逃げるしかない。了海は咄嗟にそう判断した。
「みな、散れッ!」
 由布の身体を馬の背に押し上げ、その後ろに自分も飛び乗る。
「八郎太、さわを連れて逃げろ!」
「し、承知っ!」
 八郎太はさわの手を引き、走りだした。
「ひとつ方向に走るな! みな、ばらばらに逃げろ!」
 叫び、了海は馬に鞭を入れた。
「はッ!」
 巨きな軍馬は、二人の人間を乗せてもものともしない。乗り手の合図に応え、黒い旋風のように走り出す。
「姫っ! 愚僧にしっかりお掴まりください! 何があっても、目を開けてはなりません!」
「は、はいっ!」
 小さなからだが懸命に了海の胸にしがみついた。
「ちくしょう、逃がすかっ!」
 由布の足を掴もうとした野伏を、了海は思いきり蹴り上げた。顔面を蹴りつけられ、野伏の鼻骨がぐしゃっと潰れる。
 了海は一旦軍馬の方向を変え、後ろから追いかけてくる野伏どもの真ん中へ突っ込んだ。
 せめて騎馬だけでも、逃げる足軽たちではなく、自分たちのこの馬を追いかけさせるためだ。
 ――俺の失策だ!
 兵たちを休ませなければ良かった。館に到着するまで、緊張と警戒心を保たせなければいけなかった。
 みな、重たい槍を手放し、周囲への警戒も怠っていた。突然の敵の出現にあわてふためいてしまい、咄嗟に体勢を立て直し、武器に手を伸ばすことさえできなかった。
 恐怖がみなを凍りつかせ、気力も判断力も奪ってしまった。
 甲冑を着けてはいても、彼らはみな農民の心理――虐げられ、逃げまどう非戦闘員の心理に戻ってしまったのだ。
 逃げろ、と命じるしかなかった。
 あとは騎馬の自分たちが囮となって、少しでも多くの敵を引きつけるしかない。
 ――槍を携えてくれば良かった!
 今、了海の手元にあるのは、このあいだ追放した武士から巻き上げた、いや、献上された打刀一振りだけだ。馬上で刀を振り回しても、敵には届かない。
 たとえ槍があっても、鞍の前に由布を乗せた状態では、彼女を落とさずに手綱を操るのが精一杯で、敵と刃を交えることなど不可能だ。
 狙いどおり、二騎の野伏が了海たちの馬を追ってきた。
 砂埃を巻き上げて、三騎の馬が街道を疾走する。
 ――やつら、速い!
 馬の質はこちらが上だが、早朝からずっと歩かせていた上に、今は二人の人間を乗せている。このままでは追いつかれてしまう。
 ――どうする、俺だけ飛び降り、奴等の足を止めさせるか!?
 よく仕込まれた軍馬なら、たとえ乗っている人間が道を知らなくとも、自分で勝手に城まで帰る。それに任せて、姫ひとりを逃がし城へ向かわせるか。だが、途中で姫が落馬でもしたら……!
 一瞬の迷いのうちに、野伏どもは距離を詰めてくる。
「坊主の袈裟なんざ、どうせ売れやしねえ。かまわねえ、ぶっ殺せ!」
「よく狙え! 姫さんに傷つけんなよ!」
 うなりをあげて、野伏の長刀が了海に襲いかかった。
 了海はとっさに由布の肩を押さえつけ、頭を低く伏せさせた。
 由布は懸命に、鞍の前輪にしがみつく。
 その上に、了海はおおいかぶさるように自分の身体を伏せた。
 小柄な由布の身体は、長身の了海の胸の下にほぼ覆い隠される恰好になった。
「そのままじっとして! 声を出してはなりません、舌を噛みます!」
 胸の中に抱え込んだ小さな身体からは、恐怖に乱れる鼓動がつたわってくる。それでも由布は必死に了海の命令に従い、泣き叫ぶまいとしている。
 縮こまった身体はほのか熱く、まるで草食の小動物のようだ。戦うための牙を持たず、それでも懸命に生きのびようとしている。
 ――守らなければ。このひとだけは、何があっても絶対に守らなければ!
