【 薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク 2】
「馬鹿者ッ! だからあれほど運転には気をつけろと言っておいただろうが! 自動車は子供の玩具ではないんだぞ!」
ぼんやりとかすむ意識の中で、叶は鋭い叱責の声を聞いたような気がした。
「ちょっと脅かしてやろうと思っただけよ。だってあいつ、ずっと邸の回りをうろうろして、中の様子を覗き込もうとしたり、すごく怪しかったんだもの。あれ、絶対空き巣の下見だって」
「泥棒だろうが殺人犯だろうが、いきなり轢き殺していいということにはならん!」
二つの声が言い争っている。鋭く張りつめた若い男の声と、まだ子供っぽさを残した娘の声。どちらにも叶は聞き覚えがなかった。
「あいつの怪我だって、たいしたことなかったんでしょ!? 邸に運び込んで、医者にも診せてやったんだし、もういいじゃない。今度からちゃんと気をつけるから!」
「そういう問題じゃない! 待ちなさい、紅子(べにこ)――紅子!」
「離してよ! 痛いったら!!」
「どこへ行くつもりだ。当分、お前は外出禁止だ! 無論あのくだらない連中も、もう二度とうちの敷居はまたがせんぞ!! だいたい何だ、そのみっともない頭は!」
「今は関係ないでしょ、そんなこと!」
二人の声を聞いているうちに、次第に意識がはっきりしてくる。
のろのろと叶は眼を開けた。
まず眼に飛び込んできたのは、優美な装飾に飾られた天井。格子枠が壁との接点でやわらかな曲線を描き、中央にはあまり大きくはないが、きらめくシャンデリアが下がっている。
叶が寝かされていたのは、大の男が三人くらい寝転がれそうな大きなベッドだった。天蓋はないが、ヘッドボードも支柱も繊細な彫刻で飾られている。身体にかけられているのも雪のように軽い羽布団だった。
その他、広い室内にあるものはすべて、舶来の品らしかった。
窓は天井から床まで届くほど大きく、その向こうに小さなテラスが見える。どうやらそこから直接、庭へ出られるらしい。
叶はベッドの上に体を起こした。少し身動きするだけで、腰から背中、首の付け根にかけて、ずきんと激しい痛みが突き上げた。身体中の関節が油の切れたゼンマイ細工みたいにぎしぎしと軋み、吐き気まで込み上げてくる。
視界がぼんやり歪んでいるのは、眼鏡が外されているからだろう。
もともと叶はそれほど酷い近視というわけではない。眼鏡は実用とともに、取材相手にはっきり顔の印象を与えないための小道具でもある。眼鏡を外しても、ものの形も判別できないというほどではないのだ。
が、やはり周囲を細かく視認できないのは、困る。
「眼鏡、眼鏡、どこだ――」
なかば無意識に、ベッドの横のサイドボードに右手を伸ばす。
とたんに、肩から指先まで疼くような強い痛みが走り抜けた。
「あ、痛てぇ……っ!」
どうやらTフォードの突進をすんでのところでかわした際、地面に強く打ちつけたかして、傷めてしまったらしい。
右脚も、膝から下が熱っぽく痛む。捻挫でもしたようだ。額にも包帯が巻かれていた。
だが幸い、ほかに骨折などの大きな怪我はないようだ。
その時。
「あれ。目が覚めてたの?」
部屋の扉が開いた。
そこから現れた姿を、叶は一瞬、少年だと思った。
光沢のあるシルクで作られたインヴァネスコートは黒い翼のように広がり、ほっそりした肢体を包み込んでいた。仕立ての良いスーツが身体にぴったりと貼り付き、すんなりした肩から胸元、腰へのラインを際だたせている。ぴんと糊の効いたハイカラーとスカイブルーのスカーフタイが襟元を飾り、胸ポケットには懐中時計が収まっているのか、アンティークな金の鎖が揺れていた。両開きの扉を押し開ける手は、真っ白な手袋に包まれている。
