【月だけが見ていた・2】
  ――なんだ、やっぱりその気なんじゃない。夏月の背中を見つめ、胸の中でつぶやく。
 どうせ、そうだと思ってた。男なんて、女を見ればSEXすること以外考えないんだから。
 カットハウスで使うシャンプーやトリートメントのストックが積まれた階段を登ると、2LDKのマンションの一室に出る。このビルの最上階全部が、彼の住居らしかった。
 彼はここにたった一人で住んでいるのだろうか。少なくともざっと見回した限りでは、女の気配などはないようだ。こざっぱりと片づいている、というより、余計なものは何一つ置いていない。
 あまり生活の匂いのしない空間。一五畳以上あるだろうか、ゆったりとしたリビングには家具らしいものはほとんどなく、ただがらんとフローリングの床だけが広がっている。窓際に置かれた小さな観葉植物だけが、わずかな潤いを与えていた。
 誰もいなかった部屋の空気はしんと冷たく、夏月は思わず身をすくませた。
「……で、どこでやるの?」
 夏月は投げやりに言った。
「ベッド? それとも、ここで?」
「はぁ?」
 彼は一瞬、わけがわからないというように、夏月をまじまじと見る。
「別にどこでもいいんだけど、あたし、床の上はあんまり好きじゃないんだよね。痛いから」
「どこって――。あ、あんた、何考えてんのよ、冗談じゃないわよっ!!」
 いきなり、彼は大きな声をあげた。
「そんな青タンだらけのツラ見て、いったい何しろってぇのよ! アタシはそんな趣味ないわよ!!」
「え……。だ、だって――」
 金まで払って、女子高生デートクラブの女を自分の部屋へ連れてきたのに。何もするつもりがないなんて、とても信じられない。
「あ。もしかして……ゲイ?」
 言葉遣いもまるで女性のようだし、化粧もしているし。男にしか興味がないなら、夏月に何もしなくて当然だ。
 しかし彼は、
「あのねえっ! ヒトを勝手にヘンタイにしないでちょーだい! アタアシはゲイでもオカマでもないわよ! 女が嫌いなら、はなっからあんな店、行きゃしないわよ!!」
 ……それは、そうだが。
「アタシはね、あんたみたいなおガキさま相手にしなくたって、SEXフレンドくらい不自由してないのよ! ほら、バカなこと言ってないで、シャワーでも浴びといで!」
 頭ごなしに怒鳴られ、ガキ扱いされても、夏月は自分でも意外に感じるほど素直に、バスルームへ向かった。
 どうして彼の言うことには素直に従うのだろう。他人からああしろこうしろと偉そうに命令されることくらい、気にくわないことはないのに。
 きっと彼には、最初から一番みっともない姿の自分を見られているからだろう。自分の欠点や弱みを見せるまい、隙を見せるまいと、変に身構える必要もない。
 そう思うことは、不思議と夏月の心を落ち着かせてくれた。
 熱いシャワーを頭から浴びると、身体中がひりひりと痛んだ。蹴られたり引っ掻かれたりした傷に、お湯や石けんがしみる。
「あ、痛ぅ……」
 バスルームを出ると、タオルと一緒に洗い晒しのダンガリーシャツが置かれていた。おそらく彼のものだろう。脱ぎ捨てたミニワンピースは裾からウエストのあたりまで引き裂かれ、もう衣服の役割を果たしていない。シャツを借りるしかない。
 少し重たい生地を肩に羽織ると、ほのかに優しい香りがした。彼の肌に残る匂いと同じ、ほんのりと甘く、さらりとした香り。胸の奥に染みこんでいくようだ。
 リビングに戻ると、彼も着替えてメイクを落とし、床に座って煙草をくゆらせていた。足元には、枕と毛布が放り出してある。
「ベッドは向こうだからね。アタシはここで寝るから、安心なさい」
「ここでって……」
 冷たいフローリングの床の上で。
 煙草をくわえる横顔は、さっきまでのはなやかさもなく、若い男の研ぎ澄まされた美貌が冴え冴えと浮かび上がっている。照明を控えめにした薄青いリビングルームの中で、まるで白い月のようだった。
 そんな彼に一旦は背を向け、ベッドルームへの扉を開ける。暗がりの中に見えたのは、ゆったりとしたダブルベッドだった。
「あ、あのさ……」
 小さな子供のようにドアのそばに突っ立ったまま、夏月はぎこちなく彼を呼んだ。
 そしてようやく、彼の名前すら聞いていなかったことに気づく。
 後ろで組んだ手をもじもじさせながら、小さな声でつぶやく夏月に、彼は少し困惑したような表情を見せた。大きなメンズシャツにすっぽりと包まれた夏月は、クラブで見た時よりもずっと幼く、まるで迷子の小さな子供のようだった。
 その様子に、彼はやがてにこっと笑った。
「――ギイ」
「え?」
「本名は本沢紀一ってんだけど、みんな、アタシのこと『ギイ』って呼ぶのよ」
