身体に染みこむような夜の静けさの中、かすかにしゃくり上げる声が聞こえた。
 睡蓮が揺れる池のそばに、小さな白い影法師が立っている。身体のラインが透けそうなほど薄いワイシャツと細身のズボンだけの、こんな夜半に外に出るにはかなり寒そうな姿だ。うなじにかかる黒髪が夜風に揺れていた。
 うつむき、ときどき手の甲で目元を拭うその仕草は、さきほどよりもずっと幼く見えた。
 白い顔が、まるで夜に咲く花のようだと、叶は思った。
「……そんな恰好で居ると、風邪をひきますよ」
 叶の声に、紅子はのろのろと顔をあげた。驚いた様子はない。
 すん、と小さくすすりあげて、泣き腫らした目で懸命に笑みを浮かべようとする。
「あなたのほうが薄着じゃない」
「僕は男ですから」
「怪我は、平気なの?」
「まあ、このくらいなら」
 それ以上、紅子は何も言わなかった。叶から目をそらし、池に映る木々の影を見つめている。
 月光に照らされたその横顔に、叶は眉をひそめた。
 丸い頬は薄赤く染まり、はっきりと暴力の痕をとどめていた。口元も切れ、血がにじんでいるようだ。
「どうしたんですか、その傷」
「撲
(ぶ)たれたの、兄さまに」
「子爵が、貴女に手をあげたんですか!?」
 紅子は涙を堪えながら、かすかに笑った。
「気にしないで。慣れてるから」
 叶に背を向けたのは、腫れたほほをこれ以上見せたくないからだろう。
「兄さまは……私がお嫌いなのよ」
 ぽつりと、独り言のように紅子はつぶやいた。
「本当は私を邸のどこかに閉じこめて、一歩も外に出られないようにしたいのよ。私を人に見られるのが、恥ずかしいの」
「お嬢さん、まさか、そんな。子爵だってそこまでは……」
「やめてよ。兄さまの話、聞いてなかったの? 私は妾腹、女中の子。お嬢さまなんかじゃない」
 思いがけないほど強い口調で、紅子は叶の言葉をさえぎった。
「私の顔を見れば、ああしろこうしろって文句ばかり……。兄さまが私に話しかけるのは、私を叱る時だけなの。心の中じゃ私のこと、妹だなんて思ってないくせに。ほんとは私が『兄さま』って呼ぶのだって、許せないって思ってるはずよ」
 叶は口をつぐんだ。
 おそらく紅子も、返事など望んではいないだろう。ただ胸の中を全部、言葉にして吐き出してしまいたいだけなのだ。
 涙に汚れたほほを、悔しそうに手の甲で擦る。
「私のことが嫌いなら、いっそ放っておいてくれれば良かったのに。私だってこんな邸、望んで来たわけじゃないんだから。父さまが亡くなった時、母さんも私もお葬式に出ることだって許してもらえなかったのよ。それを、母さんが死んで私に身寄りがなくなったからって、わざわざ迎えに来るなんて……。言った台詞が笑っちゃう。『仮にも敷島の血を享けたお前を野垂れ死にさせるわけにはいかない、外で死なせたら敷島の恥になる』だって。兄さまにとって大切なのは、敷島の名前だけなのよ」
 そして紅子は顔をあげ、無理にふざけて笑ってみせた。
「いけない。こんなことぺらぺら喋ったら、あなたの雑誌に書かれちゃうかな」
「心配いりませんよ。貴女のことは記事にしないと、子爵にも約束したし」
 叶は柄にもなく、同情を覚えた。
 紅子が前子爵の庶子として産まれたのは、彼女の罪ではない。そのせいで異母兄に疎んじられるのは、つらいだろう。母を亡くし、今、彼女の血縁と呼べるのはその異母兄ただ一人なのだから。
「もう戻られたほうがいい。本当に風邪をひきますよ」
「あなたこそ。こんな夜中に邸の中をうろついてるところ見られたら、やっぱり敷島家の秘密を探りにきたんだって、多代さんあたりに問答無用で叩き出されちゃうわよ」
「それはもったいないなあ。せっかくご華族さまの暮らしを片鱗でも味わわせてもらえる機会に恵まれたんだから、もう少し贅沢をさせてもらいたいですよ」
「だったら大人しく、怪我が治るまで寝てることね」
 ようやく紅子の表情に少し明るさが戻る。
