今度は明衡が乱暴に、肘を格子の下に突き入れた。本気で怒らせてしまったらしい。
 このままでは格子が閉められない。それどころか、蔀を挟んで真正面から明衡と顔を突き合わせることになってしまう。
 楓子はあわてて蔀のそばから飛び退いた。明衡の目から隠れようにも、この部屋には几帳も屏風もない。それどころか、女性にとって必需品とも言える扇すら楓子は持っていないのだ。せめてもと、楓子は部屋の片隅にうずくまるようにして、顔をそむけた。
「いい加減になさってください。こんなところを誰かに見られたら――」
「良いじゃないか。みなに自慢してやればいい。わたしの恋人は蔵人少将だと」
「そんな――!」
 もしもそんなことになったら、北の方や峯子からどんな仕打ちを受けることか。きっと身ひとつでこの屋敷を追い出されてしまう。
 少将が勝手に押しかけてきたのだと説明しても、権大納言家の人々にはまったく取り合ってもらえないだろう。それどころか、峯子の婿がねに手を出した節操なしと決めつけられてしまうに違いない。
「帰って! 帰って、お願いだから!」
 必死で訴える声が涙でかすれる。小さく丸めた背中が恐怖と悔しさにふるえていた。
「……泣いているのか?」
 明衡が言った。声に隠しきれない驚きがある。
 楓子はさらに身を小さく縮め、袿の中に埋もれるように身を臥せるしかなかった。
「なぜ泣く? 俺と寝るのはそんなにひどいことなのか?」
 驚きと状況を理解できない困惑とが明衡の言葉を率直に、貴族特有の飾り立てや持って回った言い方を取り払ったものにしていた。これが、ありのままの明衡の思いなのだろう。
 宮仕えの女房たちにとって、有力な貴族の若君を恋人に持つことは、自分の生活を援助してもらうだけでなく、身分に関係なく自分自身の才覚と美貌ですばらしい若者を虜にしたという自信につながる。いわば女の勲章だ。明衡自身、情を通じた女たちが自分のことを自慢するのを誇らしく思い、そして自分が口説く女は全員喜んで自分を受け入れると信じていたに違いない。宮中での昇進を拒否する男がただのひとりもいないように。
 楓子はようやく身を起こした。けれど振り返りはしない。顔を隠せるものがないから。
「……いいえ」
 うつむいたまま、楓子はかすかな声で答えた。
 貴公子との恋を夢見たことがないと言えば、嘘になる。乙女らしく、美しい歌物語に心躍らせ、いつかこんな夢のような出来事が自分にも訪れないかと憧れを抱いていた。
 けれど、はかない夢や憧れは所詮それだけのものだ。
「権大納言家の人々に知られるのを怖れているのか? 姫や北の方の不興を買ってこの屋敷を追い出されるかもしれないと」
 たしかにそれもある。楓子には、この四条の屋敷を追い出されたら、行くあてがない。
「先に自分から辞めてしまえば良いじゃないか。この様子じゃ、満足のいく手当てももらっていないだろう。それよりはさっさと別の勤め口を探したほうがいい。おまえほどの文才や度胸があれば、後宮の女御さまに仕えたってやっていけるさ」
 楓子はうつむいたまま、なにも答えなかった。
 明衡の言うとおりにできたら、どんなに良いだろう。けれど父親のわからない娘を女房として召し使う后など、いるわけがない。
 今はこうしてまともに会話している明衡も、楓子の出自を知ればおそらく口もきかなくなるだろう。同じ人とも思わず、虫けらのように扱うに違いない。
 ……同じ人間なのに。身分があろうとなかろうと、出自がどのようであろうと、みんな喜んだり哀しんだり傷ついたり、まったく同じ人間なのに。
「行くあてがないのなら、いっそ俺のところへ……」
「いいえ。それはできません」
 楓子はきっぱりと言った。
 貴族の屋敷で働きながら主人の寵愛を受ける女房を「召人(めしうど)」と言う。だが使用人はあくまで使用人であり、どこかに家を持たせてもらったり、ましてや北の方になったりということは絶対にあり得ない。その上召人が子どもを産むことは原則として許されず、産んでも主人の子とは認められなかった。母親ひとりで育てられなければ、人買いにでも渡すしかなかったのだ。召人は単に主人の慰めのため、身体だけを差し出す存在でしかなかった。
