「なんでしょうか」
 足を止め、顔をあげると、納所坊主が細い眼を小狡そうに光らせて、吉三郎を見上げていた。
「ずいぶんと気張って、めかし込んでいるじゃないか。どういう風の吹き回しだ?」
 納所坊主は吉三郎の全身を舐めるように眺めた。特に、そのうなじや後れ毛一本ないように結い上げた若衆髷、つややかに揺れる前髪のあたりを、じろじろと何かをさぐるように見つめている。
 執拗な視線に、悪寒が走った。
「……長老様のお見送りですから」
 ぼそりと、吉三郎は答えた。
 よけいなことは言わない。いっそ納所坊主を睨み返してやりたいが、普段とは違うことをすれば、よけいに怪しまれる。
「円乗寺の小姓として恥ずかしくない恰好をせよと、いつもきつう言われておりますし」
「ふん。ものは言いようだな」
 納所坊主は鼻先で吉三郎の言葉をせせら笑った。
「だが残念だったな、吉三郎。お前がいくらめかし込んでも、あの娘は見向きもしなかったじゃないか」
「何のことでしょう」
 納所坊主は、まるで鶏小屋を狙う泥棒狐のような眼をして、吉三郎を見ている。吉三郎の表情の変化を、ひとつも見逃すまいとしているのだ。
「お前があの娘に眼をつけていたのは、とっくにお見通しだ。あわよくば八百屋の入り婿になって、この寺と縁を切ろうと、そういう魂胆だったんだろう。え? だが、そう上手い話があるものか。お前のような薄汚い色子が、まっとうな商家の婿になんぞなれるわけがないだろう!」
 その場に立ち尽くす吉三郎に、納所坊主がじりじりと近づいてくる。そして草履の爪先で、吉三郎の足を思いきり踏みにじった。
 爪先を力まかせにぐりぐりと踏みにじられても、吉三郎はうめき声ひとつあげなかった。この程度の痛みなら、もう責め苦のうちにも入らない。わずかに眉を寄せ、奥歯を噛みしめて、苦痛と屈辱に耐える。
 真っ白な足袋が泥まみれになった。
「あの娘はな、加賀藩邸のご用人さまの側女(そばめ)になるそうだ。この如月(にがつ)にも、吉日を選んで中屋敷にあがるそうだぞ」
 ――二月のうちに?
 驚愕の声も、吉三郎はかろうじて飲み込んだ。
 たしかにお七は自分で、加賀藩用人の妾にされると言っていた。けれどこんなに早くにだとは、思っていなかった。お七自身も、火事のせいで猶予ができたと喜んでいたのだ。
「間違いはないさ。父親の市左ェ門がそう言っていたからな。お七を中屋敷にあげる準備で費用がかさんで困ると、寄進を渋る言い訳をしていったんだ」
 寺の経費を取り仕切る納所坊主だから、そういう内輪の話も知っているらしい。
「なんだ、その眼は」
 納所坊主は下からねめつけるように、吉三郎の表情をのぞき込んだ。
「なにか文句でもあるのか。いいんだぞ? ここに居たくないのなら、いつでも出ていけ。誰も止めやせん」
 にやにやと卑しげな笑みを浮かべながら、納所坊主は嫌味を並べ続けた。この男は吉三郎を陵辱しないかわりに、こうして言葉で傷つけ、貶めるのが好きなのだ。
「出ていったところで、その後どうするつもりだ。陰間にでもなるか? お前にできることと言ったら、それしかないだろうしなあ。長老様もなにを好きこのんで、こんな野良犬をおそばに置いておくんだか。まったく、気が知れんよ」
 吉三郎は唇を噛みしめ、うつむいたまま、何も言わなかった。自分の回りをうろうろ歩いて、しきりに表情を覗き込もうとする納所坊主に、眼を向けようともしない。握り締めた両のこぶしだけが、小刻みにふるえていた。
「――ふん!」
 吉三郎が何も言い返さないせいか、納所坊主はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「まあ、いいだろう。どうせお前なぞ、すぐにお払い箱だ。今のうちに、陰間茶屋の伝手でも探しておくんだな。お前のような腐れ淫売を買い取ってくれるような、奇特な店があれば良いがな!」
 偉そうに肩をそびやかして、納所坊主は足早に庫裏の中へ入っていった。
 吉三郎はじっとその場に立ち尽くしていた。
 あの男の言うとおりだ。
