秋草の露にしおるるさまよりも
      濡れにし袖をいかに見つらむ
「……つまんない歌」
 淡い紫に染められた薄様(うすよう:極薄の和紙。主に私的な手紙に用いられた)を眺め、楓子(かえでこ)はつい、思ったままのことを口にした。
 ――秋の草花が夜露を浴びて萎れてしまいましたが、私の袖はその草以上に、あなたを恋い慕う涙に濡れております。こんな私をあなたはどうご覧になりますか――
 優美な筆跡の手紙は、まだ露をたたえた桔梗に結びつけられて届けられたそうだ。歌の内容といい、片思いを伝える恋文としての体裁は整っている。
 だが、それだけだ。
「夜露を涙に見立てるなんて、ありきたりだわ。涙で濡れた袖って表現も、もうちょっと工夫があっても良いんじゃないかしら」
「うるさいわね。あんたに届いた歌じゃないでしょ」
 楓子の批評を、刺々しい声がさえぎった。
 部屋の入り口をふさぐように、美しく着飾った姫君が立っている。
 そうやって出入り口の妻戸をふさがれると、狭い楓子の部屋は風どころか外の光もあまり入らなくなってしまうのだが、当の姫君はそんなことはまったく気にも留めない様子だ。
 紅菊襲(くれないぎくのかさね:紅色の菊を表現した、表・紅色、裏・青緑の襲)のはなやかな小袿に濃き色の袴(蘇芳色、未婚女子が着用)、輝くような化粧も毛ほどのくずれもなく、毎日女童(めのわらわ)がふたりがかりで梳きあげる黒髪はつややかに背へ流れ、身の丈に余る。当代一の美女とうわさの高い、四条権大納言藤原忠友(ふじわらのただとも)卿の二の姫、峯子(みねこ)姫だ。
 四条権大納言は現在でこそ同じ藤原氏の古老たちに上をふさがれ、出世も権大納言(ごんだいなごん:権は臨時の、仮の、という意味。内裏の急務があり中枢の人数が足りない時に臨時に設けられる役職であるが、のちには役人の人数に対し昇進させる役職が足りなくなった時にもこの役職が設置された)で頭打ちとなっているが、三の姫を東宮女御として入内させている。彼女がうまく男皇子(おとこみこ)を産み、その子が至高の冠をいただいた時には、廟堂は帝の外祖父となる彼の天下となるはずだった。もっとも肝心の東宮はまだ御年十一才、くわえて当代の帝も心身共にご壮健で、御代替わり(みよがわり)は当分ありそうにないのだが。
「お返しの歌を詠んで。早くしなさいよ。文使い(手紙を運ぶ使者)を待たせてるんだから!」
「わかりました」
 楓子は古びた文机に向かい、細筆を手に取った。この机が室内にあるほぼ唯一の調度と言っていい。女性の部屋にはつきものの几帳や屏風もない。
「わかってると思うけど、お歌をくださったのは宰相中将藤原基実(ふじわらのもとざね)さまよ。太政大臣藤原義基(ふじわらのよしもと)さまのご子息の」
 峯子は肩をそびやかし、楓子を見くだしていかにも自慢げに言った。
「まあ、たしかにつまんないお歌よね。基義さまは宮中でもちょっと冴えない方だってうわさも聞いてるし、この歌もどうせおそばの女房か誰かが代作してるんでしょ。それでこの程度なんだから、かなり問題よ。そんな役立たずばっかり抱えてる主人の器量も知れるっていうもんだわ」
 でもね、と峯子は意味ありげに含み笑いをした。
「太政大臣の息子を逃がすほど、わたし、ばかじゃなくってよ。あの若さで宰相中将、参議の地位ももう目の前だし、姉君は今上さまの後宮で一番時めいてらっしゃる麗景殿女御、静子さまよ。中将さまのもとへは、黙ってたって大臣の座が転がり込んでくるはずよ!」
「まあ、そうでしたの」
 楓子は気のない返事をした。実際、峯子の婿が大将だろうが大臣だろうが、楓子には何の関係もないのだ。せいぜい、峯子が正式に婿取りをしたら、自分のところへ持ち込まれる縫い物がまた増えるだろう、そのくらいしか思わない。
 素っ気ない態度に峯子は一瞬かちんときたようだが、すぐに勝ち誇った笑みを浮かべ、楓子を見下ろした。楓子の擦り切れた袿や色褪せた袴をことさらじろじろと眺め、わざとらしい猫なで声で言った。