「……ギイ」
 その、古いヨーロッパ映画の俳優のような呼び名は、彼の端正な容貌に良く似合うと、夏月は思った。
「床じゃ……寒いよ」
 やがて夏月はぼそぼそと口ごもりながら、言った。
「ベッド……。一緒に使おう。広いから大丈夫だよ、二人でも……。別に、何かしようとか、そんなんじゃないから……ただ――」
 不器用な、けれど真摯な言葉。よけいな飾りもなく、だからこそ真意が伝わる。
 ――一緒に眠ろう。
 もう、夜は寒いから。わざわざつらい思いをすることはないから。
 そしてギイは、小さくくすっと笑った。
「そうだね」





 あたたかなベッドで毛布にくるまっても、夏月はなかなか寝付くことができなかった。
 傍らでは、ギイの規則正しい寝息が低く聞こえている。
 店の連中に言ったら、きっと誰も信じないだろう。男と一晩一緒に過ごして、同じベッドに寝てまでいながら、キスも何もしなかったなんて。夏月自身、まだ信じられないくらいだ。
 こんなふうに誰かと一緒に眠るなんて、ずいぶん久しぶりのような気がする。
 夏月は小さく吐息をついて、ゆっくりと眼を閉じた。
 こうしていると、何だか泣きたくなってくる。誰かと一緒に眠るのが、こんなに優しい気持ちになることだなんて。こんなに単純で他愛もないことで、こんなに安らげるなんて。
 何の見返りも求められずに、ただ誰かに優しくしてもらうことなど、生まれて初めてだったような気がする。夏月が知っている男達はみな、夏月の身体を貪ることしか頭になかったから。
 彼らは夏月をまるでもののように扱い、欲望のままに踏みにじった。夏月が彼らの意に背くようなことをすれば、容赦なく暴力を振るい、屈服させようとした。『りぼん』で出会った男達も、その前に関わり合った男も、みんな。
 こんなふうにただ、夏月を包み込んでくれた人なんて、今まで誰もいなかったのに。
 彼の静かな呼吸が、ひたひたと波のように伝わってくるぬくもりが、夏月をそっと暖める。その奥に隠れている精緻な鼓動が、泣きたいくらいに優しい。
 ――今夜はこのまま眠ろう。何も考えず、身体を包む彼のぬくもりに浸りながら。
 ぽうっとあったかい、この胸の奥の何かを抱きしめながら。
「ギイ……」
 眠りつく前、彼が教えてくれた名前を、夏月は小さくつぶやいてみた。
 それはまるで砂糖菓子のように甘く、ほんの少し苦く、舌の上で溶けていった。





       CHAPTER 2   氷雨の街

 翌日、夏月が眼を覚ました時、窓の外は冷たく細かい雨に濡れそぼっていた。
 ――あれ……。ここ、どこだっけ……。
 夏月はあたりを見回し、ぼんやりと考えた。天井や部屋の様子に見覚えがない。稲垣りつ子のマンションでもないし、客に連れ込まれたホテルのようでもない。ましてや、夏月が生まれ育った家でも――。
 頭がはっきりしてくるにつれ、ようやく昨夜のことを思い出してきた。そっと寝返りをうつと、部屋の主人はまだ枕に顔を埋めて、小さな寝息をたてていた。
 ギイを起こさないように、静かにベッドを降りる。
 時計を見ると、そろそろ朝の通勤ラッシュが始まる時間だ。けれど雨のせいもあり、リビングもキッチンもまだ少し薄暗かった。
 どうしよう。泊めてもらっって、髪まで綺麗にカットしてもらったお礼に、朝ご飯でも作ってあげようか。そうは思うものの、他人の台所では、どこに何があるのかもわからない。とりあえず、ケトルでお湯だけ沸かしてみる。
 ケトルが沸騰を知らせてピーピー鳴り出した頃、ギイももそもそと起きてきた。
「あら、早いねえ……」
 髪は寝乱れてくしゃくしゃで、うっすらとヒゲも浮いている。こうして見ると、彼もやはり普通の男だ。
「どれ。ちょっと顔見せてごらん」
 ギイは夏月の細い顎に指をかけ、すっと上向かせた。
「あー、やっぱりまだ少し腫れてるわねえ。昨夜のうちに少し冷やしておけば良かったかしらね」
 胸の奥で、どきんと心臓が飛び跳ねた。
 ギイに触れられた部分から、じゅん、と熱い何かが広がる。やがて彼の指が離れても、その感触はひどく火照るものとなって、夏月の肌の上に残っていた。
「おなか空いた?」
「ん……。うん、ちょっと」
「じゃ、ちょっと待ってて。なんか作るわ」
 ギイはキッチンに立つと、慣れた手つきで朝食の準備を始めた。
 夏月は思わず、しげしげとその手元を眺めてしまった。男が包丁を持つところなど、初めて見る。ギイの手は思いの外器用に箸やフライパンを扱う。綺麗な指が踊っているようだ。
「こらぁ。ンなとこでぼけっとしてないで、着替えてらっしゃいよ。クローゼットの中の、どれでも好きなの着ていいから」
「え、うん……」
