【月だけが見ていた・3】
 最後の客を送り出し、ギイはドアにかけたプレートを「CLOSED」にひっくり返した。
「ふう……」
 思わず小さくため息を漏らす。
 今日、何度目のため息だろうか。カットハウスの常連客にも、
「どうかしたの、ギイ。何だか冴えない顔してるんじゃない?」
 と、心配されてしまった。
 どうも――あの子のことが、気にかかる。
 本人が黙っているから、どうしようもなくて元のデートクラブに置いてきてしまったけれど、本当にそれで良かったのだろうか。その疑問が、ギイの脳裏から消えない。あの子はきっと、何か言いたいことがあったんじゃないのか。もう少し待っていれば、本当の気持ちを聞けたのではないだろうか。
 夏月と別れてからというもの、気がつけばいつも、ギイはそんなことばかり考えていた。
「参ったわね、どうも……」
 手早く店内の掃除をして、ブラインドを下ろそうと窓辺へ寄る。
「あら。とうとう降り出したのね」
 冷たく濡れたガラス越しに、宵闇に沈む街を眺めた時。
「え――っ!?」
 細い道路を挟んで、向かい側に小さな人影がある。
 雨に濡れてふるえている姿。短い髪にふちどられた白い小さな顔が、そっとこちらを見上げていた。
「夏月!?」
 ギイはカットハウスを飛び出した。
 エレベーターのドアが開くのももどかしく、飛び乗る。一階へ下りるまでの時間が、身体中が焼けつくように苛立たしかった。
「夏月――夏月っ!」
 ビルの玄関を飛び出し、車道を走り抜ける。
 灰色のアスファルトに囲まれて、小さな影法師がひっそりと立っていた。かたかたと小さくふるえながら、潤んだ瞳でまだビルの窓を見上げている。そこにわずかでも人影が映らないかと、待っているらしい。
「夏月っ!!」
 大きな声で名前を呼ばれ、初めて少女はギイの方を見た。
「……ギイ」
 一瞬、信じられないというような表情で、ギイを見る。けれどすぐにギイに駆け寄り、抱きついてきた。
「ギイ……ギイ、ギイ――ッ!!」
 短い髪からは冷たい水滴がしたたり落ちていた。夏月がかなり長い時間、ここで雨に濡れていた証拠だ。
 けれど渾身の力でギイにしがみつく細い身体は、ほのかに熱い。その奥に生きる力を秘めて、確かな鼓動を刻んでいる。
「ごめん……。ごめん、来ちゃいけないって判ってたんだけど……あたし、あたし……!」
 泣きじゃくる声は、それ以上言葉にならなかった。
「……馬鹿だね、この子は」
 ギイは濡れた髪にそっと指を差し入れ、小さな顔を上向かせた。
 涙に汚れた夏月の顔。泣いたせいで、目元も鼻の頭も赤く染まっている。けれどまるで白い花のようだと、ギイは思った。
 泣くために、この子はここへ来た。自分のもとへ――他の誰でもなく、ギイの手を求めてきたのだ。
 それで充分だ。
 もう、言葉は何もいらなかった。
 最初の口づけが二人の呼吸を溶かしていった。





 灯りの消えた部屋が、ギイと夏月を出迎えた。
 ギイは照明を灯すより先に、エアコンのスイッチを入れた。そして、まだ玄関先にぽつんと立っている夏月を振り返る。
「それ、脱ぎなさい。早く乾かさないと、風邪ひくよ」
「うん……」
 夏月は足を引きずるようにしてリビングへ入り、重たく湿ったセーターを脱いだ。
 薄青い暗がりの中に、白くしなやかな肢体が浮かび上がる。全体にまだ肉付きが薄く、女としての成熟はあまり見られない。半透明の肌は曇り一つなく、何の汚れも感じさせなかった。
 生まれたばかりの仔犬のようにふるえる少女を、ギイは背中から抱きしめる。
「可哀想に……。こんなに冷たくなって――」
