一、 武者を好まば小やなぐひ



 このひとが、那原
(なはら)の鬼。
 目の前に端然と座る僧を、由布はまじまじと見つめた。
 先だって急死した領主・安原篤保
(あんばらあつやす)に代わり、今現在、那原八千石を統(す)べる新しい陣代(じんだい)
 墨染めの衣の上に具足を重ね、数珠を握るべき手で血槍をふるい、領主の死後に敵国へ寝返ろうとした者どもを次々に誅戮
(ちゅうりく)して、その血で斎川(いつきがわ)は赤く染まったという。
 安原氏代々の居館・此花館
(このはなやかた)の門前には、今も裏切り者どもの首級がさらされ、この男はそれを肴に酒を飲むとか。
 善林坊了海
(ぜんりんぼうりょうかい)
 仏の顔をした、那原の、鬼。
 ……とてもそんな怖ろしい人だとは、思えないけれど。
「愚僧の顔に、なにかついておりますか、姫御前
(ひめごぜ)?」
「い、いえ、別に……!」
 由布はぱっと顔を伏せた。
 顔中、火がついたみたいに熱くなる。きっと耳まで真っ赤だろう。
 そんな由布を、了海は湖のように深く澄んだ眼でまっすぐに見据えている。
 墨染めの衣がもったいないと思えるほどの美貌だ。剃髪の頭は青く冴えざえとして、切れ長の瞳にすっと通った鼻筋、男にしてはやや薄い唇は、その低く落ち着いた声と相まって文殊菩薩のように理知的に思える。
 今は座っているけれど、立てば鴨居に頭をぶつけそうなくらい、背が高いだろう。
 それでも威圧的に見えないのは、肩も首すじもすっきりと細く、由布とさほど変わらない年若さが感じられるからだ。
 実際、彼が新しい陣代だと紹介されても、由布にはなかなか信じられなかった。深山に籠もって瞑想する修行僧にしか見えなかったのだ。
 まるで彼の周囲だけ、深い森のように空気が違って見えた。
 これほどきれいな男を見たのは、由布は生まれて初めてだった。
 生まれてすぐにこの尼寺に引き取られ、以来、庵主
(あんじゅ)さまはじめここに集う尼僧たちの手で育てられてきた由布である。きれいもなにも、若い男と二人きりで話をしたことなど、ほとんどないのだ。
 彼の前にいると、何の飾りもない髪や擦り切れて丈の短くなった小袖が、今さらながらに恥ずかしく、哀しくなった。
「おいくつになられましたか、姫御前」
「は、はい。この正月で、十五にあいなりました」
 由布はうつむき、口ごもりながら言った。
 数えで十五といえば充分に一人前、ふつうならそろそろ嫁入りの話も出るころだ。けれどこの人の前に居ると、自分が実際の年令よりずっと幼く、おろかになってしまったように感じる。
「あの……御坊。その『姫御前』というのはおやめ下さい。わたくしは、この常光院の門前に捨てられていた孤児
(みなしご)でございます」
 いいえ、と了海は静かに首を横に振った。
「貴女さまのお父上は那原の先代のご領主、安原左兵衛隆景さま。お父上、お兄上とも亡き今、安原のお血筋は貴女さまただお一人となってしまわれました。愚僧にとりましても主家筋の姫君。御前とお呼びするのが当然かと」
 軽く頭を下げる了海に、けれど由布はうなずくことができなかった。
「父母の名は存じております。ですが、わたくしが両親に棄てられ、安原の家とは縁を切られた子であることに変わりはございません」
 由布はできるだけ平静そうな様子をとりつくろおうとした。けれど、膝の上できゅっと握りしめた両手が小さくふるえ出す。
「御坊もご存知でしょう? わたくしがなぜ生まれてすぐに――七日の産養(うぶやしない・生まれて七日目のお祝い行事)もすまないうちに、館を出されてこの尼寺に連れてこられたか……」
 了海の表情がわずかに曇った。やはり彼も知っているらしい。
「わたくしは……、人に忌み嫌われる畜生腹でしたもの」
 俗に、双子、三つ子などの出生は、動物と同じだとして忌み嫌われる。特に男女の双子は心中者の生まれ変わりだと言われた。
 由布と同じ日に生まれた兄は嫡男として両親の手元に残され、由布だけが生まれを隠してこの尼寺に預けられたのだ。
 ――むしろそうして家督を継ぎ、武将となって戦陣におもむかねばならない兄君のほうが、修羅のさだめというものです。
 ことあるごとに、庵主さまは由布にそう言い聞かせた。
 ――人に忌まれるさだめの赤子を、生まれ落ちても殺しもせず、み仏の手元で無事に育つようにとこの尼寺にお預けになったことこそ、お父君お母君の思いのあかし。お二人をけして恨んではなりませぬよ。
