依里が一瞬考え込み、躊躇した瞬間。
夕夏がぱっと身をひるがえした。
「あ……!」
依里が声をかける隙もなく、少女はなだらかな坂道を一気に駆け下りていく。
駿も、慌ててそのあとを追いかけようとした。
「待って」
依里は駿の腕を離さなかった。
「今は、行かないほうがいいと思う」
黒く、少し潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめ、一語一語をゆっくりと言い聞かせるように、依里は言った。
「待ちなさい、もう少し。きみにも夕夏ちゃんにも、少し考える時間が必要よ」
依里はもう一度、駿をマンションの部屋に招き入れた。
人目につくとか噂が怖いとか、そんなことはもう考える余裕もない。わかるのはただ、駿を一人にしておけないということだけだった。
「ごめん……。依里さんにだけは迷惑かけないようにって、思ってたのに――」
玄関に入ると、靴も脱がずに突っ立ったまま、駿は今にも消えそうな声でつぶやいた。
「いいよ。気にしてない」
さらっと、依里は言った。――自分では、そのつもりだった。できるだけ気楽に、駿にも、本当に何でもないことのように聞こえればいいと、思った。
「駿くんだけのせいじゃないもの。私だって、あの子、夕夏ちゃんに、ずいぶんひどいこと言っちゃったし」
あんなふうに言葉で誰かを傷つけようとするなんて――そう、意識的に傷つけようとしていた。夕夏が泣いて逃げ出せばいいと、思っていた――もう何年もしたことがなかった。そんな真似は子供のケンカ、大人のふるまいではないと思っていた。なのに、まさか自分がそれをするなんて。
そしてもっとも嫌だと思っているのは、そうやって夕夏を傷つけたことを、依里自身が少しも悔いていないことだ。あの時、今にも泣きそうな夕夏の表情を見ても、同情とかひどいことをしてしまったという反省とか、そんな優しい感情は微塵も湧いてこなかった。むしろそんな夕夏を見て、どこか勝ち誇っている自分自身に気づいていたのだ。
自分自身の中から、こんなにも醜い感情が生まれてくるなんて。
――いや、そんなことは驚くに値しないのかもしれない。依里はリビングの灯りを点け、エアコンのスイッチを入れ、日常の動作を繰り返しながら、ぼんやりと考えた。頭の中のめまぐるしい感情と、身体が覚えた緩慢な日常の仕草とが、まったく違うリズムで同時進行している。
あの醜い依里自身は、今日初めて生まれたのではない。きっと、ずっと依里の中にひそんでいたのだ。それを依里は直視しようとしなかっただけだ。
そんな動物じみた感情なんて自分の中には存在しない、そんな感情を産み出さないために、いつでもひそやかに恋愛を終わらせているのだと、自分をごまかして。綺麗事だけで恋愛ごっこを繰り返していた。
……そうよ。だから私は、いつだって簡単に恋を終わらせることができた。何の未練もなく、自分に都合が悪くなればすぐに全部の関係を切り捨て、逃げ出してきた。
そんなの、本当に誰かを好きになったとは言えない。
今、依里は、夕夏を泣かしても傷つけてでも、駿を離したくないと思った。
夕夏の言ったとおりだった。夕夏から、駿を奪い取りたかったのだ。
……ただ、駿が好きだから。
本当に、駿を、恋してしまったから。
もう、醜い剥き出しの自分の感情から、目がそらせない。
この醜さも、自分自身。依里自身の恋の、本当の姿なのだ。
ここから眼をそらしては、駿を恋する気持ちからも、眼をそむけることになる。
駿を守りたい、すべての傷を癒してあげたい。そう願う優しい想いと、なにも変わらない。醜さも優しさも、迷いも苛立ちも駿のすべてを許そうとする寛容さも、依里の感情のすべてが駿に向かって流れ出していく。
ただ夕夏と違うところは、それを剥き出しのまま駿にぶつけようとはしないことだ。
