「でも、もしかして忘れてるんじゃない? ひどいことを言われたのはあなただけじゃない。駿くんだって、あなたの嘘でとても傷ついてるのよ」
「う、嘘なんて、あたし……っ」
 夕夏はけいれんするみたいに首を横にふろうとした。けれどほとんど動かすことができず、全身がこわばってしまう。
 そして、
「だ、だって――だって、しょうがなかったんだもん!! 駿が……駿を傷つけたくなかったから、あたし――ッ!!」
 悲鳴をあげるように、夕夏は叫んだ。甲高く引きつれるような声は、語尾がかすれて言葉が聞き取りにくいくらいだ。
「駿のためだと思ったんだもんっ! だ、だって、そうしないと、駿が……駿が――っ!」
 夕夏の声に、だんだんしゃくりあげる息づかいが混じってきた。少女は幼い子供みたいに目元を強くこすり、ぼろぼろこぼれる涙を抑えようとしていた。
「好きなの……。あ、あたし、駿が、好きだから……っ」
「うん。あなたの気持ちは駿くんだってちゃんとわかってると思うよ」
 依里はふと、心の片隅で夕夏をうらやんだ。
 誰かを好きと言って、ただそれだけのためにこんなふうに手放しで泣くなんて、そんなことができたのはどのくらい以前のことだろう。どんなに泣いたって去ろうとする者を引き留められないとわかってからは、誰かの前で泣くこと自体、なくなってしまったような気がする。
 けれどそういう羨望は、いつも嫉妬と背中合わせだ。
「でもそうやって、好き、好きってあなたが自分の気持ちばかり押しつけるから、駿くんだって苦しくて、逃げ出したくなるんじゃないかな」
「逃げるって……?」
 夕夏は顔をあげた。一瞬、依里が言ったことの意味がわからない、というように小さく首をかしげ、依里を見る。
 ――ああ、私、ずいぶんひどいこと言ってるな。依里は苦く、そう思った。心の片隅にまだ冷静な自分が残り、今の自分の言葉を冷淡に聞いている。こんな醜い真似をして、とさげすんでいる。
 でも、どうしても止められない。こんな自分を駿には絶対見られたくないと思いながら、同時に目の前の少女を傷つけるのに何のためらいも感じない。彼女がすでにぼろぼろに傷ついていると、わかっているのに。
 自分のほうが語彙も豊富で、経験もある。どんなことを言えば相手の傷をもっとも深く、惨く抉ることができるか、ちゃんと知っている。自分は狡い大人だから。そのことを自覚していても、もちろん彼女を追いつめるのに手加減してやる気にもならない。
 駿への恋が、怒りや憎しみ、子供じみた独占欲、依里の中にある生々しい感情すべてを鷲づかみにし、引きずり回しているみたいだ。
 そしてそれは、目の前の少女も同じだろう。
 いや、彼女のほうが、身体中を暴れ回る感情の嵐はもっと凄まじいかもしれない。依里はまだどこかに、自分をつねに優位にしておこうとする計算高い理性が残っている。だが夕夏にはもうそんなことを考える余裕すらない。すべてがあふれ出す感情に支配されて、自分でもどうにもならないのだろう。
「に、逃げるって、そんなことないッ! 駿があたしから逃げるなんて、絶対――絶対、ありえないもん!!」
 夕夏は叫んだ。顔がさらに青白くなり、今にも倒れそうに見える。
「あたしは駿が好きなんだから! 駿のためなら、なんだってする。なんでもできるの!なのに、どうして駿があたしから逃げたりするの!?」
「本当よ。駿くんはあなたから逃げて、私のところへ来たの。あなたの言葉に傷ついて、私のところへ泣きに来たのよ」
「……う、そ――っ」
 少女の顔が、くしゃっと歪んだ。
 その丸いほほを、ぼろぼろと涙がこぼれる。もうぬぐうことさえ忘れているようだ。幼い赤ん坊みたいな泣き顔だった。けれどそれがこの少女の本当の表情かもしれないと、依里は思った。
「うそ。そんなの、ありえない……っ! 駿が、駿があたしから逃げるなんて……」
 声がかすれる。夕夏は今にもその場にしゃがみ込んでしまいそうだった。そうなってしまえば、きちんと立たせることもむずかしいだろう。
 こんな道ばたでそんな真似をさせるのは、人目もあるし、さすがに可哀想だ。
「ねえ、夕夏ちゃん」
 依里はゆっくりと夕夏に歩み寄り、手をさしのべようとした。
 けれどその手を、夕夏は力いっぱいはらいのけた。
