木戸の前をふさぐように、父市左ェ門が立っていた。
 着物は雪にまみれ、その顔は怒りで赤黒く染まっている。
 後ろには店の使用人が数人と、これも夜通し雪の中を走ってきたらしい僧侶たちとが、半円を描くように立ち並んでいた。
「そら、申し上げたとおりだったでしょう、市左ェ門殿。この恩知らずのごろつきは、寺の金を盗んだあげく、こちらのお嬢様をかどわかそうとしていたのですぞ!」
 きいきいと古釘が軋むような耳障りな声が、わめき散らした。
「て、てめえ……っ!」
 吉三郎がにらみ据えた先には、醜い笑いに顔を歪ませた納所坊主が立っていた。額には大袈裟に晒し布を巻いている。吉三郎に指を突き付け、
「こいつは、寺の金箱をあさっているところを拙僧に見つかり、拙僧を殴り倒して逃げたのです!」
「金箱だと!? そんなもの、俺は知らねえ!」
 思わず叫んだ吉三郎の声をかき消すように、さらに納所坊主はわめいた。
「吉三郎、盗んだ金を返せ! そうすればみ仏の慈悲で、番屋に突き出すのだけは勘弁してやるぞ!」
「な、なに言ってんの。吉さんはお金なんて――」
 お七は、吉三郎をかばって前へ出た。
 昨夜、吉三郎の着物を脱がせて身体をあたためた時には、そんなものはどこにも見あたらなかった。
 この坊主は、寺から逃げた吉三郎を追いかけてきただけでなく、ぬれぎぬまで着せようとしているのだ。
「どきなさい、お七!」
 市左ェ門が手をのばし、乱暴にお七の肩を掴んだ。まるで押しのけるように、力ずくで吉三郎のそばから引き離そうとする。
「きゃあっ!」
 お七は短く悲鳴をあげた。足元がよろけ、泥混じりの雪の中に倒れ込みそうになる。
 それを、横から店の若い手代がぱっと腕を出して、お七の身体を支えた。そのままお七の両腕をがっちりとつかんで押さえ込む。
「いやあ! 離して、離してっ!」
 手代はそのまま、お七を裏木戸の中へ引きずり込もうとした。市左ェ門が顎をしゃくって、早くしろと手代に命じている。
 お七は懸命に暴れた。けれど背後から抑えつける手はますます強くお七の腕に食い込み、離そうとしない。男の力にかなうはずもなかった。ずるずると引きずられていく。
「吉さん、逃げて!」
 お七は叫んだ。
 目の前が次第に暗くなっていく。
 息が吸えない。胸が苦しくて、頭の中が全部ぐらぐら揺れ始める。
 逃げて、吉さん。逃げて。
 捕まったら、殺されちゃう。
 吉三郎が走りだす。けものみたいに身を低くして、自分を捕らえようとする男たちの腕をかいくぐろうとする。
 だがその上から覆い被さるように、店の者や僧侶たちが吉三郎を抑えつける。敵があまりにも多い。逃げ道などなかった。
「ちくしょう、離せ、離せえッ!」
 吉三郎が絶叫した。まるで殺されるけものの悲鳴のようだ。
 羽交い締めにされ、顔でも腹でも容赦なく殴られる。唇が切れ、鼻血が噴き出した。
 そのまま吉三郎はぐちゃぐちゃの地面に押し倒された。泥まみれになった身体を、さらに男たちが容赦なく蹴りつけ、踏みにじる。
「やめてええっ! 吉さんが、吉さんが死んじゃうよおっ!」
 お七が泣き叫んでも、男たちはお七のほうへ顔を向けようともしない。
 吉三郎を蹴り続ける男たちの顔は、弱い者をいたぶる歓びがあふれていた。下駄の歯で吉三郎の指をぎりぎりと踏みにじる者、わざわざ顔面を踏みつける者。みな、口元は卑しい笑みに歪み、目にはぎらぎらと脂ぎった光を湛えている。
 吉三郎はもう、立ち上がることもできなかった。両腕で頭を抱え込み、小さく身体を丸めるのが精一杯だ。
「お嬢さん、こちらへ!」
