「ち……ち、ちが――あたし……」
違う、と、言えなかった。
夕夏は茫然と駿を見上げた。
脱がされたチュニックを胸元に押し当てたまま、もう一度着ることすら忘れていた。
唇がふるえる。何かを言おうとして、ひく、ひく、と動く。けれど声がまったく出てこない。
――なにか、言わなくちゃ。
誤解しないで、駿。あたしは本当に、駿が好きなの。
だから……そうだよ、だから、どんなにいやなことでも、怖いことでも我慢してたの。だってこういうことしてなきゃ、恋人同士だって言えないじゃない!
だって――だって駿は、一度だってあたしのこと、好きだってはっきり言ってくれたことがない。
こうして身体を重ねることだけが、駿があたしのこと少しは好きでいてくれてるって、そう信じていられるたったひとつのかたちだったから! どんなに痛くても、怖くても、止めるわけにはいかなかった。たとえ駿に嘘をついても、抱いてもらいたかった。
……そうでなければ、駿の気持ちが見えない。信じられない。
駿が、世界中で駿だけが、好き。あたしのこの気持ちを、お願い、疑わないで!
けれど夕夏のその想いは、駿にはまったく届かない。
駿はもう、夕夏を見ようともしなかった。
「帰れ」
吐き捨てるように、言う。
「お前、今日はもう帰れ」
「駿……っ!」
名前を呼んでも、駿は返事もしてくれない。
夕夏はのろのろと立ち上がった。ぎくしゃくした、まるで壊れたゼンマイ仕掛けみたいな動きで、衣服を整える。
頭の中は真っ白だ。自分が今、何をしているのかもよくわからない。さっきまで胸いっぱいにあふれていた駿への言葉も、もう何一つ思い出せない。
――なにか、言わなくちゃ。駿になにか言わなくちゃ。でも……なにを、だっけ?
いつか唇のふるえもおさまっていた。言葉を発しかけてそのまま時間が停まってしまったみたいに、半開きになったままだ。
泣くことすら、忘れていた。
かさっと小さな音がする。素足に何か軽いものが触れた。
夕夏はほとんど無意識のままかがみ込み、それを指先でつまんだ。小さな白い紙くずを踏みつけていたのだ。
それを払いのけたのか、手の中に握り込んだのか、それすら覚えていない。
二人とも無言だった。窒息しそうな沈黙が、部屋中に満ちていた。
部屋を出ていく時までずっと、駿は夕夏を見てはくれなかった。
SCENE 3 依里――六月二十五日
駿が眠っている。
熟睡しているのか、身動きもしない。規則正しい呼吸音が聞こえなければ、まるで等身大のよくできた人形みたいだ。
ふわりと目を閉じたその横顔は、起きている時より少し幼くて、ああ……やっぱり若いんだな、と思ってしまう。長いまつげが濃い陰影を落としていた。
依里は飽きもせずに、駿の寝顔を見つめていた。
――ほんとはこんなこと、してちゃいけないんだけど。
こんなふうに駿の寝顔を眺めるのは、初めての夜以来だ。
駿と初めて出逢ったあの日から、依里は毎日のように駿と逢瀬を重ねていた。
待ち合わせはいつも、あのオープンテラスカフェだった。
特に約束をするわけではない。メールも、電話もない。けれど依里は、駿があの店で待っていると確信していた。そしてそれは、いつも事実だった。
「だって、依里さんを一人にしとけないから」
顔を合わせると駿はいつも、そう言って笑った。
「俺がいないと、依里さん、また一人で泣いてんじゃないかと思って」
「なによ、えらそうに。子供のくせに」
「だからいいんだろ? そんなガキの前だから、依里さんだって無理してつっぱって、カッコつける必要がないんじゃん」
その言葉を、依里は否定できなかった。
「駿くん、いいの? 予備校、ここんとこずっとさぼってるんでしょ」
「平気。今はまだ余裕ある。一週間くらいの遅れなら、夏期講習で取り戻せるし」
依里だって、駿と過ごす時間を作るためにいろいろと努力している。残業せずにすむように、日中はとにかく必死で仕事を片づけていた。そして定時になれば、同僚からの誘いもすべて断ってすぐに会社を飛び出す。
「男だね、ありゃ」
そんなふうに噂されているのも知っていた。
恋人がいると周囲の人間に思われても、特に問題はない。ただその相手が高校生の男の子だとは、誰も思わないだろうが。
オープンテラスで落ち合うと、そのままコーヒーを飲みながら、あるいは駅までゆっくりと並んで歩きながら、二人で他愛もないことを話す。
どんな内容でもいいのだ。駿が話しかけ、依里がそれに答える。あるいはその逆。そうやってお互いの声をすぐ身近で聞いて、相手が自分の一番近くにいることを確かめ合う。