「さわんないで!!」
 涙によごれたほほ。薄地のキャミソールにもいくつか染みが浮いている。それでも依里を見返す夕夏の目は、ぎらぎらと青白い火が燃えているみたいだった。
「なんで!? なんであたしから駿を盗っちゃうの!?」
「だから、それは――」
「あんたはそんなに綺麗で、大人で、ほかの男にだってもてるんでしょ!? なのになんであたしから駿を取り上げようとすんの!? ほかの男だっていいじゃない、なんで――なんで駿なのよおおッ!!」
 ヒステリックな夕夏の声に、依里の我慢もだんだん限界に近づいてくる。夕夏の激しい感情にあおられるように。
 いや、それもまた、依里の中にもともとあった感情なのかもしれない。ふだんは心の奥底に押し隠し、あえて見ないふりをしていた醜く激しく、原始的とも言える感情が、夕夏の感情の発露にひきずられて溢れ出してきたのだろう。
「私が駿くんを誘ったわけじゃないわ! 彼のほうから私に逢いに来たのよ! そうよ、いつだって駿が私のところへ来たのよ!!」
「返してよおッ!!」
 夕夏の耳には、もう依里が何を言っても届かないらしい。
 夕夏は両手を握りしめ、子供みたいに泣きわめいた。
「返してよ! 駿を返して! あたしから駿を盗らないで!! あたしには駿しかいないの、駿しかいらない! 駿だけなのッ!!」
 依里はもう、なにを言うのもあきらめた。ただ黙って、夕夏の金切り声を聞く。
 本当ならこんなみっともない真似、顔をひっぱたいてでも止めるべきなのだろう。
 でも、何故かそうする気にはなれない。
 こんなにも手放しで泣きわめき、人目も気にせずに、駿が好き、駿だけが欲しいと叫ぶ夕夏が、どこか羨ましかった。
 ――こんなこと、私にはもうできないから。
 それは、どこか少しだけ、敗北に似たような気持ちだった。
 身体の力がふっと抜けていくような気がする。
 その瞬間、夕夏の両手がいきなり依里に向かって伸びた。
 依里の肩を鷲づかみにし、ぎりぎりと爪を食い込ませてくる。
「い、いた……ッ!」
 依里は思わず苦痛の声をあげた。けれど夕夏はそれにも気づかないようだった。
「ねえお願い、駿を返して。あんたなら、他の男、いくらでもいるでしょ!? でもあたしは――だめなの! 駿でなきゃ、だめなの!!」
「つ、う……っ」
 痛みに、依里は顔を歪めた。けれどしゃにむにすがりついてくる夕夏の手を、振り払おうとはおもわなかった。
 この痛みは、夕夏の心の痛みだろう。
 それと同時に、依里自身の心の悲鳴でもある。
 こんなふうになりふりかまわず一人の男を追いかけるなんて、依里にはできない。
 大人になってしまったからではなく、昔からずっとそうだった。本当にそばにいてほしい人、どこへも行ってほしくない人がいたのに、結局はその人に自分の気持ちを告げることもなかった。ただおとなしく、いってらっしゃいと送り出しただけなのだ。
 そのことを、ずっと後悔し続けていた。どうしてあの時、父に「行かないで」と言えなかったんだろうと。
 もしかしたら幼いあの日、自分は気づいていたのかもしれない。これきり、父が自分たちのところへ戻ってきてはくれない、と。
 両親は毎日のように激しい言い争いを繰り返し、時にそれは親類や近所の人などが仲裁に入る騒ぎにもなっていた。そこまでこじれてしまった夫婦仲に、いくら幼いとはいえ、一緒に暮らす子供が気づかないはずはない。
 それでも依里は、何も言わなかった。
 ――言っても無駄だって……思ってたのかな。
 そうだ。いつも自分はあきらめてきた。恋も、大切な人も。それが恰好良い大人の生き方だと、自分に言い訳をして。
 でも違う。
 こんなふうに――目の前の夕夏のように、もがいて、泣きわめいて、自分の気持ちのままに声をあげて、それでも報われなかった時が、怖かった。求めて求めて、結局与えられないのなら、最初から何も欲しがらないほうがいいと、自分の臆病さに言い訳していたのだ。
 たった一度、大切な人から捨てられただけで。次の失敗が、怖くて冒せなくなっていた。
 依里はどこか醒めた、哀しい目で、夕夏の細い肩を見おろした。
 ――ねえ、あなたは怖くないの……? そうやって泣きわめいて、それでも駿が行ってしまった時のことを、今は考えずにいられるの?