 手代が力任せにお七を木戸の中へ引き入れた。引っ張られた腕がもげそうだ。その激痛に、かろうじて意識が戻ってくる。
「いやあ! 吉さん、吉さんっ!」
 泣き叫ぶ声がかすれていく。
 目の前が真っ暗になる。もう自分が立っているのか、地べたに倒れているのかもわからない。
 どうしてなの。どうしてみんな、こんな惨いことするの。
 あたしたちは何にもしてない。
 ただ、二人でしあわせになりたいと願っていただけだったのに。
 あたしを吉さんの女房にして。たったそれだけの約束を交わしたことが、こんなにも惨い罰に相当するというの。
 どうしてこんなことになるの。
 しあわせだったのに――さっきまで、あんなにあたしたちはしあわせだったのに。
 木戸が閉められた。
 お七が最後に見たのは、何本もの腕に上から抑えつけられ身動きすることすらできず、泥の中に顔を突っ込まれた吉三郎の姿だった。
「吉さん……っ」
 もう、吉三郎の名を呼ぶことすらできない。
 閉じられた木戸の向こうから、納所坊主の勝ち誇ったような叫び声が聞こえる。
「いいざまだな、吉三郎! 今まで面倒を見てやった恩義も忘れて、寺の名に泥を塗りやがって。寺に戻ったら、その身にたっぷりと思い知らせてやるから、覚悟しろ! 今度という今度は長老様も、もうお前をかばってはくださらんぞ!」
 使い古されて手垢にまみれた脅し文句と、げたげたと調子外れな高笑い。
 ――どうして? どうしてこんな下卑た男に、吉さんが嘲られなければいけないの?
 あんたなんか、本当は吉さんの足元にだって近寄れないのに。そのくらい、吉さんの魂は高潔で、誰よりも誰よりも奇麗なのに。
「さあ立て、吉三郎! この身の程知らずの野良犬め!」
 そのままお七は、意識を失った。





 お七は自分の部屋に閉じこめられた。
 部屋の外の廊下には女中が交代で座り込み、一時も監視の目をゆるめない。見張りは、手水へ行く時にまでぴったりとお七にはりついていた。
「まったく、とんでもないごろつきだよ。立派なお武家様のご念弟なんて大嘘で、本当はがきの頃に火事で焼け出されて、それからずっとあの寺で飼われてた色子だっていうじゃないか」
 尻尾を踏まれた猫みたいに、きいきいぎゃあぎゃあと母親がわめき散らす。
「ちぃっと奇麗な面をしてたって、あのがきは一皮剥けばただの淫売なんだよ。ああ、おぞましい!」
 母親は心底気味悪そうに身震いをした。
「お前もお前だ、お七。六つ七つの洟垂れ小僧のうちから坊主どもの玩具になってきたような男だよ? さんざっぱらいちゃついておいて、どうして気がつかないんだい!」
 お七はなにも答えなかった。
 正座してじっと畳の一点を見つめたまま、石で造った置物みたいに身動きひとつしない。
「吉三郎なんて、名前だけは一丁前の侍みたいに名乗りやがってさ。おおかたあのごろつき、お前をたぶらかしてこの家の入り婿にでもなろうって考えたんだろうが、そうは問屋が卸すものかい。ちゃあんと寺の坊さんが本当のことを教えてくれたんだよ。ああ、そうそう。爺やにもあとで褒美をあげとかなきゃねえ。お前が男を引っ張り込んだって、あの雪ん中、わざわざあたしらに報せに来てくれたんだから。あいつを追いかけてきた坊さんたちと途中で合流できたのは、ほんとに運が良かった」
 お七の目の前をうろうろ歩きながら、母親は独り言のようにしゃべり続ける。
「坊さんたちだって、飼ってた色子に逃げられて赤っ恥かかされたんだ、許すはずがあるものか。あのがき、今頃は寺で半死半生の目に遭わされてるだろうよ。いいや、寺の金箱に手を出したんだから、簀巻きにして川に放り込まれたって、文句は言えないやね。ねえ、そうだろう、お七?」
