【月だけが見ていた・1】
 夏月(かづき)はガラス玉のような眼をして、ぼんやりと天井を見上げていた。
 身体の上では、見知らぬ男がぎくしゃくと動いている。
 少し視線をずらせば、薄くなった髪や脂ぎってべたべたした肌、たるんだ顎に浮くまだらの無精ひげが視界に入る。
 それらを見ているのが嫌で、かと言って眼を閉じると男に何をされるかわからない恐怖があり、天井ばかりを見つめているのだ。
 男は夏月の胸を掴み、脚を持ち上げ、裏返し、身体中をべちゃべちゃ舐め回した。
 そして股間の醜悪なものを夏月の中へ押し込み、息を荒げながら身体を揺する。
 狭い部分を無理やりに押し広げられ、ぎしぎし擦られる痛みにも、もう慣れた。
 ――こんなことが気持ちいいだなんて、みんなどうかしている。
 白く濁った脳裏に、そんな思いがかすめる。
 SEXなんて、男が勝手に欲望を吐き出すだけのこと。
 別に相手が夏月でなくても、彼らは一向に気にしない。女の形をした肉の塊があれば、それで満足なのだ。
 男がうめく。まるで牛の歯軋りだ。
 じっとりと全身に脂汗を浮かべた、男の身体。
 肌が触れ合うだけでも気色悪いのに、男の荒い呼吸が耳元にかかる。
 煙草とアルコール臭の混じった生臭い息に、おぞましくて鳥肌が立つ。
 その臭いは、いつも夏月に遠い昔を思い出させる。
「いい子だ、夏月。おとなしくしてろよ。母さんには言うんじゃないぞ」
 ――あの時も、そうだった。
 怖くて気持ち悪くて、声を出すこともできなかった。
 あれはいつのことだったろう。
 中学生、小学生――いや、もっと昔?
「ちょっと我慢してろ。そしたらまた、好きなもの、何でも買ってやるからな」
 粘ついた声でそう言って、夏月を暗い小部屋に連れ込んだのは、湿った畳の上に押し倒したのは、あれは誰だったろう?
 やがて身体の中に生ぬるい何かがぶちまけられるのを、夏月は感じた。
 重たい男の身体がどさりと降ってくる。
 ぜいぜいとうるさい呼吸が耳元にかかった。
 最初から最後まで、夏月はただぼんやりと天井を見つめているだけだった。






   CHAPTER 1   HUSH A BY BABY

 狭いフロアには、激しいリズムが鳴り響いていた。
 点滅するライト、その下で身を揺する人間たち。真冬も近いというのに、エアコンは全開で、こもる熱気と汗のにおいを屋外へ追い出している。
 一〇〇人も入れば満員になってしまう、小さなダンスクラブ『HUSH』。雑居ビルの地下一階に、このクラブがオープンしたのはつい最近のことだ。
 コンクリートが剥き出しの内装に、小さなDJブース。怠そうな表情の店員が一人いるきりのドリンクカウンター。渋谷にはありきたりのクラブだ。奥の壁一面に貼られた大きな鏡が、わずかな特徴と言えるだろうか。
 だが店内を見回すと、どことなく違和感を覚える。
 客のほとんどが、ティーンエイジャーの少女ばかりなのだ。
 DJがラップ中心に回しているにもかかわらず、ダンスフロアで飛び跳ねる少年達の姿がない。フロアにもカウンターにも、男性客らしき姿はほとんどいなかった。
 踊っている少女たちも派手な私服ではなく、学校の制服を思わせるブラウスやリボンタイ、プリーツスカートといった身なりが目に付く。
 フロアの隅にあるボックス席で、熱心に鏡を覗き込む少女もいる。
 厚く化粧をし、しきりに前髪をいじる少女を、店の従業員らしい男がダンスフロアへと追い立てる。
 少女はうっとうしそうな顔で男を睨むと、渋々立ち上がり、フロアの中央で踊り始めた。
 従業員の男は、他にも座っている少女はいないかと、店全体を見回していた。
 明滅するライトの下、少女達は身をくねらせる。ひどく退屈そうな、死んだ魚のような眼をして。