 以来、由布は寺院の境内からほとんど外に出ることもなく、親の顔も知らずに育った。いずれはこの寺で髪を下ろし、尼になるのだろうと思っていた。
 両親と兄が暮らす此花館は、この常光院から二里ほど西。女の足でも走っていける距離だ。
 けれどその道を辿って故郷へ戻ることは、由布には許されなかった。
 ささやかな本堂と庫裏、いくつかの小さな僧坊。そこに集った身よりのない尼たちはみな、戦で夫や息子を亡くし、仏よりほかに頼る相手もない者だった。
 時には旅人が一夜の宿を借りることもあるが、それ以外は人が訪れることもめったにない。時が止まったように静かで、小さな閉ざされた世界。そこだけが、由布の生きる場所だった。
 ここよりほかに、わたくしの居場所はない。年老いた尼さま方以外に、わたくしを受け入れてくれる人たちはいない。
 どんなに淋しくても哀しくても、人に忌まれる生まれゆえ――親に見捨てられた子供ゆえに。
 ずっと、自分にそう言い聞かせてきた。
 迎えに来てくれない親を恨んではいけない。両親の手に抱かれて育った兄を、妬んではいけない。この世に生きていられるだけ、わたくしにとっては僥倖なのだ、と。
 ――泣いたら、いけない。知らない人の前で泣くなんて、そんなみっともないこと。そんなことをしたら、御坊に笑われる。
 が、
「迷信です」
 了海はあっさりと言い切った。
「で、でも、御坊……」
「そういうことをおっしゃるのでしたら、愚僧こそ、謀反人の子です」
「え――」
 眉ひとつ動かさず、了海はまっすぐに由布を見た。
 その眼にはわずかな揺らぎもない。まるで黒い不思議な湖がそこにあるようだ。見つめているだけで、心が全部吸い込まれてしまいそうになる。
「もはや一刻の猶予もなりませぬ。叔父君、篤保さま頓死の知らせは、すでに敵国桑島
(くわしま)領にも届いておりましょう。細作(さいさく)の報せによれば、桑島領主の間部玄蕃(まなべげんば)は、着々と我が那原を侵略せんと出撃の準備を整えておる由。我らも急ぎ藤ヶ枝城に入り、戦支度をせねばなりません」
「戦……!」
 たしかに、秋から冬にかけては戦の時期である。収穫が終わった田畑が軍馬の駆けめぐる戦場となり、農作業を終えた農民たちが招集されて足軽となるのだ。
「この戦、負ければ那原の民は、侍のみならず、女や年寄り、嬰児
(みどりご)にいたるまで、一人残らず撫斬(なでぎり)にされるでしょう」
 撫斬とは殲滅戦
(せんめつせん)のこと。戦闘に参加した武士や足軽だけではなく、非戦闘員まで敵地の人間は一人残らず殺戮することである。
「すでに、桑島の先発隊によっていくつかの集落が焼き討ちに遭い、住民たちは皆殺しにされました」
 了海は僧衣のふところから汚い布の切れ端を取り出した。
 由布の目の前に広げられたそれは、小さな子どもの着物の、片袖だった。乾いた血糊がべったりと染みつき、ところどころ黒い焼けこげもできていた。おそらくこれを着ていた子の命は、助からなかっただろう。
 ……惨い――!
 由布は息を飲んだ。
 目の前にありありと血みどろの地獄絵図が浮かぶ。火を放たれ、燃え落ちる家屋。泣きながら、逃げまどう人々。それを追い回し、高笑いしながら次々に殺戮していく騎馬武者たち。大刀で斬り殺される男。強弓で射殺される女。軍馬の蹄で踏み殺される老人、子ども……。血まみれの片袖からは、彼らの悲鳴が聞こえるようだ。由布は思わず身が震えた。
「那原の民くさを救うため、どうぞ我らにお力をお貸しくだされ。主
(あるじ)のいない城に、誰が立てこもって戦おうと思うでしょうか。我らには旗頭が必要なのです。武将も足軽も心を一にするために、みなが等しく仰ぎ見る、強く高き旗頭が」
「旗頭……?」
 了海は力強くうなずいた。
「ご先代隆景
(たかかげ)さま、ご嫡男柾景(まさかげ)さま亡き今、領民たちがこの方こそ那原の御大将とお慕いもうしあげられるのは、姫御前よりほかにはおられぬのです。姫御前が砦にお立ちくだされば、百姓も侍も、たしかに那原はよみがえった、那原の梅は誇らかに咲いていると、心から信じることができるでしょう」
 青く冴え冴えとした剃髪頭を深く下げ、了海は言った。
「ご決断を、姫御前」
 その声はけして大きくも、威圧的でもない。けれどけして否と言わせない、鋭い力に満ちている。
