「それでなのか。置いていかれるのがいやだから、いつも自分から先に別れようって言い出して……。先に言い出せるように、別れる理由のある男ばっか選んで――」
依里はうなずくことすらできなかった。
だから、誰かを好きになるのが怖い。
もしもその人に、もうお前はいらないと言われてしまったら。昔、父が自分と母を捨てていったように。
壊れた人形みたいにもう何の価値もないと、ここに置き去りにされ、愚かにもそのことにすら気づかず、来る日も来る日もその人のことを待ち続ける。
母は、ただ泣いていた。幼い依里にしがみついて、父と、父を奪った女を恨みながら、何もできずに泣きわめいていた。依里は黙ってその背中を見つめているしかなかった。
愛されていない。自分は、誰からも。愛される価値がない。そのことを、まざまざと思い知らされた。
あんな想いは、もう二度としたくない。
できない。
同じ思いをするくらいなら、もう誰のことも待ちたくない。
すべて、駿の言ったとおりだった。見捨てられるのが、置き去りにされるのが怖くて、自分から全部捨ててしまった。男が自分にのめり込む前に――あるいは、自分がその男に本気で恋してしまう前に。
相手のためだの、誰も傷つけたくないだの、そんなきれい事ばかり並べて、こんなにも卑怯で臆病な自分を飾り立てていただけなのだ。
駿の目には、何の嘘もごまかしもない。ただ真っ直ぐに、ありのままの自分をさらけ出している。そして同じ目で、依里を見つめている。
だから、彼の前では何一つ隠していられないのかもしれない。
「早く……出てって」
低く、掠れる声で依里は言った。
「灯りは――ごめん、点けられない」
立ち去る姿が見えなければ、少しはつらさも薄れるだろう。そう思った。
ばかなことをしている。そう思わずにいられない。
こんなことを打ち明けたからといって、いったい何になるだろう。他人の醜い心の傷を見せられて、嬉しい人間なんているはずがないのに。
駿が自分の傷の痛みを受け止めてくれるとでも――彼が、癒してくれるとでも? まさか。
こんな子供に、そんな慰めを期待するなんて、本当にどうかしている。
依里にとって駿は、今までの男と何の違いもないはずだ。子供の頃からずっと悩まされてきた喪失感、誰にも愛されていない孤独感を、一瞬だけ忘れるために、彼の腕を求めた。心の空白を身体の感覚で埋めるために。それ以上のことを男に求めたことはない。駿にだって、それは同じだ。駿がこの部屋を出ていけば、もう二度と会うこともないだろう。いや、逢ってはいけないはずだ。
駿だって、依里の内面になど興味はないに違いない。彼はただこの年頃特有の性急な欲望、性への旺盛な興味に突き動かされて、なりゆきのままに依里を抱いただけなのだ。
今夜のことは、もうこれっきり。過ちとも呼べないほどの小さな出来事にすぎない。
もう二度と、こんなことはしない。
年齢も、立場も違う。恋愛に対する倫理が死滅しかけているような日本の社会でも、もし今夜のことが他人に知られたら、ほとんどの人間が依里を責め、そしるだろう。おそらく妻帯者の男との不倫がばれた時よりも激しく。
それがわかっているから、駿もまた何も言わないのだ。次はいつ逢えるのなどと、むなしい約束を求めようとはしない。そんなことを言えば依里が困るだけだと、黙っていることが依里の、そして駿自身のためだと、この少年も知っている。
だから、このまま何もなかったような顔をして、別れるのがいい。そして二度と逢わない。逢わないと約束する必要すらない。
お互い、忘れてしまえばいい。
忘れてしまうべきことに、いつまでも心を煩わされるなんて、どうかしている。考えるだけばかばかしい。
――その、はずなのに。
依里はどうしても振り向けなかった。
駿がこの部屋を出ていくところを、見たくない。見ていられない。
もう、来ないでね。その念押しもできない。
……早く、出ていって。私の前からいなくなって。一分でも一秒でも早く、今夜のことを――駿のことを、忘れてしまいたい。
だが、
「行こう」
いきなり、駿が強く依里の手を引いた。
「えっ!? ち、ちょっと、なによ、駿く……」
「一緒に来て。駅まででいいから」
怖いくらいの声でぶっきらぼうに言う。
依里は逆らえなかった。
そのまま、引きずられるようにして部屋の外へ出る。
「鍵は?」
「も、持ってるわ。ドアはオートロックだから……」
「じゃ、もう大丈夫だよね」
駿は依里の手をしっかり掴んだまま、足早にエレベーターへ向かった。
「ねえ、ちょっと駿くん……!」
呼びかけても、返事もしない。
エレベーターで一階に下り、マンションの外へ出る。