 この身は汚れ、腐り果てている。
 けれど。
 ――俺の魂はまだ、死んではいない。
 ふつふつと、胸の奥底から湧き上がるものがある。それはあっという間に吉三郎の胸郭を、身体のうちすべてを満たし、ぐつぐつと大きな音をたてて激しく沸騰し始める。
 お七のところへ行こう。
 吉三郎ははっきりとそう思った。
 お七は、俺を待っている。
 以前は納所坊主の言うとおり、この寺から逃げても、どこへも行く場所がなかった。この地獄からさらに堕ちていく自分の姿しか、想像できなかった。
 けれど今は違う。
 自分は、円乗寺から逃げるのではない。お七に逢いに行くのだ。
 お七はきっと泣いているだろう。用人の妾にされるのを、あんなに嫌がっていたのだ。薄情な大人たちに囲まれて、独りぽっちで、どれほど不安がっているだろう。
 お七に逢いたい。逢わなければ。
 泥まみれにされた足袋に、視線を落とす。爪が割れるかと思うほど乱暴に踏みにじられた爪先は、まだ痺れるように痛い。
 だが、この程度の痛みが何だと言うのだ。
 以前は、この暴力に耐えきれなかった。お前は屑だ、人間ではないとののしられると、それに反論できる言葉が見つけられなかった。周囲から嘲られるまま、やはり自分はそういう存在――汚く、他人の欲望を体内に吐き出されるだけの芥溜めのような存在でしかないのかと、吉三郎自身、信じてしまいそうになっていたのだ。
 けれど、今は違う。
 ――吉さんは、奇麗。
 お七のささやきが、繰り返し耳の奥でこだまする。あの仔鹿みたいな瞳が、今もまっすぐに自分を見つめているのを、感じる。
 信じていられる。こんな生き方しかできなかった自分でも、きっと何かが成せる、と。
 お七に逢いたい。泣いているお七のそばにいて、もう泣くなと抱きしめてやりたい。
 今、自分にできることはそれだけだから。
 お七が気づかせてくれた。この身体にも、生まれながらに宿る力がある。この手でも、何かを成し遂げ、つかみ取れるはずだと。
 最後に庫裏へ戻った吉三郎は、その日一日の雑用を淡々とこなした。
 夕暮れ時になって、住職がようやく寺へ戻ってきた。酒の臭いをぷんぷんさせている住職を早々と床につかせ、吉三郎はそのまま宿直(とのい)をすると言って、一晩、住職の部屋ですごした。泥酔していびきをかいている爺さんの隣で過ごすのは、伽を無理強いされることもなく、とても楽だった。もともと住職は、もうそっちのほうはまったく役立たずだったのだが。
 翌日も、その次の日も、吉三郎は陰鬱に押し黙り、誰とも眼を合わせないようにしていた。
 吉三郎がそんなふうに投げやりな態度を取るのは、珍しくなかった。坊主どもの寝床に引きずり込まれても、ただ丸太ん棒のように横たわり、天井だけを見上げている。何をされても、何を言われても、眉ひとつ動かさない。
 吉三郎を犯す男たちは、苛立たしげに舌打ちをした。連中はみな、嫌がり、抵抗して泣きわめく吉三郎が見たいのだ。聞き分けのない子供を殴りつけ、力ずくでねじ伏せて意のままにするのが面白いのに、こんなふうに相手がごろりと横になったまま人形のように無反応なのでは、いたぶりがいがない。
 腐った魚のような眼をして、吉三郎は自分の殻に閉じこもった。怠惰な態度を見せていれば、坊主どもはその態度に怒るが、反面、よけいな疑いを持たれずに済む。
 そうやって坊主どもを騙しながら、吉三郎はじっと時を待っていた。
 暗がりで眼を光らせる野のけものみたいに、息をひそめ、機会をうかがう。
 心に決めたことがあるから、どんな罵倒や暴力にも耐えられる。
 ――これも、お前が教えてくれたことだ、お七。
 胸の内でお七の名前を繰り返すたびに、身体中に熱い何かが駆けめぐる。自分自身の力強い息吹を、吉三郎は初めて感じ取った。
 もう、なにも怖くない。どんなことでもできる。自分を信じていられる。
 幸せになりたい。人らしくまっとうに生きていたい。そんな当たり前の願いすら、自分には叶えられないと思っていた。どんなに頑張ってももがいても、一度はまった泥沼から抜け出せない。もがけばもがくほど、ずぶずぶと沈み込んでいくだけだった。
