吉三郎の部屋は、庫裏の一番奥まった場所にあった。入るには、手前の小坊主が寝ている部屋を通り抜けなくてはならない。
 子供らしい乱雑な寝相でぐっすりと眠っている小坊主を起こさぬよう、二人は息を殺してその枕もとを抜けた。
 その奥にある吉三郎の部屋は、ひどく狭かった。布団一組とそれを隠す枕屏風、あとは寺小姓としての衣装を納めてあるらしい長持がひとつあるきりだ。だがそれだけで、室内はほぼいっぱいになってしまっている。二人の人間が並んで座るのもやっと、というありさまだ。
 勉学のために寺に入った寺小姓なら、手習いをする文机のひとつくらいありそうなものだ。が、吉三郎の部屋にはそれすらなかった。そのことが、彼のこの寺での勤めの実体を如実に語っている。
「吉さん、早く着替えて。髪もちゃんと拭かないと、ほんとに病気になっちゃう」
 お七は吉三郎の足元にかがみ込み、自分の手ぬぐいで泥だらけの脚を拭ってやった。それから自分の足や裾も拭く。
 枕屏風の陰にたたんで積んであった布団を広げる。この部屋で暖が採れそうなものは、それだけだった。
 その間に吉三郎もびしょ濡れの夜着を脱いだ。
「……あ!」
 お七はあわてて、吉三郎に背を向けた。
 それでもちらっと見えてしまった吉三郎の身体には、惨たらしい傷痕がいくつも残されていた。
「もう、こっち見てもいいぜ」
 その言葉に振り返ると、吉三郎は着古して擦り切れた木綿の着物を着ていた。子供のころから着ているのか、袖も丈もかなり短くなっている。
「吉さん、それ……」
「俺がこの寺に拾われた時、着てたものだ。本当に俺のものと言えるのは、これ一枚きりさ」
 二人並んで、煎餅布団の上に座る。
 お七はそっと、吉三郎の肩を掛け布団で包んだ。
 同じ布団の端を持ち上げ、吉三郎もお七の背を包む。
 二人で一枚の布団にくるまり、頬と頬がくっつきそうなくらい近くに、寄り添う。
「吉さんは奇麗」
 夢を見るように、お七はつぶやいた。
「奇麗なもんか」
 苦々しく、吉三郎が言う。
「見ろよ、このつら。まのびしちまって、もう前髪も振り袖も可笑しくって似合いやしねえ」
「そんなことないよ。良く似合う。吉さんは奇麗。この世でいっとう奇麗だよ」
 間近で吉三郎を見つめ、お七は言った。
 たしかに吉三郎の肌は荒れ、目元には荒淫の陰りが濃い隈になって浮いている。あれだけ冷水を浴びてもまだ、どこかに饐えた臭いがかすかにこびりついているようだ。
 それでも。
 奇麗なのは、あなたの心。あなたの魂。
 傷ついて、悶え苦しんで、その苦しみから眼を逸らさない、あなたの生き方。
 ずるい言い訳をしない、そのまっすぐな眼差しが、いっとう奇麗なの。
 ねえ、これをちょっとあててみて――と言おうとして、お七はようやく、あの黒羽二重の大振り袖をどこかに置いてきてしまったことに、気がついた。
「……あら」
 きっと、あの渡り廊下だろう。吉三郎を追いかけるのに夢中で、放り出してきてしまったのだ。
 ……まあ、いいか。帰りにきちんと拾っていけば、何の問題もないだろう。
 お七は吉三郎の頬にそっと手を添えた。少しでも冷たい肌をあたためようと、彼の頬を両手で包み込む。
 覗き込む吉三郎の眼は、暗い湖沼のようだ。なんの希望も見いだせないその奥に、ほの昏い小さな炎が揺らめいている。
 不意に、吉三郎がお七の手を掴んだ。
 ぎゅっと力を込め、骨が砕けそうなくらい強く、握りしめてくる。