アスファルトに囲まれた住宅街は、まだ日中の蒸し暑さがそのまま残っていた。街灯には夜行性の虫が集まっている。
住宅地を抜ける細い路地から、駅へ向かう幹線道路へ出ても、駿は手を離さなかった。
この時間になると、さすがに家路を急ぐ人の姿もまばらだ。
足早に歩く駿についていくため、依里はほとんど小走りになっていた。
「駿くん、待って――駿くん……!」
たまにすれ違う人が、驚いて二人を振り返る。けれど駿は止まろうとしない。歩く速度をゆるめもしなかった。
やがて、私鉄の駅が見えてきた。
客待ちのタクシーが並ぶロータリー、小さな駅ビル。改札は、駅の東口と西口とをつなぐ連絡通路を兼ねた二階部分にある。
改札へ向かう長い階段を、駿は依里の手を引いたまま、一気に駆け上った。
この時間になると、連絡通路にも人影はまばらだ。駅ビルへの通路も売店も、みなシャッターが下ろされている。切符の自販機だけが人待ち顔で灯りをともしていた。
改札の前で、駿はようやく立ち止まった。マンションからずっと握りしめていた依里の手も、離す。額にはうっすら汗が浮き、肩で息をついていた。
「な、なんなの、いったい――」
乱れた呼吸を整えながら、依里は抗議の声をあげようとした。
強い力で握られ、引っぱられていた右手は、今もまだじんじんとしびれ、痛いくらいだ。
険しい表情で見上げる依里を、駿はまっすぐに見つめ返した。
「ここから、先に帰ってよ」
「え?」
「この駅から、依里が先に帰る。俺はここで、それを見送るから」
駿は改札を指さした。
「そうすれば、置いてかれたことにはならないだろ。先に帰るのは、依里のほうなんだからさ」
「駿……」
「俺はここに残る。依里の姿が見えなくなるまで、ここで見送ってやるよ」
なかば茫然と、依里は少年を見つめた。
たとえ駿の言うとおりにしたところで、それに何の意味があるだろう。そんなのはただのレトリック、言葉だけのごまかしに過ぎない。
けれど、駿の表情は真剣だった。
「……ばか」
依里は小さくくすっと笑った。
駿の瞳が少し不安そうに揺れる。自分のしたことはやはり無意味だったのかと。
――なんて、言おう。
なんでこんなに嬉しいのだろう。
こんな単純な、子供っぽい思いやりが、こんなにも依里を揺さぶる。胸の中いっぱいに熱い、あたたかいさざ波が生まれ、静まらない。
なん言えばいいのだろう、この気持ちを。困惑にも似て、つかみどころのないこの気持ち。なにか言おうとすれば、胸の中のざわめきはすぐに依里の手から逃げ出し、明確な感情として捉えられなくなってしまう。
「……依里?」
うつむいてしまった依里を、駿がおずおずと覗き込んだ。
「――うん」
短く、依里はうなずいた。
心配させちゃいけない。
駿のしてくれたことが嬉しいと、せめてそれだけはちゃんと伝えなくては。今の依里にとって、それだけがきちんと言葉で言い表せる自分自身の感情だった。
「ありがと」
精一杯の笑顔で、依里は応えた。
「じゃあ私、帰るね」
「依里」
「ちゃんと見送ってよ。最後まで、ちゃんとここにいて?」
「うん」
少年はうなずいた。
そして立ち去る依里に向かって、手を振る。
「おやすみ。気ぃつけてね」
依里は返事が出来なかった。言葉がなにも出てこない。
声を出せば、今まで押さえつけていたものが一気に溢れ出してしまいそうだった。それが何なのか、依里自身にすら説明できない。自分でも思いもよらない言葉が飛び出してしまいそうで、今はただ唇を噛みしめて、前をぎゅっと見つめているしかなかった。
二度、三度と確かめるように、改札を振り返る。
そこには、じじじ……と苛立ったような音をたててちらつく蛍光灯の下、背の高い姿がじっと立っていた。何度振り返っても、その位置は変わらなかった。
ためらいがちに手を振ると、そのたびに駿は大きく手を振りかえしてくれた。
依里は足早に、地上へ降りる階段を駆け下りた。
依里の姿が消えるまで、駿はその場を動かなかった。
こんなことは、何の意味もない。
たとえ立ち去る順番が逆になったからといって、二人の人間が別れ、離れていくことには何の変わりもない。
この胸には、あの幼い日とまったく同じ喪失感が今も宿っている。誰にも埋めることのできない、冷たい暗い洞穴のように。この淋しさは、きっと一生消えないだろう。
その淋しさを忘れるために、依里は自分を抱く男の腕を必要としてきたのだ。
一人になれば、またその淋しさは依里の中にくっきりとよみがえる。だから――ほら。また涙があふれてくる。
にじむ涙を指先で拭い、依里は懸命にマンションへの道を急いだ。