「お願い……駿を、返してよぉ……っ」
 夕夏の声が、だんだん弱く、かすれてきていた。
 もう立っているだけで精一杯なのかもしれない。依里の肩を掴む手も、依里を逃がさないためというより、そうやって依里に掴まっていなければぐずぐずと地面にしゃがみ込んでしまいそうだからかもしれなかった。
「あたしには、駿しかいないの……。駿だけなの。駿が――駿だけが、あたし……っ」
「やめろよ、夕夏ッ!!」
 凛と張りのある声が、泣き叫ぶ夕夏の声をさえぎった。
 強い手が夕夏の手首をつかみ、依里の肩からもぎ離す。
 背の高い姿が、夕夏と依里のあいだに割り込んでくる。
「駿くん……」
「駿――っ!」
 彼の名が、ほぼ同時に二人の口からこぼれていた。
「駿! 駿、来てくれたの、あたし――!」
 引きつった笑みを浮かべ、しがみつこうとする夕夏を、駿は両腕を突っ張るようにして押し戻した。
「いい加減にしろ、夕夏! 俺にはなに行ってもかまわねえけど、依里さんに――お前と関係ねえ人に、迷惑かけんなよっ!」
 怒鳴られて、ようやく夕夏は静かになった。だがそれは落ち着いたというより、突然のことにびっくりして、声を出すのも忘れてしまっただけのように見える。
「駿くん、どうしてここへ――」
「駅前からバイパスに出てすぐ、バイク停めて、こいつにメールしたんだ。でも返事もねえし、携帯自体がつながんねえから、もしかしてと思って――」
 駿の肩越しに坂の下を見おろせば、四〇〇ccの大きな車体が見える。
 駿はちらっと依里のほうを振り返り、小さく首を横に振った。何も言うな、ということらしい。
 言いたいことはたくさんある。夕夏にも、駿にも。けれど依里は、ひとまず駿に任せようと思った。
 ――大丈夫よ、駿くん。今ここできみが夕夏ちゃんの肩を持ったって、私、それほど傷ついたりしないから。
 こんな道ばたに突っ立ったまま、三人でわめきあうよりずっとましだろう。
 駿は夕夏の手を離し、泣いている少女の顔を真っ直ぐに見据えて言った。
「お前、帰れ」





「お前、帰れ」
 鋼鉄みたいに冷たい、駿の声。
 鼓膜を突き刺すように、夕夏の耳に響く。
 こんな駿を見るのは初めてだった。
「ど、どういうこと……? あ、あたし、ここにいちゃいけないの?」
「ああ、そうだよ。お前、知らない人に迷惑ばっかかけてんじゃんかよ。家帰って、少し頭冷やせよ!」
「どうして!? あたし、ここにいたい! 駿のそばにいたいの! だめなの!? どうして駿のそばにいちゃいけないの!?」
「そういうこと言ってんじゃねえだろ!? みっともねえ真似すんなって言ってんだよ!」
「いや……。いや、やだッ!」
 夕夏は思わず駿の腕にしがみついた。
「どこにも行きたくない。駿のそばにいたいの、ねえ!」
 ――駿に置いていかれたら。
 胸の中に、あの夏の恐怖がよみがえる。駿と別れたあと、一人きりになった夕夏を襲ったあの悪夢が。
 身体の一番奥からこみあげて、全身を突き上げていくどす黒い恐怖。夕夏のすべてを飲み込んでいく。見開いた目が、だんだん焦点が合わなくなってくる。
 そう……あれは、あたしが一人きりになっっちゃったから、いけなかったんだ。駿と……駿と、離ればなれになったから。
 駿が、駿だけがあたしを助けてくれるヒーローなのに。
「お願い……一緒に、あたしと一緒にいて、駿……っ!」
 ――いやだ。いやだよ、駿。あたしを一人にしないで。
 でないとあたし、またあいつにつかまっちゃうよ。
 今度こそおうちに帰れなくなっちゃうよ――!!