 ギイの腕が、ぬくもりが、その指に残るほのかな甘い香りが、夏月の全身を包んだ。涙が出るほどあたたかい。
 けれど夏月は、
「だ……だめ。だめだよ――!」
 白いコットンシャツに包まれたギイの腕を、自分から振りほどいた。
「夏月……」
「だって、あたし……。だめだよ。あたし……汚いもん」
 汚れた身体。何十人という男の玩具になって、その欲望をぶちまけられてきた身体。手垢と脂にまみれたこんな身体に、ギイに触れてもらうことなんかできない。
 ――それに、自分は……。
 夏月の唇がふるえながら、小さく動いた。
「……た、の――」
「え?」
 はっきり聞こえなかった言葉を確かめようと、ギイはうつむいた夏月の顔を覗き込む。
 その視線から逃げるように、夏月は顔を背けた。
 そして、言った。
「レイプ、されたんだ……。子供の時、母さんの再婚相手のオヤジに……。小学生の頃から、ずっと、何度も何度も……!」
 のしかかってくる重たい体。煙草と酒の臭いのする息。べたついた肌とささくれ立ってざらつく指先。突き刺され、引き裂かれる激痛。わずかに思い出すだけで、吐き気がこみ上げてくる。
 母さんには言うなよ。いつも男はそう言っていた。
 けれど実は、母親もこのことを知っていた。知っていて、夏月を助けようとはしなかった。そうやって娘を慰みものに差し出していれば、男が自分の元に残ってくれる。そう思い、そしてそれを夏月に言ったのだ。あんたさえ大人しくしていれば、全部うまくいくんだから、と。
 だから家にはいられなかった。中学を卒業してすぐに夏月は家を飛び出し、それからずっと街をさまよっていたのだ。
 ――あたしは、汚い。その思いが頭から離れたことは、一秒だってなかった。あんなオヤジに犯されて、この身体はもうどろどろに汚れている。だからどれだけ売春しようと、何人の男の玩具になろうと、同じこと。
 むしろ、こんな汚い女に喜んで高価い金を払う男がいるなんて、と、内心、客の男達を嘲笑っていた。自分の身体に群がる男達をそうやってさげすみ、見下していなければ、心が壊れてしまいそうだった。
「さわんないで。お願い……」
 つぶやく声は、涙にかすれていた。
 こんな汚い女なんて、誰も抱きたくないに決まっている。
 ギイに触れて欲しいけれど、でも触れられてはいけない。ギイの手まで汚してしまうから。
「大丈夫だよ」
 優しく強い手が、夏月を抱きしめた。
「夏月は、綺麗だよ。何にも汚れてなんか、いない」
 まだ湿り気の残る髪に、そっと唇が押し当てられる。
「大丈夫だよ。夏月は悪くない。もう泣かなくていいんだよ」
「ギイ……」
 彼の声もふるえていた。まるで彼も、今まで夏月が一人で抱え込んでいた痛みを、恐怖を、自分自身の身体で感じ取っているかのように。
「大丈夫。夏月はこんなに綺麗で、可愛いよ……」
 とぎれてしまった言葉。けれど夏月の胸に、直接響く。
 もう、自分を傷つけるのは止めなさい。お前は悪くない。お前は少しも、汚れてなんかいないから。
 それは、何よりも夏月が待ち望んでいた言葉だった。
 過去の秘密を誰にも言えず、でも本当は誰かに打ち明けて、そして答えてもらいたかった。お前のせいじゃない、お前は悪くないんだ、と。
 ――受け止めて。抱いて。愛して。あたしを愛して。
 少女の心が上げ続けていた、声にならない悲鳴。それを、ギイだけが聞き取ってくれた。同じ痛みを感じ、受け止めてくれたのだ。
 ――お前はもう独りぼっちじゃない。だからもう、泣かなくていいんだ。