駿と一緒にいると、何でもないことまでおかしくて、笑いがとまらない。何かの拍子にお互いの目が合うだけで、二人ともつい吹き出して笑ってしまう。
こんなに笑ってばかりいるなんて久しぶり――本当に小さかった頃のようだ。まだ両親が揃って依里の手を握っていてくれた頃のように。
そして、二人でこのマンションへ帰ってくる。まるでずっと昔からそうしてきたような顔をして。
灯りも点けずにキスをして、抱き合った。わずかな時間さえ惜しむように、駿は依里の身体を、依里は駿の身体をいつくしんだ。暗がりの中で、身体だけでなく、互いの息までひとつに溶け合っていくようだった。
そんなことを何度か繰り返した。
いや、数えればまだ片手で足りるほどの回数だけれど、もっとずっと以前から、駿とともに時間を過ごしてきたような気がする。
けれど、駿がこの部屋に泊まっていったことは一度もない。
当たり前だ。高校生の駿に、親の許可も得ずに外泊させるわけにはいかない。依里だって、朝、玄関から制服姿の駿を送り出すなんて光景を誰かに見られたら、もうここには住んでいられなくなるだろう。
無論、このマンションは都会のベッドタウンにふさわしく、隣は何をする人ぞ式の人間関係しかない。だが、住んでいる人間たちはみなまっとうな勤め人ばかりだし、だからこそ身近なスキャンダルには敏感だ。噂話はあっという間に広がっていく。近隣の人とすれ違うたびに悪意に満ちた眼を向けられ、背後でひっきりなしに噂話をささやかれる生活など、あまりにいたたまれない。絶対に願い下げだ。
いや、夕方の一時を駿と一緒に過ごすだけで、本当は充分に危険なのだとわかっている。駿と一緒にエレベーターに乗る時は、いつも他人のふりだ。狭い箱の端と端に立ち、すぐに視線をそらせるようにしている。それでもドアが開くたびに、心臓が破裂しそうなくらいに鳴り響く。
――そんなに怖がりながら逢瀬を重ねるくらいなら、いっそやめてしまったほうがいいのだと思う。たとえ駿が逢いたいと言ってきても、自分がきっぱりと断るべきなのだ。それが大人の分別だ。
それは駿にもわかっているはずだ。依里が強く、もうだめ、もう逢わないとはっきり言えば、逆らわないだろう。
やめようと思えば、いつでもやめられる。
今までの恋だって、ずっとその覚悟はあった。そしてなにかトラブルが起きそうな気配があったら、即座に関係を終わらせてきた。
駿との関係だって、同じことができるはずだ。
駿を抱きしめる自分の姿を眺め、依里はそう自分に言い聞かせていた。
大丈夫、この恋だっていつもと同じ。いつもより少し条件が厳しくて、スリルがあるから、深入りしているような気分になっているだけだ。
駿だって、この部屋を出たら、帰っていくべき日常がある。そこには、依里のことはけして告げられない家族がいて、そしてほかに駿を待っている少女もいるはずだ。駿も、それらすべてと依里とを天秤にかけたりはしないだろう。
駿のためなら、そして私自身の日常を守るためなら、いつだって別れを告げられるはず。
だから――今でなくでもいい。
二人の関係は始まったばかりだ。誰も依里たちに疑いの目を向けている者はいない。まだ、このままでいい。そう思ってしまう。
まだ……この手を離したくない。
骨張って大きい、駿の手。けれどその肌はなめらかで、傷つきやすいやわらかさを感じさせる。駿の肌はどこもぴんと張りつめて、触れる依里の指をまるで強くはじき返すみたいだ。
そして、その鼓動。力強く、精緻で、彼の胸に頬を押し当てると、規則正しいリズムが依里の身体にも響く。耳をかたむけているうちに、依里の中全部が駿の鼓動で満たされていくようだ。
駿はその胸の中に、小さな太陽を抱えている。
いつか、この太陽を手放す時が来るとしても。それはまだ、今でなくてもいい。
今はただ、いつか来るはずの日を、一分でも一秒でも先延ばしにしていたかった。
駿も同じ気持ちでいてくれるだろうと思っていた。そのためのルールも、ちゃんと守ってくれるだろうと。
けれど、突然、駿から電話があったのは昨夜のこと。そろそろ日付が変わろうとする頃だった。
「逢いたい……。今からそっち行っていい?」
電波の具合が悪いのか、携帯電話から聞こえてくる駿の声は低くくぐもっていて、ひどく聞き取りにくかった。
「だめよ。言ったでしょ、土日はここのマンション、住人がちゃんと部屋にいることが多いんだって」