 やがてまっすぐにあげられたその視線から、由布は逃げることができなかった。



 一六世紀後半。
 応仁の乱によって京都、室町幕府が求心力を失うと、日本は武力がすべてを支配する群雄割拠、下克上の時代に突入する。世に言う戦国乱世である。
 それまで荘園という形で日本各地を支配していた貴族や寺院はその力を失い、かわりに荘園の警護を担当していた武士が実力で土地を支配し始めた。
 自分たちの住む土地を自分たちのものだと宣言した彼らは国人領主
(こくじんりょうしゅ)と呼ばれ、やがて室町幕府の公認を得た守護大名と主従の契約を結ぶ者、あるいは主君である守護大名を討ってその地位を乗っ取る者などがあらわれた。
 昨日の友は今日の敵、昨日の大名も今日はすでにさらし首。槍一本で男が一国一城の主にのしあがることができた、そんな時代である。



 那原の郷は北関東の外れに位置し、なだらかな河岸段丘や火山の噴火が造り出した火山灰台地が連なる丘陵地帯である。南西には斎川が流れ、関東南部とつながる水路になっていた。地味は比較的豊かで五穀の実りも良く、また、山の幸にも恵まれていた。そのうえ斎川の支流、茂庭川
(もにわがわ)からは、少量ながら砂金が採れた。
 安原氏は、源平の騒乱の頃に東国源氏から枝分かれした氏族であるという。もとは寺院の所有する荘園を管理、警護する武士階級であったが、戦乱の世になると他の例に漏れずその荘園を我がものとし、やがて周辺の武士たちをも従えて、小規模ながらも戦国大名として名を挙げるまでになった。
 安原氏は茂庭川のほとりに常時の居館・此花館を構え、また背後の黒藤山
(くろふじやま)山頂に有事の際の山城・藤ヶ枝城(ふじがえじょう)を築いた。ふだんは生活に便利な平地で暮らし、いざ戦となったら堅牢な山頂の砦にこもって戦うのだ。現在では、藤ヶ枝城と此花館とは長い土塁で囲まれ、いくつかの曲輪(くるわ)とともにひとつの連結した城となっている。
 当時、関東は名目上、足利将軍家の末流である足利公方が支配していることになっていたが、実質的に采配を振るっていたのは足利公方に仕える管領の上杉氏だった。上杉謙信の一族である。南部からは北条早雲を始祖とする北条氏が虎視眈々と平野部を臨み、この二つの勢力に挟まれて関東の小領主たちはみな、昨日は上杉につき、今日は北条につき、と、自らの保身に必死になっていた。
 その那原の地に戦乱が起きたのは、昨年の秋のことだった。
 先代の領主、安原隆景が病に臥したのをきっかけに、異母弟篤保が兵を挙げ、兄に対し反旗をひるがえしたのだ。
 隆景は戦陣で病没し、跡を継いだ嫡男柾景はわずかに十四才、これが初陣の若武者だった。
 安原氏譜代の重臣たちも次々に篤保に寝返り、柾景が立てこもった藤ヶ枝城はあっけなく落城した。柾景は若いその首級を、墓から掘り出された父の首と並んで、かつて暮らした此花館の門前にさらされることとなった。
 それから、一年あまり。
「……なんだ、こりゃ」
 傾きかけた冠木門を見上げ、了海は思わずつぶやいた。
 両脇の土塀は穴が開き、そこからちょろちょろと枯れかけた雑草が顔を出している。館を囲む濠はどこかこわれてしまったらしく、ほとんど水が抜けてただの空堀になっていた。そこに架かる跳ね橋も、つり上げるための鎖が切れて橋が動かず、防御の役割を果たしていない。馬でも賊でもさあどうぞ、てな状態だ。
 これが、那原八千石、安原氏の居館だとは。
 往事はつねに数十人の武士が詰め、早春には紅白の梅が咲き乱れて、近隣から「花の館」と賞賛された此花館が、こんな無惨なありさまになっていようとは夢にも思わなかった。
 館を囲む城下町も、ひどくすさんで人影もない。
 了海が覚えている那原の町は、斎川の船着き場と街道を中心に人々が集まり、小さな田舎町ながらも活気にあふれていた。
 だが今、家々は傾いて住む人もなく、田畑は荒れはてたまま放棄されている。耕す農民たちが圧政に耐えかね、逃散してしまったようだ。
 堀を越え、館の敷地内に足を踏み入れると、荒廃はさらにひどくなった。
 柱や壁にはいたるところに矢傷、刀傷が残り、ところどころ黒く焼けこげている。屋根の一部には大きな穴が空き、厩は完全に潰れてしまっていた。もちろん、馬など一頭もいない。庭には雑草が生い茂り、館の名の由来となった梅の樹も何本かは立ち枯れていた。