もう、これっきりだ。父が二度と会いに来てくれなかったように、駿ともまた、二度と逢えない。
それが、自分と、駿のためなのだ。
そして駿も、そのことはちゃんとわかっているはずだ。こんな優しい別れを演出してくれても、けしてもう一度逢おうとは言わなかったのだから。
明日からはまた、この胸の空白を抱えて、一人きりで過ごさなくてはならない。この澱んだ水槽のような街で。
けれど、それでも。
今夜だけは、一人でもぐっすりと眠れそうだった。
翌日、依里は仕事の合間を見つけて、石和敏之にメールを送った。
二人きりで逢うのは、もう止めましょう。どうも、同僚の女の子が何となく勘づいているらしいの――。それは、ゆうべ駿に説明したとおりの別れのメールだった。
私のアドレスは消去してね。その一言で結び、送信する。
返信を待たず、依里は自分の携帯から敏之のアドレスを消去した。念のために、彼の携帯からの通話も着信拒否に設定しておく。まさかかけてこないだろうとは思うが。自分をふった女に詳しく別れの理由を確認したがるような男じゃないと思ったから、彼と付き合おうと思ったのだし、また、そんなことをしたくなるほど長い時間をともに過ごしたわけでもない。
案の定、敏之からの返信はなかった。
何の着信もない携帯を見つめ、依里は小さく苦笑した。
――これからしばらく、メールを見るのがつまらないだろうな。
自分で決めたことだから、仕方がない。
男と別れた直後は、いつだってこんな言いようのない喪失感が胸いっぱいに広がる。
それが当然だと思う。優しく慰めてくれる腕がなくなってしまったのだから。ひとりぽっちの淋しさを今夜はどうやって癒そうと、不安になっているだけだ。
淋しければ、また新しい恋を探せばいい。その気になれば、出会いなんてそのへんにいくらでも転がっている。
けれど、
「なんか……気がのらないなあ」
この淋しさはいつもと同じ。そう思うのに、そのくせ、ふだんよりもずっと胸の中の空白を強く感じる。まるで身体のどこかに、ひゅうひゅうと乾いた風が抜ける大きな穴が空いてしまったみたいだ。
こんな感覚がいやなら、すぐに誰か優しい男を見つければいい。わかっているけれど、動く気になれない。いつまでも黙ったままの携帯を眺め、ぼんやりしているばかりだ。
――まあ、そんな時もあるか。
それ以上自分の心を追求するのをやめ、依里は携帯電話をバッグにしまおうとした。
だが、その時。携帯に、着信を知らせる小さな赤いランプが点灯した。
「え……」
メールボックスを見ると、一通のメールが到着していた。メールのタイトルはなく、アドレスにも見覚えがない。
だがそのアドレスは、『Shun』で始まっていた。
依里は思わず小さく息を飲んだ。
携帯電話を操作する指先が、わずかにふるえる。
メールを開ける。
短い本文。
ただ一言――「駿です」
それ以外、何も書かれていなかった。
「嘘……っ!」
その一言に目が吸い寄せられ、まばたきもできない。
こんなこと、あるはずがない。
逢えないことは、わかっているはずなのに。
いや、わかっているからこその、このメールだ。逢いたいとも、返事をくれとも書けずにただ一言、自分の名前を送ることしかできなかったのだ。
思わず駿の名前をつぶやきそうになる。依里はあわてて強く唇を噛んだ。
携帯をバッグにしまい、何度か深く息を吸い込む。懸命に平静を装う。
こっそり周囲の同僚たちを見回しても、誰も依里の異変に気づいた様子はなかった。
そして勤務時間が終わると、依里はすぐに会社を飛び出した。
お茶でもしようかと誘う同僚にろくに返事もせず、ほとんど走るようにして駅へ向かう。
電車を乗り継ぎ、向かったのは、あのオープンテラスのカフェだった。
ここしか、思いつかなかった。
この店に来ること以外、何も考えられなかった。
昨日と同じく、冷房の効いた店内はほぼ満席だった。オープンテラスにも空席はあまりない。
店内を通り抜け、依里はオープンテラスに向かった。
なんだか足元がひどくおぼつかない。自分がどこを歩いているかも、よくわからないような気がしてきた。
オープンテラスに出ると、一旦店内の冷房に冷やされた身体に、梅雨の終わりの熱気が一気にまとわりつく。めまいがしそうだ。
そして。
「……駿」
テラスの一番右奥。あの席に。
背の高い、少年の姿があった。
長い脚を投げ出すようにして座り、うつむいたまま、身動きもしない。テーブルの上に携帯を放り出し、手に取ろうともせずにただじっと見つめている。
――なにを、考えているの。
問いかけは、声にならない。
なにを考えているの。なにを待っているの、誰からのメールを?