……しないのか、それともできないだけなのか。もしも剥き出しの感情をぶつけることが怖くてできないだけならば、それを当たり前のようにやっている夕夏に、負けたということにはならないだろうか? その答すら怖くて、突き詰めて考えずに疑問から眼を逸らす自分を、依里はやはりずるい大人なんだと思った。
「言い過ぎたって、思ってる?」
部屋の隅にうずくまるように座る駿に、依里はそっと寄り添った。
「うん……」
膝を抱えて、駿は消えそうな声でつぶやく。
「でも……。いつかは言わなきゃって、思ってた。だってあのままじゃ、あいつ、ぜってぇいつかおかしくなっちまう――」
駿の目に、初めて涙がにじんだ。
顔を伏せ、声がくぐもる。丸めた背中が小刻みにふるえていた。
「あいつ……小五ん時に、誘拐されかけたんだ。近所に住んでたロリコンの変態野郎に。俺、――俺、その直前まで、あいつと一緒にいたんだよ。俺があいつと別れて、あいつが一人になった時、犯人に声かけられて、さらわれたんだ……!」
苦しげな、まるで駿自身がその犯罪の被害者であるかのような言葉。かすれる語尾に恐怖がにじんでいる。
けれど依里は、その言葉を止めようとはしなかった。今は、駿が言いたいことすべてを吐き出させてしまったほうがいいと思う。
ただそっと、少年の頭部を胸元に抱き寄せる。そうやって彼を抱きとめてあげることしか、思いつかなかった。
「俺の、せいだ……! 俺があの時、あいつを一人で帰らせたりしなけりゃ……」
駿は素直に、依里の胸に体重をあずけた。まるで、生まれて初めてそうやって誰かに抱きしめてもらったかのように。
――そうなのかもしれない。
事件が起きてからずっと、誰も駿の思い、恐怖や自責の念を、受け止めてやらなかったのかもしれない。さらわれたのは夕夏であり、被害者は夕夏だけだ、駿は無関係だったのだから、と。
「駿くんのせいじゃないよ」
小さな子供をあやすように、依里はささやいた。
「駿くんも、夕夏ちゃんも、二人とも何にも悪いことなんかしてないもの」
「でも、依里さん……!」
「そうよ。私は無関係。なにがあったかなんて、全然知らない。でも、だからこそ言えるの。二人とも、何にも悪くないよ」
理不尽で身勝手な欲望にむごたらしく傷つけられて、暗い迷路で迷子になっている、可哀想な子供たち。
おそらく何度も、周囲の大人たちは二人に同じことを言って聞かせただろう。けれどその言葉は二人には届かなかったのだ。依里の言葉も、駿の救いになるとは思えない。
それでも言わずにいられなかった。――きみは何にも悪くないよ……。
「俺……、一番悪いのは俺だって、思ってた。俺のせいで、夕夏があんな酷い目にあったんだって……。だから、あいつの言うことは何だって聞いてやるつもりでいたんだ。好きだって言われれば、そうか、サンキュって答えたし、彼女にしてくれって言われても、うなずいた。キスも、セックスも、あいつがそうしてくれって言うから……。でも――やっぱ、まずかったのかな。俺の態度がそんなふうにいい加減だったから、あいつ、よけい追いつめられて――」
駿の声に、ひくっ、ひく、と、弱々しくしゃくり上げる呼吸音が混じる。
――いいよ。ふと、依里は思った。
いいよ。泣いていいよ。
駿くんも、つらかったよね。だから、泣いていいんだよ。
「駿くん。夕夏ちゃんのことが、好き?」
「好き――いや、どうだろ。わかんねえ」
駿はうなだれた。
「あいつが俺に言うみたいに……世界中でたった一人だけとか、いないと生きていけないとか、そんなふうじゃねえよ。ただ――」
「可愛いって、思ってる?」
「うん……」
それには、駿は小さくだがはっきりとうなずいた。
「すげえ、可愛いって思うよ。二人きりでいれば、ああ抱きてえなって思うし」
「だったら、今はそれで充分じゃないかな」
「え……」
涙をにじませた黒い瞳が、依里を見上げた。
痛い――と、依里は思った。
駿が泣いているのが、つらい思いをしているのが、依里にもつらい。痛い。苦しい。息も上手く吸えなくなるくらいに。