「そうよねぇ。あんたには関係ない話だったわね。あんたは婿取りどころか、まともに人付き合いさえできなかったんだもの」
 なんて可哀想なのと嘲笑う峯子を、楓子は強く唇を咬み、無視しようと努力した。
 返歌の代作など女童でも使いにすればすぐに言いつけられるのに、姫君がわざわざ自分で渡殿の端にある楓子の部屋まで出向いてきたのも、本当はこうやって楓子を嘲笑いたいからなのだ。峯子の母、権大納言の北の方(正妻)方子(まさこ)など、楓子の顔を見るのすら嫌がっている。
「それで、どんなお歌が良いのでしょう」
 声がふるえそうになるのを必死で抑えながら、楓子は言った。今は和歌を作ることに集中しよう。
「そうねぇ。まだ二通めだし、すぐになびいちゃ安っぽい女だと思われるわ。切り返しの歌にして」
 切り返しの歌とは、男性からの恋歌に対し「その気はありません」とつれない返事をする歌である。けれどあまりにも容赦なく断ってしまうと、男が諦めて手を引いてしまうかもしれない。女の方にも気がある場合は、断りはするが可愛らしさものぞかせて、まだ望みがあるのだと男に思わせなければならない。
 言ってみれば、和歌のやりとりは知的な遊戯だ。自分の持てる文学の知識やユーモア精神、美意識を総動員して、自分の本意をさりげなくほのめかし、あるいは贈る相手に謎をかける。その真意を読み解けなければ相手の器が足りないということ。そうやって何度も和歌をやりとりする間に、相手の知的レベルや人柄を推し量るのだ。
 こういう言葉の遊びはとても楽しい。たとえそれが誰かの代理であっても。こちらが仕掛けた謎に相手がすぐに気づき、打てば響くように返事を返してきた時など、つい、他人の手紙の代作をしているだけなのだということも忘れそうになる。
 楓子は、峯子が用意した薄様にさらさらと和歌を書き付けた。
   数ならぬ身をば思はめ白露の
     散りたる先をたれか知るらむ
 ――わたしなどあなたにとってはその他大勢のひとりでしょう。秋の露がそこら中に散っているように、あなたの涙もどこの女人のためのものやら、誰にわかるでしょう――
 軽々しい誘いかけにちょっと傷ついて、拗ねているような可愛い女を演出してみたつもりだ。わたしを口説くならもっと本気になって、というほのめかしを、中将本人には無理でも、おそばに仕える女房か誰かが酌み取ってくれたらと思う。
「ふん……。まあまあね」
 楓子が詠んだ和歌を眺め、峯子は言った。だがその表情はかなり満足げだ。
「別にわたしが詠んでも良かったんだけど、ほら、向こうもどうせ誰かの代作じゃない。だったらこっちも、あんたの代作程度でちょうど良いのよ」
「ええ、そうでしょうね」
 楓子は顔もあげなかった。
 峯子が詠んだとされる歌のほぼすべては、実は楓子が代作している。峯子のものだけではなく、親の権大納言や北の方があちこちに出す手紙に添える歌も、この頃は楓子が代作していた。
「詠んで欲しい返歌はまだたくさんあるのよ。ほら、ご覧なさい!」
 文机の上に、ばさばさと数枚の薄様が放り出された。みな、峯子のもとに届いた恋文らしい。紅、緑、浅黄、刈安染め(かりやすぞめ:濃い黄色)。塗りも剥げた文机の上はまるで花が咲いたようになった。
「ま、本命は中将さまだけど、ほかの方々も、独身のうちはお友達としておつき合いを続けててもいいじゃない? この中の誰がいきなり出世するかわからないし。選択肢は多い方がしあわせだわ」
 そして峯子は勝ち誇ったように高く笑った。
「あら、ごめんなさい。他人の代作でしか恋の歌も詠めない人には、可哀想なお話だったわねえ!」
 楓子は何も言わなかった。眼を伏せ、唇をきゅっと噛みしめて、すべての思いを胸の中に押し込める。
 ……このくらいのこと、何度も何度も聞かされてきた。今さら腹を立てるほどのことでもないわ。
「ああ、そうだわ。それが終わったら、月の歌を何首か用意しておきなさいって、お母さまがおっしゃってたわ。今夜は月見の宴だから」
「月見の宴?」
「そう。宰相中将さまもおいでになるわ。ほかにも、このお手紙をくれた殿方はみんないらしてくださるはずよ」