 母親がこんなにも口汚く吉三郎を罵るのは、娘を罰することができないからだ。
 お七は大店の娘としての勤めを忘れ、親の面子も踏みにじって、惚れた男と逃げようとした。本来ならそんな娘は、泣いて謝るまできつく折檻してやるべきなのだ。
 だが、加賀藩中屋敷用人のもとへお七を連れていく期日は、もう目の前に迫っている。折檻でお七の身体に傷痕を残すわけにもいかないし、万が一、あまりに強く責めすぎて、お七が首でもくくってしまったら、元も子もない。
 残る手だては、吉三郎を悪し様に罵って貶め、二人の恋情をいかにも汚いもののように思わせることだった。吉三郎は大嘘つきの淫売、人間として扱う価値もない色子。そしてそんな男にだまされたお七も、どうしようもない莫迦娘だと。
 そうやってお七の自尊心をずたずたにして、すべての気力や反骨精神を奪い取り、大人たちはお七を自分たちの意向に従わせるつもりなのだ。
「気に病んでやることなんかないさ。どうせ今頃はあの陰間、坊さんどもの玩具になって、ひいひい泣いてよがってるだろうよ」
 ――やめてよ。
「いやだねえ。男のくせに、同じ男に股開くしか能がないなんて。おお、汚い」
 ――違う。違うったら。
 吉さんは、少しも汚くなんかない。
 汚いのは、あんたたちのほうじゃない。
 吉さんをいじめて、犯して、踏みにじっている、あんたたちのほうじゃない。
「とにかく、大事にならずに済んだんだ。これに懲りて、もう二度と莫迦な真似をするんじゃないよ、お七」
 母親は、なにも答えない娘に、まるで捨てぜりふのように言った。
「ご用人さまのもとにあがるまで、この家から一歩も外へは出さないからね。だからって、ご用人さまのお屋敷から逃げようなんぞと考えるんじゃないよ。あちらはお武家だ。そんなこと絶対に許すもんか。庭木に吊されてぶった斬られるよ。それが武士の面目ってものだからね」
 息もつかずにまくしたて、ようやく少しずつ気も鎮まってきたのか、母親はやっとうろうろ歩き回るのをやめ、声を落とした。
「ねえお七。考えてごらん。お前は立派なお武家のご側室になれるんだよ。江戸中の町娘がそうなりたくて、やれ手習いだ行儀作法だ踊りの稽古だって、寝る間も惜しんで必死になってるんじゃないか」
 ため息のように、母親は言った。疲れたのか、ふと目を伏せる。いや、真っ直ぐで異様なくらい揺るがない娘の瞳を、見るのが怖いのかもしれない。
「人にはね、どうしたって越えられない壁があるんだ。それがこの世ってもんだよ。そういう目に見えない決め事や垣根があるから、人の世は平和でうまくいくんだよ。そういうものがなくなっちまったら、誰もかれもがやりたい放題で、戦国乱世の地獄に逆戻りだ。そうだろう? この江戸の街が戦の火に焼かれずにすむのは、みんなが世の中の決め事をちゃんと守っているからなんだよ。そういう定めが嫌だというなら、この世じゃ生きていかれない。人をやめるしかないじゃないか」
 お七はやはりなにも答えなかった。母の言葉が聞こえているのかどうかさえ、わからない。
 母親はしばらく娘の反応を待っていたが、やがて諦めたように大きくため息をついた。
「大丈夫だよ。今は、天地がひっくり返るくらいつらいって思ってたって、時が経ちゃあ忘れちまうさ。みんな、そんなもんなんだよ。人なんて」
 ――あら、そう。おっ母さん。
 じゃああたしは、人なんかでいたくないわ。
 母親が背中を丸め、足を引きずるようにして出ていく。