「待ちやがれえッ!!」
 背後から怒号が飛んでくる。
 その時、
 ひゅッ!と鋭い風切り音がした。
 一瞬、黒いものが視界の端をよぎる。
 そして次の瞬間、
「ぎゃああっ!」
 背後で野太い悲鳴があがった。
 野伏の一人が、左目を矢に射抜かれて、馬上から転げ落ちる。
「なんだ!?」
 続けざまに矢が飛んでくる。それは紙一重で了海の身体をかわし、後ろの野伏の急所を正確に射抜いた。
 正面から連銭葦毛の軍馬に乗った武者が、手槍を構え、つむじ風のように突っ込んでくる。
 葦毛の軍馬は、矢のように了海の乗る黒馬とすれ違った。
 武者は、目を射抜かれて地面に落ちた野伏に、容赦なく馬上から槍を突き立てる。
「どう、どうッ!」
 了海が手綱を引き、馬の脚を止めさせている間に、さらに二人の男が道端の茂みから走り出て、地面に転がる野伏どもに立て続けにとどめをさした。
 昂奮し、まだ激しく足を踏みならす馬から、了海は飛び降りた。
「鎮まれ! ――どうッ!」
 くつわを取り、なんとか馬を落ち着かせる。
「ご、御坊……」
 必死で鞍にしがみついていた由布も、ようやく顔を上げた。
「由布姫さま! ご無事でござりまするか!」
 葦毛に乗っていた武者が、ぱっと飛び降りた。血に汚れた槍を背後に隠し、地面に片膝をついて由布に臣下の礼を取る。
「は、はい。大事ございません……」
 答える由布の声は、まだ恐怖にふるえていた。
「御坊、この方は――」
「この者らが、我らの危難を救ってくれたようでございます」
 男はふたたび、由布に深々と一礼した。
「それがし、箕輪右衛門督泰頼
(みのわうえもんのかみやすより)ともうします。先のご領主篤保さまのご勘気(かんき)を被り、山中の寺にて蟄居謹慎しておりましたが、こたびの桑島との戦のことを聞き及び、矢も楯もたまらず参上つかまりました」
 質素な小袖に半袴を着け、腰には大小二本の刀がある。身なりは簡素で甲冑もつけてはいないが、その態度といい野伏を仕留めた武術といい、武士であることに間違いはないようだ。
「このような形で、ご家老ご陣代のお許しも得ずに由布姫さまにお目通りいたしますること、ご容赦くださりませ」
 そう言って馬上の由布を見上げた顔は、思いの外若かった。八郎太と同じくらいだろうか、前髪を落としてまだ間もないと見える。
 ほほにはまだ返り血が点々と飛び散っているが、その面差しは目鼻立ちがくっきりとして、はっと人目を惹く美貌だ。
 後ろに控える二人の侍は、泰頼の従者らしい。
「危ないところを、ありがとうございました。箕輪どの」
「どうぞ泰頼とお呼びください」
 泰頼は礼儀正しく、軽く頭を下げた。
 洗練された身のこなし、礼に適ってよどみのない口調が、だが了海には妙に気に障る。
「それがし、すでに所領も家禄もすべて篤保さまに召し上げられました。姫のおんために捧げられるものは、我が身ひとつにございます。それでも、このまま姫のご陣営の末端にでもお加えいただけまするなら、この泰頼、望外の幸せ。一命を賭して、姫のおんため、働きとうござりまする!」
 黒曜石のように輝く瞳でまっすぐに見上げられて、由布は恥ずかしそうに視線を伏せ、耳元をうっすらと紅く染めていた。
 その様子が、了海はなぜだかひどく気にくわなかった。
 それに――この若侍、どうして由布姫の御名を知っていた!?