 楓子は思わず眉をひそめた。
 それでは、母屋の南庭や釣殿あたりは、今夜は夜通しどんちゃん騒ぎが続くのだろう。十五夜の風情もあったものではない。
 優雅な貴公子や美しい姫君が楽器をつま弾き、歌を詠み交わす管弦の宴はあくまで物語の中だけのこと。実際に権門貴族の屋敷で催される宴会は、風流ももののあはれも縁遠いしろものだ。出席者たちは宵のうちから空が白むまで、延々浴びるように酒を飲み続ける。始めはそれでも体裁を保つため、何首か歌が詠まれたりもするが、宴もたけなわとなれば、べろべろに酔っぱらった貴族がお酌をつとめる女房を卑猥な冗談でからかうくらいならまだましで、貴族同士、掴み合いの喧嘩になることも珍しくない。
 たちの悪い公達(きんだち)だと、酔った勢いで屋敷の使用人に手を出したりする。そして大概、屋敷の主人もそれを黙認する。使用人の身体を自由にすることも主人の権限、そして客人へのもてなしの一環と考えているのだ。彼らは自分たちに雇われている下人や水仕女(みずしめ)など、最初から同じ人間とも思っていない。
 ……みんなには、宴席にはできるだけ近づかないように言わなくちゃ。特に年端もいかない女童たちは屋敷の北側に隠れているようにと。
 敷地の北側は鬼門にあたり、通常、台所や風呂など他人の目に触れさせたくない下世話なものを集めて置く場所とされる。そんなところにまでのこのこやってくるような公達は、さすがに少ないだろう。
 それでも今夜は、屋敷の使用人たちは宴が終わるまで寝ることも許されず、こき使われることになるのだろうと、楓子は重たくため息をついた。
 だが峯子は、そのため息を別の意味に捉えたらしい。
「なぁに、あんたも宴に出たいの?」
 まさか、と楓子が首を振る前に、峯子はけらけらとさもおかしそうに笑った。
「でも残念ねえ。あんたの母君はわたしのお母さまの異母妹、れっきとした亡き権大納言の姫だったけど、父親が誰だかわからないんですものねえ!」
 楓子は息を飲んだ。
 今まで何度も何度も聞かされてきた言葉。なのに、何度でも、初めて言われた時と同じだけの衝撃を持って、楓子の胸に突き刺さる。
「そんな娘がこの屋敷にいるってわかっただけでも、本当は大騒ぎよ。とんでもない醜聞だわ。父親が身分違いの受領とかっていうならともかく、名前も素性もわからないなんて、あんまりにも恥ずかしくって、どこかの寺に入れることだってできやしないわ。ほんと、どこの破戒坊主だったのかしら、あんたの父親は。もしかしたら盗賊や山賊のたぐいかもしれないし、鬼の一族の頭領かもしれないわねえ!」
 ……違う。違うわ。わたしのお父さまは、そんな人じゃない。
 怒りと哀しみの言葉を、楓子は必死に抑えつける。
「お話は、お済みでしょうか」
 低くくぐもった声は、抑えきれない感情にふるえていた。
「お済みでしたら、出ていってください。和歌を作るのに専念したいと思いますので」
「な……、なによ、その言いぐさは! わたしが間違ってるとでも言うの!? あんたなんか、お父さまとお母さまのお情けにすがっているだけの孤児のくせに!」
 きんきんと頭に突き刺さるような甲高い声で、峯子はわめき散らした。その高慢な顔を思いきりひっぱたいてやれたら、どれほど気持ちいいだろう。
 だが現実に相手を平手打ちする権限を持っているのは、峯子だけなのだ。
 ……また叩かれるかもしれない。楓子は覚悟した。せめてその瞬間まで目をそらさず、峯子を正面から見据えてやろうと思う。
 けれどその時、
「峯子、峯子や! 中将さまへのお返事はまだなの!? 文使いをいつまで待たせておくつもり!?」
 簀の向こうから、峯子を呼ぶ声がした。
「いけない。お母さまが呼んでるわ」
 峯子は楓子が代筆した手紙をいい加減に折り、ふところへしまった。そしてばさばさと乱暴に裾をさばき、妻戸をくぐり抜ける。
「おぼえてらっしゃい。さっきのあんたの態度、お母さまに言いつけてやるから!」