 そして時々、隣で踊る友人の肩をつつき、フロアの片隅を視線で示す。
「ねーねー。あそこの男、イケてない? あれも『客』かな」
「まさかぁ。若いよ。間違えて入ってきただけじゃない?」
 少女達の視線の先には、一人の青年が壁にもたれて立っていた。
 二〇才を少し越えたくらいだろうか、すらりと背が高く、ルーズなラインのノーカラージャケットやパンツの上からでも、その引き締まった身体つきがうかがえる。
 ブリーチした髪を派手に立ち上げ、おそらく美しいだろう容貌は、半分以上サングラスで隠してしまっている。オフタートルのシルクシャツの襟元には、女物なのか、シックなデザインのネックレスが揺れていた。
 他の男がやれば噴飯ものの服装だろうが、それが不思議と彼には似合っている。まるで外国のグラビア誌から抜け出してきたみたいに、くわえ煙草で立つその姿勢さえ、絵のようだ。
「ギイ、来てくれたのね」
 青年の後ろから、はなやかな声がした。
「どう? この店。気に入ってくれた?」
「んー……。そうね、いいんじゃないの? 場所も悪くないし。センター街からすぐだものね」
 ギイ、と呼ばれた青年は、優しげな、まるで女性のような言葉を使った。けれどその声は、あくまで男性の低さを持っている。
「お世辞だってわかってても、ギイに誉めてもらえるとうれしいわ」
 声をかけてきたのは、若い女性だった。ギイよりも少し年上だろうか、ブランドもののツーピースを隙なく着こなし、手首にはダイアモンドをちりばめた豪華な腕時計が輝いている。
「ねえ、出ましょう。ここじゃうるさくて、話もできないわ」
 彼女はギイの腕をとり、なかば強引に彼を引っ張って歩き出した。
 従業員用の出入り口に姿を消す二人を眺め、少女達はつぶやく。
「なんだ、オーナーの知り合いかよ」
「オーナーのカレシ?」
「ヒモかも。オーナーってさ、若い男が好きそうじゃん。ババアのくせしてさー!」
「げー、きもぉ!」
 少女達に言わせれば、二〇才を過ぎれば女はすべて「ババア」だ。ストッキングを穿くようになれば、人生は終わりなのだ。
 だが彼女達にも、その終焉は間近い。
 だから少女達は、うつろな視線を宙へさまよわせ、鳴り響くビートだけに意識を向ける。心を空っぽにして、何も考えず、何も感じずにいられるように――。





「で、どうかしら? ギイ。誰か、気に入った女の子はいた?」
 少女達が「オーナー」と呼んでいた稲垣りつ子は、深紅のルージュに彩られた唇を歪め、にやっと笑った。
「本当ならクラブの会員になってもらわなきゃ、うちの子は買えないんだけど。ギイなら特別よ」
「おや、ありがとう」
 長く形の良い指が、すっとサングラスを外す。その下から現れた美貌は、どこか日本人離れしたはなやかさを持っていた。
 切れ長の目元や唇には、薄く化粧が載っている。耳元でちかりと、ルビーのピアスが光った。
「ほら見て。さっきのフロア、良く見えるでしょ?」
 りつ子が示した大きな窓の向こうでは、少女達が今も踊っている。――『HUSH』の壁に飾られた鏡が、マジックミラーになっているのだ。
 それと向き合うように、簡単なソファーがいくつか並んでいる。細長く狭い部屋は、それだけでいっぱいだった。
 狭いのも当然で、ここは『HUSH』の一部を仕切って作られた隠し部屋なのだ。『HUSH』の従業員室からの他、一階のうなぎ料理屋からも出入りができる。
「クラブのお客には、ここからダンスフロアを眺めて、女の子を選んでもらうわけ。フロアに出てって一緒に踊るのは、おじさん達にはちょっと無理でしょ」
「なんて名前だっけ、ここ……」
「りぼん、よ。女子高生デートクラブ『りぼん』」