「ありがとう、叶さん――叶さんって、呼んでもいい?」
「どうぞ」
 叶はうなずいた。
「あんまり早く元気にならないでね。少し長めに、ここで養生していって」
「え?」
「だって、この邸で私とまともに話してくれる人、他に誰もいないんだもの。……ね?」
「そうですね。努めて長く寝付くようにしますよ」
「ぜひそうしてちょうだい。大丈夫、このお邸、部屋だけはうんと余ってるんだから」
 まだ涙の残る顔で、紅子はくすくすっと悪戯っぽく笑った。
 この人なつっこい笑顔が、本当の紅子の笑みなのだろう。
「じゃあね、叶さん。おやすみなさい」
 小さく手を振り、紅子は先に建物へ向かって歩き出した。
 白い小さな後ろ姿が木陰に消えていくのを、叶は黙って見送った。
 それから自分も、部屋に戻るために歩き出す。
 池の畔を離れ、叶はレンガ造りの子爵邸を見上げた。
 二階建てだが、屋根裏部屋なども備えているのだろう、実際には三階建て相当の高さがある。
 壮麗な建物は静まり返り、人の気配すら感じられない。たくさんの窓を一つ一つ眺めても、そのうち実際に使われているのは、わずかなようだ。
 この邸のどこかに、主人の秘密の恋人が大切に匿われているのだろうか。
 叶には、そんな女の影などみじんも感じられないような気がした。けれどどこかで、その女の息づかいさえ聞こえるような気もする。
「やっぱり……なんかありそうだな、この家には」
 我知らず、叶は小さくつぶやいていた。





                          2

 無理に歩いたのが祟ったのか、その夜、叶はずきずきと疼く右肩に悩まされ、ほとんど眠ることができなかった。
 明け方になってようやく、とろとろと浅い眠りについた。
 翌朝、女中頭に起こされた時には、時計の針はすでに九時を回っていた。
「すいません、電話を拝借できますか」
「電話室はこのお廊下の突き当たりでございます。ですがその前に、お着替えくださいませ」
 女中頭が差し出したのは、真新しい洋装の一揃いだった。捻挫した足をいたわってくれたのか、やわらかな室内履きに、杖まで添えてある。
「あ、あのぉ……僕の着物は――」
「お客さまのお着物とお袴でしたら、今、女中が洗い張りいたしております。ほころびなど繕いましてからお返しいたしますので、今日のところはこれをお召しくださいませ」
 言葉は丁寧だが、叶を見る目には憤懣やるかたないという色がありありと現れている。
 叶は黙って洋服を受け取った。
「お食事はこちらまでお持ちいたしましょうか。それとも小食堂でなさいますか?」
「あ、いえ……。食堂まで参ります。もう歩けます。わざわざ運んでいただかなくても、大丈夫ですから」
 昨夜と同じく石の地蔵みたいに黙りこくった老爺に手伝ってもらって、着慣れない洋装に袖を通す。ハイカラーのワイシャツに細身のズボン、ベストは裾が斜めにカットされた瀟洒なデザインだ。
 杖を借り――実を言えばそんなものがなくても、ゆっくり歩くくらいなら何とかなるのだが――叶は寝室を出た。
 叶が使っていた部屋は客用寝室らしく、東翼の一番端にあった。そこから絨毯の敷き詰められた廊下を抜け、教えられた電話室に入った。階段下に設けられた半畳ほどの小部屋だ。
 交換台に呼び出してもらったのは、勤め先の「東都民報」編集部だ。
「すいません、編集長。実は今朝、駅の階段で転
(こ)けてしまいまして。ええ、今は病院からかけてます。今日一日、休みをいただきたいんですが」
 正直に言えば、欠勤するほどの怪我ではない。利き手は使えないし、身体中あちこち打ち身や痣だらけだが、大の男がこの程度で寝込んでいたら普通は物笑いの種にされる。
 それでも受話器を握って平身低頭、上司にさらに数日間の欠勤を頼み込んだのは、今はこの子爵家を離れないほうがいいと思うからだ。
 それでいながら、叶は敷島子爵の名前をまったく口にしなかった。
