凛花の声が、あばらの真ん中に突き刺さった。
「ぎゅ、て……して。周ちゃん、も、と……ぎゅ、て、……してて――」
「ああ、凛花。……凛花、凛花――!!」
「好き……好き、周ちゃん。大好き……っ!」
 ……そうだ、わかってた。
 オレだって本当は、わかってたんだ。
 臆病で泣き虫で、鈍くさい凛花。
 どんなに遅れても、転んで泥だらけになっても、凛花はオレたち兄弟の後ろをついてきた。
 虫捕りだって、墓地公園の肝試しだって、怯えてびーびー泣きながら、それでもオレたちのそばを離れなかったんだ。
 兄ちゃんの、そばを。
 泣き虫で優しくて、本当はすごく頑張り屋の凛花。
 兄ちゃんに名前を呼ばれると、それだけで花が咲いたみたいに笑う、凛花。
 そうだよ。わかってたんだよ、オレだって。
 ずっと、ずっとわかってたんだ。
 オレじゃだめなんだ。兄ちゃんでなきゃ、だめなんだ。
「ちくしょお……っ!」
 喉の奥からこみあげてくるひどく苦い呻き声を、ぎりぎりと奥歯で噛み殺して。
 違う。これは涙じゃない。汗かいただけなんだ。だってこの部屋、クーラーがイカれててむちゃくちゃ暑いから。
 汗が目に入っただけなんだ。
 入ってきた時と同じく、オレは泥棒みたいに息をひそめながら、自分の部屋を出た。
 一階に下りると、風呂場に直行。冷水のシャワーを頭からざばざば浴びる。
 ……本当は、一度自分で抜こうかと思ってた。オレのはもう、痛いくらいに張りつめてたし。
 だけど、そうしちゃいけない気がした。
 いや――できなかったんだ。
 凛花の顔、笑ってる顔、泣いてる顔、ちょっと怒ってるとこ、オレの名前を呼ぶとこ、……兄ちゃんの名前を呼ぶとこ。出会ったばかりのちっちゃい凛花から、高校生の今まで、いろんな凛花の顔が目の前をぐるぐるして。
 オレは、なんにもできなかった。
 ただ、頭上から滝のように降ってくる冷たいシャワーの中に、でくの坊みたいに突っ立っているだけだった。
 夕立みたいに冷たい水は、オレの身体に残る汗も、ほかのいろんなものも、全部洗い流してくれるみたいだった。
 身体が冷えてがたがた震え出す直前で、ようやくシャワーを切り上げる。
 それから台所で、母さんが用意しておいてくれた昼メシを麦茶といっしょにかッ込んで。
 そしてオレは、まだ髪が濡れてるのにもかまわず、ふたたび炎天下に飛び出した。
 全力で自転車漕いで、図書館へ向かう。
 ちくしょう、ちくしょう、志望校のランクは絶対下げねえぞ。ランクひとつ下げたら、兄ちゃんと同じ鷺沼高校に行くことになっちまう。何がなんでも、鷺沼より上のレベルの高校に合格してやる。
「ちっくしょおぉッ、負けるもんかあッ!!」