 会員になれば、いつでも現役女子高生と援助交際が楽しめます。エンコー狩りなどの危険もなく、しかも出会い系サイトなどと違って、直接見て大勢の女の子達の中から好みのタイプを選べます。それがデートクラブ『りぼん』の売り文句らしい。その分、料金も割高なのだとりつ子は言った。
 クラブの会員になった男は、一階の料理屋からこの隠し部屋へ入り、ダンスフロアで踊る少女達を品定めする。指名する少女が決まったら、今度は『HUSH』の従業員が少女に知らせ、ビルの外で客と待ち合わせるというシステムだ。
 今、制服姿で踊っている少女達はみな、デートクラブ『りぼん』の売春婦なのだ。
「本当に高校へ通ってる子なんか、いやしないけどね。いいのよ。おっさん達は若い女とSEXできれば、それで満足なんだから」
 りつ子はせせら笑う。
「あの子達だって、そうよ。家にいて普通に学校に通ってるより、売春
(ウリ)してたほうが楽しいって子ばっかり」
「じゃ、なに? あの子らみんな、家出してんの?」
「半分くらいはね。この近くに借りたマンションに寝泊まりさせてるの。喜んでるわよ、みんな。ぼんやり家を出てきたはいいけど、行くあてもなくて、街をふらついてた子ばっかりだから。住む所を提供してやってるんだもの、その見返りに少しは稼いでもらわないとね」
「ねえ……。それって、犯罪じゃないの?」
「いいじゃない。本人達が、家に帰るより売春してたいって言うんだもの」
 平然としているりつ子の横顔を、ギイはため息を隠しながら見やった。
「あの子達って、単純よ。ちょっと煽ってやれば、すぐにお互いで張り合っちゃって。客の数を競い合うようになるの。そうなったら、あたしが何も言わなくたって、せっせと売春してくれるのよ。客のオヤジに自分から連絡して、媚びたりしてね。あとはちょっとお小遣いやって、おだててやればいいの」
 こんな楽な商売はないわ、と、りつ子はいかにも自分の頭の良さが自慢のようだった。
 友人と呼べるほど親しいつもりもないが、ギイがまだ他人の店にヘアデザイナーとして勤務していた頃から、りつ子は彼を贔屓にしてくれていた。ギイが自分のカットハウス『SQUARE』を持つようになってからも、りつ子は月に一度は顔を見せていた。
 その稲垣りつ子が、
「今度ね、私、クラブを作ることにしたの。ギイも遊びに来てちょうだい」
 と、言い出したのは、つい先日のことだ。
 それなりに有名な大学を卒業して、きちんとした企業に勤めていたりつ子が、いきなり水商売を始めるなんて、とも思ったが、ギイの口出しするべきことでもない。
 だがそれが、未成年を売買する非合法の売春クラブだったとは。
 常連客へのおつき合いのつもりで、飲み屋ならボトルの一本もキープしようかと思ってクラブへ顔を出したギイだが、すでに来たことを後悔し始めていた。
「ここと一階の店の改築費用なんかは、私のパパに出してもらったの。お客もずいぶん紹介してもらっちゃったし」
「パパって……」
「そう。私も援助交際してるってわけ。こうやってお金稼げるのも、今だけだもの」
 乾いた声でりつ子は笑った。濃い化粧の映える美貌なのだが、その声はまるで老婆のように、ギイには聞こえた。
「ギイだって、興味ないわけじゃないんでしょ?」
「そりゃ、まあね。女の子は大好きよ」
 銀座の歓楽街近くにシングルマザーの子として生まれ、芸者あがりで三味線の師匠をしていた母の元へ通う美しい女性達に囲まれて育ったギイである。彼が女言葉で話すのも、身近にいるのはすべて年上の女性ばかりだった子供時代の名残りだ。
 本沢紀一
(もとさわのりかず)という名前を「のりかず」ではなく「きいち」と読み、そこから洒落て「ギイ」という愛称をつけてくれたのも、銀座で夜の蝶として凄艶に生きている女性達だった。
