「夏に権大納言が催した蛍見の宴にも招かれたんだが、ひどいもんだった。蛍を庭に放つのが早すぎたのか、みんな逃げちまってて、蛍火なんかちらほらと数える程度だった。なのにあの姫君ときたら『蛍ぞほむらのまさごなりける』なんて平気で詠んだんだぞ」
「えー……、蛍の光がずいぶんたくさん、浜の砂のようにまき散らされてますなぁと、そういう意味かと思いますが」
「そう。歌自体はなかなか個性的な見立てでおもしろいが、状況に合ってない。どこにそんな沢山の蛍がいるんだって話だよ」
 つまり権大納言家の姫は、状況が変化したことにも対応できず、あらかじめ別人が代作しておいた和歌をそのまま読み上げたということだ。しかも大勢の招待客の前で。
 それは同時に、歌を作った当人がその宴席には出席できなかったことも意味する。代作者が女房として姫のそばに控えていたのなら、すぐに別の歌を用意できただろう。代作者はおそらく中級以下の女房で、高貴な客人の集まる宴席には近寄れなかったのだ。
「ま、客のほとんどはべろんべろんに酔っぱらってて、他人の歌なんかまるで聞いちゃいなかったけどな。さすがに権大納言もそこまで間抜けな娘を後宮に入れる気にはならなかったんだろう。母親の身分が低い一の姫は釣り合いの取れた受領の妻にして、少しはマシな出来の三の姫を東宮に差し上げたってわけだ」
 酷評しながらも、明衡はいそいそと外出の支度をしている。装束にも小物にも念入りに香が焚きしめられていた。
 ふわりと鼻先をかすめたその薫りに、良成は覚えがなかった。ふだん明衡が愛用している薫衣香(くぬえこう)の薫りではない。
「少将さま。この薫りは……」
「心配するな。女からの移り香じゃないから」
「わかってます。こんな異国風の薫りは女性がもちいるものじゃないでしょう。いったいどうなさったのですか」
「おまえのその物言い、乳母にそっくりになってきたな」
 そして明衡はかすかに微笑んだ。
「とある方に教わった秘伝の香だ」
 貴族たちがもちいる香は、使う本人が作るのが原則だった。香木の配合や土中で寝かせる期間などそれぞれ独自の工夫を凝らし、他者には教えない一族の秘伝などもあった。
 明衡の袖から薫る香は、白檀が基調なのかさらりと乾いてどこか異国めいた、不可思議な優しさを感じさせる薫りだった。
「とある方とは?」
「秘密だ。それだけはおまえにも言えない」
 良成はそれ以上の追求を飲み込んだ。若君がこんなふうに隠す相手は、主上(しゅじょう)ただお一方だ。おそらくこの香は主上が調合なさったのだろう。主上は若い蔵人少将をまるでご自分の息子か弟のように思ってくださり、ご自分が工夫なされた秘伝をお教えくださったのだ。だがそういった君寵を自慢にすると、ほかの貴族たちの嫉妬を買いかねない。それを思って明衡は、香のいわれを誰にも教えないつもりのだろう。
 良成はひとつ小さくうなずき、それきり香のことは忘れたように口にしなかった。
「それでもお出かけになるんですね。今夜の権大納言邸の宴席」
「行くさ。ただし、俺が逢いに行くのは二の姫じゃない。この女だ」
 明衡はもう一度、青い薄様を手に取った。
 そういうことかと、良成は内心ため息をついた。姫の婿がねとして宴に招かれているのに、姫を無視してこっそり邸の使用人に手を出そうだなんて、主人にばれたら邸を追い出されるどころの騒ぎではすまないだろう。下手をすれば明衡の政治生命にまでかかわってくる。
 高貴な血筋を受け継ぎ、美貌にもそれに勝る才覚にも恵まれたこの若君は、よけいな恋の冒険ばかり求めたがるのだ。そして――
「歌を代作しているのが北の方付きの女房だったら、どうなさいます」
「だからおまえを連れて行くんだ」
「は!?」
 ……やっぱり、来た。
「おまえ、権大納言家の女房にあたって、この歌の女のことをさりげなく聞き出してこい。同じ使用人どうしのほうが、話も早いだろう」