 もう少しギイの指を見ていたいと、思ったけれど。
 いろいろと試してみて、結局夏月が選んだのは、Vネックのセーターだった。かぽっとかぶってウエストにベルトを巻けば、ワンピースのように見えないこともない。
 メイクもせず、短くなった髪にはブラシをかけるだけ。けれどそれだけで、ごてごて塗りたくっていた時よりも、自分の顔がずっと好きになれるような気がした。
 やがてキッチンからいい匂いが漂ってくる。トーストとコーヒー、かりかりのベーコンにカップスープ。
「はい、お待たせ」
 二人、向かい合ってテーブルにつく。
 こうやって一緒に食事をしていると、まるでずっと昔から二人でこんな朝を迎えていたような気がする。本当はこんなこと、もう二度とない筈なのに。ギイと一緒に朝の時間を過ごすことが、とても自然に思えてくるのだ。
「で……どうするの、これから」
 食事が終わると、やがてギイは低くつぶやくように言った。
「渋谷に――あのクラブに、帰るつもり?」
「え……」
 確かに、そろそろ稲垣りつ子が所有する『りぼん』のマンションへ戻らなくては、ギイが延長料金を請求されてしまう。マンションには、少女達が逃げ出したりしないよう、いつも見張りの目が光っていた。彼らは客と外泊している少女のこともすべて把握し、帰ってくる時間をチェックしているのだ。
 もし夏月がこのままマンションへ戻らなければ、ギイに迷惑をかけるばかりではなく、りつ子の命を受けた男達が夏月を捜しに来るだろう。そして連れ戻され、凄惨な制裁を受けることになる。逃げた少女がそうした目に遭わされるところを、夏月も何度となく見せられていた。
 濃いめのコーヒーをブラックで味わいながら、ギイは夏月を見つめる。
「他に帰りたいとこは、ないの? あるんなら言ってごらん。送ってってあげるから」
「帰りたい、とこ……って……」
 その視線に、胸がつまる。
「好きでやってるわけじゃないんでしょ? あんなこと。そーゆー顔してるじゃない、あんた」
 他の少女達と同じくうつろなふりをしていながら、夏月の眼の奥には何かが揺らめいている。何かを叫びたくて、必死に言葉を探している。――誰も気づいてくれなかった夏月に、彼は気づいてくれた。たった一晩、ともに過ごしただけなのに。
 ギイはけして夏月を責めているわけでも、偉そうに説教しようとしているわけでもない。ただ静かに、夏月が本当の気持ちを言うのを待っているだけだった。
 ――帰りたいところなんか、どこにもない。
 夏月は唇を噛んだ。
 自分のしていることが何なのか、夏月にだって判っている。悪いこととか犯罪とか言う前に、とてもきたないこと。
 汚いことをしていると、自分でもちゃんと判っているのだ。
 でも男に身体を売らなければ、『りぼん』のマンションにはいられない。けして望んで得た居場所ではないけれど、同じ年頃の少女達がうつろな瞳をしてたむろするあの部屋を追い出されたら、夏月にはもう行く場所がない。
 家には――二度と、帰れない。
 その理由を思い出すだけで、吐き気がする。
 夏月は何も言えず、ただうつむいた。膝の上で強く両手を握り締めていないと、全身が震え出してしまいそうだった。
 いつもそうだ。誰かがこうして優しい言葉をかけてくれるたびに、心の天秤がバランスを失って大きく揺れ始める。みんな諦めて楽になってしまいたいとすすり泣く自分と、それでもまだ生きていたい、何かを信じていたいと泣き叫ぶ自分と。
 ギイはそんな夏月の様子を見つめ、やがて小さく吐息をついた。
「……送っていくよ」
 立ち上がり、リビングに置いてあったミニクーパーのキーを手に取る。
 夏月も黙って、彼の後に従った。
 二人を乗せた可愛い黄色のミニクーパーは、ようやく活動し始めた銀座の街を抜け、とことこと渋谷へ向かう。
 その車内でも、夏月は押し黙ってうつむいたまま、ほとんど身動きもしなかった。ギイも何も言わず、夏月の方を見ようともしない。重苦しい沈黙が、夏月の胸を締め上げた。
 やがてミニクーパーは、渋谷センター街近くの雑居ビルの前に停車した。ダンスクラブ『HUSH』が入っているビルだ。
 自動車を停め、エンジンを切っても、ギイは降りろとも何とも言わなかった。両手をステアリングにかけたまま、ただじっと前を見つめている。
 夏月も身動きできなかった。
 ここで……彼に言ってしまえたら。
 帰りたくない。どこにも行きたくない。
 やかましいだけの街角にも、知らない男に連れていかれるホテルの部屋にも。
 ――あたしには、もう帰れる場所なんか、ない。
 親がいる家にも、帰れない理由がある。それを、打ち明けてしまえるなら……!!