「私もよ。駿くんのこと、抱きしめたい。駿くんが泣いてたら、泣かないで、私が慰めてあげるって、そう思う。……今、私が駿くんと一緒にいる理由は、それだけよ。それだけじゃ、理由にならない?」
「依里さん……」
「夕夏ちゃんに優しくしてあげたいって、思ったんでしょ? 誰かから命令されたわけじゃなく、駿くん自身の気持ちとして」
「でもそれは……」
罪悪感からだったと、駿は言いたいのだろう。だが依里は、首を横に振って見せた。
「理由なんてどうでもいいじゃない。好きな人から優しくしてもらって、嬉しくない人なんていないよ」
それはたしかに綺麗事。子供の理屈だ。でも今はそう信じていたかった。駿のためだけでなく、綺麗事を並べる依里自身のためにも。
だって、駿が泣いていると、依里自身もこんなにつらい。にじむ涙を抑えられない。
――泣かせたくない。駿を、もうこれ以上哀しませたくない。そのためなら、何だってできる。
駿は黙って目を閉じた。こわばっていた首すじから背中から少しずつ力が抜けていくのが、依里の手のひらにも感じられた。
夕夏はふらふらと電車に乗った。どこをどう歩いて駅までたどり着いたのか、覚えていない。電車に乗る時も、一回、ホームを間違えて全然違う路線に乗ってしまいそうになった。
各駅停車の車内はあまり混雑しておらず、冷房がかなり効いていた。
夕夏は車内の一番隅の座席に座った。冷たい風がまともに夕夏の身体に吹きつけてくる。
「寒う……」
夕夏は思わず両手を肩に回し、自分を抱きしめた。
それでも身体がかたかたとふるえ出す。
「あ、あれ……?」
いや、違う。ふるえているのは両手だ。
夕夏は両手をぱっと膝の上に下ろし、握りしめた。お祈りをする時みたいに一〇本の指をしっかり組み合わせ、関節が白く浮き出すくらい強く、強く握りしめる。
「や、やだ……。やだ、こんなとこで――!」
両手を足に押しつけ、必死に手のふるえを抑えようとする。額に冷たい汗がにじんだ。
こんなところでパニくるわけにはいかない。せめて家に――自分の部屋に戻るまで。
他のことは何も考えられなかった。回りの人間すべてが、じろじろと夕夏を見ているような気がした。
声にならないささやきが耳元で聞こえる。ほら見て、あそこ。なんかヘンな子がいる、ちょっとおかしいよ、あの子、気味悪い……。
――ち、違う。違う。あたしは他の子と何にも変わらない。ふつうの子だよ。頭の中に響く他人の声に、夕夏は懸命に言い返した。ほんとに、ほんとに、なんにもヘンじゃないんだから……!
血がにじむくらい強く、唇を噛みしめる。
「た……たす、け……」
無意識のうちに、駿の名前をつぶやこうとしていた。
そして、はっと気づく。
――だめ。
だめなんだ、もう。
いくら呼んでも、駿はもう、あたしを助けてくれないんだ……!
涙も出ない。身体中がからからに干涸らびてしまったみたいだ。あとはただ、この手のふるえが止まればいい。
夕夏はただ、両手を抑えることだけに必死になっていた。
「あいつ……もう家に帰ったかな」
ぽつりと駿がつぶやいた。
その言葉に、依里も時計を見上げた。
この部屋に戻ってきてから、もう一時間以上が経っていた。
「ああ、もうこんな時間かあ……。なんか、あっという間だったね」
「うん――」
何をするでもなく、ただ二人でじっと座っていただけなのに。
依里はゆっくりと立ち上がった。ずっと同じ姿勢でいたために、身体中がこちこちにこわばっている。肩が痛い。
窓の外は相変わらず、今にも泣き出しそうな梅雨空だ。少しずつ暗くなってきている。
「早く梅雨明けしないかなあ」
依里はぽそっと独り言みたいにつぶやいた。
「依里さん、夏、好き?」
「うーん、暑いのはあんまり得意じゃないけど、でもこんな天気よりマシじゃない? 同じ暑さでも、からっと晴れてるほうがまだ気分いいもの」
「そうだよな。――俺も夏、好きかも」
駿も窓の外へ視線を向けた。分厚い雲の向こうに晴れた空を捜しているみたいな目をして。