 本当に幸せになれる人間は、そんな努力なんてまったくいらない、そもそも自分が幸せかどうかなんて考える必要もない身分に生まれついた者だけだと、思っていた。
 けれど、今は違う。
 たしかに自分は不幸せだ。この手には何もない。
 だからこそ、お七は吉三郎の光だった。
 この光を見いだすために、俺は生まれた。
 ほかに輝く美しいものなど、なにもない。だからこそ、たったひとつのこの幽けき光がたまらなくいとおしい。
 あらゆるものを生まれながらに持っている人間たちには、こんな光はあまりにもちっぽけで眼に留まることすらないだろう。
 だが、吉三郎にはお七の輝きだけがすべてだった。たったひとつしかない本当の宝を、ほかには何も持てないがゆえに、見つけることができたのだ。
 お七。おまえのためだけに、俺は生まれてきたんだ。
 自分が生まれてきた意味を、汚泥にまみれてもがきながら、それでも今日まで生き続けてきた意味を、ようやく知ることができた。
 だからお七。同じことを、お前にも教えてやりたい。
 俺達は、互いに出逢うために生まれてきたんだと。
 そして、吉三郎が待ち望んでいた時が来た。
 数日後。江戸は、季節が逆戻りしたような、冬の嵐になった。
 昼過ぎから降り始めたみぞれ混じりの雨は、宵の口になって横殴りの吹雪になった。びょうびょうと獣が吠えるような音で風が鳴り、家屋全体を激しく揺さぶる。屋根瓦まで飛んでしまいそうだ。
「ううッ、寒い!」
 修行で厳しい生活に慣れているはずの坊主たちでさえ、この寒の戻りは身体に堪えるらしい。晩の勤めもそこそこに、彼らは慌てて庫裏の雨戸を閉め、屋内に閉じこもった。今夜はみな、般若湯でもすすって早々に寝てしまうつもりだろう。
 ――今夜しか、ない。
 三畳の狭い部屋で、吉三郎は息を殺し、夜が更けるのを待った。
 昼間の仕事で身体は疲れているが、少しも眠くならない。耳を澄ませば、建物を揺する風雨の音の中、隣の部屋で眠る小坊主の寝言まで聞こえる。
 やがて寺全体が深い眠りについた時。
 吉三郎は暗闇の中で眼を開けた。
 布団の下から、粗末な着物を引っ張り出す。数日前に、まだ本堂に残る避難民たちの洗濯物の中から数枚の衣類をくすねておいたのだ。
 継ぎの当たったぼろぼろの着物を着込み、目立つ前髪は汚い手ぬぐいで覆い隠す。まるで田舎の物売りのような姿になった。
 吉三郎は足音を忍ばせて三畳間を出た。
 隣室を通り抜けても、小坊主は眼を醒ます気配もなかった。
 全身の神経を張りつめさせながら廊下を抜け、台所の土間へ降りる。
 台所にも火の気はない。おざなりな仕事の飯炊き婆さんも、火の始末だけはしっかりしている。火事を出した者は、たとえそれが失火であっても、軽くても江戸ところ払い、最悪の場合は火あぶりだ。
 土間の隅に隠れるようにうずくまって、吉三郎は履き古した草鞋の紐を固く結ぼうとした。指がかじかんで、うまく結べない。
 だが、その時。
「誰だ。そこにいるのは!」
 突然、鋭い声がした。
 赤っぽい手燭の光が、板間の上から吉三郎へ向けられた。
 弱い光でも、暗がりに慣れた目には突き刺さるようだ。吉三郎は思わず片腕をあげ、目をかばった。
「なにやら音がすると思って、見回りに来て良かった。やっぱりこそ泥が出やがったな。おおかた、未だに本堂に居残っている貧乏人どもの一人だろう。三度の飯はきちんと食わせてやっているのに、それでも盗み食いをしやがるか」
 僧侶らしくない悪口と、いやに甲高い気に障る声。顔を見なくてもわかる。納所坊主だ。
 この男は以前から、本堂に残る避難民たちを早く追い出せと住職に進言していた。火事から一月以上も経っているのに、行く当ても仕事も見つからないような貧乏人、いつまでも面倒を見てやる必要はない、寺の米びつにも限りがあるのだから、と。
 ――だからって、こんな真夜中にまで台所の見回りか!? いつもはそんな殊勝な真似、したこともないくせに、なんで今夜に限って!
