「だからね、叶
(かのう)さん。わたくし、何だか怖くて……。それで、どうしてもあなたにお願いが――ちょっと、叶さん? ねえ、ちゃんと聞いてるの?」
 聡子
(さとこ)は、手にしたティーカップを受け皿へ乱暴に戻した。かちゃん!と、陶器の悲鳴みたいな音が響く。
「聞いてます。聞いてますって、聡子さん」
 いささかうんざりしたように、叶は言った。
「だけど、僕には信じられないなあ。あの敷島
(しきしま)子爵が、結婚直前に浮気だなんて。僕も社の取材で何度か貴族院の近くをうろついたことがあるけど、小耳に挟んだ醜聞(スキャンダル)の中には、敷島の『し』の字も出てきやしませんでしたよ」
 お茶請けに出されたビスケットに手をのばしながら、叶は苦笑する。
 そろそろ湯島から梅の花の便りが聞こえてきそうな、早春。
 明治から大正の御代にあらたまり、世は一層はなやかになった。
 女性の断髪に洋装、ハイヒール。カフェーに市電。活動写真。けれどその陰で、帝都東京には民権運動だの自由主義だの、だいぶきな臭い言葉が飛び交うようになっていた。
 が、それも銀座の路地に入ってしまえば、そんなものも聞こえてこない。
 板塀のそばで、のんびりと猫がひなたぼっこを楽しむ昼下がりである。
「もう。わたくしがこんなに悩んでるのに、叶さんたら、ちっとも真面目に聞いてくれやしないんだから!」
 ふくれっつらの聡子は、軒下でツバメのヒナが欲しいと駄々を捏ねた子供の頃と、何も変わっていない。女学生の葡萄茶袴
(えびちゃばかま)は卒業したが、ふんわりと結った髪には大きなばら色のリボンを揺らし、丸いほほの輪郭にもまだあどけなさが残っている。少し茶色味がかった大きな瞳が可愛らしい。
 聡子の眼にも叶は、昔、雪だるまや竹とんぼを作って遊んでくれた、ひょろりと背ばかり高い少年の姿そのままに映っているのだろう。
 実際今も、背丈だけは平均より飛び抜けて高くなったが、それに見合う厚みも押し出しもまったく備わっていない。
 長髪をうなじでくくり、年中色あせた絣にひざの抜けた袴、下駄っ履きという、世を席巻する大正モダンに背を向けた身なりのせいか、それとも近眼を補うための丸い眼鏡のせいもあるのか、空に浮かぶ雲みたいにどこか飄々として、すっとぼけた印象の青年なのだ。
 初対面の人間は大概、叶のことを「あら、どこかで見たような……」と、思う。屈託のない、人なつっこそうな笑顔がそう思わせるのかもしれない。だが数日を経て再会してみれば、細かい顔の印象は妙にぼやけ、人当たりの良さだけが記憶に残り「多分この人だったと思うんだけど……どうもはっきりと断言はできないわ」となってしまうのだ。
 その奇妙な印象の薄さは、叶自身が仕事のために自ら身につけたものだ。だが妹のみちるなどは、
「兄さん、どこへ行っても昼行灯だからよ」
 と、酷評する。
 自分では社会派旬刊誌「東都民報」の辣腕記者、御子柴叶
(みこしばかのう)なのだと自負しているが、家族や身近な人は誰も信じてくれない。せいぜいお茶汲みか荷物持ちに毛の生えた程度だろうと笑うばかりだ。
 実を言えば「東都民報」自体、そんな高尚なものではない。
 下手に「社会の巨悪を糾弾」なんて声高に叫ぼうものなら、官憲に睨まれ、すぐに発禁をくらってしまうだろう。記事を書いた者は手が後ろに回りかねない。
 「東都民報」はそんな危険な記事には手を出さず、もっと大衆の好みに迎合した三文記事――有り体に言えば、有名人だの社会の貴顕だのの醜聞をおもしろ可笑しく取り上げる、ゴシップ専門誌なのだ。
 そのゴシップを掻き集めるために、どんな集団にもいつの間にかするっと潜り込み、そして誰にも気づかれないまままたするっと抜け出してくる、叶の特異な存在感は、実に役立つのだった。
 お嬢様育ちの聡子には、さすがに雑誌の実情までは教えていない。聡子も、レース編みだの恋愛詩だのを特集する婦人雑誌にしか興味を持っていない。