これでシルクハットを手にしていれば、どんな貴顕の夜会へも今すぐ出席できそうだ。
ようやく中学(作者注:旧制中学のこと。現在の高校に相当する)を卒業する頃かと見えるのに、贅を尽くした身なり。この美しい室内に溶け込んで、まるで絵のようだ。
この邸宅にいることから見ると、敷島子爵の縁者だろうか。
「きみは……」
叶がまだ少しぼうっとしたまま問いかけても、彼は返事もしなかった。ぱっと廊下へ飛び出し、声を張り上げる。
「多代(たよ)さん、多代さん! 例の人、目を醒ましたよ! 皆川医師(みながわせんせい)をお呼びして!」
その声に、ぼんやりと膜がかかっていたようだった叶の脳髄は、一気にしゃきッと目が覚めた。
『彼』ではない。『彼女』だ。
「き、きみ――!」
「さっきはごめんなさい。怪我をさせるつもりじゃなかったんだけど。私、まだあの車に慣れてなくて」
叶はようやく、サイドボードの上の眼鏡に手が届いた。
「良かったね。眼鏡は無事だったんだ?」
少し癖のある黒髪に包まれた、小さな卵型の輪郭。夕顔のように白い肌、漆黒の瞳。まるでつくりものめいて見えるほど清楚な顔立ちの中で、唇だけが濡れたように紅い。
その顔は、気を失う前に叶が最後に見たものに間違いなかった。
そう気づき、あらためて見つめれば、どうしてこの少女を男と間違えたりしたのだろう。
インヴァネスに包まれた肩は上質の絹すら重たげに見えるほど細く、鏝(こて)をあてているのかウェーヴのかかった前髪は、思わず手を触れてみたくなるような艶やかさだ。
並んで立てば、その背丈はおそらく、ようやく叶の肩に届く程度だろう。
「きみ……。女の子だったんですか」
なかば茫然とつぶやいた叶に、少女は一瞬むッとしたように眉を寄せた。
「女が自動車を運転してたら、そんなに可笑しい?」
「い、いや、そんなことは……」
叶はあわてて否定した。
たしかにこの時代、自家用車の運転免許は単なる届け出制である。公の機関にその技術を問われることはない。彼女が運転席に座っても、咎められることは何もないのだ。
「それともこの恰好? 女の断髪なんて、今時もう当たり前じゃない」
「それはそうだけど――」
うなじのあたりで切り揃えた女性の短髪なら、銀座のカフェーあたりではたしかに珍しくもない。
だが男物のスーツを着て、襟元に幅広のタイを飾り、男子用外套であるインヴァネスコートを羽織る少女など、活動写真の中ですらお目にかかったことはない。
ましてや、自動車の運転をする少女など。
もしも自分が彼女の車に轢き殺されていたら、それこそ前代未聞の珍事として新聞ダネにされていたかもしれない。
少女は叶の視線など気にする様子もなく、インヴァネスを脱いだ。やはり男物は重かったのか、ふうっと息を吐く。
脱いだコートはたたみもせず、手近にあった椅子の背もたれに放り投げた。その仕草も、まるできかん気の少年のようだ。
あっけにとられている叶の前に、やがてもう一人、背の高い姿が現れた。
前髪をかっちりと上げて秀でた額をあらわにし、抜きん出た長身を一分の隙もない洋装に包んでいる。
叶も、新聞などの報道写真で一、二度その姿を見たことがあった。けれどどの写真も、この人がこれほどの美貌だとは伝えていなかった。
「敷島子爵」
慌ててベッドを降りようとした叶を、敷島省吾子爵は軽く手を挙げ、制止した。
「無理はしなくていい。先ほど貴君(きくん)を診察した医者も、もうすぐ戻ってくるだろう。それまで安静にしていてくれ」
低く、けれど硬質にぴんと張りつめた声。
