清巳がガラス窓に背を向けた。
「どうやら正門のあたりに、招かれざる客が到着したようだ」
「おや、そうですか?」
「私が出迎えよう。この場は任せるぞ、大浦。――あれを使うからな」
 ガラス窓の小部屋から、清巳の姿が消える。研究員も二、三人、同行したらしい。
 立ち去る清巳に、大浦はろくに返事もしなかった。眼下の征貞と人造人狼にのみ、目を向けている。
「狼の力が宿るのはいいが、どうも人間の脆い身体がそれについていけないらしいのだ。人狼の能力が発揮できるのはせいぜい二、三時間。あとはまた、ふつうの人間に戻ってしまう。もともと人狼が持っている変身能力のせいかもしれんが」
 大浦は記録用紙とペンを構えた。征貞の闘いを観察し、データでも残そうというのだろうか。
「変身中もほとんど力の制御は効かない。敵も味方も関係なく、人間と見れば襲いかかってしまう。しかも、人間に戻った時に、身体にさまざまな障害が残っている場合もある。精神のほうにもな。この最大の問題を克服するために、きみの力が必要なんだ。帝都最強の咒禁師どの」
 からかうような大浦の言葉を、征貞はもうまったく聞いていなかった。
 深く静かな呼吸を繰り返し、《気》を整える。印を結び、唇の動きだけで真言を唱える。
「おん・ばざらたまく・かん!」
 最後に、鋭い音声となって征貞の口から飛び出した真言は、己が身体を金剛石のごとく堅牢に、というものだ。
 出来損ないの人狼どもが、一斉に牙を剥き、咆吼した。
 征貞は片肌を脱ぎ、斜めに短槍をかまえた。
「化け物どもに関する言い伝えの中には、人を喰えば喰うほど強くなる、というものがよく見受けられるじゃないか。それも徳を積んだ高僧や強大な陰陽師など、強大な呪力を持った人間であればあるほど、その肉の効力も計り知れない、と。肉ではなく生き肝とする説も多いが。欧米ならばまず生き血、それから心臓だな」
 闘いが始まった。
 短槍が風車のように回転し、襲いかかる人狼どもを次々に切り裂き、はね飛ばす。
 鋭い爪が征貞を切り裂く。皮膚が裂け、鮮血が飛ぶ。
 耐火煉瓦の壁も長く切り裂き、痕を残す人狼の爪だが、征貞の皮膚には薄く傷をつけることしかできない。金剛の真言が征貞の全身を駆けめぐり、守護しているのだ。
「今までにも何人かの術師の肝臓と生き血で、実験してみた。効果は認められた。精神の安定――人を喰うと、気が落ち着くらしい。戦闘力も強化された。だが、我々の期待しているほどではなかった。肝や生き血を供出させた術師があまりにひ弱だったからとも考えられる。だから、きみのような強い男が必要だったのだ。人狼をも倒せる強大な力を持つ男が」
 裂帛の気合い。続けざまに真言が、早九字が発せられる。
 頭上から飛びかかる人狼を、槍の柄で叩き落とす。すかさず、今度は足を狙うヤツを蹴りあげる。後ろから襲いかかるヤツには、口中に槍を突き立て、つらぬきとおす。
「ぐあああアアアッ!!」
 けだものどもの絶叫が響いた。
「すまん、許せッ!」
 悲痛な祈りだった。
 彼らを救う手だてが、人間に戻す術が、征貞にはない。
 人狼どもの《気》が、嵐のように押し寄せてくる。
 喰いたい。人を喰いたい。喰いたい。殺したい殺したい殺したい――。
 研究という名の暴挙で歪められた、狼の生存本能。人間を忌み嫌う野生動物の性が、まるで濁流のようにその茶色い巨躯からあふれ出し、彼らを突き動かしている。
 一体の人狼が征貞に斃されると、数体がわッとその死体に群がる。自分の同胞の肉を、はらわたを喰らい、骨を齧り、生き血を啜る。
 その凄惨な情景は、征貞ですら直視できなかった。





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