 部屋の外に控えていた女房たちを引きつれ、峯子はようやく自分の住まいである東の対へと戻っていった。
「誰か、庭から花を折ってきて! なんでもいいわ、秋の花を――ばか! これは撫子(河原撫子・真っ赤な花が咲く)じゃない、夏の花よ! 秋の歌の折り枝(手紙を結びつける植物)に使えるわけないじゃないの!」
 聞く者すべてを苛立たせるような峯子の声が遠ざかっていく。
 やがてそれが完全に聞こえなくなってようやく、身体中の空気を全部吐き出すように、楓子は重たいため息をついた。
 ……やっと出ていってくれた。
 けれど今のやりとりは、峯子の口から必ず北の方の耳に入れられることだろう。
 身よりもない、恥ずべき娘が、養ってもらっていることへの感謝も忘れて恩人の家族に逆らったとして、今度は一体どんな罰を与えられるのか。……竹の笞(むち)で打たれるのも、食事を与えられないのも、もう慣れた。徹夜で縫っても追いつかないくらいの仕立物を押しつけられることにも。
「いいわ。今は先に、歌を詠んでしまわなくちゃね」
 楓子は細筆をとり、下書き用にとくしゃくしゃの反故紙をていねいに広げた。にじんだ涙を拭い、懸命に気持ちを切り替える。
「まずは返歌ね。えーと、これは誰からの歌かしら」
 こうして歌を詠むことに集中していれば、そのあいだはどんな嫌なことも忘れられる。三十一文字の言葉が織りなす夢幻の世界に、心がはばたいていく。物語の女君たちのように、あるいはこの恋歌を捧げられた当人であるかのように。
 萩、菊、満ちる月。さまざまな秋の風情を詠み込んで、優しい恋の風情が語られる。美しい言葉を書き連ねることに、楓子もいつか夢中になっていった。優しい歌には思いやりをこめた返事を、軽率な誘いかけにはぴしゃりと容赦ないしっぺ返しを。この時だけが、楓子の幸福だった。
「あら?」
 淡い青に染められた薄様に散らし書きされた一種の歌に、楓子は思わず目をとめた。
   秋の日の雲居に聞こゆ雁が音の
      影を見ずしていかが恋ふべき
「……ま!」
 ――秋の空の重なり合う雲の彼方に雁の声が響き渡るように、美しいあなたのうわさは世間に広まっております。が、うわさばかりで肝心のお姿が拝見できないのでは、どうして恋に落ちることができましょうか――
 うわさどおりの美人かどうか、とにかく早く逢ってみたいのですよと、かなり強引な誘いかけの歌だ。詠んだ男の自信たっぷりの笑みさえ浮かんできそうだ。
 差出人の名は、薄様の端に短く『あきひら』。
「あきひら……? たしか、蔵人少将さまよね」
 蔵人とは帝の秘書官のような役職である。律令には記載されていないが、その分職務の幅は広く、帝と他の重職にある貴族たちとの仲介、折衝から、帝の文書の代筆、私事全般の補佐にまで及んだ。帝の手足となって働く重要な役職であり、若い貴族の中でも特に有能な者が選ばれることが多かった。若公達にとってはこれが宮中での出世の登竜門であった。
 蔵人少将源明衡は清和源氏の流れを汲む名門の出で、帝の信任も厚く、同年代の若公達の中では群を抜く出世頭だという。姿も良く歌才もあり、年頃の姫を持つ家からは恰好の婿がねとして引く手あまたなのだとか。
 どんな女でも望むがままの貴公子が、権大納言家の姫を最適の妻と見定めたのか、それともうわさの美女をたわむれに手折ってみるつもりなのか。
「図々しいわね。誘う女がかたはしからあなたになびくと思ったら、大間違いよ」
 楓子もにこっと勝ち気そうな笑みを浮かべた。
 そして青い薄様を裏返し、そこへさらさらと和歌を書き付けた。




   いずちとも飛びゆく雁はよかれども
     雲居に立ちぬ名を惜しむかな
「見ろよ、良成(よしなり)。小癪な返事をよこしてきたぞ」
 容赦なく突き返された手紙を広げ、明衡は満足げに笑った。
 ――どこへでも飛んでいける雁のようなあなたは、どんなうわさが立とうともかまわないのでしょうが、私は自分の名がくだらないうわさにならないよう、身を慎んでおりますの――