泣きたいだけ泣いて、少しは気持ちも楽になったのだろう。少年の横顔に、依里はそう思った。
「これから、どうする? おなか空いたでしょ、駿くんも」
「いや……。俺も、今日はあんま遅くなれねえし――」
駿も立ち上がった。軽く背中を伸ばす。
せめて冷たいお茶でもと思い、依里は冷蔵庫を開けた。
横目でちらっと眺めると、駿はジーンズのヒップポケットをしきりに気にしている。そこに携帯電話を入れているのだろう。
指をかけて携帯を出そうとし、ためらい、手を離す。そしてまたすぐに同じ場所に手をやる。そんなことを何度も繰り返している。
依里は小さく微笑んだ。
「……夕夏ちゃんに電話したいの?」
ようやく家に帰り着いた時、夕夏は全身がひどくだるくて、歩くのもつらかった。
手のふるえを抑えるために、ずっと身体に力を入れていたのだ。手にも足にも重たく疲労が溜まっている。まるで泥を流し込まれたみたいだ。頭も、歩くたびにずきんずきんと鈍く痛んだ。
「ただいま……」
「遅かったね、夕夏」
「うん……。ごめん」
リビングに入ると、キッチンで晩ご飯の支度をしていたママが、さっそくお説教を始めようと近づいてきた。
「こんな時間までどこ行ってたの。誰と一緒だったの? 遊びに行くなら、ちゃんとママに行き先を言っておきなさいって、いつも言ってるでしょ」
「ごめんなさい――」
ママは、夕夏が男の子と付き合うのが許せないのだ。彼氏を作って、その彼とセックスでもしたら、夕夏が汚い子だっていうことがばれてしまうから。夕夏の傷、過去、汚れを、絶対に他人に知られないようにする。ママはそれしか考えていない。
――誰も、ほんとに夕夏のことを想ってくれてる人なんか、いない。
「ママの言うこと、聞いてるの? ちゃんとこっちを見なさい、夕夏。あなた、自分のことがわかってるの――!?」
「ママ。あたし、頭痛い」
何度も聞かされたお説教を、夕夏はぶっつりとさえぎった。
「薬……なにか、ある?」
「え、あら……。大丈夫なの、夕夏。ちょっと、ほんとに顔色悪いんじゃない?」
「うん。薬飲んで寝てれば、治ると思う」
ママは少し心配そうな表情を見せ、薬箱はそこよ、と食器棚の横を指さした。
「ありがと」
夕夏は薬箱を開けて、ごそごそとかき回した。未開封の頭痛薬を見つけ、箱ごと掴む。使いかけのものはないようだ。これを開封するしかない。
「水、あげようか?」
「ううん、平気。こういう時、水よりスポーツドリンクのほうがいいって、なんかで読んだんだ」
冷蔵庫から五〇〇mlのペットボトルを出し、手に提げて夕夏は自室のある二階へ行こうとした。
「夕夏、ご飯は?」
「うん……ごめん、食べたくない。あたし、もう寝るね」
「だめよ、何も食べないで薬飲んじゃ」
「少し眠れば、頭痛いのも治って、お腹空いてくると思うんだ」
「そう? じゃ、おとなしく寝てるのよ。携帯電話とかで遊んでちゃだめよ」
「うん。わかってる」
大丈夫、それはしない。――だって、もう携帯でメールする相手も、電話をかけたい相手もいない。
だって駿は、もう夕夏をキライになっちゃったから……!
夕夏は無意識のうちに、頭痛薬の箱をひしゃげるほど強く握りしめていた。
「電話、しないの?」
依里が問いかけても、駿は返事もしなかった。
ジーンズのポケットに入れた携帯電話を厚い布地の上からしきりに撫でながら、それでもポケットから出そうとはしない。
「もしかして、私に遠慮してる?」
「まさか! 違う、そんなんじゃねえよ」
からかい混じりの依里の言葉に、ぱっと顔を背ける。
「ただ……。今、俺が電話したら――俺の声聞いちまったら、あいつ、またパニくるんじゃねえかなって思って……」
「うん……。そうかな――どうだろ。私なら、きっと嬉しいと思うけど」
できるだけ気楽そうに、依里は笑って見せた。
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