 同じくみちるにも母にも告げていないのだが、こちらはすでに叶が何を書いているのか薄々知っているようだ。知っていて文句も言わないのは、職業に貴賎はないと悟っているのか、それともこれが叶の性格と諦めているのか。
「悩むことなんかないでしょう。敷島子爵は二六才の若年ながら貴族院の互選議員に選ばれ、二年余りの洋行経験もある。その上国際貿易商、実業家としても名高い。お目にかかったことはないが、すらっと背が高く、洋装姿も凛々しい美丈夫という話だし、まさに言うことなしの婿殿じゃありませんか」
「叶さんの取材なんて、あてにならないわ」
 赤ん坊のころからずっと身近にいた乳兄妹の気安さで、聡子は深窓の令嬢には相応しくない、つっけんどんな口をきく。
 もっとも聡子の生まれた西野
(にしの)家が男爵位を授かったのは明治のなかば、日清戦争での戦功を評価されてのことだ。いわゆる新華族である。三代もさかのぼれば、そこらの市井の民草と何ら変わりがない家柄だ。
 そのせいで聡子は、女子学習院に在学している間、源平藤橘だの関ヶ原以来だのの家柄を誇る級友たちに、ねちねちといじめられ通しだったようだが。
 母親は聡子を産んですぐに他界し、帝国軍人である父も娘の成長にほとんど興味を示さなかった。兄は十歳
(とお)も年令が離れ、早くから父の跡を継いで軍人になるべく、厳格に教育されてきた。甘ったれの妹などとはろくに口もきいてくれない。
 聡子が甘えられるのは、もっとも身近にいてくれる乳母
(ばあや)と、その子供である乳兄妹の叶たちだけだった。
 正確に言えば、聡子と乳を分け合ったのは、叶の妹のみちるだ。
 叶たちの父は千葉で小学校の教員をしていた。が、ある冬、風邪をこじらせた肺炎であっけなくあの世へ行ってしまった。
 父親に死に別れた時、叶は四才、妹のみちるは産まれたばかりの赤ん坊だった。
 二人の幼子を抱えた母は伝手を頼って上京し、やはり産みの母を亡くしたばかりの聡子の乳母として、遠縁の西野家に雇われた。
 子供と一緒に住み込むことを許してもらったため、自然、母子をあげて聡子の面倒を見ることになった。
 叶にとって聡子は、主家のお姫様というより、もう一人の妹のような存在だった。
 実の妹であるみちるは手がかからず、むしろ姉のような態度で聡子の面倒を見ていた。
 聡子も素直なお嬢さん育ちで、さほど叶を困らせるようなこともなかった。
 同じように奉公人の家族として権勢の家に住み込んでいた少年たちに比べれば、自分はかなり楽な日々を送ることができたのじゃないかと思う。
 進学を希望した叶を金銭的に援助してくれたのは西野家だったし、聡子の兄の稽古相手を勤めるためにと剣道まで習わせてもらった。もっともこれは、下手に勝つと大事なお坊ちゃまのご機嫌を損じかねないので、いかに手抜きに見せずに負けてやるかという八百長の技術ばかり身に付いてしまったような気もするのだが。
 聡子は、父の跡を継いで西野男爵となった実兄よりも、叶のほうがいろいろと話しやすいらしい。叶が大学を卒業し、何とか一人前の雑誌記者となった今でも、同じだった。
 友達にも家族にも打ち明けられない悩みを、叶たちにはためらいなく話せる。一足先にみちるが銀座の履き物商の後添いとして嫁いでからも、それは変わらない。
 今日も、そうだ。
 たまの休日、四畳半の下宿でごろごろしていた叶は、いきなり妹の嫁ぎ先に呼び出された。そこで待っていたのは臨月間近い妹と、聡子だったのだ。
「だけど聡子さん。それは考えすぎじゃないかなあ」
 他人の眼がある時にはきちんと主従をわきまえ、敬語を使うが、聡子と叶、みちる、乳兄妹三人きりになると、叶もぞんざいな口をきく。かしこまった言葉づかいは聡子が嫌がるのだ。
「なによ兄さん。もう少し親身になって聡ちゃんの話を聞いてあげたっていいじゃないの」
「聞いてるよ。ちゃんと聞いてるじゃないか」
「聡ちゃんには、もう兄さんしか相談できる人がいないのよ。だからあたしだって、こうしてわざわざ二人で話し合える場を作ってあげてるんじゃない」