 けれど、ギイは相変わらず視線をフロントガラスの向こうへ投げたまま、夏月の方を見ようともしなかった。
 夏月はのろのろとドアに手をかけ、ミニクーパーから降りた。
 細かい霧のような雨が、全身を包む。
 『HUSH』へ続く階段を下りようとして、夏月はふと気がついた。
「あ、そうだ。この服……」
 どうやって返せばいいの。そう尋ねようと振り返った時。
 雨に濡れそぼる路上には、もうミニクーパーの可愛いシルエットはなかった。
 ――行っちゃった。
 夏月の全身から、すべての力が抜けていく。
 あのひと、行ってしまった。何も言わず、何も聞かないうちに。
 きっと、もうこれっきり、逢えない。
 そう思うと、何故だかとても胸が痛んだ。まるで心臓が溶けてなくなってしまったみたいに、身体中の力が失われ、すべてが空っぽになってしまったようだった。





 その日から数日間、夏月はデートクラブに出なかった。殴られた顔の腫れが綺麗になるまでは客は取れないだろうと、りつ子が判断したのだ。
 ようやく腫れが引くと、今度はすぐに店へと追い立てられる。
 命じられるまま、夏月は流されていく。今までもずっとそうしてきたように。
 流されていれば、何も考えずに済む。忘れたくても忘れられない出来事も、思い出す時間を減らすことができる。
 そのために自分は、このやかましい街に流れた来たはずなのに。
 ダンスクラブ『HUSH』に、四肢をふるわせるビートがあふれ出す。激しい音楽に合わせて身体を揺らす、気怠そうな少女達。マジックミラーの向こうには、彼女達を求める客の男が集まり始めているだろう。
 夏月にとって、いつもの夜だ。
 ギイが短く整えてくれた髪を見て、りつ子はだいぶ気に入らない様子だった。だが『りぼん』の中でも人気がある夏月に、これ以上店を休ませるわけにはいかないと判断したのか、他の少女達がふたたび夏月に暴力を振るったりしないよう、従業員の男にそれとなく見張らせていた。
 夏月は『りぼん』の定番とも言える、制服風の服装をしていなかった。ギイに借りたセーターをワンピースのように羽織り、すんなりした脚を見せている。
 このセーターを着ていると、まるでギイの腕に包まれているような気がする。
 カウンターの小さなスツールに座り、夏月はフロアで踊る少女達をぼんやり眺める。カウンターに置かれたラムコークのグラスは手をつけられることもなく、氷が溶けていった。
 やがて、
「夏月ちゃん。指名だよ」
 影のように近づいてきた若い男が、夏月の耳元でささやいた。
「え……」
 男は早く店の外へ出ろと、顎をしゃくる。
 夏月は返事すらせずに席を立った。
 地下からの階段を上がりビルの外へ出た夏月は、冷たい風に身をすくませた。湿った空気が、雨が近いことを感じさせる。
 薄暗い路上では、背中を丸めて顔を隠すようにして、中年の男が夏月を待っていた。
「久しぶりだねえ、夏月ちゃん。どうしたの。この頃、店に出てなかったろう」
 男は猫なで声を出し、夏月の方へ腕を伸ばしてきた。
 どんよりした失望感が、夏月の胸を満たした。
 馬鹿みたい、と、自分で自分を笑う。一瞬でもギイが会いに来てくれたのかも、なんて、思うなんて。
「ふうん、髪、切っちゃったんだね。いいねえ、短いのも可愛いよ」
 煙草の脂が臭う手が、夏月の肩を掴む。その瞬間、夏月の背中をぞっとする悪寒が走り抜けた。
 身体を売るたびに、いつも感じる不快感だ。けれど今日は、それがどうしても我慢できない。全身に鳥肌が立ち、指先がふるえてしまう。このオヤジが今までの客と比べて特に酷いというわけでもないのに。
「さ、行こう。お腹空いてないかい? それともカラオケでも行こうか?」