「ええ、まあ……。それで本当に、北の方付きのおばちゃん女房だったらどうなさるんです」
「その時は和歌の教授をしてもらってるとでも思って、何通か手紙のやりとりをして、頃合いを見て『届かぬ想いに疲れました』とでも言って、権大納言家と上手く縁を切る。なーに、向こうも本命は宰相中将なんだ、当て馬がひとりふたり減ったって、ちっともかまわんだろうさ」
「はあ、そうですね……」
 この歌を詠んだのが九十九髪(つくもがみ)のおばばさまであってくれと、良成は本気で願った。




 月の歌を十数首書き上げて、楓子はようやく筆を置いた。
 このあいだの蛍の宴のようなことにならないよう、月が雲に隠れてしまった時の歌、雨が降ってきた時の歌も作ってある。
 あの時はひどかった。
「あんたが悪いのよ、蛍が少ない時の歌もちゃんと用意しておかないから! おかげで恥をかいたじゃない!」
 歌が状況に合っていないなら「まだできません」とかなんとかごまかせば良いものを、馬鹿正直に読み上げてしまった姫君は、さんざん楓子を責めたのだ。
「読まなければ良かったのに」
 という楓子の常識的な意見は
「あれば読んじゃうに決まってるでしょ、そんなこともわからないの、ばか!!」
 という峯子の金切り声にかき消されてしまった。そしてこの邸内でどちらが正しいとされるかと言えば、もちろん峯子のほうなのだ。
 そのあとしばらく楓子は筆も墨も取り上げられ、歌を詠むこともできなかった。ふたたび許可されたのは、権大納言邸に楓子以上に良い歌を詠める者がおらず、峯子や北の方が手紙を書くのに困るようになったからだった。
 楓子は文机の端に置いてあった古今和歌集を手に取った。
 すっかり古びて手擦れた歌集は、母から受け継いだものだ。これだけが母の、そして父の形見だった。
 他に母が持っていた着物やわずかばかりの調度などは、みな権大納言家の人々が取り上げてしまった。人前に出ることすら許されない恥ずべき娘を養ってやるのだから、そのくらいの代価は当然だと言って。
 楓子が初めてこの屋敷の門をくぐったのは、ようやく袴着(はかまぎ:女子が初めて袴を着ける儀式。これを境に乳幼児と少女とを区別する)を終えたばかりのころだった。粗末な網代車(あじろぐるま:簡素な牛車・中流貴族や女房などが使用する)に乗って母とふたり、正門ではなく北側の門から人目をはばかるように入ったことを覚えている。
 その時はまだ、この屋敷の主人は先の大納言藤原通隆(みちたか)、楓子には祖父にあたる人物だった。通隆の北の方は没し、女主人として屋敷の切り盛りをしているのは母の異母姉にあたる方子だった。現権大納言である忠友はこの時、婿として屋敷に通ってきていたのだ。
 美しく着飾った方子は二の姫峯子、三の姫寿子、太郎君(長男)則友を両側にまとわりつかせ、楓子と母の前に立ってふたりを見下ろした。化粧した顔は人形のように表情がなかったが、その眼はぎらぎらと燃えるような怒りと憎しみをたたえ、楓子にはまるで彼女が自分の母を憑り殺すのではないかと思えた。
 夫が夜ごとにあちこちの妻のもとへ通う通い婚が普通であったこの時代、父親が同じでも母親が違えば赤の他人同然だった。楓子の母も、自分の異母姉に会ったのはこの時が初めてだったのだ。
「お父さまの名前に泥を塗っておいて、よくものこのこと戻ってこられたものだこと」
 それが、方子の異母妹に対する第一声だった。
「親の決めた縁談を嫌って、勝手に通わせた男と駆け落ちまでしておきながら、なんて図々しい。おおかた男に棄てられて、行き場がなくなったからでしょう」
「いいえ……。あの方は去年(こぞ)の冬、亡くなられました」
 消え入りそうな声で、母は答えていた。
「死んだ? まあ、そういうことにしておいたほうが、都合が良いでしょうねえ。どうせどこぞの寺を追い出された破戒坊主か、夜盗山賊のたぐいですもの」
「いいえ! いいえ、違います。あのお方は……!」