 聡子は去年の春、女子学習院高等部を卒業し、あとは嫁入りを待つばかりだ。
 こうなると、いくら兄妹同然とはいえ、若い男と二人きりで親密に語り合うことなど許されない。
 そこで聡子は、今は娘の嫁ぎ先に身を寄せている乳母に会いに行くという形をとり、そこへ叶を呼びつけたのだ。
「母さんは?」
「はりきっちゃってるわよ。なんせ手のかかるやんちゃ盛りが三人もいるし。面倒を見る子供がいるのが嬉しくてしょうがないみたい。おまけにもうすぐ、もう一人増えるんだから」
 重たげな腹部をぽんと叩いて、みちるは笑ってみせた。
 みちるが嫁いだ相手は二十歳近くも年上で、おまけに死別した先妻の産んだ子が三人もいる。それでも、
「あたしもあの人が気に入ってるのよ。何より、五月人形の鍾馗さまみたいにごつくって、図太そうなところがね。父さんみたいにぽっくり逝っちゃいそうな男は嫌だわ。八〇でも百でも、回りがもう勘弁してくれって言うほどしぶとく生きてくれる男がいいの」
 と、本人も肝を据えて嫁いだ相手である。
 いつの間にか丸髷が似合うようになり、子供にも恵まれて、まずまず夫婦円満であるらしい。
 でなければみちるも、姉妹同然とはいえ、嫁入り直前の娘のらちもないたわごとになど、まともに付き合っていられないだろう。
 聡子がくよくよと思い悩んでいるのは、欧米で俗に「マリッジ・ブルゥ」と呼ばれている、新たな生活への漠然とした不安感のせいだ。叶は内心、そうたかをくくっていた。
 実際、叶たちの母は聡子の悩みを簡単に笑い飛ばしたらしい。
「子爵さまだって、石や鉄
(かね)の仏さまじゃないんですから。少しくらいお遊びになられてたって、しょうがありませんでしょう。そのくらい大目に見てさしあげなさいませ」
「違うのよ。違うったら、乳母
(ばあや)も、叶さんも!」
 子供のころそのままの舌っ足らずな口調で、聡子は訴えた。
「省吾さまがどこかに芸者を落籍
(ひか)せて囲っているとかっていうんなら、わたくしも乳母やの言うとおり、黙って知らんぷりしてるわよ。でもそんなんじゃないの。お兄さまに伺っても、省吾さまの回りには浮いた噂一つないって――。でも、でもそんなの、逆におかしいと思わない?」
 ふっくらしたほほを青ざめさせて、聡子は叶に詰め寄った。
「それだけ敷島子爵の身持ちがよろしいってことでしょう?」
「違うわ! あの方のそばには絶対、女の人がいるのよ! でなかったらわたくしのこと、あんな眼で見たりしないわ!」
 聡子は悔しそうに唇を咬んだ。優しげな目元にうっすらと涙がにじんでいる。
「わかるのよ。省吾さま……わたくしを、誰か別の女
(ひと)と比べてらっしゃるの。ときどき、こう……わたくしの後ろを透かし見るような眼をなさって――」
「聡子さん。子爵のお邸へ行かれたことはあるんですか?」
「いいえ。省吾さまはすでにご両親を亡くされてお一人住まい、そんなお宅に若い女が伺うのは失礼だし、特に挨拶をしなければならない親戚もいないからって……。でも省吾さまがわたくしのお家にお見えになったことは何度もあるし、美術展やよそさまの園遊会にお誘いいただいたことはあるわ。お目付役に、高円寺の伯母さまがご一緒してくださって」
「ああ、あの仲人好きのおババさま……」
 叶は、聡子の父方の伯母にあたる老女の姿を思い出した。礼儀作法に口やかましく、叶にとっては、いや、みちるや聡子にとっても苦手な人物だ。
「今回のご縁も、その伯母上さまが仲立ちくださったんでしょ?」
 みちるの言葉に、聡子は小さくうなずく。
「わたくし……伯母さまにも言ってみたのよ。省吾さま、わたくしといらっしゃる時もどことなく上の空じゃありませんかって」
「伯母さまは何と?」
「はしたないと叱られました。たとえ夫となる方でも、殿方のご様子をまじまじと見るなんて、良家の子女のすべきことではありません、と――」
「あのおババさまのおっしゃりそうなことだ」