「重てえんだよ……ッ!!」
「しゅん……?」
 うつろな表情で、夕夏は駿を見上げた。
 その視線から逃げるように、駿は顔を伏せる。
「重てえよ、夕夏。手、離してくれ」
「ど、どうして……? あたし、駿が好きだもん。だから、駿にさわってたい……」
「だから、それが重てえって言ってんだよッ!!」
 駿が叫んだ。
「俺に――俺に、すがるなよッ!!」
 自分にしがみついてくる夕夏の腕を、力任せに振り払う。
「お前だって、俺のそばにいるの、ほんとはつらいんじゃねえのかよッ! 俺のツラ見るたびに、お前……いつも六年前のこと、思い出してんじゃんかよッ!!」


 ……頭の中が、真っ白になった。


 今――なんて、言ったの?
 六年前って……駿の顔を見るたびに六年前のことを思い出すって……どういうこと!?
 あたしがなにを思い出してる、なにを覚えて――忘れられずにいるって言うの、駿!?


「な……なに、言ってんの? 駿、六年前って――」
 なんのことか全然わからない、と、夕夏は首を振って見せようとした。
 が、
「俺にまで嘘つくなッ!!」
 懸命に言いつくろおうとする夕夏を、駿の怒号のような声がさえぎった。
 怒号――? いいえ、まるで悲鳴みたい、と、依里は思った。
「知ってんだよ……! 俺、全部知ってんだッ!! 六年前の夏、お前がどんなめにあったか――俺、俺……全部知ってんだよ!!」





 世界が壊れる音が聞こえた。駿がいて、初めて完璧になれた夕夏の世界。それがこなごなに壊れていく。
「どうして……。どうして、駿――」
 ――違う。嘘だと言って。
 今のは全部、夕夏に意地悪するための嘘だったって。
「あの時……、お前ん家の両親が、うちの親にも頼みに来たんだよ。娘が帰ってこないから一緒に捜してくれって。俺も、お前と別れた交差点まで案内させられた。そのままうちの親と一緒にあっちこっち探し回って……」
 夕夏はうつろな表情で、あらぬ方向を眺めていた。視点の焦点が合わない。自分が何を見ているのかも、理解できない。
「俺のおふくろが、お前ん家で留守番してたよな。なんかあった時の連絡役にって。――覚えてないのか、夕夏。お前が犯人の家族に連れられて家に戻ってきた時、最初に出迎えたのは、俺のおふくろだったんだよ!」
「おばさん……が?」
 じゃあ……じゃあ、おばさんが全部、駿にしゃべったということ?