 館の中にも、人の気配はまったくない。冷たい風が吹き抜けていくばかりだ。
「お屋形さま……」
 荒れ果てた館を見上げ、了海はつぶやいた。
 思えば十数年前、了海がこの館をあとにしたのも、今日のような寒風吹きすさぶ秋の夕暮れだった。
「幸甚丸
(こうじんまる)
 巌
(いわお)のように厳しい声で自分の幼名を呼んだ人の顔を、了海はすでに思い出せない。
「幸甚丸。そのほうの父は、我が安原一族に名を連ね、支城(主君の城を守るための出城、要塞)を預かる重臣でありながら、主君の儂に弓引いた大逆人である。本来ならばかの者の血を引く男子はみな首を刎ねるべきところ、そのほうの母が自らの命と引き換えに幼な子の助命を願った。ゆえにそのほう一人を特に赦し、寺に預ける。これよりは京の禅寺で修行を積み、生涯かけて父母の菩提を弔うのだ」
 父と、一〇才年上の兄はすでに首を刎ねられ、城下にその首級をさらされていた。母は女の身ゆえに仏門に入れば咎めはなしとされるはずだったが、まだ六才にも満たない次男を救うため、自ら命を絶った。
「誰をも恨むな。乱世の倣いである」
 お屋形様と呼ばれていたその人の言葉を、幼かった了海はほとんど理解できなかった。けれどその人の声ににじんでいた哀しみは、感じとることができた。
 父と兄を討ち、母を死に追いやった人である。自分からすべてを奪った人だった。
 けれど、その人の声にある悲哀は、自分とまったく同じものだった。
 戦国乱世の倣いとはいえ、昨日まで同じ一族、重臣として信頼してきた者の首を、自らの手で討たねばならなかったのだ。
 誰も信じられない。信じてはいけない。その苦しみと罪の意識は、人である以上、彼の胸の内を生涯食い荒らし続けるだろう。
「仏になれよ、幸甚丸。この乱世で、人は人としては生きられぬ。鬼でなければ生きられぬのだ。せめてそなたは、仏になれ。仏として、心静かに生きのびよ」
 幼子は泣きながら彼に向かって手を合わせた。
 それから十有余年。
 剃髪し、名も了海とあらためた青年のもとへ、那原の城代家老から書状が届いた。
 その手紙は、西国と東国を往来する旅の商人の袖に縫い込まれ、秘密裏に京の寺まで届けられたのだ。
 ――お屋形さま、御不慮。そのほうの力が必要である。急ぎ、帰国せよ。
 那原の戦乱は、山裾の禅寺で学侶(がくりょ・経典の研究をする学生僧)として修行を積む了海の耳にも入っていた。
 寺には元来、本山と末寺という強い組織がある。とくに禅宗は室町幕府の指導によって、京五山、鎌倉五山を頂点とする本末制度が築かれ、戦国時代、この組織が全国各地のあらゆる情報を収集し、また発信するネットワークとして機能していた。
 那原では、先代領主隆景――お屋形さまが異母弟篤保に討たれたあとも、篤保の支配を良しとしない家臣もおり、領内は今だに混乱しているらしい。篤保は不服従の家臣たちを容赦なく粛正した。さらに、土一揆を起こした領民への制裁は苛斂誅求
(かれんちゅうきゅう)をきわめ、那原には血の雨が降ったという。
 たとえ二度と戻れない故郷であっても、そんな状況を聞けば胸が騒ぐ。遠く離れた京で、ただ祈るしかできない自分がもどかしく、情けなかった。
 そこへ、彼を那原へ呼び戻す書状が届いたのである。
 謀反人の子として追放された身に、いったい何の用なのか。
 それでも、故郷が自分を必要としていると言われれば、もはやじっとしてなどいられなかった。
 即座に座主の許しを得て、了海は京を発った。馬借
(ばしゃく)から借りた馬を次々に乗りつぶし、通常なら一ヶ月近くかかる京から那原までの行程を、わずか十日で駆け抜けたのだ。
 これには、僧形ゆえの利点もあった。坊主であればどこの領国を抜けるにも、あまりうるさいことは言われない。俗人の姿をしていると、細作(スパイ)や他国から逃げてきた奴卑
(ぬひ)と疑われ、足止めされたり、領地内の通行を許されなかったりすることも多い。また、食うに困って旅人を襲う盗賊のやからも、仏罰を怖れてか、坊主にはあまり手を出さないのだ。
 そうやって、夜を日に継いではせ戻ってきてみれば、那原は、此花館は、このありさまだった。
「おお、よくぞ戻った、幸甚丸」
 出迎えた城代家老も声に力がなく、杖に縋らねば足元もおぼつかないありさまだった。






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