 中年男は粘つく声で笑い、夏月の肩を抱き寄せる。脂とアルコールの臭いが鼻をつく。
 気持ちが悪い。吐き気がする。
 身体をこわばらせる夏月を、男は引きずるようにして歩き出した。
 連れ込まれたのは安っぽいラブホテルだった。部屋の装飾はけばけばしいピンクと金色が中心で、中にいるだけでいらいらしてきそうだった。
「夏月ちゃん……」
 男が後ろから抱きついてくる。
 脂と煙草と整髪料の入り交じった、むっとする臭い。首筋に吹きかけられる生暖かい呼吸の感覚。衣服を脱いだ身体はだらしなく太り、ぶよぶよしている。目の前で交差され、胸を掴もうとする毛むくじゃらの手。見慣れたものであるはずなのに、何もかもがおぞましく、我慢できない。金切り声をあげたいくらいだ。
 どうしてだろう。前は全部、我慢できたのに。
 ――我慢しなくちゃ。夏月は懸命に、自分に言い聞かせた。
 こうして男に身体を売らなければ、自分には居場所がないのだから。いつも通り、見下していればいい。男なんてみんな馬鹿ばかり、女の身体にしか興味がない動物以下の連中だと。
 むしろこうして身体を汚すことは、自分にとって楽に生きる方法だったはずだ。身体を汚して、傷つけていれば、心の痛みをごまかすことができる。身体の痛みのほうが、心の叫びを感じることよりも、ずっと簡単に耐えられるものだったから。
 こうしていれば、生きていける。生きていられるはずなんだ。
 必死に同じことを繰り返すけれど、一旦感じた嫌悪感は強くなるばかりだ。しまいには恐怖すらこみ上げてくる。
 いやだ――いやだ、こんな男。
 目の前を、幻影がよぎる。
 ――いい子だ、夏月。おとなしくしてろ。ほら、気持ちいいだろう。
 ――母さんには内緒だぞ。言えばお前がぶたれるぞ……。
 夏月の顎を捕まえようと伸ばされる、大きな手。太く、脂ぎった指。まばらに生えた指の毛まで、はっきりと思い出された。
「夏月ちゃん。ほーら、こっち向いてごらん」
 キスをしようと迫ってくる、男の唇。
 唾液に濡れててらてらと光る厚ぼったい唇。それは、夏月の記憶と完全にだぶった。
 ――そうだ。お前はそうやって、おとなしくしてりゃあいいんだ。じっとしてろ。このことは、誰にも言うなよ……。
「い、いや……」
 かすれた声がもれた。
「いや……いや――いやあああッ!!」
 ついに夏月は、悲鳴をあげた。
 こみ上げる恐怖。過去の幻影と現在の状況とがごちゃ混ぜになり、夏月の頭の中を駆けめぐる。
「やだッ! いやあっ、さわんないでッ!!」
 渾身の力で、男の身体を突き飛ばす。
「うわわっ!?」
 だらしなく太った男は、無様に床へひっくり返った。
「な、何するんだ!」
 怒りの声をあげる男を振り向きもせず、夏月はドアに飛びついた。そのまま部屋を飛び出し、廊下を走り抜ける。
 ほとんど裸になっていた男は、すぐに追いかけることもできなかった。その隙に、夏月はホテルから逃げ出した。
 ――もう、いや。もういや。こんなこと。
 ぼろぼろと涙がこぼれた。
 声が出ない。ただ、滅茶苦茶に走り続ける。
 息が切れ、冷たい雨に全身が凍えても、足を止めることすらできなかった。
 冷たい空気を無理に吸い込む肺が、きりきりと刺されるように痛い。硬いアスファルトを蹴る爪先も。けれどそんな身体の痛みより、もっともっと痛い場所がある。
 ――助けて。
 誰か、助けて。
 この痛みを、誰か、止めて。
 灰色の雨に濡れそぼる夜の街へ、夏月の姿はあっという間に消えていった。
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