 結局オレは、閉館時間の夕方6時半ぎりぎりまで図書館の学習室でねばった。学習室はオレと同じような、目の色変わった受験生でいっぱいだったから、オレもつられて勉強に集中することができた。
 頭も冷えたし、腹も減った。
 これなら、晩メシの時に兄ちゃんの顔見ただけで、いきなり跳び蹴りかましたりせずにすみそうだ。
 行きとは違って、夕暮れの中をのたくら自転車漕いで家まで戻ってくると。
 ……なんで玄関先に、兄ちゃんが立ってんだよ。
 しかも、凛花とふたりで。
 まさかおまえら、今までずーっとヤリっぱなしだったのか!?
 そんで兄ちゃん、もう暗くなってきたから、彼女を家まで送ってくってか!? 凛花ん家はすぐ隣だろうがよ!
「あ……。お帰り、たっちゃん」
 凛花がオレに気づき、声をかけてきた。
 凛花は白いコットンのワンピースだ。胸元や裾に小さくフリルが飾られた、ちょっとレトロな感じの。リゾートっぽいサンダルとガラスビーズのブレスレットが、すげえ可愛い。
 ちくしょう。凛花、なんでそんな幸せそうな顔してんだよ。そんなど助平のど変態のそばにいるのが、そんなに嬉しいのかよ。
 凛花のそんな顔見たら、オレ……なにも言えなくなっちまうじゃんかよ。
「たっちゃん、どこ行ってたの?」
「――図書館」
 やっぱり凛花は、昼間オレが一度家に帰ってきたこと、まったく気づいてない。
 そんなら、それでいいや。もう。
 凛花が泣かずに、幸せそうに笑っていてくれるなら、オレはもう……いいんだ。
「あー腹減った。母さんは?」
「もうすぐ帰ってくんだろ。さっき、買い物中だってスーパーから電話あったから」
「ふーん……」
 オレは素知らぬ顔をしてふたりの横をすり抜け、先に玄関の中へ入ろうとした。
 だが。
「あ、そうだ、拓。おまえ、昼メシはどうしたんだ」
 いきなり、兄ちゃんが言った。
「え……?」
「図書館行く前、ちゃんと家で食ってったんだろ?」
「う――あ、うん……それは……」
 食ったよ。冷蔵庫ん中にあった昼メシ。朝、母さんが用意しといてくれたヤツ。
 そんなの、冷蔵庫開けてみればすぐわかる。
 オレが、一度家に戻ってきてたってこと。兄ちゃんにはごまかせない。
 だからって、なんで今、わざわざそんなこと訊くんだよ、バカ兄貴! 凛花がいるのに!
 て、思った瞬間。
 兄ちゃんと目があった。
 兄ちゃんは、にやあッと笑ってた。
 勝ち誇ったような、してやったりというような、すげえ……真っ黒いオーラだだ洩れの顔で。
 ――まさか。
 まさか、最初から。
 全部気がついてたのかよ、このクソ兄貴ッ!!
 今、玄関の外に立ってんのも、わざとだな!? ああ、そりゃそうだよな。オレ、午後は図書館に行くって言っといたし、図書館の閉館時間くらい、てめーだって知ってるよなあ!? そっから逆算すりゃあ、オレが何時くらいに家に帰ってくるか、簡単にわかるよな!?
「えっ!? え、たっちゃん、昼間、家に帰ってきたの!? い、いつ!? うそっ!!」
 可哀想に、凛花が真っ赤になってうろたえる。目元も頬も、首筋まで、熟れた桃みたいにまっかっかだ。
 ……まったく、バカだな、凛花。そんな真っ赤になって焦ってたら、ハズカシイことしてましたって、自分でバラしてるようなもんじゃねえか。
「凛花が来てたのは知ってた。玄関に凛花のサンダルあったしさ。だからオレ、メシだけ食って、またすぐに家出たんだよ。だって……邪魔しちゃ悪りいじゃん?」
「す……すぐ?」
「うん。すぐ」
 今にも泣きそうな凛花に、オレは大きくうなずいて見せた。
「早いとこ涼しい図書館行きたかったし、時間もったいなかったからさ。家ん中には10分もいなかったんじゃねえかな、オレ」
 だからオレは何にも見てない。聴いてない。もちろん、二階にも上がったりしてない。
 だから……泣くなよ、凛花。
「そーだよなあ、おまえ、受験生だもんなー! のんびり食休みしてるヒマなんか、ねえよなあ!」
 あっけらかんと兄ちゃんが言った。
「頑張ってるよなー、拓。俺は推薦で高校入っちまったから、そういうの経験してねえんだよな。おまえ、マジ偉いよ」
 ちくしょう、なんだよその勝ち誇ったツラは! 凛花がいなけりゃ、ハイキック一発ぶちかましてやんのに!
「俺ら、これから角のコンビニまで行くけど、おまえ、なんか欲しいもんあるか? 兄ちゃんが奢ってやる」
「――いらねーよッ!!」
 オレは全力ダッシュで玄関に駆け込み、思いっきりドアを閉めた。
「ちくしょお、兄ちゃんのバカヤロオォッ!!」