 聡子はうつむき、両手をきゅっと握り締めた。
「でも……ほんとにそれでいいのかしら。夫が何を考えていても気にせずに、ただひたすら夫に仕えていれば、それで妻としての務めをはたしたことになるのかしら。夫がわたくしを見ているのかどうかさえ、確かめずに……。それじゃまるで、道端のお地蔵さまにお仕えしてるみたいじゃない!?」
 聡子の思いもわからないわけじゃない。実際、庶民の夫婦は互いに向き合い、支え合い、時には派手に喧嘩しつつも、長年連れ添っていくものだ。
 夫との間にそういう心の交流を望む聡子の思いを、少女じみた感傷と切り捨てるのは、可哀想だ。
 とうとう堪えきれず、聡子は小さくすすり泣いた。
「そうよ。省吾さまのご身分なら、囲い者の一人や二人いたって、誰も何にも言わないわ。隠しておく必要なんかないのよ。なのにどうして、誰にも見つからないようにしているの? もしかしてその女
(ひと)って、省吾さまにとってよほど大切な方なんじゃないかしら。だから、誰の目にも触れないよう、大切に大切に護ってらっしゃるのよ……!」
「いやあ、それは……。聡子さんの考えすぎじゃないかなあ」
 聡子は力なく首を横に振った。
「たしかに省吾さまは何にもおっしゃらないわ。でも、わたくしにご不満を感じてる。誰かと比べて、物足りなく思ってらっしゃるのよ。わたくしに何が足りないのかはっきりおっしゃってくだされば、まだ良いのに……!」
 思いつめた表情の聡子に、さすがに叶も「気のせいですよ」とは言えなかった。
「そういうのって、女にはわかるのよ、兄さん」
「お前までそんなこと言うのか、みちる」
「だってうちの旦那
(ひと)だって、たまにそういう眼をするもの。その時には何にも言わないし。もっともあたしの場合は、比べられてる相手はもうとっくに死んじゃってるんだけどね」
「ねえ叶さん。こんなこと、叶さんにしか頼めないわ。わたくし、嫌なの。一生誰かと比べられて、夫に落胆され続けるなんて! その女と比べて、わたくしに何が足りないのか知りたい。省吾さまとのことはお家同士の取り決めだけど、せめて夫に嫌われずにすむ妻でありたいのよ!」
「聡ちゃんはほんとに子爵さまのことを想ってるのよ。その気持ちを無駄にさせたくないわ。兄さんだって、聡ちゃんに幸せになってもらいたいでしょ!?」
 聡子とみちるの妹連合軍に迫られては、面倒見の良い兄貴はもうどうしようもない。叶はため息をつき、こう言うしかなかった。
「わかりました。敷島子爵の身辺を探り、その正体不明の隠し女を捜し出してくればいいんですね?」






 とは言ったものの。
「さて、どうしたものかなあ」
 大谷石で作られた高い塀を見上げながら、叶はつぶやいた。
 聡子たちに押し切られてから十日ほどのち、休日を潰す覚悟で叶は山の手の高級住宅街を訪れていた。
 銀座の繁華街から市電で結ばれ、交通の便が格段に良くなったこともあり、ここ数年でまた一段と格が上がった感のある地域だ。
 広い馬車道を挟んで、緑豊かな日本庭園に囲まれた邸宅や、欧州の貴族を気取った洋館などが静かに立ち並ぶ。行き交う人々も取り澄まして、まるで生活感がない。
 その一角に敷島子爵の邸はあると、聡子から教えられていた。
 その他、華族名鑑など雑誌社に置いてある資料で、敷島子爵家についてのだいたいの情報は手に入れることができた。これまでの経歴や家の歴史、現在の家族構成も。
 それによれば、今、叶が見上げている豪壮な洋館に住んでいるのは、若き子爵ただ一人ということだった。
 十八世紀イングランドの領主館をそのまま移築した、コの字型の美しい建物。高い塀越しにも、優美なデザインの窓が日光を反射してきらめくのが見える。石と煉瓦で築かれた邸は一級家屋に指定され、防火の砦ともなっているそうだ。正門はいかめしい黒い鉄柵で堅く護られ、その向こうには丸い屋根で飾られた車寄せ
(ポーチコ)がある。