 ギイの唇が、そっとの夏月のうなじに押し当てられた。少し乾いて、熱を帯びた唇。首筋から耳元、細い顎のラインへ、柔らかいキスの感触が滑っていく。
 ぞくり、と、震えに似たものが、夏月の背中を走り抜けていった。
 ギイの手がゆっくりと肌を撫で、やがて前に回って胸のふくらみにかかった時、その感覚はさらに強くなって、夏月の身体の奥に響いた。
 しなやかな強い指が、まだ硬さの残るふくらみを柔らかく揉みしだく。吸い付くような肌の感触を味わい、そして寒さのためにすでにぷつんと勃ち上がった小さな紅色の突起を、指先できゅっと摘み上げた。
「あっ……!」
 夏月の唇から、小さく短い声が漏れた。
 乳首を摘まれた瞬間、そこから電撃のような感覚が全身に走った。さらにくるくると転がされ、いたぶられると、甘い痛みはさらに強くなり、思わず四肢をこわばらせてしまう。
 ――どうしよう。夏月は小さく息を飲む。……どうしよう、たったこれだけのことが、こんなに気持ちいいなんて……。
 こんなことは初めてだった。今まで大勢の男達に弄ばれてきたけれど、わずかに胸を愛撫されただけで息が乱れるほど感じてしまうなんて。どれほどSEXを繰り返しても、性の悦びなんてほとんど感じたことはなかったのに。
 今まで夏月を抱いた男は、夏月が何の反応も示さなくても、あまり気にする様子も見せなかった。彼らは自分の欲望を吐き出すことだけで頭が一杯で、相手の女を慈しみ、快楽を与え、分かち合おうなどとは、まるで考えていなかったのだ。
 けれどギイは違う。夏月の身体を丹念に愛し、その奥にひそむ感覚を引き出そうとしている。香月自身さえ知らなかった感覚を。まるで夏月が悦ぶことが、彼にとっても最高の快楽だというように。
 彼の手が這うと、薄い皮膚の内側をぞくぞくと何かが這っていくようだ。強く抱きしめられると、それだけで身体中の力が抜けていく。
 やがてギイの唇が覆い被さるように降りてきた。夏月も自分から顔を上げ、彼のキスを求める。
 深く熱い、溶けるようなキス。ギイの舌先が夏月の唇をノックし、わずかに開いた隙間からするっと忍び込んでくる。
 互いの呼吸と唇を貪る。ひゅっと息を吸い込む音、小鳥のさえずりのような小さな水音がこぼれた。
「あ……あ、ギイ……ギイ――」
 わずかな呼吸の合間に、夏月は繰り返しギイの名前を呼んだ。
 何もかもを、あげたい。彼に、自分のすべてを、贈りたい。
 がくりと膝が折れ、二人はどちらからともなく崩れるように座り込んだ。
 ギイの手が、そっと夏月の身体を押す。ひやりと冷たいフローリングの床に背中が触れ、夏月はびくっと身をすくませた。
「あ、つめた……」
「すぐにあったまるよ」
 ふたたびギイの唇が降ってくる。唇から顎、くっきりと刻んだような鎖骨のラインへ。そして先ほどから指でいたぶられ、つんと硬く勃ちあがり、色づいた胸の突起へ。
「あ、は……ああっ!」
 過敏になった乳首を軽く噛まれ、夏月は悲鳴をあげた。
 身体が火照る。頭の中で何かがぐるぐる渦を巻いている。ギイの触れた部分から、身体中の力がどんどん吸い出されてしまい、手も脚もまるで自分のものじゃなくなっていくようだ。こんな感覚は生まれて初めてだった。
 ギイの唇は乳房から引き締まったウエストへ、なだらかな下腹部へと降りていく。やがて熱いキスが、夏月のもっとも過敏な部分へと押し当てられた。
「あ――あぅんっ!」
 両脚を大きく広げられ、秘められた部分に熱い吐息と舌が這う。火花のような快感が、夏月の全身を駆け抜けた。
「甘い、な……。夏月のここ……」
 ギイが言葉をもらし、その呼吸が触れるのさえ、たまらない悦楽だった。