 もし、怪我の本当の理由を知ってしまったら、叶よりも情け容赦のない編集長は、こんな面白い話をどうして書かない、何がなんでも敷島子爵家の醜聞を記事にしろと迫ってくるだろう。
 念のため、昨日、子爵が口を滑らせた伯爵夫人の居所をちらっと編集長の耳元にささやいておくのも、叶は忘れなかった。そっちに気を逸らしてくれればいいのだが。
「ご迷惑をおかけしますが、ええ、ほんとにすいませんでした!」
 叶のぎこちない言い訳に、編集長がさほどこだわる様子もなく欠勤を認めたのは、彼もまた叶がなにか掴みかけていることを察していたせいかもしれない。
 編集部との電話を切ると、今度はみちるの元へ連絡を入れる。
 こちらへも、子爵家に入り込んだとは言わなかった。聡子に報告できるような事実は何も掴んでいない以上、よけいなことを知らせてさらに彼女を悩ませても仕方がない。
「ああ、まだ何もわかってないよ。それより、今日からまた仕事でちょっと遠出する。しばらく下宿には戻らないと思うが、心配するなよ」
 そそくさと受話器を置き、叶は電話室を出た。
「ずる休みの言い訳、無事に終わったの?」
「うわっ!?」
 叶は思わず、素っ頓狂な声をあげた。
 扉のすぐ外に、紅子が立っていた。
「び、びっくりさせないでくださいよ」
「そんなに驚いた? ごめんなさい」
 いたずらっ子のように笑う紅子は、今日も少年のような身なりだ。だが襟元にネクタイはなく、少し開けた喉元には黒いベルベットのリボンをチョーカーのように巻いていた。
 幸い、昨夜、子爵に撲たれた痕は残らなかったようだ。屈託のない表情にも、昨夜の涙の名残はまったく感じられなかった。――無理をして、そう見せているだけなのかもしれないが。
「ほんとに私たちのこと、誰にも言わないでいてくれたのね。ありがとう」
「立ち聞きしてたんですか?」
「叶さんが電話室に入るのが見えて――悪いとは思ったんだけど、やっぱりちょっと心配で」
 叶は小さく吐息をつき、仕方がないと肩をすくめて見せた。
 紅子が疑いを持つのももっともだと思う。「東都民報」は信頼のおける雑誌ではない。たしかに、あまりいい気持ちはしないが。
 紅子はほっとしたように笑顔を見せた。
「私も朝ご飯まだなの。一緒に食べましょう。食堂まで案内してあげる」
 案内されたのは、正式な晩餐のための大食堂ではなく、家族だけの食事やごく親しい友人などをもてなすために使われる小食堂だった。
 壁一面にとられた大きな窓からは、朝の陽光がさんさんと降りそそぐ。
 丸テーブルにはぴんと糊の効いたテーブルクロスがかけられ、そのわきに料理を載せた銀のワゴンが置かれている。
 だが食堂内には、紅子以外誰もいなかった。
「子爵はもうお出かけですか?」
「ええ。欧州から大事な取引先が来日してるんですって。出がけに、叶さんにちゃんと謝りなさいって、また念押されちゃった」
 叶はワゴンの料理を覗き込んだ。イギリス式の朝食は、やはり片手で食べられるように工夫されている。
 まだ温かいパンには、紅子がバターを塗ってくれる。
「良かった。叶さん、兄さまの服で丈
(たけ)もちょうど良いみたいね」
「え。このシャツ、子爵のものなんですか?」
 叶は自分が着ている真っ白なシャツを、あらためて眺めた。言われてみれば、胸元にはオーダーメイドの証であるネーム刺繍が施されている。肩も背もぴんとしたラインを描いているのに、肌にあたる感触はなめらかでやわらかい。同じ洋装とはいえ、繁華街を闊歩するモボの連中とはあきらかに一線を画している。
「叶さんもずいぶん背が高いでしょ。他の使用人とかの服じゃ、きっと丈が足りないだろうと思って、私が兄さまのを借りておいたの」
 紅子は小首を傾げ、くすくすっと笑った。
「多代さんはすごく嫌がってたけど。あの人、兄さまが子供のころからずっとこの邸で働いてて、兄さまの面倒を見てたそうだから」
 そんな大事な子爵の服を招かれざる客の叶に貸すのでは、それはたしかにあの女中頭も嫌な顔をするだろう。
