【薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク・4】
 ついでに図書館から数冊の本を借り、叶は客用寝室へ戻った。
「痛ぅ……。ほんとに痛み出してきやがった」
 ベッドに腰かけ、借りてきた本を広げると、まるで見計らったようにドアがノックされた。
「皆川医師が往診に来てくださいました。お通ししてもよろしいでしょうか」
 女中頭の付き添い――と言うよりほとんど監視だ。午前中に紅子と二人で邸内を歩き回ったのが、よほど気に入らなかったらしい。慇懃な顔の下に般若の形相が潜んでいる――のもと、叶は医師の診察を受けた。
「あまり傷に負担をかけんようにと言っただろう。ま、それでも若いからすぐ治るだろ」
 医師がきわめて事務的に傷の手当てをしている時。
 窓の外から、自動車の排気音が聞こえてきた。
 あのTフォードだろうか。いや、数台分のエンジン音がする。
 ドアの開閉音、そして数人の男の話し声。何を言っているのかまでは、聞き取れないが。
「あら、まあ! 旦那様がもうお帰りに!?」
「え、子爵が?」
 紅子の話では、子爵の帰宅は夜半になるはずだったが。
 女中頭は叶へのことわりもそこそこに、突然帰宅した主人を迎えに、部屋を飛び出していった。
 そして、窓から聞こえていた話し声は、すぐに邸の中へ吸い込まれるように消えた。
 年若い主人が帰宅すると、邸内の空気は急に慌ただしくなった。
 子爵はやはり客人をともなっていたらしい。叶を診察した医師は、まるであたりをはばかるようにそそくさと子爵邸を辞し、入れ替わりに茶を届けに来た老爺は、嗄れた声で脅すように言った。
「あとで食事を持ってくるで。あんた、今夜は部屋の外に出んでくれ」
「出たくても、この足じゃあね。それよりお客人は異国の方かい? さっき窓の外から外国語が聞こえたような気がしたんだけど」
 老爺はじろりと叶を睨みつけ、何も答えなかった。
 おそらく自分の推量に間違いはないだろう。叶はそう思った。
 子爵は今日、貿易商として外国からの取引相手に会うのだと、紅子も言っていた。その商談の延長として、客人を自宅へ招いたのだろう。
 そんな時に、叶のようなよけいな人間に邸内をうろちょろされては目障りこの上ない。取引の成否にすら関わりかねない。老爺に命じて「外へ出るな」と念を押させたのも当然だ。
「ま、僕なら念には念をで、扉にも窓にも鍵をかけるがね」
 そこまでしないのは、やはり子爵の坊ちゃん育ちから来る甘さだろう。
 一人になり、叶はふと天井を見上げた。
 紅子の私室はこの真上だと言っていた。
 今頃は紅子も自分の部屋に押し込められて、外に出るなと命じられているのだろう。
 子爵は、妾腹の妹を人目にさらしたくないと思っているのだ。ましてやあの男装だ。上流階級の人間はこの少女を奇異な目で見るに決まっている。
 ――もしかしたら、それが紅子の狙いなのかもしれない。
 敷島子爵家の名前も華族階級も、嫌っている様子の紅子だ。そんなものと関わり合いにならずにすむよう、あえてあんな身なりをしているのかもしれない。
「……どっちにしても、可哀想だよな」
 やがて大食堂にも灯りがともったようだ。庭に光が落ちている。
 あたたかな、けれどどこかに緊張を孕んだ空気の中で、ゆっくりと日が暮れていった。
 老爺が食事を運んできて、叶の部屋の灯りもつけていく。
「寒けりゃ、暖炉に火を入れるがね」
「いえ、結構」
 叶は借りてきた本に没頭しているふりをした。
 老爺はそれを信じたのかどうか、またじろりと叶をにらみ、それから部屋を出ていった。
 運ばれた食事は相変わらずきれいに整えられているが、あまり手をつける気がしない。
 紅茶だけでも飲もうかとして、叶は口をつける直前、カップを持つ手を止めた。
 茶の色が妙に黒っぽい。
 用心深く口に含んでみると、わずかに苦みを感じる。茶の渋みとは違う、異質な苦さだ。
 叶は含んだ茶を暖炉の灰の上に吐き出した。
 ミルクや砂糖を入れていたら、感じ取れないくらいのかすかな苦み。だがそれはあきらかに、薬物の混入の結果だ。
 しばらく考え込み、それから叶はソファーに深く腰かけて眠り込んだふりをした。
 十五分ほどして老爺がまた、足音を忍ばせるようにして部屋へ入ってきた。
 眠っている叶の様子を確かめ、起こさないようそっと食事の盆を片づけ、灯りを消す。
 扉が音もなく閉まった。
 人の気配がなくなると、叶はそろそろと目を開けた。
「やっぱり睡眠薬入りか」
 暗がりでそっと身を起こす。
「おいおい。これじゃますます、僕に秘密を嗅ぎ回ってくださいと言ってるようなもんだぜ?」
 叶は細くテラスへの窓を開けた。
 庭からかすかに人の話し声が聞こえる。
 室内からでは、話の内容までは聞き取れない。思い切って、叶は窓の外へ忍び出た。
 足首も肩もかなり痛むが、この際そんなことにはかまっていられない。テラスを囲む瀟洒な手すりの陰にしゃがみ込み、耳を澄ます。
 低い話し声は、やはり子爵のものだ。客をともなって、庭へ出てきたらしい。
 しかし。
 ――英語かよ!