 吉三郎の手もひどく冷たい。けれど握られたその手から、どく、どく、と熱い彼の血が流れ込んでくるような気がした。
「痛いよ、吉さん。そんなに強く握っちゃ……」
 お吉は小さく笑った。顔をそむけ、つい、吉三郎の胸元から逃げようとしてしまう。
 が、吉三郎がいきなり、その身体を抱きしめる。
 お七は瞬時に身をこわばらせ、ぴたりと動きを止めた。
 心臓がどくん、とひとつ、大きく跳ね上がる。
 とく、とく、とく……と耳について離れない、早い鼓動。これは自分のものだろうか、それとも吉三郎のものだろうか。
「もっと……痛いことして、いいか」
 かすれた声が、ささやいた。
「吉さん」
 お七は黙って、吉三郎を見上げた。
 いや、それはむしろ、お七の視線を吉三郎の瞳が吸い寄せているようだった。
 吉三郎の瞳が、唇が、なにもかもが、お七のすべてを強く吸い寄せている。
「……いいよ」
 お七はうなずいた。
「いいよ。吉さんなら、なにしても」
 もう一度、吉三郎の頬に手を触れてみる。
 少しざらりとして、乾いた肌。頬もあごも硬くて、お七自身の肌とはまるで違う。ぴんと強く張りつめて、お七の指先を跳ね返すようだ。
 そしてお七は、吉三郎の肌にくちづけた。
 舐めてみると、少ししょっぱい。
 清(すが)しい匂いがする。吉三郎の匂いだ。本当の、彼の匂いだ。
 目元、鼻すじ、あご、まるで母親の肌にふれたがる赤ん坊みたいに、お七は繰り返し吉三郎に接吻した。
「お七――!」
 吉三郎が強く強く、お七を抱きしめる。
 お七も吉三郎の頭を両腕でしっかりと抱え込んだ。
「いいよ、吉さん。吉さんのしたいこと、みんな、していいよ」
 うつむく吉三郎の頬を支えて、顔を近づける。互いの唇がふれあいそうなほど近くで、お七はささやいた。
「つらいんだね、吉さん。ここにこうして生きてるの、そんなにつらいんだね」
「お七」
「そんなにつらくて仕方ないなら、ねえ吉さん。大丈夫だよ。あたしが一緒に死んであげる」
「――お七!」
 吉三郎がはっと息を呑んだ。
 困惑の表情で、お七を見つめる。かすかに、首を横に振ったようにも見えた。
 ……そう、あたしを見て。あなたのその眼で、あたしを見て。
 そうすればあたしも、信じられる。まだ、ここに居てもいいって――生き残ったことが間違いじゃなかったんだって、信じていられる気がするから。
「何があっても、吉さんを独りぽっちになんか、しやしない。あたしが一緒に死んであげるからね」
 そう……あたしは、あなたを独りぽっちにしないために、ここへ来たんだ。
 紅蓮の地獄の中を、あたしはあなたに逢うために、ここへ導かれてきたんだね。
 あなたを孤独にしないこと。それは、あたしももう、独りきりじゃないということ。
 二人でずうっと、一緒にいるということ。
 一緒なら、もうなにも怖くないね。死ぬことも、生きることも、どんなにつらくたって、もう怖くはないね。
 今まで、お七に対してなにかを約束してくれた男は、大勢いた。その大半は果たされなかったが。
 けれどお七のほうから、誰かに約束することなど、一度もなかったのだ。
 ……なんでだろう。なんであたし、吉さんにだけは、こんなことが言えるんだろう。
 抱きしめられて、お七はうっとりと眼を閉じる。
 吉さんだけが、あたしを騙さずにいてくれたから?
 いい恰好しようとせずに、汚いところも弱いところも全部、ありのままをあたしに見せてくれたから?
 そんな吉さんのまっすぐな心に、あたしも応えなくちゃって、そう思ってるのかしら?