間違いない。さきほど聞いた言い争いは、この声だ。
では、争っていた相手は――。
叶はちらりと、ベッドの傍らに立つ少女を見やった。
その視線に気づき、子爵が言った。
「妹が迷惑をかけた。申し訳ない」
「妹!?」
叶は思わず、問い返した。
「一人っ子じゃなかったんですか、子爵!? 今年の華族年鑑にも、妹さんの名前なんて載ってなかったのに――!」
「……だいぶ我が家の内情に詳しいようだな。私が名乗る前から私の名前を知っていたし。貴君、何者だ? 妹の言うとおり、官憲を呼んだほうが良いのかね?」
切れ長の眼に冷たく見据えられ、叶はいささか焦った。
「ご、誤解です。僕ァただ、この立派な洋館を、余所ながら拝見させていただいてただけで……。実は、こういう者でして」
と、ふところを探ろうとして、自分が着た切り雀の絣ではなく、真新しい西洋式の夜着を着せられていることにようやく気づく。
「あのう、すいません。僕の着物は……。中に名刺が入ってるんですが」
「名刺って、どの名刺?」
窓際の書き物机のそばに寄り、少女が言った。
「着物は汚れてたから、今、うちの女中が洗濯してる。あなたの持ち物はここ。ふところに入れてた名刺もね」
少女がトランプのように広げ、叶の目の前に突き出した何枚もの名刺には、それぞれまったく違う出版社名や雑誌名、はては違う名前までが印刷されていた。
叶が貴顕の醜聞を求めて潜入取材する時に使う、偽の名刺なのだ。
「月刊近代建築、西洋美術月報、教育特論、音曲の友、最新婦人流行スタイルブック……どれが本当の名刺?」
「いや、それはその……」
口ごもり、やがて叶は腹を括った。
「これですよ。一番左端の」
少女がほっそりとした指で、言われた名刺をつまみ上げる。
「……旬刊『東都民報』編集部、文責編集員――なんて読むの、この名前」
「ミコシバ・カノウです」
「あの『東都民報』か」
子爵が、くッと不快そうに眉根を寄せた。
「先だって常磐伯爵夫人の艶聞をすっぱ抜いたのは、きみのところの雑誌だろう」
「常磐伯爵? さあ? そんな名前、誌面に載っていましたか?」
「T夫人と伏せ字にはなっていたが、我々が読めば誰のことか一目瞭然だ。夫人は恥じて髪を落とし、山科の尼寺へ入られてしまったぞ」
「ああ、山科ですか! 関西の寺に入ったらしいってとこまでは追っかけてたんですが、具体的な寺の場所までは、まだ掴み切れてなかったんです。いい続報が書けそうだ!」
さらに表情を険しくする子爵に、叶はにやりと笑ってみせた。
「なぁに、僕たちにもぐり込めない場所なんかありませんよ。尼寺だろうが、基督(キリスト)教の修道院だろうがね」
「貴様……ッ!」
「いつの世でも特権階級のスキャンダルは、大衆のもっとも歓心を集めるところですよ。僕たちはその需要に応えているだけです」
「まったく、崇高な職業意識だな。ではそのために、うちの妹が運転する車に飛び込んだのかね。大衆の期待に応えるため、自分自身が記事のネタになろうとしたのか!?」
「まさか。いくら何でもそこまでは。僕だって命は惜しいですよ」
苦笑する叶を、子爵は突き刺すような目をして見据えていた。
子爵が、叶が子爵家の醜聞を嗅ぎ回りに来たと誤解しているならば、むしろそのほうが都合がいいかも知れない。本当の目的を知られては、聡子が困るだろう。
「僕が好んでこちらの自動車にはねられたのではないことは、子爵閣下もご理解くださってると思っていましたが?」
子爵と、そっぽを向いている少女の小生意気そうな横顔とをわざとらしく交互に見比べながら、叶は言った。