 尖らせた舌先が花びらの上を這う。重なり合う一枚一枚をゆっくりとかき分けるように。
「あぅ、あ……だ、だめ、そこ……っ」
 紅色に染まってひくひく震え始めた花びらの奥から、とろりと熱い蜜があふれ出す。夏月は急速に、快楽の頂点へ押し上げられていく。
「ギイ……ギイっ! も、もうだめ、き……きて、お願い……っ!」
 すすり泣くような愛玩に、ギイは身体を起こした。
 床の上にぐったりと這う夏月を抱き上げ、小さな子供を抱えるように膝の上へ乗せる。夏月は自分からギイの首に腕を巻き付け、力がまったく入らない上半身を彼の肩へもたせかけた。
 こうしていると互いの身体がもっとも密着し、相手のぬくもりも鼓動も、すべてを肌で感じ取ることができる。
「夏月……」
 深く絡み合う、淫らなキス。透明な雫が唇の端からしたたる。
 ギイの手が夏月の腰をゆっくりと持ち上げた。真下から熱い昂ぶりが夏月を貫く。
「あ、あ……くあああぁっ!!」
 ひときわ高く、夏月は悲鳴をあげた。
 全身ががくんと弓なりにのけ反る。
 自分の体重がかかる分だけ、身体の一番奥深くまで、ギイが侵入してくる。
「あ、く、くる……っ! きてる、熱いの、が……。ギイが、い、いっぱいに……なって……ッ!!」
 その瞬間、狂おしい熱よりも脈動する快感よりも、何よりも彼と一つになった幸福感が、夏月のすべてを満たした。
 渾身の力で、ギイの身体を抱きしめる。ギイもそれに応え、夏月を大きく突き上げた。
 二人は同時に、歓喜の頂点へ駆け上っていった。





 目を覚ました時には、ベッドの中だった。
 何も着ないまま、以前も眠ったことのある広いダブルベッドで、夏月は柔らかなシーツにくるまっていた。
 窓の外は少しだけ明るくなっている。夜明けが近いようだ。
 横にギイの姿はなかった。けれど細く開いたドアの向こうから灯りが漏れ、彼の声が聞こえている。誰かから電話でもあったのだろうか。何を話しているのかまでは聞き取れなかったが。
「あら、起きてたの」
 やがてギイが寝室へ戻ってきた。
「いい知らせよ」
 ギイは寝室の照明を点け、にっと笑ってみせた。
「例のデートクラブ、警察に摘発されたってさ。オーナーの稲垣りつ子も逮捕されたし、彼女のマンションにいた女の子達もほとんど補導されたって。今、アタシの知り合いから連絡があったの」
「摘発? 逮捕って……」
「あんた、ほんと悪運強いわねえ。もしまだあそこにいたら、あんたも一緒に補導されてたわよ」
 夏月は声もなく、半ば茫然とギイを見上げた。
 稲垣りつ子が警察に捕まった。デートクラブ『りぼん』はなくなった。その言葉が、ぐるぐると頭の中を駆け回る。
「良かったね。もう誰も、あんたを追っかけて来やしないのよ」
 夏月は身体中の力が一気に抜けていくような気がした。もう、あの売春クラブはない。逃げ出した夏月を捕まえ、暴力を振るって売春に追い立てようとするものは、誰もいなくなったのだ。
 こんな幸運なことが、本当にあるんだろうか。
 まだ信じられないという顔をしている夏月を、ギイはベッドに片膝を乗せて胸に抱き寄せた。
「もう少し寝てなさい。まだ夜明けには時間があるから」
「う、うん……」
「明日になったら、少しあんたのものを揃えないとね。服だって、いつもアタシのばっかり着てるわけにもいかないし」
「え……。あたしのものって――」
 夏月は驚いて、ギイの顔を見上げた。
「ここに、いて……いいの? あたし、これから……」
 ギイは小さくうなずく。
「あんた、他に行くところあるの?」
 ――ない。どこにも夏月を受け入れているところなど、ない。ギイの元以外は。