「あのお方? おや、おまえの男はそんな尊いお方だったとでも言うの!? なら、その名を言ってごらん! どこの誰なの、さあ!!」
「そ、それは……」
 母はうつむき、押し黙ってしまった。
「言えないのでしょう、それごらん!」
 方子は勝ち誇ったように言い募った。見かねたおそば仕えの女房が
「お方さま。お子さま方の前です、もうそのくらいで……。相手は病人でございます」
 と袖を引かなければ、延々と母を罵り続けていたに違いない。
 その時初めて、楓子は自分の両親が周囲に祝福されて結ばれたのではないことを知った。
「お義姉さまのお怒りはごもっともですが、わたくしもこのとおり病がちです。ですからせめて娘を……この楓子を、お父さまにお願いしたくて――」
 それだけのことを訴えるにも、母の呼吸は乱れ、酷く苦しそうだった。
 思えばあの時すでに、母は自分の死期を悟っていたに違いない。夫にも先立たれ、幼い娘を託せる唯一の相手として、自分を勘当した父のもとへ恥を忍んで帰ってきたのだ。
 父権大納言通隆が、
「勘当した娘とはいえその子ども、孫の楓子に罪はない。四条大納言家の姫として相応の扱いをしてやらねばならぬ」
 と言ってくれたおかげで、母も楓子も四条の屋敷に住むことを許された。
 それから間もなく、楓子の母は淡雪が消えるようにはかなく亡くなってしまった。
「泣かなくていいのよ、楓子。母はお父さまのおそばへ行くだけです。これからはお父さまとふたり、いつでもあなたを見守っていますからね……」
 父のことはほとんど覚えていない楓子にとって、それは初めて理解した人の死というものだった。
 それからも祖父の通隆が生きているあいだは、楓子は四条邸でよそよそしいながらもそれなりの扱いを受けることができた。通隆は口の重い老人で、孫娘と親しく話をすることなどなかったが、時には
「これは、おまえの母が幼い頃に弾いていた琴だ。おまえも良く練習しなさい」
 などと言ってくれることもあった。
 が、通隆が死去すると状況は一変した。
 方子は夫の権大納言忠友を新たな四条邸の主人として迎え入れることを決め、同時に楓子をそれまで暮らしていた西の対から、渡殿の中にある塗籠(ぬりごめ)のような狭い一室に押し込めた。
 渡殿は寝殿造りの建物(対)をつなぐ渡り廊下だが、それ自体も屋根と壁を備えた細長い建造物であり、小さな部屋がもうけられていることもあった。だがそれは主に、使用人たちのための部屋だった。
「これでもぜいたくすぎるくらいですよ。父親のわからない娘になど!」
 母の形見の香炉も鏡も取り上げられた。祖父通隆がくれた琴も。
 それから楓子は同い年の従姉妹峯子の侍女として扱われてきたのだった。
 方子とその家族は、ことあるごとに楓子を父親のわからない娘、賤しい娘と罵った。そして死んだ楓子の母のことも、得体の知れない男に騙されて駆け落ちしたあげく、男に棄てられた恥知らず、と。
「違うわ! わたしのお父さまとお母さまはそんな人たちじゃない!」
 幼かった楓子は、両親が口汚く罵られるたびに、懸命に言い返した。
 たしかに父の顔も名前も思い出せない。けれど楓子の脳裏には、振り分け髪(おかっぱのような女の子の髪型)を優しく撫でてくれた、大きな手の記憶があった。
 楓子、と呼んでくれたあたたかな声。しゃらしゃらと澄んだ衣擦れの音。そしてその袖を包んでいた薫り。さらりと乾いてどこか異国めいた、不思議に心安らぐ薫り。
 あんな薫りを持つ人が、伯母たちの言うような卑しい人間であるはずがない。
「お父さまは優しい方だった。お母さまはあなたなんかより、ずっとずっときれいだったわ! あなたはやきもちを妬いているのよ。自分がお母さまほどきれいじゃないから!」
 目に一杯涙をため、それでも怖れることなくまっすぐに屋敷の女主人を睨み返した少女の言葉は、ある意味真実を言い当てていたのだろう。そのあと楓子は方子に笞で血が出るほど撲たれ、丸一日食事も与えられなかった。