「別の紙を用意せずに、わざわざ俺の書いた手紙の裏に書いて突っ返してくるなんて、またずいぶんと小憎らしいことをしてくれる。ここまでやられたら、逆にこっちももう黙ってられなくなるじゃないか」
「はあ、そういうものですか」
 明衡のかたわらに控える良成は、明衡の乳母子(めのとご:乳母の子、乳兄弟)であり、子どものころからずっとおそば去らずで明衡に仕えている。単なる主従の絆を越えた強い信頼関係があると、良成はひそかに自負していた。だがそれでも、このやんちゃで少々ひねくれ者の若君の気性を完全に飲み込んでいるとは言い難い。
「四条権大納言の二の姫からのご返歌でしょう? いくら美人か知りませんが、またずいぶんと気位が高いというか、可愛げのない返事をよこしたものですね」
「そういう女を強引に口説き落として、骨の髄まで惚れさせるのがおもしろいんじゃないか。それに――」
 見ろ、と明衡はもう一枚の手紙を取り出した。
 少しくすんだ藤色に染められた薄様には、有名な薄墨桜(うすずみざくら)の古歌を引用した哀悼の和歌が記されている。
「先月、母上の飼っていた猫が死んだ時に、権大納言の北の方がよこしたおくやみの歌だ」
「ああ、あの女院さまからいただいた唐猫ですか。やはりご拝領猫ですから、権大納言家でも気を遣ってくださったのですね。人間並みにおくやみをくださるとは……」
「猫の仔細なんかどうでもいい。この二通をよく見比べてみろ」
 明衡がかざした二枚の薄様の筆跡は酷似していた。あきらかに同一人物によるものだ。
「和歌の代作なんて良くある話だ。だが、たかが宮仕え(この場合は貴顕の家に勤める、の意)の女房の分際で、この俺にこんな小憎らしいことを言ってくるんだぞ。見過ごせるわけがないだろう」
 良成は首をかしげた。
「ですが、和歌を詠んだのは女房でも、それはあくまで姫君のお気持ちを代弁しただけなのでは……」
「いや、それはない」
 良成の手を借りて葉菊重(表・白、裏・紺青の色目。襲は女房装束の色目、重は一枚の衣の表地と裏地の色目を表す)の直衣に袖を通しながら、明衡は即座に否定した。
「こんな洒落た仕返しができる姫なら、今ごろはとっくに後宮にあがっているさ。なんと言っても、主上にはまだ男皇子がおられないんだから」
 あおによしと詠われた奈良の都から遷都して百年余り。平安京には有史以来初めて日本独自の文化が花開こうとしていた。
 だが内裏の中心となるべき帝は、数代にわたって幼帝や心身共に病がちな帝が続き、律令にさだめられた親政の形態を保つことが難しくなっていた。
 かわって日本の政治中枢を占めるようになったのが藤原氏である。彼らは自分の娘を次々に帝の後宮へ送り込み、次代の帝を産ませた。そしてその子を即位させると、帝の外祖父という立場で絶大な権力をふるったのだった。
 が、先年、その内裏に異変が起こった。弱冠十九才の帝が突然の病で崩御し、その後を継いで至高の冠を戴いたのは、五十年以上出現しなかった壮年の帝だったのだ。齢三〇を越えて玉座に登った今上帝は先帝の従兄にあたる人物で、十年以上を「さかしまの東宮(帝より年上の皇太子)」として過ごした経験を持つ。もとはといえば帝直系の男子が次々に夭逝したこと、そしてなにより藤原氏の内紛や駆け引きの結果によるものなのだが、心身共に健康で、長い東宮時代に培った政治的見識も持つ帝の即位は、これまで一天万乗の君を蚊帳の外に置いて政争を続けてきた貴族たちに少なからぬ動揺を与えていた。
 明衡には、その今上帝に見込まれて一足飛びに蔵人少将にまで出世したという自負がある。
「後宮で妍を競うには、単に生まれが良くて顔が綺麗なだけじゃだめなのさ。あの女だらけの城で敵を作らず、なおかつ裏ではこっそり競争相手の足を引っ張る知恵と工夫がないとな。とある女御の妹姫が姉君の食事を毒見して、身替わりに毒殺されたなんてこともあるんだ。生半可な娘じゃとうてい生き残れない世界なんだ」
 あの姫じゃ無理さ、と明衡は笑った。




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