 ここにいれば、もう怖いことはない。つらいことも痛いことも、何もない。ギイはまだ怯える心ごと、夏月をしっかりと抱きしめてくれる。
 夏月も自分からギイの背へ腕を伸ばし、精一杯の力で彼を抱きしめた。
 そうだ。この腕に抱かれている限り、もう何も怖がることはない。
 やっと見つけた、夏月の居場所。
 広い胸に耳を押し当てると、ギイの鼓動が聞こえる。その暖かさの中で、夏月はもう一度眼を閉じた。
 それから数日は、夢のように過ぎていった。
 ギイと二人で食事をし、街を歩き、買い物して、そして一緒に眠る。たったそれだけのことが、夏月は生まれて初めての体験のように嬉しかった。
「何よ、あんた、そんなジーンズとか男物みたいな服ばっか選んで……。スカートとかワンピとか、いらないの?」
「うん。こっちの方がいい」
 ブランドもののバッグも靴も、男を挑発するためだけの服も化粧も、もういらない。
「ふーん……。ま、いいけどね。アタシだって他人のこと言えないし。あんたの好きなようにしなさいな」
 ギイと一緒にいるときは、無理して流行に合わせようと焦ったり、周囲から浮き上がることを怖がったりしなくてもいい。本当に自分の着たい服を着て、本当に欲しいものだけを選ぶことができる。
 鏡に映る姿は髪も短く、化粧もなく、まるで男の子のようだ。昨日までの、死んだ魚のような眼をして身体を切り売りしていた自分は、どこにもいない。毎日が、違う自分の顔を見つける驚きに満ちている。
 そのせいでギイはカットハウスの常連客に、
「まあギイ! 貴方、とうとう男の子を恋人にしちゃったの!?」
 と、言われる羽目になってしまったのだが。
 違う顔と言えば、ギイのことも少しずつ判ってきた。
 彼のカットハウスの客には若い女の子は少なく、夜の銀座で働く一流クラブのママさんやホステスの女性がほとんどだということや、店舗や彼の住居があるこのビル自体、実は彼の所有だとか。彼の母が亡くなる直前、住んでいた木造家屋を取り壊し、このビルを建てたのだという。ギイはそれを相続したのだ。
 そして、ベッドの中でささやくギイの声は普段よりも少し低くなり、言葉付きもがらりと変わることも、夏月は覚えた。
 やがて。
「あら。誰よ、こんな時間に」
 カットハウスの営業も終わり、ギイが階上の自分の部屋へ戻ってきた時。玄関のインターフォンが鳴った。
 夏月に手で座っていなさいと示して、ギイはインターフォンに向かった。
「はい、どちら様?」
『夜分遅く申しわけありません。渋谷警察署のものなんですが――』





      CHAPTER 3  月に濡れるふたり

「稲垣りつ子さんをご存じですね? 彼女が逮捕されたことは知ってますか?」
「ええ、まあね。ニュースでも見たわよ。女子高生の売春クラブやってたんでしょ」
「その顧客名簿に、お宅さんの名前もあったようなんですがねえ……」
「そりゃ逆よ。彼女がアタシの美容室のお客だったの。で、渋谷にクラブ開いたから遊びに来てって誘われてさ。アタシが行った時は、ただのダンス系のクラブだったわよ。可愛いDJの男の子がいてさぁ」
 警察に任意同行を求められたギイは、だが、ごく簡単な事情聴取を受けただけですぐに帰宅を許された。
「なによ、失礼しちゃうわね! なーにが『そうですよねえ、お宅さん、女の子には用がないでしょうからねえ』よッ! ヒトを勝手にホモ扱いすんじゃないってぇの!!」
 それも夕飯時に押しかけて、すみませんでしたの一言もないんだから、と、怒りも収まらないまま、マンションへ戻ってくる。
「ただいまぁ!」