 吉三郎の唇が降りてくる。お七の青白いまぶた、鼻すじ、口元を、唇で慌ただしくまさぐっていく。さっき、お七自身が吉三郎にそうしたのと同じように。
 ……ああ、もう、どうでもいい。
 お七は身体中の力を抜いて、自分から夜具の上に倒れ込んだ。
 おおいかぶさってくる吉三郎の若く熱い身体を、しっかりと抱きしめる。
 もう、なにがどうだってかまわない。何も考えたくない。考えられない。
 わかるのはただ、この熱さ。吉さんがここにいる、あたしといっしょにいる。ただその事実だけ。
「お七、お七……お七――!」
 吉三郎がしゃにむにしがみついてくる。小袖の衿もとを強く引き開けて、あらわになる乳房に顔をすり寄せる。それは男が女を抱くというより、仔犬が母犬の乳を求めるみたいに頑是無く、愚かしいほどひたむきなしぐさだった。
 お七も、身体中で吉三郎にすがりついた。自分から脚を開き、吉三郎を迎え入れる。不器用で力任せの吉三郎の抱擁が、いとおしくてならなかった。
 どく、どく、どく、と、身体中で激しくこだまする鼓動。肌と肌が重なり、体温がひとつに溶け合って、次第に互いの境目もわからなくなっていく。
 涙がこぼれる。
 ――とっくに涙なんて、枯れてしまったと思っていたのに。
「つらいか、お七……」
 かすれた声で、吉三郎がささやいた。まるで彼自身がひどく苦しんでいるみたいに。
「ううん……。違うの。平気――」
 ……うれしい。あたし、まだ泣くことができたんだ。
 幸せだった。生まれて初めて、生きていて幸せだと、心の底から思えた。
「死んでもいい……。このまま、死んでもいい、吉さん――!」
 生きる幸福を知ったから、生まれてきて良かったと初めて思えたから、もう、今すぐ死んでもかまわない。――いいや、いっそ死んでしまいたい。このまま生きていたって、今以上に幸せな瞬間なんて、きっとあり得ないから。
 生涯にもっとも幸せな瞬間のまま、時を止めてしまいたかった。
「吉さん、吉さん……っ」
 そしてお七のすべてが砕け散り、押し流されていった。





 夜が明ける前に、お七は吉三郎の部屋を出た。
 見苦しくない程度に着物を直し、ほつれる髪を抑えながらお七が立ち上がると、吉三郎はとっさにその袖を掴んで引き留めようとした。
 まだ寝乱れた姿のままの吉三郎は、何も言わず、すがりつくようにお七を見上げる。それはまるで親とはぐれた幼い子供のようで、お七の胸を鋭い痛みが走った。
「そんな顔しないでよ。また明日、逢えるんだもの」
 吉三郎は言葉につまり、うつむいた。お七の言葉にうなずきもしない。
「だってあたし達、おなじお寺の境内にいるのよ。逢えるに決まってるじゃない」
 ――そんな言葉が口先だけだと、お七自身にもわかっている。
 こうして逢瀬を重ねれば、危険になるのは吉三郎のほうだ。
 吉三郎のことを想えば、もうこれっきりにするべきなのだ。
 わかっている。わかっているけれど――。
 お七はそっと、吉三郎を抱きしめた。
「大丈夫。いつか逢えるよ、きっと……」
 そんな約束ができないことは、お七にだって充分わかっている。それでも、いつかまた逢えたらいいと、儚い望みを込めて言ってみただけなのだ。
 今までの男たちならきっと、二つ返事でいい加減な約束をしただろう。あるいはそれは、淋しいお七の気持ちを思いやっての慰めだったかもしれない。
 けれど吉三郎は、そんなたわいもない嘘でさえ、けして言わない。
 うつむいた吉三郎の表情は、今にも泣き出しそうに見えた。
 ……やっぱり、さっき死んでしまいたかった。お七の胸を言いようのない虚しさがよぎった。
 こうなることはわかっていた。吉三郎に悲しい思いをさせてしまうと。
 だから、さっき二人で死んでしまえば良かったのに。
「ね、泣かないで、吉さん。逢えるから。きっと逢えるから……」
「うん――」