 叶は思わず小さく舌打ちをした。
 声がだんだん近づいてくる。だがその内容は、半分も聞き取れない。
 やがて月影のもと、子爵の抜きん出た長身が叶の視野に入ってきた。
 叶はさらに身をかがめ、息を殺して庭の様子をうかがった。
 子爵は東翼のほうへ注意を払う様子もない。叶は薬が効いて寝つぶれていると報告を受け、安心しているのかもしれない。
 彼の横には、二人の異国人の姿が見える。ともに赤ら顔ででっぷりと太り、一人は茶色のくせっ毛、もう一人は熟れたトウモロコシのような髪をしていた。
 彼らと並んでも、子爵は頭半分背が高かった。
 英語での会話が弾んでいる。時折り、抑えきれないような笑い声すら混じる。
 子爵も客も、この邸には自分たちの会話を理解できる人間はいないと思っているのか、声をひそめる様子もない。
 たしかに子爵のよどみない英語は、まるで母国語を話しているかのようだ。叶も一応、大学で英会話を学びはしたが、ここまですらすらと話されては、ヒアリングが追いつかない。
 だがそのやりとりのなかで、かろうじて二つ三つ、単語を拾うことができた。
「……Hunting、……Nymph? 狩り――妖精?」
 まさかこの庭で、狩猟をするわけでもあるまいし。
 そう思った時。
 木々の陰から、木霊
(こだま)が姿を現した。
 夜目にもあざやかな友禅の中振り袖。裾にも袂にも深紅の牡丹が咲いている。舞妓のようにだらりに結んだ金糸の帯、髪には蝶をかたどった髪飾り。
 足音もなく、こちらへ近づいてくる。
 紅子だった。
 娘らしく着飾った紅子は、男装していた時よりも逆に幼く、今にも振り袖の重みに負けて倒れ込みそうなくらいに見えた。
 短い、くせのある髪が、血の気の失せた小さな顔をふちどっている。少年のようなその髪は、はなやかな振り袖姿には不釣り合いだ。だがその不自然さ、何かが欠けたような印象が、逆に紅子をこの世の女ではないように、どこか空想めいた存在に見せている。
 二人の異国人が息を呑み、紅子を見つめる。
 子爵が彼らに何事かをささやいた。
 それを合図にしたかのように、紅子がぱっと身をひるがえした。長い袖を翼のように広げ、庭の奥へ向かって駆けていく。
 男たちが呻くような歓声をあげ、それを追いかけ始める。
 狩りが始まった。
 先ほどの会話の意味を、叶はようやく理解した。
 二人の異国人が狩人であり、狩られる獲物は紅子だ。
 この残酷な遊びのために、彼らは子爵邸を訪れたのだ。
 子爵はしばらくその場に立って、三人が消えていった暗がりを黙って眺めていた。その顔には何の感情も浮かんではいない。
 が、奥から細く紅子の悲鳴が聞こえてくると、にやりと口元を歪めて笑った。昨日の貴公子然とした彼からは想像もできない、冷酷で、見る者の背筋を凍らせる、昏い歓びに満ちた笑みだった。
 やがて子爵は庭へ背を向けた。静かに建物の中へ戻っていく。
 人工の森には二人の男と、その獲物だけが残された。
 庭の奥からは、紅子の逃げ回る気配や息づかい、男たちの昂奮が暗雲のように伝わってくる。
 ――どうしよう。このまま様子を見るべきか、それとも部屋に戻り、そ知らぬ顔をして朝を待つべきか。叶は一瞬、ためらった。
 だがその時、庭木ががさがさっと大きく音をたて、揺れた。
 茂みをかき分けるようにして、紅子が飛び出してくる。
 叶は思わず声をあげそうになり、慌てて口を覆った。
 紅子の振り袖は衿も裾もすっかり乱れ、着崩れている。地面に引きずりそうになっている裾が両脚に絡みつき、今にも転びそうだ。髪飾りもどこかに落としてしまったらしい。
 続いて、二人の男が何かわめきながら追いかけてきた。