 廊下に控えている見張り役の女中に、ぼそぼそと指示を与えているのが聞こえた。ここからけして離れるんじゃない、けれどお七の部屋を覗いてもいけない、と。傷心の娘をせめて一人きりにしておいてやろうという、親心だろうか。
 けれど今のお七には、一人きりにしてもらおうが、何十人もの見張りに取り囲まれていようが、関係ない。
 母親が言うこの世のことなど、なにも目に入らない。見ていたくない。
 人には生まれながらにして、けして越えられない壁がある。それがこの世の理(ことわり)。
 それは、今初めてお七が教わったことではなかった。今まで生きてきた中で、繰り返し繰り返し親からさとされ、そして見せつけられてきたことだった。
 円乗寺で、同じ焼け出されの避難民のはずなのに、金や力のある者は、本堂の中でもあたたかな火鉢のそばにぬくぬくとし、力のない者はすきま風の吹き込む廊下の隅に追いやられる。お七があまりにも理不尽だと思い、けれどどうにもできなかったあの光景。それがこの世の理だ。
 その理が、ずっとずっと吉さんをあの生き地獄に縛り付けていた。
 逃げだそうとしたあたしたちを、また同じ地獄に引きずり戻した。
 だったら、そんな理なんか、みんななくなっちまえばいい。
 人の世に理があるから、この街は平和でうまくいくのだと、おっ母さんは言った。だけどその理があるから、吉さんはあんなにつらい目に遭う。
 吉さんだけが、泣いていなくちゃいけない。
 だから。
 あたしがみんな、壊してあげる。
 吉さんを泣かせるものを、みんな、みんな。
 あたしが壊してあげる。
 日が暮れてきて、女中が行灯に火をいれた。
 あたたかな夕飯が運ばれてきたが、お七は手もつけなかった。目の前を誰が横切っても、うつろに宙を見つめたまま、身じろぎもしない。
 泣きもわめきもせず、まるでどこかが完全に壊れてしまったみたいなお嬢さんに、使用人たちは声をかけることもできず、薄気味悪そうな目をしてちらちらと眺めるだけだった。
 やがて床につく頃になっても、お七は動こうともしなかった。
「かまうことはない、放っておおき。拗ねてるわりにゃ首をくくる覚悟もないから、ただぼーっとしてるだけさ。一晩二晩飲まず食わずだったからってそう簡単に死にゃしないし、我慢できなくなったら自分で勝手に寝るだろうよ」
 母親は思ったより強情な娘の態度に、少し呆れたように言った。
「だけど、見張りだけは怠けるんじゃないよ。もう男と示し合わせて逃げることはないだろうが、この娘一人でふらふら家出しようとするかもしれないからね」
 女中は安堵したようにうなずき、またもとのように外の廊下に座り込んだ。
 最後にもう一度、母親は娘に向き直った。
「いいかい、お七。あの男はもう、おそらく生きていない。少なくとも、生きて寺から出られることは二度とないはずさ。寺の金を盗もうとした色子なんて、どうせそんなもの――い、いや、それが、あの男の持って生まれたさだめだったんだよ」
 ――死んじまった?
 吉さん、もう死んじゃったの?
 膝の上に置いたお七の手が、ひくっとかすかに動いた。が、お七が見せた反応はそれだけで、母親が気づくことすらなかった。
 たしかに母親の言うとおりだろう。もっとも弱い、踏みにじられるべき立場に生まれてしまった吉三郎には、この苦境を生きのびるすべはない。お前はただ黙って他人の慰み者になり、虐げられて死んでいけ、というのが、この世の理がさだめた吉三郎の運命だから。
 どんなにあがいても、吉三郎はその理から逃れることができなかった。
 ――本当に? 
 本当に吉さん、逃げることができないの?