 お七の腕の中で、吉三郎は不器用に、子供みたいにうなずく。それは確約ではなく、お七の言葉を信じたいという、吉三郎の想いの現れだった。
 また逢えると信じたい、望みを失いたくない。それが、二人にできる精一杯の約束だった。
 お七は唇を噛みしめながら、そうっと襖を開けた。
 隣の部屋で眠っている小坊主を起こさないよう、細心の注意を払って、その枕元を通り抜ける。
 寺に暮らす者の朝は早い。空に星がまたたいているうちから起き出して、一日の勤めを始める。
 誰にも見つからないうちに、庫裏を出て本堂へ戻らなくては。万が一見つかってしまったら、お七自身ではなく吉三郎が酷い目に遭わされるだろう。
 あとも振り返らず、お七は小走りに庫裏を抜け出した。
 渡り廊下を抜けようとした時、
「あ……、ない!」
 ここに落としたはずの、あの大振り袖が見あたらなかった。
「どうしよう――」
 迷っていても仕方がない。庫裏からは、当番の僧がもう起き出したのか、かすかに人の気配もつたわってくる。今はこのまま、本堂へ戻るしかない。
 お七は足音を忍ばせて、本堂へ戻った。
 こっちで寝泊まりする町人たちは、さすがに僧侶たちとは違い、みな、まだぐっすりと眠っている。
 お七の母親も、お七が抜け出した時とまったく変わりなく、布団の中で丸くなっていた。
 お七はその隣の、自分の布団にもぐり込んだ。
 すぐに起床の時間になってしまうけれど、その前に少しでも眠っておこう。そうすれば夢の中で、もう一度吉三郎に逢えるかもしれない。
 この肌にも髪にも、吉三郎の匂いが、指の感触が残っている。今は少しでも長く、彼の記憶を反芻していたかった。
 そう思いながら、眼を閉じた瞬間。
「お七」
 眠っているとばかり思っていた母親が、いきなり、お七の名を呼んだ。
「お、おっ母さん!?」
 思わず、お七は飛び起きそうになった。
 母親は黙ってお七のほうへ布地を押しやった。布団の中から、ぎょろりとした眼がお七をにらんでいる。
 母親が出してきたのは、あの黒羽二重の振り袖だった。
「こ、これ――」
 おっ母さんが拾っていたの。いったいどうして――疑問の言葉が、みんな喉の奥に絡みついて、ひとつも声にならない。
「いい加減におしよ、お七」
 低く抑えた声で、母親は言った。
「もうすぐ家の仮普請も終わる。あたしらはじきに、この寺を出るんだよ。そんな時に、これ以上よけいな騒ぎは起こさないでおくれ」
「おっ母さん……」
「助平爺さんの妾になる前に、少しくらい遊んでやれって思うお前の気持ちもわからないじゃないけどね」
 お七は返事ができなかった。
 布団の上に起き上がり、座り直して唇を咬む。膝の上で握りしめた自分のこぶしを、じっと見つめる。
 母親はそんなお七の様子を横目で眺め、ぼそぼそと小言を言い続けた。
「それにしたって、なにも、こんな寺の生臭坊主なんか相手にするこたァないだろ」
「……え」
 母親の一言に、お七は思わず小さく声をあげた。
 どうやら、逢っていたのが吉三郎だということだけは、ばれていないらしい。お七はこっそり胸をなで下ろした。
「まあ、向こうだって寺の戒律を破ってるんだ、うちを強請ったりはしないだろうけどねえ。まったく、以前
(まえ)にお前の回りをうろついていた碌でなしどもを追っ払うのにだって、いったい幾らかかったことか。あんなのはもうごめんだよ、お七」
「ええ、すいません」
 母親の小言をぼんやり聞き流し、お七はいい加減な返事を繰り返した。
 家にいる頃から何度となく聞かされてきた説教だ。
「万が一、こんなことがご用人さまのお耳にでも入ったら、奉公の話だって取りやめになっちまうかもしれないんだよ。お前だってせっかくの玉の輿、ふいにしたくはないだろ?」
「ええ……」
 ……やっぱり、そうなんじゃない。玉の輿をふいにしたくないのは、おっ母さんやお父つぁんのほうじゃないの。