 振り袖の裾を踏んでよろめいた紅子に、一人が背後から抱きつく。
「きゃ、い――いや、やめてください……っ!!」
 紅子は男の腕を振り払おうともがいた。
 それでも、懸命に悲鳴を押し殺している。
 助けを呼ばず、渾身の力で抵抗することもなく。ただ男の情欲をそそるよう、あらがうふりを続ける。
 少女は自分の役割を承知しているのだ。異母兄の客をもてなすため、異母兄の意に添うために、見ず知らずの男たちに身を任せ、その玩具になろうとしている。
 背けた顔に、堪えきれない嫌悪と恐怖を浮かべていても。
 叶は手すりの陰で身を縮め、懸命に息を殺した。唇が切れるほど強く噛みしめ、けして声を上げないよう左手で押さえつける。
 庭で遊ぶ男たちは、すぐそばのテラスに人がひそんでいることなど、まったく気づく様子もなかった。
 そして、紅子も。
 気づかせてはいけない。それではあまりにも紅子が可哀想だ。この様を誰にも見られたくないと一番強く望んでいるのは、紅子本人だろうから。
 どさり、と、重いものが地面に投げ出される音がした。衣擦れと男の下卑た歓声が入り交じる。
 複雑に結ばれた帯に悪戦苦闘しているのか、英語で吐き捨てるような悪口が聞こえる。そして、絹の振り袖が引き裂かれる、悲鳴のような音。
「あ、いや――嫌ぁ……ッ!!」
 涙混じりの悲鳴を、紅子が自分で懸命に押し殺す気配がする。
 そして。
「くぅ、う……きゃ、あ、あー……ッ!!」
 陵辱の音が聞こえてきた。
 抑えきれない、痛々しい悲鳴。肌と肌が擦れる淫猥な音。男たちの獣じみた息づかい、うめき声。
 男の一人が紅子にのしかかり、荒々しく身体を揺すっている。
 広げられ、高く持ち上げられた紅子の脚が、その動きに合わせて力なく揺れていた。夜の闇の中で、その白さが眼に突き刺さるようだ。
 男が英語で何か口走る。そして雄叫びのような声をあげ、情を遂げた。
 待ちかねたようにもう一人が紅子の身体を裏返し、背後から犯す。
 最初の男は紅子の髪を掴んで無理やり上向かせ、自分のものをその朱唇にねじ込んだ。
「んぅ、うぶ……っ!」
 男たちの欲情が紅子の身体にぶちまけられる。
 紅子は意志のかけらも無くしたように、ただ男たちのされるがままになっていた。
「は、あ……っ。いや、もぉ……あ、あぁ……っ」
 すすり泣くような声が、やがて少しずつ艶を帯びてくる。
 繰り返される陵辱に少女の身体が反応を変え始めていた。苦痛の汗に濡れていた肌が、次第に快楽のうすくれないに染まりつつある。
「だめ、もう……いやあぁ……っ。お願い、もう、だ、あ……ああんっ!」
 その声はあきらかに淫らな悦びを示していた。
 たとえ紅子が口走る言葉の意味はわからなくても、男たちもその変化に気づいたようだ。さも嬉しげに、紅子を貶めるように笑い、さらに激しく紅子を犯す。
 ぐちゅ、じゅくっ、と、粘ついた淫らな水音が響いた。
 一人が紅子を赤ん坊のように背後から抱きかかえ、大きく脚を開かせる。男のものをねじ込まれた無惨な秘花があらわにされた。
 もう一人がそこに顔を埋めた。むしゃぶりつくように濡れた花びらを舐め回す。
 犯される紅子は哀れで痛々しく、そして綺麗だった。
 綺麗で、愛おしげで、踏みにじってやりたくなる。
 真下から貫かれ、揺さぶられ、そして雄の欲望に蹂躙される部分を別の男の舌と唇で辱められて。
「あっ! あ、やぁっ! そんな、だめええっ!!」
 甲高い悲鳴をあげ、紅子はのけ反った。
「いやぁ、い、いっちゃうっ! いっちゃう、だめ、もぉ――あぁああっ!!」
 紅子が泣きながら絶頂に昇りつめる。
 男が吠え、紅子の中に欲望を吐き出す。