 庭もかなり広いようだ。さすがにこちらは、本場の英国貴族のように邸内で乗馬の障害物レースができるようなだだっ広さではないが、それでも並みの家なら五〜六軒は軽く入ってしまうだろう。
 だが、それだけ見事な邸宅が、奇妙なまでに静まり返っている。唯一の住人である子爵は外出中のようだ。
 もちろん住み込みの使用人などは大勢いるだろうが、子爵の両親はすでに他界し、兄弟もいない。親類縁者はほとんど京都あたりに住んでいて、東京近郊にいるのは、横浜に住むかなり高齢の大伯父一人きりだそうだ。
 政略結婚で押しつけられた妻が嫁いでくる前に、一時、愛妾を自宅に隠しておこうと思えば、妨げになるものは何もない。
 聡子の疑念を晴らすためには、ともかくこの邸内を確かめてみる必要がある。
「かと言って、まさかこそ泥みたいに子爵邸へ忍び込むわけにもいかないしなあ」
 他に手だても思い浮かばなくて、叶はあてもなく子爵邸の回りを歩き始めた。
 裏手には、使用人やご用聞きが利用する勝手口。だがそこもしっかりと施錠され、内側には人のいる気配がする。とてもではないが、部外者が入り込める隙はない。
 運良く出入りのご用聞きでも顔を出さないかと、少々待ってもみたが、考えてみれば今日は日曜だ。ご用聞きが来るはずもない。
「それにしても、やっぱりでかいなあ……」
 敷地の回りをぐるりと一周するだけで、まるでちょっとした散歩コースだ。
 このまま子爵邸の回りをふらついていたら、不審者扱いされ、官憲に通報されてしまうかもしれない。一、二度、雑誌の特ダネを求めて強引な取材を行った際、叶は似たような経験をしたことがある。
「まあ、お巡りに見つかったら、その時はその時だ」
 一旦下宿に戻り、何か方策を練り直してこようか。そう思って、ちょうど子爵邸をぐるりと一周し終えた時。
 正門の鉄柵が開いていた。
「……あれ?」
 叶が疑問に思う間もなく。
「どいて!! そこ、どいてーっ!!」
 とどろく排気音とつんざくようなクラクション。
 大きく開いた鉄柵の内側から、黒塗りのTフォードが砂利を蹴立てて飛び出してきた。
「うわああっ!?」
 アメリカ合衆国の工場で世界で初めて大量生産されたこの乗用車は、日本国内においてももっともポピュラーな車種だ。
 だからといって、毎日間近で見る機会なんて、一般庶民にはあるわけがない。国内の自動車はそのほとんどが官用車、さもなくば乗り合い自動車など企業が所有しているものだけだった。
 個人の住宅から乗用車が飛び出してくるなんて、誰も想定していないのだ。
 叶も、咄嗟の反応が遅れた。
「きゃあああーっ!!」
 甲高い悲鳴。
 フォードの車体が突っ込んでくる。
「紅子
(べにこ)嬢、ハンドル!! ハンドル切って!!」
「え、えっ!? 無理よ、もう――!!」
「そこ、どけーッ!!」
 フォードの助手席から怒鳴り声が飛ぶ。
 叶は飛び退き、避けようとした。
 が、間に合わない。
 背中から塀にぶつかった。
 塀ぎわに転がり、身を伏せる。
 悲鳴のようなブレーキ音が響き渡る。ゴムの焦げる嫌な臭い。
 鈍い衝撃が全身の骨まで揺さぶり、それから息も詰まる激痛が叶を襲った。
「うわ、やっちまった!!」
「まさか、本当に轢いちまったのか!?」
「死んじまったのかよ!?」
 半分悲鳴のような声が、叶の頭上で交錯した。そしてばたばたと複数の人間の足音が近づく。
 だが、どんどん視野が暗くなり、その声の主たちを確認することができない。それどころか、もう身動きひとつできなかった。
「大丈夫!? ねえ、生きてる!? ごめんなさい、どうしよう、私――っ!!」
 意識を失う直前、叶が最後に見たものは、覆いかぶさるようにして叶を覗き込む、白い小さな顔だった。
【薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク】
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