 彼女達はギイの端正な美貌を愛し、中学を卒業する頃には、女の扱い方も一通り教えてくれた。時にはそれ以上のことも――。
 現在も、特定の恋人はいないものの、遊び相手には不自由しない。
 ギイがあまり興味を示さないことに焦れたのか、りつ子は彼の腕を抱き、豊かな胸をすり寄せるようにしてささやいた。
「何なら、少し変わったことしてもいいのよ。縛りとか、オモチャ使ってもいいし。あの子達、そういうの平気だから。裏ビデオに出てる子もいるしね」
 他のデリバリーヘルスみたいに特別料金なんか請求しないから、と、りつ子は笑った。
「ね、嫌い? そういうの」
「嫌いじゃないわよ。やったことないとも言わないし」
 はっきり言って自分には、Sの気があるのだろう。ギイはそう自覚している。
 だが、女を切り売りすることしか考えないりつ子にも、窓の向こうでくねくねと踊る少女の皮をかぶった売春婦にも、まったく興味は持てない。
 まだらに脱色し、まるで老婆のような髪、不健康に痩せ、皮膚のたるんだ腕。高価い金を払ってまであんな代物を抱きたがる男の気が知れない。
 あの少女達の眼を見ていると、腹の底から冷たくなるようだ。
 死んだ魚の眼。
 男に抱かれた数だけでしか自分を評価できない、他には何一つ価値あるものを持っていないうつろな生き方が、あの眼に端的に映し出されている。
「悪いけどアタシ、まだ仕事があるから……」
 ギイは素っ気なくりつ子に背を向けた。
「あら、もう帰っちゃうの?」
 甘ったるく鼻にかかるりつ子の声にも振り向きもせず、『HUSH』の従業員室へ戻るドアに手をかける。
 だが、ギイがドアを開けたとたん、小さな黒い影が転がり出てきた。
「きゃあっ!? な、何よ、いったいっ!?」
 思わず大きな声をあげ、飛び上がる。
 ギイの足元にうずくまる、小さなけもののように熱い身体。
 ぎょっとして見ると、まるでぼろ切れの固まりのようなそれは、実は一人の少女だった。
「え――。な、何……」
 引き裂かれたミニワンピース、血がにじんだ二の腕や素足。きゃしゃなデザインのサンダルは、片方しか穿いていない。肩に乱れかかるロングヘアは半分ほどがぶっつりと切られ、まるで死人の髪のようだ。頭を動かすたびに、切られた髪がばらばらと床に落ちる。
 殴られたのか、傷ついて腫れ上がった顔が、ギイを見上げていた。
 その、眼。
 ギイは思わず息を飲んだ。
 燃えるような黒い瞳が、ギイを映している。傷つき、床に這いつくばって、目元には悔し涙すら浮かんでいるのに、その瞳だけは激しい反抗の意志を失っていない。まるで傷ついた野生のけものが誰彼かまわず噛みつこうとするように、ギイを睨みつけていた。
 肋骨をぶち抜き、貫いていく視線。心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、呼吸さえ詰まりかける。
「な、何よ、あんた……」
 その少女を助け起こそうと、ギイが手を伸ばした瞬間。
「てめえッ! 逃げんじゃねえよッ!!」
 ヒステリックな甲高い叫びが、従業員室から飛び出してきた。
 続いて、うずくまる少女と同じ年頃の少女達が三人ばかり、顔を出す。
 彼女達はギイとりつ子の姿を見ると、一瞬ためらうような表情を見せた。だがすぐに血走った眼を最初の少女に向けると、一人がその髪をひっつかんだ。
「きゃああっ! い、痛い! 離せ、離せよッ!!」
「なぁに、またあんたなの? 夏月
(かづき)
 床に倒れ、髪を掴まれている少女を見下ろし、りつ子はさして興味もない様子で言った。
「あんた、今度は何をやったのよ」