 姫の名前は、此花館の重臣数名と、尼寺の関係者しか知らないはずだ。なのに、なぜ。
 由布を見つめ、優しげに微笑みかける泰頼の横顔からは、その腹の内はさっぱり読みとれなかった。
 やがて、さわを連れて森の中へ逃げ込んでいた八郎太が、がさがさと茂みをかき分けて戻ってきた。
「無事だったか、さわ。八郎太」
「はい、おれたちはなんとか。でも、輿の人足と、足軽が二人、斬られました」
「そうか。可哀想なことをしたな……」
「それと、ご陣代」
 八郎太は声を低くし、了海にだけ聞こえるように言った。
「斥候を見ました」
「何だと!?」
「街道筋の様子を窺ってたのが二組、田畑の具合を調べてたヤツもおりました。見たことねえ顔だったし、人目を避けてこそこそして……。間違いねえと思います。桑島の斥候です」
「やはり、来たか」
 斥候が出たということは、桑島の間部はすでに出撃の準備をほぼ整え、いつでも進軍を始められるということだ。
 もう、ぐずぐずしてはいられない。
 ともかく、生き残った者たちを集めつつ、一刻も早く館へ戻らなければならない。
 やがて無事だった足軽や人足たちも、隠れていた森や茂みの中から次々に姿をあらわし、行列に加わった。
 みな、恐怖に青ざめてはいるが、どこか肝の据わった目をしている。
 この乱世で、死はつねに身近にある。死にたくなければ、他者の欲望のために踏みにじられて殺されたくなければ、戦う覚悟を持つしかないのだ。
 今日を生きのびた者は、明日、必ず役に立つ。了海はそう思った。
 いや、役に立たせなければならない。そうでなければ、今日死んでいった者たちが浮かばれない。
「急げ。日が暮れる前に、城下へ戻るんだ」
「我らも同道いたします」
 由布の危機を救ったことで、泰頼は完全に安原家への再仕官が叶ったと思っているようだ。当主である由布が退けようとしない限り、そうなるのが当然だろうが。
「姫。その馬はだいぶ疲れております。私の馬にお乗りください」
「は、はい。あの、でも……」
 泰頼にうながされても、由布は鞍の前輪につかまったまま、おろおろしていた。
 四尺七寸あまり(一四〇p強・馬の身長は蹄から首の付け根までを計測する)もある大きな軍馬から、小柄な由布はひとりでは下りられないのだ。横座りになった足が鐙に届かず、ぷらぷらしている。
「姫御前」
 了海は黒馬のくつわを放し、由布を抱き下ろそうと手を伸ばした。
 が、それより早く、泰頼がすっと自分の葦毛を黒馬の隣に寄せ、ぴたりと並ばせる。
 そして、
「ご無礼つかまつります」
 片腕で軽々と由布を抱き寄せ、自分の鞍の前へ移してしまった。
「きゃっ!」
「失礼。吃驚なさいましたか?」
「い、いいえ……」
 由布の小さな身体は、泰頼の前に座らされ、まるで彼の身体にすっぽりと包み込まれているような恰好になった。由布は白い面差しを桜色に染めて、身をすくめている。泰頼の顔を見上げることもできないようだ。
「無礼でありましょう、箕輪どの! このお方は那原の新しいお屋形さま、姫御前であられますよ!」
 さわが鋭い声で泰頼を叱りつけた。
 だが泰頼は、その抗議を無視した。ぐいと手綱を引いて、馬の向きを変えさせる。
「二手に分かれましょう、ご陣代。私はこのまま、一騎にてこの森を抜け、由布姫を此花館へお連れいたします。ご陣代は当初の予定どおり、街道を西へ向かわれますよう。輿の護衛には、私の従者どもを残しておきます」
 つまり、了海たちは囮として目立つ街道を進み、その隙に泰頼が由布を館へ連れていこうというわけだ。
 たしかに、僧形の了海がうら若い高貴の姫を連れて歩いていたら、人目に立つことこの上ない。了海の馬は疲れているし、あまり速度は上げられない。那原の事情を知らない者でも、よこしまな思いを抱く者ならば、いっちょう襲ってやれと思うだろう。
 それよりは泰頼が由布を連れ、一気に森を駆け抜けたほうが目立たない。