「妹の粗相は謝罪する。貴君の怪我の治療には、私が責任を持つ。その代わり、今回のことは貴君の著述には加えないで欲しい。必要なら、昵懇にしている病院に入院の手続きを取ってもよい」
「いや、そこまでしていただかなくても大丈夫ですよ」
実際、自分の身体を省みても、それほど酷い怪我とも思えない。
「そうよ。そこまで気遣ってあげる必要なんか、ないわ。皆川医師だっておっしゃってたじゃない。どこの骨も折れてない、ただの捻挫と脱臼だって」
「お前は黙っていなさい」
横から口を挟もうとした妹を、子爵はぴしゃりと黙らせた。
「貴君、まともに衝突されることだけは上手く避けたようだな。やはり武道の心得のある者は違うようだ」
「……どうして、僕に武道の覚えがあると?」
「その手よ。竹刀だこがあるもの。最初にお兄さまが気づいたの。それにここにも――」
と、少女は自分のこめかみを指さした。
「面擦れの跡が、まだ少し残ってる」
「参ったな」
叶は思わず、感嘆のため息をついた。
「この分じゃ、僕の腹の底まで見透かされてそうだ」
「そうかもね」
ぼやくような叶の言葉に、少女はくすっと小さく笑った。無邪気そうなその笑みに、叶はなぜかふと引っかかるものを感じた。
――なんだろう。自分で傷の具合を確かめるふりをして、目を合わせないようにしながら、そっと少女の様子を観察する。
何か、どこか、違和感がある。それが何だとはっきり言うことはできないのだが。
名工が刻んだような凛々しい子爵の面差しと、可憐な少女の顔立ちには、たしかにどこか似通ったものがある。血のつながりを感じる。
けれど、それにしては二人の間の空気はかなりよそよそしい。互いに接触するのを極度に警戒しているような、一つ部屋にいる以上近づくのは仕方がないが、これ以上自分の領域に相手を一歩でも近づけまいとしているような、それでいてそのことを相手に気づかれるのを嫌がっているような、そんな一種独特の緊張感さえ漂っている。
「あのう、子爵。お訊ねしてもよろしいですか?」
叶のその言葉だけで、子爵は質問の主旨をすべて酌み取ったらしかった。
「紅子は、私の腹違いの妹だ」
きわめて恬淡と、けれどどこかに吐き捨てたいような苦々しさを込めて、子爵は言った。
「昔、父が女中に手をつけて産ませた娘だ。半年ほど前に母親が死に、他に親類縁者もいないのでこの邸に引き取ったが、敷島の籍には入れていない。当然、華族年鑑にも名前を載せる必要はない」
それはどこの家系でも同じだろう。妾腹の子供を本妻腹といつわって跡取りにするのでもない限り、華族年鑑に載せる者はいない。
半年という時間も、華族社会に紅子の存在を隠しておける、ぎりぎりの長さだろう。
「貴君はこのことを探りに来たのかね。十数年も前の、私の父の過ちを」
「いいえ。いくら僕たちでも、死者の尊厳を傷つけるような記事はさすがに載せませんよ」
もっともらしく、叶は首を横に振ってみせた。
だが子爵は、皮肉な笑みを浮かべて叶を眺めた。
「貴君らがそんなしおらしい感情を持つものか。死んだ人間の古い話を蒸し返すより、今、生きて社会の第一線に立つ者の醜聞を暴き立てるほうが、貴君らにとっては旨味が大きいというだけだろう」
「――よくおわかりで」
やがて子爵家かかりつけらしい初老の医師が、大きな診察カバンを抱えて室内に入ってきた。
結局、叶はそのまま子爵家に宿泊することになった。
利き腕はほとんど使えないし、捻挫した足首の腫れもまだひかない。こんな状態で一人暮らしの下宿に戻っても、日常生活もままならない。
治療に責任を持つと言った手前、子爵も、この得体の知れない雑誌記者を邸内にとどめざるを得なかったのだろう。
叶にしてみれば、この怪我の痛みも降って湧いた幸運だ。