 着るものは当然、峯子のぼろぼろのお下がりばかり。裳着(もぎ:女子の成人式)も行われなかった。
 物語の女君ならこんな時、力強い味方となってくれる女房や乳母がいるものだ。だが楓子にはそんな相談相手もいなかった。楓子の出自を知っている使用人たちも、陰で同情はしてくれるが、表だって楓子をかばうと主人である北の方や姫君からどんな叱責を受けるかわからない。黙って見て見ぬふりをするしかないのだった。
 あれをして、これをしてと峯子のわがままに振り回され、残りの時間は権大納言家の人々のため、山のような縫い物をする日々。楓子が屋敷を追い出されなかったのは、吝嗇(りんしょく:けち)な方子が無給で働く便利な侍女を手放したくなかったからなのだ。
 ことあるごとに賤しい生まれと蔑まれ、いじめられる孤独な日々。
 その中で楓子の唯一の喜びが、和歌を詠むことだった。
 和歌の基礎は亡き母から教わった。そのあとは残された古今集を頼りに独学で覚えていった。
「この古今集はね、あなたのお父さまがお手ずから書写なさったものです。歌道の教本としてだけではなく、お習字のお手本としてもお使いなさい」
 印刷技術のない時代、書物はすべて人の手から手へ書き写される貴重なものだった。筆跡はその人の人格すら現し、楓子にとって、顔も名前も覚えていない父の唯一の面影がこの古今集だった。
 楓子の歌才を知ると、まず峯子が代作を頼むようになり、最初は「あんな娘に代作させるなんて」と叱っていた北の方、方子もいつの間にか楓子に代作を言いつけるようになった。
 歌を詠んでいる時は、この世のどんな苦しみや哀しみも忘れられる。今は亡き両親がそばにいて、楓子の歌にあれこれ感想を言ってくれているような気がするのだ。
 三十一文字の中に描かれた、恋の歓び、命のはかなさ。四季の移ろいをこめて詠み上げられる短い定型詩の中に、この世のすべてがある。
 ……もしもお祖父さまやお母さまが生きていらしたら、わたしも権大納言家の姫として、あちこちの歌合わせ(和歌の品評会)に招かれていたかしら。
 そんなことをぼんやりと思い、そして楓子はひとりつぶやいた。
「……ばかね、わたし」
 そんなこと、あるわけがない。ないものねだりをしたって、虚しいだけだ。
 諦めることにももう慣れた。こうしてひとりぽっちで生きていくことが自分の運命なのだと、自分に言い聞かせる必要もないくらいに。
 やがて方子の使いの女房が部屋へ来て、楓子が詠んだ歌を受け取っていった。それから間もなく、日が暮れるのを待ちかねたように母屋のほうから管弦の調べが聞こえてきた。
「月見の宴が始まったのね……」
 楓子は蔀(しとみ:壁代わりの格子戸。上下に開く)を開け、空を眺めやった。
 さいわい夜空は雲に覆われることもなく、宴にふさわしい満月が煌々と輝いている。
 楓子の唇から、ふと古歌がこぼれ落ちた。
「月見れば千々にものこそ哀しけれ――」
「我が身ひとつの秋にはあらねど、ですか?」
 突然、男の声が下の句を詠み上げた。
「たしかに美しい月だが、あの明るい月を眺めて哀しみにひたるのはあまりふさわしくないと思いませんか? ことにあなたのように、素晴らしい才能に恵まれた若い女性は」
 張りのある若々しい男性の声。楓子のまったく知らない声だ。蔀のすぐ外から聞こえる。
「だ、誰!?」
 楓子は慌てて立ち上がった。行儀は悪いが、蔀を閉じようと背伸びをして手を伸ばす。が、
「わかりませんか? あなたからこの歌をいただいた『雁』ですよ」
 蔀の格子のあいだから、薄様の切れ端がすっと差し入れられる。それは、楓子が容赦ない切り返しの歌を書き付けてやった蔵人少将の手紙だった。
「まさか、少将さま!?」
「ええ。蔵人少将源明衡です」
格子に映る影はすらりと背が高く、優美だった。その声は歌から想像したとおり、あふれんばかりの自信に満ちている。
 ……な、なんでこんなところに少将さまが!?