 しかし、
「いや、それは危ない。そのほうただ一騎では……」
 会ったばかりの若造に、大事な主家の姫君を任せられるものか。
 第一、そんな見ず知らずの男に由布がついていこうとするはずがない。
 そう考え、了海ははたと気づいた。
 ――由布姫にとっては、俺も「今日初めて会ったばかりの、見ず知らずの男」だ。
「私の腕はさきほどご覧になられたでしょう。野伏の三人や四人、敵ではございません」
「わたくしも、泰頼どののお考えどおりにするのが良いように思います」
 由布も、小声ではあるがはっきりとそう言った。
 姫御前が決断したのなら、もう了海にも反対はできない。
「わかりました」
 了海はうなずき、泰頼を見上げた。
「箕輪泰頼とやら。向かうのは此花館ではない。真っ直ぐ、山頂の藤ヶ枝城へお連れもうせ。我らも遅れず駆けつける。我らより先に到着した場合は――」
 着ている墨染めの衣の袖を引きちぎる。
「城を預かる者に、この片袖を見せ、我が許しを得たと告げよ」
「承知つかまつりました」
 片袖を受け取ると、泰頼はそれをふところに押し込んだ。
「では、御免!」
 葦毛の軍馬は、放たれた矢のごとく走りだした。
「八郎太、ついていけ」
「えッ!? 馬のあとを走って追っかけろってんですか!? んな、無茶な!」
「いいから行け! 絶対に見失うな、姫に万一のことがあったら、おまえの首をたたき落としてやるからな!」
「ひでェよ、あんた、言ってることがむちゃくちゃだあーっ!」
 半分泣きべそかきながら、それでも八郎太は、泰頼の馬を追って走りだした。
「鬼、おにぃーっ!!」
 道もない森の中を抜けるなら、軍馬といえども全力疾走はできない。人間の二本の脚でも充分に追えるはずだ。戦場でも、騎馬武者は付き従う従者と速度を合わせる。一騎討ちがもてはやされた源平の頃ならいざ知らず、集団戦が主流となった乱世の戦では、騎馬一騎だけが突出するのは無謀すぎるからだ。
「我らも急ぐぞ。さわ、馬に乗りなさい」
「いえ、わたしは……」
 さわは一瞬ためらったが、すぐに何か思いついたらしく、人足たちの手を借りて黒馬の背に乗った。そして、埃まみれになった由布の打掛を。被衣のように頭からすっぽりとかぶる。
「こうしておけば、遠目には由布姫さまのようにも見えましょう」
 由布の着物をかぶり、身替わりになるつもりなのだ。
 了海は、そこまでは考えていなかった。女の徒歩が混じっていては、早く進めない。だからさわを馬に乗せようと思っただけなのだが。
 が、彼女が自分から身替わりを申し出てくれたのなら、それを否定する必要もない。
 泰頼の残していった従者ふたりが、ぴたりと黒馬の横につく。
「行くぞ!」
 了海は右手を高く挙げた。
 黒い軍馬を中心にした一行は一塊りになり、遠駆けする軍勢のような速度で街道を一気に抜けていった。



 藤ヶ枝城は、此花館の後方にある戦用の砦だ。
 黒藤山は山岳というよりなだらかな丘陵だが、前方に流れる茂庭川が天然の濠の役割を果たし、此花館と連結する外側の土塁、藤ヶ枝城のみを囲む土塁と空堀と、二重の備えに囲まれて、藤ヶ枝城は難攻不落の砦として知られていた。此花館へ通じる通路の他に、黒藤山の西側に、直接街道から登ってこられる馬道もある。そちらが藤ヶ枝城の正門とされ、虎口
(ここう)には騎馬武者が出撃できるよう半円形の馬出曲輪(うまだしくるわ)が築かれていた。
 了海らの一行が城に到着した時、つるべ落としの秋の陽はすでに西に大きく傾いていた。
「開門、開門っ!」
 警護の兵が門扉を開けるのも待ちきれず、行列全体がひとつの塊となって城内になだれ込む。
「ご陣代! 到着が遅いので、心配しておりました」
 砦の準備を任せていた円谷が駆け寄ってくる。
「いったいどうなさったのですか。姫君は――」
「まだ到着されていないのか!?」
 ――あの若造、いったいどこで何してやがる!!