とにかく子爵家の中に入り込みさえすれば、必要な情報を探り出すのはお手のもの――と、そうは都合良くは行かなかった。
「お夜食でございます」
夜も更けるころ、叶に割り当てられた寝室に軽食を運んできたのは、喉からくるぶしまで黒一色の洋装で一分の隙もなく包み込み、腰の鎖に鍵の束を吊した女中頭だった。
灰色の髪を一本の後れ毛もなく後頭部で束ね、冷ややかな眼差しで叶を見据えるその顔は、子爵家の使用人というより、厳格な女校長のようだった。
……だめだ、こりゃ。一目見るなり、叶は悟った。
大きな屋敷の内情を探るのに、もっとも手っ取り早いのは、そこで働く使用人を手なずけることだ。酒好きな馬丁、口の軽い台所女中、そんな連中に近づいて、主人のもっとも身近に仕える彼らだからこそ知り得る主人やその妻の行状、うわさ話を巧みに聞き出すのが、叶の常套手段だった。
「東都民報」の名前には警戒する使用人たちも、一見、スキャンダル報道には関係なさそうな雑誌の名刺を見せれば、気も弛む。そのための「月刊近代建築」であり「婦人スタイルブック」の名刺だったのだが。
「傷がお痛みになるようでしたら、おっしゃってくださいませ。皆川医師より痛み止めの煎じ薬をいただいておりますので」
愛想のかけらもない声でそう言う女中頭は、あたくしに何を喋らせようとしても無駄なことです、と、全身全霊で主張していた。
彼女が持ってきた銀の盆には、サンドイッチやきれいに切り分けられた果物など、左手だけでも食べられるものばかりが載せられていた。
「料理のお好みなどございましたら、お教えくださいませ。できる限りご希望に添うようにいたします」
「い、いや、好みなんて、そんな。貧乏暮らしですから、食えりゃあ何でも……」
「さようでございますか」
丁寧に頭を下げて女中頭が寝室を出ていくと、叶は思わず大きくため息をついた。
「こいつァ手強そうだ」
入浴の代わりに身体を拭くのを手伝ってくれたのも、骨董品かと思えるような老爺だった。
「広いお屋敷ですねえ。庭も見事だ。あそこに見えてるの、枝垂れ桜ですか?」
叶が話しかけても、返事もしない。
老爺は寝室にいる間、とうとう一言も喋らなかった。そして自分が部屋を出る時に、さっさと寝ろと言わんばかりに、勝手に部屋の灯りを消してしまった。
「まったく用心深いことで……」
大きな寝台に寝転がり、叶は天井を見上げた。
暗闇の中、聞こえてくるのは時計の針が時を刻む音だけだ。こんな広い邸内に、奇妙なくらい人のいる気配がない。
――この家には、何かありそうだ。
ゴシップ雑誌の記者として他人の秘密を嗅ぎ回っていた叶の勘が、そう告げている。
叶への警戒も、ここまで神経質になるからには、よほど探られたくない部分があるのかと勘繰りたくなる。
「聡子さんの女の勘も、まんざら捨てたものじゃないのかもしれないな」
あとは、家人に見つからずどうやってこの邸内を探索するかだが――。
やがてどこかで低く、ぼぉ…ん、ぼぉ…ん――と柱時計が鳴った。
かすかな気配を感じたような気がして、叶はふと目を覚ました。
眠るつもりはなかったのだが、投与された痛み止めのせいか、いつの間にかうとうととしていたらしい。
室内は薄青い闇に満たされていた。
動くものはない。
「……庭か?」
疼くような痛みをこらえ、叶はベッドを降りた。
そっと窓を開け、テラスに出る。
夜気が刺すように冷たい。酷く捻った右足首が歩くたびに軋むように痛んだ。
広い庭は木々が茂り、月明かりのもとで見ると、まるで鬱蒼とした森のようだった。
塀に囲まれた小さな人工の森の中に、ほの白く人影が揺れている。
叶はゆっくりと近づいていった。