 蔀を閉めようと格子の外に差し出した楓子の手を、外から扇がそっと、けれど有無を言わせない強さで抑えつける。扇が必要な時期ではないが、酒の火照りをさますために持ち歩いていたのかもしれない。
 身分の低い下人の男女ならともかく、殿上人と呼ばれる男性がこんな強引なやり方をするなんて、聞いたこともない。
「お、お人違いでございましょう。二の姫は今、宴の席にいらっしゃいます」
 困惑にふるえる声で説明しても、
「いいえ、間違いではありません。私はあなたに逢いに来たのですよ。この歌を詠んだのはあなたでしょう?」
 明衡はまるで意に介さない。それどころか、さらに蔀に身を寄せてくる。そのまま少し身体を乗り出せば、室内にいる楓子の姿もすべて見えてしまうだろう。
「ですからその歌は、姫君からのお返事ですので……」
「おや。ではこの歌には、あなたのお気持ちはまったく含まれていないと?」
「それは……」
 どんな女も自分の思い通りになるものだと慢心している貴公子に、少し思い知らせてやりたい。そう考えたのは楓子自身だ。峯子の気持ちではない。峯子はこんなふうな返事を書けという指示すらしていなかった。
 だがそのいたずらに、少将がまさかこんな形で仕返ししてくるなんて。
「お許しくださいませ。身の程をわきまえず、大変なご無礼をいたしました」
 楓子は何とかして格子を閉め、明衡の接近を拒もうとした。だが明衡は今やじかに楓子の手を押さえ、放そうとしない。
 つかまれた手首がまるで真っ赤な炭火を押しつけられたように、熱い。同じ人間でありながら、男と女でまさかこんなにも体温が違うなど、思っても見なかった。楓子にとって、生まれて初めて触れた若い男性の体温だった。
「お放し下さい。少将さまともあろうお方が、こんな……こんな非道なお振る舞いをなさるとは――!!」
 煌々と明るい月光のもと、みすぼらしい室内の様子も、単衣にぼろぼろの袿一枚を重ねただけの楓子の身なりも、明衡には見えているに違いない。
 なのに、明衡は楓子の手を放さない。楓子のみじめな姿を人前にさらすことで、あの生意気な歌への罰とするつもりなのか。
「なにがひどいのですか。傷ついているのは私ですよ。あなたのこのすばらしい歌に、私は心揺さぶられた。しかしその想いは、芽生えると同時に手酷く拒絶されているのですから」
 熱っぽい声にかすかに笑いを含ませて、まるで恋人をかき口説くようにささやく明衡。
 けれど楓子は恐怖しか感じなかった。
 ……こんなところを、北の方にでも見つかったら――!
 蔵人少将は峯子の婿がねのひとりだ。それが肝心の姫君を無視して楓子に興味を持っているなどと知ったら、北の方も権大納言もどれほど怒ることか。峯子の鼓膜に突き刺さる金切り声さえ聞こえてくるようだ。
「私にすまないと思っているのなら、この蔀を開けてください。どうぞ私を室内へ入れてください」
「な、なにを……!」
 男性が女性の部屋へ入り、何のへだてもなくその顔を見ること。それはすなわち肉体関係にも等しい恋愛の成就を意味する。つまり明衡は、面倒な歌のやりとりや口説き文句はこのくらいにして、一気にことを進めてしまおうと言っているのだ。
「ふざけないで!」
 明衡に掴まれた手を、楓子は思いきり蔀の格子に叩きつけた。
「あ痛ッ!」
 明衡の口から短い悲鳴が飛び出した。
 もちろん楓子の手もかなり痛いが、この際かまっていられない。
「ばかにしないで!」
 楓子が峯子と同じように権大納言家の姫としての待遇を受けていたら、明衡もこんな真似は絶対にしないだろう。明衡は、楓子を身分の低い女、殿上人の自分なら好き勝手に弄んでもかまわない相手と見くだして、一夜の慰み者にするつもりなのだ。
 ……ふざけないで。わたしは誰かの玩具や道具になるために、こうして生きているわけじゃないわ!
 そうよ。殿上人の月卿雲客のと言ったって、身分のある男なんてみんな同じ。女は自分たちの玩具くらいにしか思っていないんだわ! わたしたちにだって、生きる誇りも意地もあるのに!
「痛いじゃないか! 何をするんだ!」
「それは良うございました、これで少しはお懲りになられましたでしょう!」
 怒りにまかせて怒鳴り返し、楓子はぱっと手を伸ばして格子を閉めようとした。
「待て!」




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