「こういうことはね、あっという間にうわさになるものなんだよ。うちの幸せを妬んで、足を引っ張ろうとするやつは、必ずいる。そういう連中がこっそり加賀藩の中屋敷に投げ文でもしたら――」
「ねえおっ母さん。少し声を小さくしないと、みんなを起こしちまうわよ」
 いい加減うんざりして、お七はぽそっとつぶやいた。
 母親に背を向けて、布団にもぐり込む。
「こんな話、誰かに盗み聞きされたら、それこそ大変なんじゃないの?」
「え……っ」
「お説教なら、家に帰ってから聞きます。だから、ここでは止したほうがいいわよ、おっ母さん」
 母親はまだ何か言い足りないようだった。不満そうにため息をつき、それでも黙ってお七に背を向けた。
 そして本堂は、浅い眠りと沈黙に満たされた。
 その日から、母親は前にもましてお七にべったりと貼り付き、片時もそばを離れないようになった。
 人目のあるところでは、うかつに説教もできない。それよりは常に娘を監視下に置いたほうが安全だと気がついたのだろう。
 お七が一人でどこかへ行こうとすることは、絶対に許さない。炊き出しの手伝いにも、厠へも、必ず母親がついてくる。黒羽二重の大振り袖も、母親が納所坊主に手渡した。お七には口もきかせない、という態度だ。
 ちらっとかいま見た僧侶たちの様子には、目立った変化はないようだ。お七と吉三郎のことには、まだ誰も気づいていないのだろう。
 もしも吉三郎が僧侶たちに酷い目に遭わされていたら、鼻薬を嗅がせておいた飯炊き婆さんが教えてくれるだろう。だが婆さんも沈黙を守り、時々思わせぶりににやにやと笑って見せるだけだった。
 ……大丈夫。きっとまだ、吉さんは大丈夫。お七は胸のうちで、そう自分に言い聞かせるしかなかった。
 ほかには、吉三郎の名前を聞くことすらできず、のろのろと時間だけが過ぎていった。
 やがて――七草、鏡開きも終わり、本堂にこもっていた焼け跡のいぶ臭さが、ようやく消えかけた頃。
 八百屋市左ェ門の店舗と自宅の仮普請が、終わった。





「お待たせいたしました、お内儀さん、お嬢さん。ようやくお迎えにあがれました」
 知らせを持ってきたのは店の手代で、主人である父親は商売を再開する準備のため、店を離れられないということだった。
「早く支度おし、お七。やっと家に帰れるんだよ」
 一ヶ月にも満たない避難生活だったが、そのあいだに、それでもなんやかやと身の回りの品々が増えてしまった。それらをまとめながら、母親はお七を急き立てた。店からは明日、荷物持ちも兼ねて古参の番頭と丁稚の小僧、それに内儀づきの女中が迎えに来るが、その前に、店へ戻る手代に持たせられるだけの荷物を持たせてしまおうというつもりらしい。
「寒い本堂での雑魚寝も、今夜でおしまいだよ。明日の晩からは、新しい我が家でぐっすり眠れるんだ」
「ええ、おっ母さん」
 できるだけ平静をよそおって、お七は返事をした。
 ――家になんか、帰りたくない。
 家に戻ってしまったら、もう二度と吉三郎に逢えなくなる。
 そう思うだけで、身体中の血がざあっと音を立てて流れ出してしまい、今にも失神してしまいそうだった。
 ……帰りたくない。吉さんのそばにいたい。
 けれど、そんな思いを悟られてしまったら、母親がまたねちねちと小言を言ってくるに決まっている。
 お七がまだ男と逢っているんじゃないかと疑って、どうにかして相手の男の名を聞きだそうとするかもしれない。母親にしつこく問いつめられて、それでも吉三郎のことをおくびにも出さずにいられるか、お七には自信がなかった。
 今は、少しでも疑いを持たれないようにしなければ。母親と同じく、家へ戻れるのが嬉しくてたまらない、という顔をするのだ。お七は懸命に、自分にそう言い聞かせた。
 さいわい、母親もかなり浮かれているらしく、お七の少し青ざめた表情にはまったく気づかなかった。





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