「こいつ、恵里香の客を盗ったんだよ!」
 夏月と呼ばれた少女の髪を掴んだまま、別の少女が怒鳴った。
「あたしが頼んだわけじゃないよ! 向こうが勝手に指名しただけじゃないか!!」
「うるせえッ! 黙れッ!!」
 髪を掴む少女の横から別の脚が伸び、破れたミニワンピースの脇腹を力任せに蹴り上げた。
「金のある男ばっかかっぱらいやがって! てめえ、何サマのつもりなんだよッ!!」
 他の少女達も尖ったピンヒールやソールの厚いミュールサンダルで、床にうずくまる夏月の身体を、胸でも腹でもめちゃくちゃに蹴り、踏みにじった。
 見ればそのうちの一人は手に事務用のハサミを握っている。リンチの一環として、あれで夏月の髪や衣服を切り刻んだらしい。
「ち、ちょっと! 何してんのよ、あんた達!」
 ギイは慌てて少女達の輪へ割って入ろうとした。
 だが、その手をりつ子が引き戻す。
「いいから、放っときなさいよ」
 りつ子は白々とした表情で、少女達の陰惨な暴力を眺めていた。
「下手に口出しすると、後が面倒よ。若い女の集団なんだもの、いじめなんか当然じゃない。学校じゃないんだから、放っときゃいいのよ。いじめたいだけいじめさせればいいの」
 普段からりつ子は、こういうことに関して一切の干渉をしないらしい。
 少女達は安心して、夏月を従業員室へ引きずり込もうとしていた。他人の眼のない場所で、夏月にもっと酷い制裁を加えようというのだろう。
 夏月は短く悲鳴を上げ、必死にもがいて、それに抵抗し続けている。
「あの子、夏月っていうんだけど、こんなことしょっちゅうなのよ。確かにちょっと綺麗だし、お客に指名されることも多いから。他の子達が嫉妬するのよねえ。それにあの子、性格が暗いし」
「そんな! あれじゃあの子、死んじゃうわよ!」
「殺される前に自殺してくれると、楽でいいんだけど。一人二人死んだって、代わりに売春してくれる子は、いくらだっているわ」
 りつ子は退屈そうにあくびまでして見せた。
「それともなぁに? ギイ、あなたがあの子を買ってくれるわけ? そしたら、止めさせるわよ、すぐにね」
「わ――わかったわよッ!!」
 ギイは怒鳴った。
「買うわよ! アタシがあの子の客になるわよ!!」






 夏月は半分呆れて、目の前の男を見た。
 服はぼろぼろ、顔は殴られて青黒く腫れ上がり、髪も死にかけの河童みたいにばらばらに切られた、こんなひどい状態の女を、買おうという男がいるなんて。
「傷物だからって、値切ったりしないでよ。ちゃんと決まった分の料金は払ってよね」
「わかってるわよ」
 オーナーが無遠慮に差し出した手に、彼は言われるまま数枚の一万円札を乗せていた。
「明日の昼までには、ここへ帰してちょうだい。遅れると延長料金ですからね」
 念を押すオーナーにはもう見向きもせず、その男は夏月へ真っ直ぐに近づいてきた。
「大丈夫? ほら、立てる?」
 少女達を押しのけ、夏月を立ち上がらせた腕は、思いの外強い力を持っていた。外見も言葉遣いも、まるでオカマみたいなのに。
「あ、あんた……」
「いいから。まずここを出ましょう」
 彼は着ていたジャケットを脱ぐと夏月に着せかけ、包み込むように夏月の肩を抱いて歩き出した。
 ビルの外へ出ると、
「ちょっと待ってて。自動車回してくるから」
 目立たないよう夏月を物陰に立たせ、道の向こうへ走っていく。
 やがて夏月の目の前に停車したのは、明るい黄色のミニクーパーだった。
「え……。クルマって、これ?」
「そーよ。悪い? いいから乗りなさい」
 小さな車内で、彼は長い手足を折りたたむようにしてステアリングを握っている。
「アタシの店に行きましょ。その髪、何とかしなくちゃね」
「店……?」