「助けてやった恩も忘れやがって、この野郎。さあ、こっちへ来い! 顔を見せろ、番所へ突き出してやる!」
 納所坊主は手燭を高くかざし、土間へ降りてきた。
 吉三郎は顔を隠したまま、逃げようとした。引き戸を閉じる心張り棒を外そうと、慌てて手をのばす。
 が、納所坊主のほうが一瞬早かった。
 吉三郎の肩をつかみ、強引に振り向かせる。
 手職の火が吉三郎の顔を照らし出した。
「あっ! お、お前……!」
 納所坊主が小さく息を呑んだ。
「お前、まさか――逃げるつもりかっ!」
 驚愕の目が、すぐに侮蔑の表情に変わる。
 納所坊主が大声を張り上げようと、大きく息を吸い込むさまがはっきりと見えた。
 吉三郎は咄嗟に手にした心張り棒を振り上げた。
 坊主の顔面を、真横から殴りつける。
 がつッ、と鈍い手応えがした。
「ぎゃっ!」
 短く、犬が吠えるみたいな悲鳴があがった。
 こめかみあたりをしたたかに殴られた納所坊主は、そのまま真横に転倒した。
 坊主の身体がどさっと土間に倒れ、放り出された手燭の火も消える。
 あたりはふたたび闇に閉ざされた。
「し……、死んだのか?」
 吉三郎はじりじりとあとずさった。その手から心張り棒が転げ落ち、がらんがらんと大きな音をたてる。
「うぅ――」
 棒がぶつかったのか、納所坊主が低く呻いた。死んではいなかったらしい。
 吉三郎は思わず、身体中の空気を全部吐き出すように大きくため息をついた。
 こいつが正気づく前に、逃げなければ。この機を逃しては、もう二度とお七のところへ行けなくなる。
 吉三郎は引き戸を開けた。
 雪を含んだ突風が、びょうッと吹き込んでくる。
 そして、身を切り裂くような寒さの中、吉三郎は円乗寺を抜け出した。
 とたんに雪つぶてが顔面に叩きつけられた。身体中が一瞬で凍りつく。
 山門を抜け、石段を一気に駆け下りる。
 一瞬だけ振り返った円乗寺は、しんと静まり返っている。誰も吉三郎を追ってくる気配はない。
 もう二度と、ここへは戻らない。死んでも、戻ってくるものか。吉三郎は胸の中で、繰り返し自分に言い聞かせた。
 ――急げ。
 納所坊主が正気を取り戻したら、騒ぎになる。坊主どもが吉三郎を追ってくるだろう。その前に、少しでも遠くへ行かなければ。広い江戸の街並みに逃げ込んでしまえば、寺の連中も吉三郎を見つけるのは困難になるはずだ。
 吉三郎は奥歯を噛みしめ、前方をにらみすえた。
 灯りはない。真っ暗な中に、白い雪だけが無数の虫のように飛び交っている。
 ――振り返るな。前だけ見ていろ。
 そして吉三郎は走り出した。
 全身があっという間に雪まみれになる。防水の革足袋ではなく、普通の足袋しか履いていない足は、冷たさも痛みも通り越して、痺れたみたいに感覚がない。
 江戸の街は、暮れの大火から早くも復興しようとしていた。一面焼け野原だった街にはぽつぽつと新築の建物が目立つようになっている。道端にはまだ黒こげの廃材が積まれているところもあった。
 新しく、まるで生まれて初めて眼にするような江戸の街。
 その中を、吉三郎は全力で走った。
 すれ違う者も、誰もいない。こんな荒れた天気の夜に、遊び歩く者などいるはずもない。
 急がなければ。六ツの鐘が鳴れば、町の木戸が閉まってしまう。
 木戸は、町の辻々に設けられた小さな関所のようなものだ。それぞれに門を管理する木戸番が居り、六ツ(夜十時)を過ぎると、防犯のため、門にかんぬきをかけて閉ざしてしまう。基本的に、夜が明けるまで通り抜けることは許されない。それぞれの町内は小さな砦のように閉ざされて、誰も出入りできなくなってしまうのである。
 夜、木戸の門が開かれるのは、医者と産婆が呼ばれた時、そして火事が起きた時のみだ。
 風に乗って切れ切れに、時の鐘が聞こえてきた。まず捨て鐘が三つ、それから時を告げる四つの鐘。
 ――急げ!