「うちの親は何にも言わねえよ。俺も……見たんだ。親父と一緒におふくろを迎えに行った時、お前ん家の前に知らねえ車が停まってた。そのうちおふくろが逃げるみてえにお前ん家から出てきて……」
 駿の言葉は、夕夏の中をただ素通りしていくだけだった。――何も聞きたくない。聞かない、聞こえない……。
「俺も、……俺も、お前が心配だった。お前の無事な姿が見たくて、親が止めるのふりきって、お前ん家の玄関に飛び込んで――」
 あの時の光景がフラッシュバックする。
 夕夏の服は、犯人の男に全部ずたずたに切り裂かれていた。かわりの衣服も見つからず、男の母親が大きなバスタオルで夕夏を頭からくるみ込んだのだ。……身体も洗わないまま。
 家に送り届けられてからも、誰もかれもパニック状態で、夕夏にまともな服を着せることすら思いつかない様子だった。
 ママはバスタオルごと夕夏を抱きしめ――というより、夕夏の身体にすがりつき、泣きわめいていた。
 ママにひっぱられてバスタオルがずり落ち、裸の背中があらわになってようやく、ママは夕夏を浴室に連れていくことを思いついたのだ。
「あん時、すぐには意味がわかんなかったよ。うちの親も、俺の前じゃ事件のことは絶対口にしなかったし……。でも、お前とセックスして、やっと全部わかった。お前――俺が怖いんだろ!?」
「え……」
 のろのろと、夕夏は顔をあげた。
「ほんとのこと言えよ、夕夏。お前、俺とセックスすんのが怖いんだろ!?」
「――な、なに言ってんの、駿……?」
 そんなわけない。あたしはこんなに駿が好きなのに。あたしが駿を怖がってるなんて、そんなことあるわけないのに!
 駿は逃げるように顔をそむける。
「わかるよ、そんぐれえ。あんなにそばにいるんだぞ。裸んなって、身体くっつけあって、わからねえはずがあるか! 俺とセックスすんのが怖いんだろ、あの時のことを思い出すから! お前ん中で、俺と犯人のヤツがだぶってんじゃねえのかよっ!?」
「違うっ! 違う、そんなことない! 駿は――駿は、駿だもん! あたしの……ッ!」
「じゃあ俺を恨んでんのか! あん時、俺がお前をほったらかしにしたからこんなことになったって、そう思ってんなら、それはもう仕方ねえよ。恨まれてやるよ!! だから俺にまで嘘つくなよッ!」
「う、嘘なんて……! あたし、ほんとに駿が好きだもん! 駿のためなら、なんだってできるよ、ほんとだよ! なんだって我慢するから――」
「だから、俺をいいわけにすんなよッ!!」
 駿の声も、悲鳴のようだった。
「俺のため俺のためって、ほんとはそうじゃねえだろ! 俺のことがマジで好きなら、なんで俺にまで嘘つくんだ。なんで全部隠して、黙ってんだよ! 痛てえなら痛てえ、怖いなら怖いってはっきり言えよ! お前がいくらつらくたって、口に出して言わなきゃ俺にだってわかんねえんだよ!!」
「し、駿……っ」
 ふる……と、夕夏は小さく首を横に振った。
 幼いこどもがいやいやをするみたいに、何度も首をふる。その動きが止まらない。止められない。
「だって……だって……っ!」
 言ったら、駿に嫌われる。
 いつでも元気で可愛いふりをしてるのに、本当はそれが全部嘘で、ほんとは夕夏が汚くて、とっくに壊れちゃってるだめな子だってわかったら、駿に嫌われる――!!
「いや……。いやぁ、駿……っ。夕夏のこと、キライにならないで……」
 ひくひくふるえる唇から、かすれた、妙に舌の回らない声がこぼれた。
「お願い、駿……。あたしには、駿しか……駿しかいないの……っ!」
 細い手がふらふらと宙をさまよった。駿の手に触れようとする。
 が、駿はぱっと身を引いた。夕夏が触れられないように。
「いい加減にしろよッ! 俺に――俺に、すがるなよッ!!」
「駿くん!」
 依里はとっさに後ろから駿の腕を掴み、力いっぱい引っぱった。
 今度は依里が、駿と夕夏のあいだに身体を割り込ませる。
「もうよしなさい、駿くん!」
「え、依里さん……」
 ようやく駿が依里を見た。今やっと、依里もこの場にいたことを思い出したみたいに。
「少し落ち着きなさい」
 駿にだけ聞こえるよう、依里は小声でささやいた。
 とは言ったものの、これからどうすればいいのか、依里にもまったくわからない。とりあえず二人を引き離しておくべきだとは思うのだが――。





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