 残酷な狩猟は、まだ終わらなかった。






 ぼろぼろに引き裂かれた振り袖を引きずりながら、紅子が庭から戻ってきた。
 帯はほどけ、髪には枯れ葉や屑がついている。振り袖は片方の袖が取れ、下の襦袢も泥まみれになっていた。胸元が押し広げられ、真っ白な乳房がほとんどあらわになっている。だがそれを隠そうとする気力さえ、残っていないようだ。
 男たちはさんざん紅子をもてあそび、満足すると、身動きすらできなくなった紅子を庭に放り出したまま、笑いながら邸内に入ってしまったのだ。
 紅子はしばらくそのまま地べたに横たわっていたが、やがてのろのろと身を起こした。
 どこか焦点の合わない眼をして、一歩、また一歩と壊れた部品を無理やり動かすように、二階の自室へ続く外付け階段を登ろうとする。
 が、その足が最初の一段で止まった。
「……叶さん」
 うつろな声で、紅子はつぶやいた。
「見てたの……?」
 叶は答えられなかった。
「そう、見てたんだ……」
 そう言ってかすかに笑うその顔は、まるで命のない人形のようだった。
「これが、私の仕事――。このために、私はここで飼われてるの」
 紅子は二階へ上がる階段から、足を下ろした。そして叶の立つ一階のテラスへの短い階段を上がってくる。
「びっくりしたでしょ」
 叶は黙って、小さく首を横に振った。
「いいのよ、ほんとのこと言って。私のこと、軽蔑したでしょ。娼婦だ――汚い女だって思ってるんでしょ?」
 かすかな衣擦れの音をさせて、紅子がテラスへ上がってきた。少しずつ、叶の前に近づいてくる。
 間近でよく見れば、振り袖はぺらぺらの安物だった。こうして男に破かれることを想定して、最初から柄は派手だが粗悪なものを選んでいたらしい。これも子爵の指示なのだろうか。
「貿易の取引相手だけじゃないのよ。貴族院の互選選挙の時にも、兄さまは何人もの華族議員をここに連れてきた。私、そいつら全員の相手をしたの。兄さまを貴族院に推挙してくださいねって……。今夜みたいに庭で追いかけっこする時もあるし、縛られたりおかしな道具使われたりすることもあった。どんな気持ち悪い男に犯されても、どんな非道いことされても、それでも最後には私、悦がって、いやらしい声をあげて……! この邸にいる人間は、女中も従僕も、みんな知ってるもの。私がこういう女だって。だからみんな、口もきこうとしないの。見るのも汚らわしいでしょ、こんな淫乱な女――!!」
 少女が吐く自嘲の言葉に、叶はできることなら耳をふさぎたかった。
 紅子が、叶のすぐ目の前に立つ。少し手をあげれば触れるほどの近さだ。
 ふふっと、声もなく紅子が笑った。
「それとも、あいつらと同じこと、してみたい? いいのよ、それでも」
「紅子さん」
「叶さんになら、もっとすごいことしてあげてもいいわ。私、何されても平気だから」
 紅子は叶の胸元にすうっと手を伸ばしてきた。微笑し、涙の残る瞳で叶を見上げる。精一杯の媚態で叶を誘おうとする。
「ベッドに行きましょう。それともあいつらみたいに、外でするの、試してみたい? ここでするなら、ほら、この手すりにつかまれば……」
 だがそれが、叶には痛々しくてならなかった。
「紅子さん、もういい!」
 叶は紅子の手首を掴んだ。
「僕は何もいらない! 貴女の身体を代償にしなくても、僕はここで見たことを誰にも言いませんから!」
「で、でも、だって……っ」
「これも兄上に命じられてのことですか。僕も醜聞
(スキャンダル)の当事者にしてしまえば、黙らせておくことができるから。だから僕に抱かれろと!?」
 紅子はもう何も答えられなかった。