 玄関のドアを開けると、室内の空気がやけに冷たい。そろそろ暖房なしでは過ごせなくなる時期だというのに。
「……夏月?」
 答える声は、なかった。
 がらんとしたリビングルームには、誰もいなかった。





 夏月はたった一人、寒い街を歩いていた。
 もうギイのところへは帰れない。自分がいたら、ギイに迷惑がかかる。今日だって、ギイは悪くないのに、警察が来た……。
 罪を犯したのは、ギイじゃない。りつ子に命令され、売春していたのは、夏月なのだ。
 何も言わず、走り書きも残さずに出てきてしまったけれど、ギイはきっと判っているだろう。むしろ厄介な荷物が自分から出ていってくれたと、ほっとしているに違いない。
 けれど、これからどこへ行こう。夏月は当てもなく、周囲を見回した。
 どこへも行く場所がない。夏月はわずかな金額を持っただけで、飛び出してきたのだ。
「寒ぅ……」
 もうすぐ真冬になる街は、もうコートなしでは歩けない。
 あてもなく駅まで歩き、地下鉄に乗って、ふと気づいた時、夏月は渋谷に、クラブ『HUSH』があったビルの前に来ていた。
 『HUSH』への階段も一階のうなぎ料理屋も今はシャッターが降り、「都合によりしばらく閉店いたします」の張り紙だけが空しく風に揺れている。
 ずっとここにいたら、自分もデートクラブ『りぼん』の女子高生だったって、判るだろうか。夏月はぼんやりそんなことを思った。それがいいかも知れない。そうやって警察に補導され、少年院だかどこだかへ送られてしまえば、もうギイに迷惑はかからない。
 冷たいシャッターに寄りかかって立ち尽くす夏月を、道行く人々は見るともなく眺めて通り過ぎる。
 やがてその中で、ミニスカートと剥き出しの脚を見せびらかしながら、二人連れの少女が夏月に近づいてきた。
「ねえ、一人ぃ?」
 が、間近で夏月の顔を見ると、
「なんだ、女じゃん」
 スリムジーンズにメンズシャツという身なりの夏月を少年と間違え、逆ナンしようとしたらしい。
「ヘンなかっこしてんじゃねーよ、バーカ!」
 少女達は捨て台詞を吐いて、すぐに立ち去る。
 その声を聞いたのか、今度は派手な格好の少年が二人、夏月に寄ってきた。
「どしたの? 誰かと待ち合わせぇ?」
 彼らは夏月の逃げ道をふさぐように、夏月の前に立ちはだかった。
 夏月と同じ年頃なのに、にやにや笑うその表情は欲望がにじんでいやらしく、まるで中年男のようだ。引きずるように着崩した服装と中途半端に生えたひげが、とてもだらしなく薄汚く見える。
「オレさ、おもしれぇとこ知ってんだよ。一緒に行かねぇ?」
「な、飲みに行こうよ。どうせヒマしてんだろ?」
 夏月が何も答えないうちに、少年の一人が夏月の腕を掴み、自分の方へ引き寄せた。
 夏月は何の抵抗もしなかった。操り人形のようにぐらりと身体が揺れ、少年にもたれかかる。
「なんだぁ、こいつ。ラリってんじゃねーの?」
「いいじゃん。酒飲ませてツブす手間はぶけっしよ。そのへんのホテルとかに連れ込もうぜ」
 少年達は無遠慮に夏月の細い肩や腕を撫で回した。
 夏月は何の反応もしなかった。――何がどうなってもかまわない。自分なんて、どうなってもいい。こんな身体、何人の男に犯されたって、もう同じこと……。
 犯されて犯されて、ぼろ切れみたいになって、そのまま死んでしまえたらいい。
 少年達に引きずられ、夏月はふらふら歩き出した。
 だが、その時。
「夏月ッ!!」
 耳に馴染んだ声が、鋭く夏月の名前を呼んだ。
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