 街に灯りはほとんどない。わずかに酔客相手の飲み屋や、そして木戸番小屋の障子越しに、灯火がこぼれているだけだ。
 それらの灯りの前を離れれば、あたりは真の闇だ。自分の爪先も見えない。
 顔を叩く雪は、まるで刃物のようだ。
 耳や足の指からは、血が噴き出しているのじゃないかと思う。息を吸い込むたびに喉が、胸が痛い。心臓が裂けそうだ。
 それでも、吉三郎の足は停まらない。
 停まれない。
 この闇の向こうに、お七。
 お前がいる。
 お前が、いるんだ。





 がたがたと雨戸を揺する風の音に、お七ははっと顔を上げた。
「吉さん?」
 自分を呼ぶ吉三郎の声が聞こえたような気がしたのだ。
 だがすぐに、莫迦みたい、と自分を叱る。
 吉さんがここにいるわけないのに。
 そんなことを望んではいけない。
 もしも吉三郎が自分のもとへ来てくれたとしたら、それは彼が死を覚悟してのことだ。円乗寺に隷属している吉三郎が寺から逃亡したら、殺されても文句は言えない。
 それが身分の違いというものだ。
 ――かわいそうに。かわいそうに、吉さん。
 新しい木の香りが満ちる新居で、お七は宵のうちから、これも真新しい布団にくるまっていた。
 円乗寺から建て直されたばかりの家に戻ってくると、お七はずっとこんなふうに寝たり熾きたりを繰り返していた。顔色も青白く、どろんと死んだような眼をして、まるっきり半病人だ。
 一日中ぼんやりと宙を見上げてばかりの娘に、けれど両親はなにも言わなかった。
 店と家屋を建て直すため、市左ェ門はかなり無理をした。あちこちに借金を重ね、取引から手を引こうとしていた上客たちを必死に引き留めた。
 店をもとどおり軌道に乗せるためにも、加賀藩御用達の看板は絶対に手放すわけにはいかない。できることなら下屋敷、中屋敷だけでなく、もっとも重要な上屋敷への出入りもできるようになりたい。
 そのためには、中屋敷用人の爺さんをさらにがっちりと抱え込み、味方にしておく必要がある。
 お七の奉公を予定より早めたのも、そのためだ。
 二月の吉日を選んで用人の屋敷へあがるようにと父から命じられた時、お七は茫然として返事もできなかった。
「店の内装もまだ揃っていない今なら、お前が着の身着のままで屋敷へ行っても、ご用人様も大目に見てくださるに違いない。着物でも帯でも、必要なものはみなご用人様にねだれ。だがこれが三月の掛け取りが済んだあとなら、こっちで一財産用意しろと言われてしまう」
「奉公を早める理由は、なんと言うんですよ? まさか、うちにこの娘を寝かせる部屋がないとでも?」
「娘がご用人様に恋いこがれてしかたがないとでも言っておくさ」
「そんな、白々しい。女郎の恋文じゃあるまいし……」
 あまりにも見え透いた嘘に、母親もつい苦笑いした。





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