 黒曜石の瞳にみるみるうちに涙があふれ、こぼれ出す。
「叶さん、私……私――っ」
「紅子さん」
 叶は少女を左腕で抱き寄せた。
 ふるえる肩が、息を呑むほど細く、か弱い。
 抱きしめられ、それでも紅子はまだ懸命にしゃくり上げる泣き声を押し殺そうとする。
「いいんですよ。もう……もう、いいんだ――」
 くしゃくしゃに乱れた黒髪に頬を寄せる。
 叶に抱きしめられて、紅子はそのままくずおれるように意識を失った。
 体力も気力も、何もかも限界だったのだろう。体重を全部、叶の胸にあずけても、紅子は哀しくなるくらい軽かった。
 くったりとすべての力を無くした身体を、叶は両腕に抱きかかえようとした。
 そのとたん、
「あ、痛うっ!」
 傷めた肩に焼けつくような痛みが走る。思わずぐらりと身体が揺れた。
 叶は左腕で紅子を支えたまま、テラスに片膝をつき、しゃがみ込んだ。
「今の貴君では無理だろう。異母妹
(いもうと)は私が連れて行く」
 冷ややかな声がした。
 叶ははっと顔をあげた。
「――敷島子爵!」
 だいぶ傾いた月の光に照らされて、敷島省吾の長身が庭に立っている。
 子爵がいったいいつの間に庭へ戻ってきていたのか、叶はまったく気づかなかった。
 長靴
(ブーツ)の音を響かせて、子爵がテラスへ昇ってくる。その姿には髪一筋の乱れもなく、まるでこれから貴族院に赴くかのようだ。
「薬に気がついたのか。用心深い男だな。皆川医師からもらったただの睡眠薬だ、服
(の)んでも別に害はない。いや――貴君も、今となっては服んでおけばよかったと後悔しているのではないか? 素直に眠らされていれば、こんなものを見ずにすんだのに、とな」
「貴方は……!」
「私のすることに何か文句があるのか?」
 感情のない、鋼鉄のような声で子爵は言った。
「ここは私の邸だ。私は敷島家の家長であり、紅子は私の異母妹だ。敷島家の者はすべて、家長に絶対服従するのが義務だ」
 明治維新以来、この国では国家の政策として家父長権の強化増大が図られている。優秀な軍人を育て、軍事国家を支えるためには、それが必要なのだ。
 けれど。
「貴君も存外気の小さい男だな」
 テラスに上がった子爵は、膝をついたままの叶の前に立ち、叶と気を失った紅子を睥睨する。
「何故、紅子を抱かない? 妾腹とはいえ子爵家の令嬢を抱かせてやると言われたら、普通はどんな男も目の色を変えて喜ぶぞ」
 叶は何も答えなかった。ただ、真っ向から子爵の視線を受け止め、睨み返す。
「紅子も私の役に立つことに満足している。口では何を言おうとも、心の底では私に服従することが自分の務めだと理解しているはずだ」
「あ、貴方は――! 貴方は、まさか本気でそう思っているんですか!? 何人もの男のなぐさみものにされて、それで紅子さんが喜んでいるとでも!?」
「大きな声を出すな。紅子が目を覚ます」
 子爵はすっと身をかがめ、叶の腕から紅子を抱き取った。
 壊れた人形のように身じろぎ一つしない小さな身体を、両腕に軽々と抱き上げる。千切れかけた振り袖がだらりと垂れ下がった。
「貴君はここで見たことを記事にするつもりか?」
 ゆっくりとテラスを降りながら、子爵は言った。
「書きたいなら書きたまえ。私はその記事をもみ消す協力者を募るため、そいつらに紅子を抱かせるだけだ。貴君も、貴君の雑誌も完全につぶれるまで、何人でもな」
 庭を抜け、子爵は邸の玄関へと向かう。
 少女を抱いた背の高い姿が完全に闇の中に消えるまで、叶はただ唇を噛みしめ、じっと立ち尽くしていた。
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