「死んだ男のことをいつまで想っていたって、お前のためにはならないんだよ。お前はまだ生きてるんだから、お前自身がしあわせになることだけを考えな。吉三郎だって、お前が不幸せになることを望んじゃいないはずだよ」
 ――ええ、そうね。
 吉さんはきっと、あたしのしあわせを喜んでくれるはず。
 でも、そのあたしのしあわせって、いったいなに? おっ母さん、それを知っているの?知っていたら、あんな惨いことできるはずがないのに。
 どんなに心をくだいて話しかけてやっても返事ひとつしない娘に、母親は重苦しいため息をつき、黙って部屋を出ていった。
 部屋の中は、お七一人になる。
 ゆらゆらと行灯の火が揺れて、お七の横顔を照らした。
 火鉢の中では炭火が熾り、あたたかく乾いた空気を作り出している。
 そのまま、どのくらいじっとしていただろうか。
 ふと気づくと、障子の向こうの人影がこっくりこっくりと船をこいでいるのが見えた。廊下で見張りをつとめている女中が居眠りを始めたようだ。
 家人もすべて眠りについたらしい。家の中はしんと静まり返り、物音ひとつしない。
 母親も、もうお七は逃げはしまいと安心しているのかもしれない。廊下の女中以外は、特に店の者に寝ずの番を命じている様子はない。もともと店も建て直したばかりで、まだ布団などが足りないため、いつもより店で寝泊まりしている使用人の数も少ないのだ。
 やがて、お七はゆらりと立ち上がった。
 部屋の隅に置いてある長持から、数枚の着物を引っ張り出す。
 お七が用人の妾になることのお祝いにと、親戚連中が届けてくれた晴れ着や帯だ。そうやって市左ェ門にごまをすり、おこぼれにあずかろうというのだろう。
 そのうちの一枚を、衣紋かけに通して壁に吊す。紅梅色に白で梅の模様を染め抜き、中に綿を入れた暖かな小袖だ。
 お七は行灯から火皿を取りだした。
 火芯はかなり燃えてしまっているが、油はまだ皿の中に少し残っている。
 それを、吊した振り袖の下にかざす。
 ちろちろと燃える小さな火はなかなか燃え移る気配がなかったが、根気よくかざしていると、やがて木綿がぶすぶすと燻り始めた。
 黒い煙があがる。
 ぼッ!と小さな音がして、火が移った。
 中の綿に火が点くと、あとは早かった。裾から身ごろへ一気に火が広がる。
 小袖全体がたちまち火に包まれた。
 着物から燃え上がる炎が、ふすまや天井を焦がす。
 その火をお七はさらにあおった。一緒にひっぱりだした絹の振り袖や帯を燃える小袖に押しつけ、火を移す。
 紫紺色の振り袖に火が移った。金糸銀糸の縫い取りがばちばちと音をたてて爆ぜる。
 それを部屋の隅へ放り投げる。布団の上に、火がついた振り袖が落ちた。
 さらに火のついた帯を、開けっ放しだった長持の中へ突っ込む。
 鼻をつく焦げくさい臭い。黒い煙が部屋中に満ちる。
 ようやく女中が目を覚ました。
「お、お嬢さん!?」
 あわてて部屋に飛び込もうとした女中を、お七は突き飛ばした。
 廊下に転んだ女中の身体を踏み越えるようにして、外へ飛び出す。
 その手には、火がついたままの振り袖があった。
「お嬢さん! だ、誰か、誰か来て!」
 火を消すべきか、逃げるお七を追うべきか、女中はとっさの判断に迷った。どっちへ走りだすこともできず、ただ叫ぶしかなかった。
「ひ、火が――! 火を消して! 火事になっちまうよ!」
 けたたましい悲鳴に、眠っていた店の者たちもようやく目を覚ました。
「火事だと!?」
「水だ! 早く水持ってこい!」
 あたりは一気に騒然となった。
 布団や振り袖の火を消そうと、女中たちが手近なものでばんばん叩く。が、叩くたびに火の粉や綿屑が舞い上がり、女たちは悲鳴をあげた。長持はもう大きな火桶みたいに黒煙を噴き上げている。
 手桶に水を汲み、手代や番頭たちが走ってくる。
「早く火を消せ! 長持を外へ運び出せ、池に放り込むんだ!」
 男たちが必死で燃え上がる長持を部屋の外へ担ぎ出す。
 大火が続く江戸の街では、火災を起こすことが最大の罪だ。たとえ悪意のない失火であっても、自分の家から火を出したとなれば、最悪死罪ともなりかねないのだ。まして今年は、年末の大火事からようやく復興を始めたばかりだった。






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