「周ちゃんのうそつき! 今日は夕方までずっと、家には誰も帰ってこないって言ったじゃない!」
「そうだと思ってたんだよ。拓のヤロー、昼に一旦帰ってくるなんて、言ってたかなぁ……」
「もうやだ! もう絶対、周ちゃんの部屋でえっちしないから!」
 半べそかいて拗ねている凛花をなだめながら、俺はゆっくりと夕暮れの坂道を歩いていた。
「そんなに怒んなって。拓だって何も気づいてねえみたいだし」
「ほ……ほんと?」
「ああ。あいつ、昔から嘘つくとすぐ顔に出んだよ」
 ――昔はな。今は、少しは進歩したらしいじゃねえか。
 もちろん、俺は知っていた。
 拓が昼に帰ってくることも、こっそり二階に上がってきたことも。
 知ってて、凛花を抱いたんだ。
 あいつ、このごろ凛花を見る目がかなりヘンだったからな。少し釘刺してやらなきゃと思っていたんだ。
 だいたい拓は、昔から俺の真似ばっかりしたがった。
 俺がMTBタイプの自転車を飼ってもらえば、自分も同じのを欲しがった。俺が地域のサッカークラブに入ったら、あいつも追いかけてきた。
 服でもゲームでも、拓はとにかく俺と同じものを欲しがった。好きになるアイドルまで同じだった。
 手に入らないとなると、キレて俺にケンカふっかけてきやがったし。勝ち目なんかあるわきゃねえのに。クラスの連中とかに訊くと、弟ってのはどこの家でもおおかたそんなもんらしいが。
 そりゃ、俺は兄貴だから、たいがいのものは弟に譲ってやるさ。
 だけど、これだけは譲れない。
 まだちょっぴりべそかいて、うつむいて歩く凛花の手を、そっと握る。
「周ちゃん……」
 ためらうように俺を見上げてくる、琥珀色の瞳。泣いた目元はまだうっすらと赤い。
 俺が黙って見つめると、少し怯えるように眼を伏せる。けれどやがて、またためらいがちに、俺の様子を確かめるように、見上げてくる。
 そして俺と目が合うと、花が咲いたように笑う。なんにも言わず、ただ嬉しそうに。
 ……ったく、可愛いよ、おまえは。本当に。
 凛花は、俺のものだ。
 他の男には、指一本触らせない。
 ガキのころから、凛花にちょっかい出すヤツは徹底的にぶちのめしてきた。俺がケンカすると凛花が泣くから、凛花には内緒にしてきたが。
 だけどこのことだけは、拓にもきっちり思い知らせておかねえとな。あいつが心底諦めるまでは、何度でも徹底的にやってやる。――そのほうが、拓のためにもなるはずだ。いつまでも望みのねえ片思いにしがみついてるより、すっぱり諦めりゃ、他の女にも目がいくようになるって。
「悪かったな。今度はもっと気ぃつける」
「うん……」
 坂道を下りきったところで、夕闇にまぎれるように軽くキスをする。俺が身を屈めると、迎えるように背伸びをする凛花が可愛い。
「じゃ今度は、凛花の部屋でやるか?」
 凛花の部屋は、拓の部屋の真向かいだけどな。カーテン開けてりゃ、丸見えだ。
「周ちゃんの、ばかっ!!」



「ちくしょう、兄ちゃん覚えてろおッ!! 月の明るい晩ばっかりじゃねえからなああッ!!」





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【 おにいちゃんにはかなわない 2 】

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