「何だか申し訳ないなあ。子爵の服までお借りするなんて」
「良く似合ってるわよ。借り物だなんて、絶対わからない」
 銀の茶器で紅茶を淹れながら、紅子はいたずらっ子のように瞳を輝かせる。
「ね。その恰好で叶さんが、『僕が敷島子爵です』って名乗ったら、知らない人はきっと全員だまされちゃうね」
「そんな莫迦な」
 紅茶のカップを受け取りながら、叶はあたりをそっとうかがった。
 給仕役の使用人も女中も、誰もこの小食堂に近づく気配がない。
 聡子のように深窓の令嬢として大切にされている娘なら、家庭教師や乳母など、お目付役の女性がほとんどそばを離れないものだ。若い男と二人きりになるなんて、ふつうは絶対に許されない。しかも、叶のように華族階級でもない、どこか得体の知れないような男となど。
 敷島子爵は、妾腹の妹になどまったく価値がないと思っているのだろうか。
 キリスト教的な道徳精神に支配された欧米ならいざ知らず、この国は、つい四、五〇年ほど前までは「腹は借り物」、側室腹のお殿様も大手を振ってまかり通っていたのだ。敷島子爵家と姻戚関係になれるなら、たとえ妻にする娘が妾腹だろうが遠縁から貰った養女だろうが気にしない、という男は大勢いるだろう。
 子爵がそれを理解しているなら、異母妹をこんな粗略には扱わないはずなのだが。
「ねえ、さっきの電話」
 白磁のカップに口をつけ、紅子は言った。
「どうしてこの邸のこと、誰にも言わなかったの? 常磐伯爵夫人のことは簡単に喋っちゃってたのに」
「いやあ、それは……」
 叶は少し照れたように頭を掻いた。
「まあ、常盤夫人の場合は、彼女が派手に男遊びしまくっていたのは本当のことなんですから。彼女の行動は彼女の責任ですよ。叩かれるのも自業自得でしょう」
「私のことは、私の責任じゃないから黙っていたってこと? 責任を取るべきお父さまは、もうとっくに亡くなられてるし」
「まあ……そういうことになりますか」
「紳士的なのね」
 叶は曖昧に笑い、答えなかった。
 すると紅子は、叶の顔を覗き込むようにテーブルの反対側から身を乗り出してきた。
「叶さん、足はまだ痛む? 食事が済んだら、邸の中を案内してあげる」
「それはちょっとまずくないですか? 僕が勝手にうろうろしてちゃ、子爵だっていい気はしないでしょうし」
「平気よ。兄さまはどうせ、お帰りは夜遅くになってからだわ。それに私も、まだ一度も入ったことのない部屋がいっぱいあるの」
 紅子はまるで小さな子供のように、好奇心で瞳を輝かせている。
「ね。二人でこの邸の中を探検してみましょうよ」
 叶にしても、それは自分から言い出したいくらい願っていたことだった。
「じゃ、早く食べちゃいましょう。多代さんやほかの使用人たちに見つからないうちに、できるだけ多くのお部屋を見て回らなくちゃ!」






 東翼の突き当たりは叶が使っていた客用寝室だが、西翼の先端は天井まで本棚が作られた図書室になっていた。そこに続く廊下はもともと、ロングギャラリーとして絵画を飾るスペースだったらしい。だが今は、装飾らしいものは作りつけの燭台だけだった。
 そのほかにも、今は空っぽだが以前はピアノが置かれていたのだろう音楽室、正方形の舞踏室、談話室
(サロン)など、紅子の言うとおり、ほとんどの部屋が閉め切りにされ、使われていないようだ。
 正式にここの住人とされている人間がたった一人しかいないのだから、仕方ないのだろうが。
「母さんに聞いたんだけど、先々代の子爵、つまり私たちのお祖父さまがこのお邸を建てたばかりのころは、ここで大規模な夜会とか、何度も開かれたんですって。あの舞踏室とかも全部使って。きれいだったでしょうね。一度見てみたかったなあ」
 二人はまるで隠れんぼの場所を探す子供のように、次から次へと邸のドアを開けていった。