依里が暮らすこのマンションは、他の部屋の住人も一人暮らしか夫婦二人きりの世帯がほとんどだ。平日はみな実直に、朝、仕事に向かい、夕方遅くに戻ってくる。依里の生活スタイルと同じだ。夜になってから忙しなく部屋を出入りするような生活をしている者は見あたらない。その分、休日には家にいる者が多く、駐車場で洗車したり、狭いベランダでガーデニングを楽しんでいたりと、住人の姿を見かけることが多い。
駿は前から、土曜日になったら依里の部屋に泊まりたいと言っていた。冗談と本気が半々といった様子だった。
けれどそんなふうに人目が多くなる週末、駿をこの部屋に出入りさせるわけにはいかない。まして泊めるなんて。そんな様子をマンションの住人たちに気づかれたら、どんな噂をたてられるかわかったものではない。
そう説明すると、駿もすぐにおとなしく引き下がった。
「残念。じゃあさ、俺が大学に入ったら、依里さんが俺の部屋に泊まりに来てよ。俺、大学からは一人暮らしする予定だから」
屈託なく笑いながら、そんなことを言ったのだ。
なのに土曜日になってからふたたび、駿は携帯電話をかけてきたのだ。それも、依里がそろそろ寝ようかとしていた時に。
「どうしたの、駿くん――」
こんな夜更けに依里の部屋へ来たいと言われ、最初、依里は怒りよりも先に戸惑いを感じた。こんな聞き分けのないことを言うような子ではないと思っていたのに。
けれど、依里がだめだと断ったあと、駿は急に黙り込んでしまった。
なんだか駿の様子がおかしい。
依里が呼びかけても、駿は電話の向こうで押し黙ったままだった。
……泣いて、いるの?
携帯から聞こえてくる物音に、依里は耳を澄ました。
わずかな呼吸音。その向こうには、いまだににぎやかな街の喧噪が聞こえる。間断なく聞こえる波音のような響きは、電波の乱れによる雑音だろうか。
駿の呼吸は忙しなく、懸命にそれを抑えようとしているようだった。かすかにしゃくりあげるような音が混じる。
「駿くん。今、どこ?」
「駅……。西口」
もう、このマンションの最寄り駅まで来てしまっているのだ。
依里はぱっと時計を確認した。そろそろ終電もなくなる時間だ。駿を自宅へ戻らせるにも、交通手段がない。
いいえ――そんなことはもう、どうでもいい。
「いいわ。ちょっと待ってて」
依里は携帯を耳にあてたまま、玄関に向かった。小さなバッグを手に、サンダルをつっかける。
「今から私、迎えにいくわ。だからそこを動かないでね」
「依里さん」
「大丈夫、電話は切らないから。私が駅につくまで、ずっとこうしておしゃべりしてましょう?」
今、携帯電話を切ったらいけない。なぜだかわからないけれど、そう思った。今は目に見えない電波だけが、駿と依里とを結ぶ糸なのだ。
駿はこの細く頼りない糸に、懸命にしがみついている。依里にはそう思えた。だから切ってはいけない。駿が必死で伸ばしている手を、冷たく振り払ってしまうことになる。
ドアを開けると、さあっと冷たく湿った風が吹き抜けた。細かい水滴が顔にあたる。雨が降り出しているようだ。
この雨のせいで、携帯電波の状態が悪かったのだろう。
傘を二本持ち、依里は部屋を飛び出した。
エレベーターを待つのももどかしくて、その横の非常階段を駆け下りる。サンダルのかかとが鳴ってやかましい。よその部屋の人に聞きつけられてしまうかもしれないが、もうそんなことにはかまっていられなかった。
マンションを出ると、梅雨寒の夜風の中、依里はすぐに走り出した。
霧のような雨が全身にまとわりついた。
「ねえ駿くん。雨、降り出しちゃったね。傘、持ってきた?」
「いいや、持ってない」
「そう。じゃ、濡れないように、どっか屋根のあるところで待っててね。大丈夫、駿くんがどこに居たって、私がすぐに見つけてあげるから」
「うん……」
走りながら、電話の向こうの駿に話しかける。
何か話していなくては、と思う。一人で泣くのを我慢することくらい、つらくて哀しいことはない。どんな愚にもつかない会話でも、そうやって誰かの声がずっと聞こえていれば、駿も一人ではないのだと実感できるはずだ。
依里自身が体験してきたことだから、よくわかる。たとえ電話越しの声でも、人の声が聞こえるだけで、誰かが自分に話しかけてくれるとわかるだけで、安心できるのだ。
依里はしゃべり続け、走り続けた。日頃、こんなに全力疾走することなんて、もう滅多にない。すぐに息が切れて、声を出すのも苦しくなる。それでも懸命に、駿に話しかけ続けた。