……私を、待っていてくれてるの?
考えたこともなかった。誰かが自分を待っていてくれるなんて。
いつもいつも、自分は待つ側だったから。置き去りにされて、愛する人が戻ってきてくれるのをただじっと待つしかできない子供だったから。
かつん、と、ハイヒールのかかとが鳴った。
「駿」
かすれる声で、名前を呼ぶ。
小さな声は街の雑踏にかき消され、依里自身の耳にすらはっきりとは聞こえなかった。
けれど、少年がはっと顔をあげた。はじかれたように、椅子を蹴って立ち上がる。
駿がなにか言っている。けれどその言葉は、依里にはほとんど聞こえなかった。
不安そうなその表情。まるで目の前の光景が、現実のものだとどうしても信じられないというような。
――どうしたの、駿。まるで泣きそうじゃないの。
依里は、小さな子供みたいに走り出したいのを必死にこらえて、ゆっくりと彼に近づいていった。
なんでこんなに嬉しいのだろう。駿がそこにいる。依里の視界に映っている。ただそれだけなのに。
――どうして私まで、泣きたいみたいな気持ちになるんだろう。
世界中の物音が、すべて消えていくような気がした。
SECEN2 夕夏――六月二〇日
駿が、携帯に出ない。
一昨日からずっと、メールしても返事が来ない。じれったくて直接電話しても、留守録ばかり。
「どうしたんだろ……」
夕夏
(ゆうか)
はマナーモードを切ったばかりの携帯の待ち受け画面を見つめて、つぶやいた。
忙しくて逢えないという時でも、駿は断りの返事をちゃんとくれた。こんなふうに何の音沙汰もなく無視されるなんて、初めてだ。
携帯を見つめているだけで、だんだん不安になってくる。
三年に進級してから、大学受験のために駿が予備校に通い始めたのは知っている。逢える時間が減ってしまった分、メールは頻繁にやりとりしてくれるようになったのに。
まわりでは、クラスメイトたちがきゃあきゃあ騒いでいる。
放課後の教室。梅雨の晴れ間の陽光がいっぱいに射し込んできて、息が詰まりそうなくらい蒸し暑い。各教室にエアコンはついているのだが、全然効かない。
ついさっきまでここに詰め込まれていた四〇人近い少女たちの若い体温が、暑さに拍車をかけている。半数以上は授業が終了すると同時に、まるで逃げるように教室を飛び出してしまったが、それでもまだかなりの人数が室内に残っている。
夕夏が通う園部女子学院は、近隣にはお嬢様学校で知られている中高一貫教育の私立校だ。校内の雰囲気は比較的落ち着いていて、生徒も品が良いほうだと言われている。きんきらのメッシュ頭もピエロみたいな珍妙なメイクも見あたらない。
そのかわり制服だけでなく、通学鞄から靴から、何でもかんでも学校指定のものを身につけなくてはならない。靴下まで、校章のワンポイント刺繍入りだ。これがけっこうな出費になると、ママがこっそりぼやいていたのを、夕夏も知っている。
けれど中学受験の時に園女にしなさいと夕夏に薦めたのは、ママだ。ママはどうしても夕夏を女子校に通わせたかったのだ。
ママの考えに、夕夏も特に逆らわなかった。一人だけ遠くの学校へ行く不安よりも、同じ小学校に通っていた子たちと離れる嬉しさのほうが大きかった。唯一気に入らなかった中等部のだっさいジャンスカの制服は、高等部からは洒落たデザインのブレザースーツに変わったし。上品な黒のブレザーは、すらりとした夕夏のプロポーションをさらに引き立てている――と、自分では思う。
蒸し暑いこの時期、長い髪はポニーテールにまとめている。校則もあるので、メイクは控えめなナチュラルメイクだ。
夕夏は行儀悪く頬杖をついて、思いっきりため息をついた。
携帯の画面には、何通もの未読メールが表示されている。授業中に着信したものだ。メールを開いて確認しているあいだにも、短く着メロが鳴ってあらたにメールが届く。
それらは全部、友人たちからのものだ。内容もたいして意味がない。暑くて死にそうだの、授業がタルいだの、雑談とも言えないようなものばかりだ。
そのひとつひとつに、夕夏は一応返事を出した。極端な話、すべてのメールに「うん、そうだよね」と返信しておけばそれで済む。返信したメールは片っ端から削除してしまう。
「あれぇ、夕夏、まだ帰んないのぉ?」
「うん……。外、暑そうじゃん?」
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