「美容師なの、アタシ」
 ――それで、か。
 夏月はひそかに納得した。彼の手や髪からかすかに甘い優しい匂いがするのは、仕事で使う化粧品の香料が残っているからなのだ。
「あんた、どうして……」
 ぼそぼそと夏月は言った。どうしてあたしを助けたりしたの。見ず知らずの女を、高価い金払ってまで――。
「女の子が殴られてるの見て、放っとけるわけないでしょ。当たり前じゃない」
 彼は夏月の方を見ようともしないまま、素っ気なく言った。
 夜が更けてもまったく人の波が絶えない繁華街を抜け、ミニクーパーは渋谷を離れた。
 やがて夏月にはあまり見覚えのない街へ入る。
「ここ、どこ?」
「銀座よ。もうすぐアタシの店」
 どこか取り澄ましたネオンの森を抜け、小さな車体は細い横道へ逸れていく。そして、ほっそりして洒落た外観の小さなビルの前で停車した。
 一階には花屋らしい店舗があり、二階、三階と、喫茶店やアロマテラピーなど女性が好みそうな小さなショップや事務所が続いている。時間が時間だけに、ビルの灯りはすべて消えていたが、玄関脇のエレベーターだけはまだ動いているようだ。
「こっちよ」
 エレベーターの前で、彼が手招きする。
 夏月が連れていかれたのは、ビルの五階にあるカットハウスだった。ドアに小さく『SQUARE』とプリントされている。
 白と黒を効果的に配置した、シャープで洒落た雰囲気の店内。
 彼は美容室の手順そのままに、夏月を鏡の前に座らせ、ハサミを手に取った。
「ありゃま……。こりゃひどいわね。このへん、ライターか何かの火で焼かれたのね? 大丈夫? 火傷とかしなかった?」
 半分ほどじゃきじゃきに切られてしまった夏月の髪を調べ、丁寧に梳かしていく。
「ショートにするしかないね、これ。我慢しなさい。しばらくすれば、また伸びるんだし」
 彼の指が器用に動き、無様だった夏月の髪を綺麗に切り揃えていく。
「メイクも落としましょ。後で薬つけてあげるから」
 殴られた傷にできるだけ触らないようにしながら、クレンジングクリームを塗り、厚い化粧をふき取る。
 やがて鏡の中に、少年と見間違えるようなすっきりと美しい顔が映し出された。
 ただ長くあまり手入れもしていなかった髪は、襟足で切り揃えられ、軽くシャギーが入って小さな顔をふわりと縁取っている。尖った顎のラインも少し丸みを帯びて見え、額にかかる前髪が、ぎょろぎょろときつい光で他人を睨んでばかりいた眼にやわらかな陰影を与えていた。
 まるで……別の人間みたい。
 鏡に映る自分を、夏月はまじまじと見つめた。
 こんな短い髪型にするなんて、今まで考えたこともなかった。『りぼん』にいる少女達は、男達が喜ぶよう、ロングヘアでいるようにとりつ子に命じられていたのだ。逆らえば『りぼん』のマンションを追い出されていただろう。
 何か一つ、胸の奥でぱちんとはじけたような気がする。たかが髪を切っただけなのに、こんなに身体が軽く思えるなんて。まるで今まで夏月を縛っていた重たい鎖が一つ、ほどけて落ちたようだ。
「あら。ショートも可愛いじゃない」
 自分でこういうヘアスタイルにしておきながら、彼は意外そうな声をあげた。
「うん、似合ってる。アタシの腕も捨てたもんじゃないわね」
 そして手早く道具を片づけると、
「こっちおいで」
 今度は店の奥に隠れていた階段を示す。
「この上がアタシの部屋になってるの。他には誰もいないから、今夜は泊まってきなさい。どうせあの店に帰ったって、また他の子にいじめられるだけでしょ?」
 夏月の返事も待たず、彼はさっさと階段を上がっていった。

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