「私の部屋は二階。東翼の一番端よ。ちょうど叶さんが使ってる客用寝室の真上なの。私の部屋にも、直接お庭へ降りられるようテラスに階段がついてるのよ。覗いてみる?」
「い、いえ、それは結構です。女性の私室を見るなんて、そんな――」
「あら。雑誌の取材でなら、いくらでものぞき見するんじゃないの? 多代さんが言ってたわ。女中にお金をやってこっそり邸の中まで手引きさせたり、貴顕の夫人が逢い引きするホテルまで尾行したりするって。『東都民報』って、そういう雑誌なんでしょ?」
「そりゃまあ……。参ったな、もう」
 紅子はくるくるとよく笑い、叶の倍くらい喋った。
「紅子って名前、母さんがつけてくれたの。兄さまは安っぽくて通俗的だって気に入らないみたいだけど、私はこの名前が大事なの。母さんが私に遺してくれた、たった一つの形見みたいなものなんだもの」
 そう言う横顔は母親を慕う小さな子供のようで、見る者までをもどこか淋しくさせる。
「綺麗ですよ。貴女によく似合ってる」
「ほんとにそう思う?」
「ええ。まるで薔薇が咲いてるみたいだ」
「信用できないわ。いつもそうやっていろんな女の人だまして、記事の種を集めてるんでしょ?」
「もう勘弁してくださいよ……」
 その話し方はまるで歌っているみたいだと、叶は思った。
 漆黒の瞳は明るい陽光のもとで見れば、薄く茶色がかって透き通るようだ。
 鍵のかかった部屋はふざけて鍵穴から覗く真似をし、壁に大きなタペストリーがかかっていれば童話のように秘密の階段が隠れていないかとまくりあげて見る。二人は台所にまで顔を出し、女中たちにひどく嫌な顔をされた。
 そこでもらってきた昼食代わりのおにぎりや菓子を、二階の部屋からバルコニーに出て、庭を見下ろしながら食べる。まるでピクニックみたいと、紅子ははしゃいだ。
 けれどそれだけ回ってみても、この邸に紅子以外の女が住んでいる様子は見つけられなかった。
 もしやと思い、叶は女中たち一人一人にも目を向けたのだが、どうも子爵の相手が勤まりそうな若い娘がいないのだ。女中頭ほどではないが、それでもみな、子爵よりも年上だ。
 もともと使用人の数も、権勢の家にしてはかなり少ないらしい。主人が結婚すれば当然使用人は増えるだろうが、子爵は前もって自分で使用人を選び、躾ておくよりも、妻になる聡子が実家から使い慣れた小間使いや女中を伴ってくることを期待しているのかもしれない。
「やっぱり聡子さんの思い過ごしじゃないのか、こりゃ……」
「え? 何か言った、叶さん?」
「いいえ、何でもありません。――あ、紅子さん。あっちのドアは? まだ見てないですよね」
 紅子の気を逸らそうと、叶は適当な扉を指さした。
「あ、あそこはだめ。あのお部屋は、兄さまの書斎なの」
 主棟のほぼ中央、玄関ホールの真上に位置する部屋だ。
「それに私は、あの部屋、何度も入ったことあるもの。……兄さまに呼びつけられて、叱られる時にね」
 紅子の表情が陰った。叶の視線から逃げるように眼を伏せる。昨夜、異母兄から無体に暴力をふるわれたことを思い出しているのかもしれない。
 よく見ればその口元には、うっすらと昨夜の傷が残っている。白粉
(おしろい)で隠していたようだ。
 一目ではそれとわからないほど上手な隠し方が、逆にそれだけ何度も彼女が異母兄に折檻されていたことを示している。
 ――一人は見かけに寄らないというけど、あの凛然とした子爵が。叶まで、ひどくやり切れないものを感じてしまう。
「そろそろ戻りましょうか。僕もちょっと、足が痛くなってきました」
「うん。じゃあ私、多代さんにお茶の用意を頼んでくるわ」
 紅子はぱっと顔をあげ、笑顔を作った。そして女中頭を探すため、ぱたぱたと仔犬のように階段を駆け下りていった。
【薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク・3】
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