 この際、了海自身、泰頼とたいして年令がかわらないのは敢然と無視する。
 砦に到着するまでに、了海も何度か敵国の斥候らしい人影を見た。あくまで偵察が目的で二、三人で行動していたため、武装を整えたこちらの行列を見ると、斥候のほうであわてて逃げていったが。
 八郎太の報告に間違いはなかった。もう一刻の猶予もない。
「円谷。さわの様子を診てやれ。誰か、馬の世話を頼む」
「承知つかまつりました」
 慣れない馬上で必死に鞍にしがみついていたさわは、疲れ果てていた。円谷は彼女に手を貸し、馬の背から抱き下ろした。
「歩けますか。まずは横におなりなさい。誰か、水を汲んできてくれ! ほかに怪我人はいないか!?」
 了海は高い櫓の上に立つ兵に向かって怒鳴った。
「物見! 前方をよく見ていろ、葦毛の軍馬が見えたら、すぐに知らせよ!」
「承知!」
 かがり火を増やし、麓の此花館へ使いを出す。館では城代家老が留守を預かっている。彼に知らせて、姫の世話に必要な女手や籠城の物資を藤ヶ枝城へ送らせなければならない。此花館の補修を優先していたため、藤ヶ枝城はまだ傷んでいる箇所が多い。
 空気が急に慌ただしくなる。それまでじっと息を潜めていたかのような藤ヶ枝城が、了海が到着したとたん、その指示を受けて一気に目を覚まし、活動を始めた。
 そうしているうちに、やがて、
「来たぞ! 葦毛の馬だ!」
 物見櫓で目を凝らしていた足軽が、黒藤山の裾野を指さし、怒鳴った。
「二人乗っているはずだ! 確認できるか!」
「え――はい、二人います! 武者と、……子供が!」
 つづら折りの山道を、軍馬が駈けのぼってくる。
 了海は自分で砦の虎口を開けた。
 扉が半分も開かないうちに、狭い隙間をすり抜けるように、葦毛の軍馬が飛び込んでくる。
「姫、お怪我はございませんか!」
 泰頼の腕の中で、由布は疲労困憊し、失神寸前だった。
「姫さま!」
 まだ青い顔をしながらも、さわが懸命に駆け寄る。
「姫さま、しっかりあそばして。気を確かにお持ちくださいませ!」
「あ、ああ……さわ――。良かった、あなたも無事だったのね……」
 由布はふらふらと顔を上げ、自分を抱きかかえようとするさわの顔を見た。だがその眼の焦点が、どこか合っていない。
 馬は全身汗に濡れ、白く湯気を噴いている。そうとうの距離を走ってきたらしい。
 手綱を握る泰頼にも疲労の色が見えた。
「姫さま、大丈夫でございますか? お歩きになれますか? ――これ、誰か戸板を持ってきてください。姫を中へお入れいたします」
「だ、大丈夫。自分でちゃんと歩けるから……」
 さわが由布を支えて建物の中に入るのを見届けると、了海は馬から下りた泰頼をにらみつけた。
「ずいぶん遅かったではないか」
「見張られていてはまずいと思い、少々道を逸れて遠回りをいたしました」
 振り返れば、ぜいぜいと息を切らした八郎太がへたり込んでいる。了海の命令どおり、ずっと泰頼の馬を追いかけていたらしい。
 おそらく泰頼は、後ろから追ってくる八郎太に気づき、馬の速度をある程度ゆるめていたのだろう。墨染め衣の陣代が自分を信じていないことに気づき、八郎太を振り切ればかえって陣代の疑いが深まると判断したのだ。
 こちらの考えはすべてお見通しとでも言いたげなそのやり方が、なんとも小面憎い。
「姫を無事にお届けいたしました。これで私に二心のないことは、おわかりいただけたと存じます」
「それを判断するのは、愚僧ではない。姫御前だ」



 ざわざわと落ち着かない気配の中で、由布は目を覚ました。
「え……。こ、ここは――」
 見慣れた常光院の庫裏ではない。板敷きの見知らぬ小部屋に簡素な寝具がのべられ、由布はそこに寝かされていた。
 室内には、ほかに誰もいない。
 部屋に窓はなく、漆喰で塗り固められた壁に三方を囲まれている。まるで、建物の中に設ける内倉だ。
 出入り口の扉の隙間からは、明るい光がひとすじ射し込んできていた。
「もう、朝なの……?」
 そんなに眠っていたつもりはなかったのだが。
 由布はそろそろと布団から這い出した。





BACK    CONTENTS    NEXT
【 カチガラス・6 】
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送