「あ――ほら、もう駅が見えた! 駿くん、今、どこ? 私が見える?」
「いや……。暗くてよくわからない」
「赤い傘よ。ロータリーのとこ。わかる? ほら、やっほぅ!」
ばたばたと傘を振り回す。
それに応えて手を振る人影は、予想していた駅の階段の上ではなく、ロータリーの隅に立っていた。
「あ、いた! 駿くーん!」
依里は大げさにはしゃいでみせた。傘を振り回しながら、駿に駆け寄る。
駿は大きなバイクのシートに軽く腰掛けて、依里を待っていた。片膝の上にはフルフェイスタイプのヘルメットを乗せている。
「駿くん、お待たせ!」
暗がりの中で駿の顔を確認して、依里はやっと携帯電話の通話を切った。
駿も、耳元から携帯を離す。
黒い瞳がすがりつくように依里を見つめていた。依里は思わず息を飲んだ。まるでその目が、まっすぐに依里の中へ飛び込んでくるみたいだった。
――なにか、あったの? つい口をついて出そうになる疑問を、依里は押し殺した。
駿は懸命に無表情を装いながら、本当は今にも泣きそうな目をしている。一言でも口を開けば、押さえつけていた感情が堰を切ってあふれだしてしまうかもしれない。
こんなところで感情を爆発させることができるなら、駿も、なにも危険をおかしてまで依里のもとへ来ようなどとは思わないだろう。
依里に聞いてもらいたいことがあるなら、駿が自分から話してくれるはずだ。それを待つべきだ。
「バイクでここまで来たんだ。じゃ、かなり濡れちゃったでしょ。寒くない?」
持ってきた傘を開き、駿にそっとさしかける。
駿はうつむいたまま、それを受け取った。依里の顔を見ようとはしない。
「ごめん……。こんな――こんなふうに、来ちゃいけないって、わかってたんだけど……」
「いいよ、もう」
うつむく駿の表情を覗き込むように、依里はそっと笑いかけた。
「お家のほうは大丈夫? 家族に黙って出てきちゃった?」
「いや。一応、友達んとこ泊まるって言ってきた」
こわばっていた駿の顔に、わずかに笑みらしいものが戻ってきた。
「俺……男だから。高校生の息子が一泊くらい外泊したって、もう親はそれほどうるさいこと言わねえよ。――女の子じゃねえもん」
「そうだよね。でも、お家から電話があったら、すぐに出なさいよ。親に心配かけたくないでしょ」
「うん。わかってる」
それだけわかっていればいいよ、と、依里はうなずいて見せた。
「おなか、空いてない?」
「いや――」
「そう。じゃ、早く帰ろうね。バイクは……マンションの駐輪場に入れるのはちょっと無理かな。この近くの駐輪場に一晩置いてても平気だよね?」
「うん」
ロータリーの横にある公立駐輪場に、バイクを預ける。大きな車体を押して歩く駿の後ろから、依里は精一杯腕を伸ばして傘をさしかけた。
「おっきなバイクだね。かっこいい。駿くんが自分で買ったの?」
「頭金だけは親父に手伝ってもらったけど、月々のローンは自分でバイトして払ってる。それもまだ払い終えてねえけど」
そして二人、並んで歩き出す。傘が顔を隠してくれるため、すれ違う人の目を気にすることもない。
それからマンションに帰りつくまで、駿は一言もしゃべらなかった。
傘を閉じ、エレベーターに乗り込む。
小さな箱の中で、二人の身体が寄り添った。依里は自分から駿の腰に腕を回し、無言で抱き寄せた。
駿は依里にもたれかかるように、依里の髪に頬を押し当てた。
「冷たい……」
やっと、駿が口を開いた。
「髪が、濡れてるよ。依里さん」
「うん……。霧雨だったからね。傘、あんまり役に立たなかったね」
軽い揺れとともにエレベーターが三階で止まる。二人は同じ姿勢のまま、エレベーターを降りた。
部屋の玄関を開け、中に入るとすぐに、駿は依里を抱きしめた。それ以上奥に入るのももどかしいというように、依里の身体を強く抱き、離さない。
「い、痛いわ、駿くん……」
かすかな声で抗議しても、依里はその乱暴で子供じみた抱擁を拒もうとはしなかった。
火照る駿の体温が、雨に濡れた依里の身体を熱くする。同じように自分の体温も、駿をあたためているだろうかと、依里は途切れそうになる意識の片隅でふと思った。
唇が重なる。息苦しくなるほどのキス。駿は強引に依里の唇をこじ開け、奥へと入り込んでくる。
むさぼるようなキスに、依里は懸命に応えた。自分から駿を受け入れ、駿の唇を吸う。
そして二人はもつれ合うようにベッドへ倒れ込んだ。
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