 今よりも少しだけ安楽な生活のため、明衡の召人になることなどできない。それは自分で、自分の価値はそれだけしかないのだと認めてしまうことになる。
「わたくしにも、守らなければならないものがあるということです」
 心のどこかで一夜の慰み者と蔑まれ、あるいは俺の寵がなければ浮かばれぬ者と憐れまれたまま、そのことに目をつぶって明衡に身を委ねることはできない。
 明衡が自分の歌才を認めてくれたのなら、そのままの関係でありたい。歌を介し、彼と対等の目線で向き合っていたかった。……同じ人間として。
「少将さまにはおわかりにならないでしょう。けれどどんなに貧しい、賤しい身の上の者にも、命に代えて守り抜きたいものはあるのです」
 かすかに、明衡が息を飲む気配がつたわってきた。
 それきり明衡は身じろぎもしなかった。
 どれほどのあいだ、部屋の内と外でそうやってふたり、押し黙っていただろう。
 ようやく、
「わかった」
 ぽつりと明衡が言った。
「ひどい真似をして、すまなかった」
 さらさらとかすかな衣擦れの音がして、明衡の影が蔀の陰に移動した。こちらに背を向けたらしい。
「顔をあげなさい。もう覗いたりしないから」
 そして開けっ放しだった格子から、す、と扇だけが差し出された。
「使いなさい。蝙蝠(かわほり:紙を貼った男性用の扇)だが、ないよりましだろう」
 楓子が返事をする前に、扇がことりと室内へ投げ入れられた。
 半信半疑ながら楓子はそろそろと扇へ手を伸ばした。明衡は蔀の陰から動こうとしない。
 楓子は扇を広げ、作法どおりそむけた顔の前へかざした。
 その瞬間、ふわりと優しい薫りが鼻先をかすめた。
 さらりと乾いて、どこか異国めいた馥郁たる薫り。楓子の嗅覚を、記憶を、そこからつながる五感のすべてを刺激する。
「いけない。俺の従者が呼びに来た。宴を抜け出したのがばれたかな」
 庭の奥からかすかにつたわってくる人の気配。
「少将さま、少将さま、いずこにおられまするか」
 と、低く抑えた男の声が聞こえてくる。
「つらい思いをさせたな。許せ。またいつか、そなたの詠んだ歌を見たいものだ」
 明衡がすっと身を引いた。格子に映る影が遠ざかる。
「ま、待って!」
 楓子は思わず膝をすすめてしまった。
 開け放したままの格子から外へ、手を伸ばす。
「待って、この薫り――この香を、なぜあなたが使っているの!?」




「この香をなぜあなたが使っているの!?」
 外から格子を閉めようとした手を、室内から伸びた白い小さな手が掴む。
 驚きのあまり、明衡は声も出せなかった。
 格子の内側からまっすぐに自分を見上げる娘。その、瞳。
 まるで心臓を射抜かれたようだった。
 たまご型の白い小さな顔はおりからの月光に照らされて、化粧ひとつしていなくても輝くようだった。それを取り囲む黒髪は瑠璃にも似た光沢を放ち、かすかに開いた唇は茱萸(ぐみ)の実のように紅い。そして明衡を映すふたつの瞳は、まるで漆黒の水晶のようだった。
「おまえ……い、いや、そなたは……」
 言葉が出ない。帝の内親王の素顔を見てしまったとしても、これほどの衝撃は受けなかっただろう。
 ……俺は今、なよ竹の姫(かぐや姫)でも見ているのか!?
 が、その月のような娘は明衡の混乱もかまわず、強く明衡の直衣の袖を引いた。
「どうしてあなたがこの香を使っているの!? この香の調合を、誰から教わったの!?」
「――香?」
 問い返した明衡のつぶやきに、娘ははっとなった。ようやく明衡の袖を放し、格子の内側にうずくまる。
「も、もうしわけございません。少将さまが焚きしめていらっしゃる香が、わたくしの知っている者が使っていた香とあまりに良く似ていたので……」
「香りが似ている?」
「いいえ、わたしの思い違いです。この香は少将さまが調合なさったのでしょうし……」
 ……まさか。
 明衡の脳裏にさまざまな情報や推測が駆けめぐった。瞬時に、帝の信任厚い怜悧な官吏の顔になる。
 だが今はまだなにも断定できない。正しい情報が少なすぎる。
 娘は自分の行動が自身でも思いがけないものだったらしい。袖に顔をうずめ、消え入りそうに恥じ入っている。
「そなたの言うとおり、この香はさる方より教えていただいた秘伝に基づいて調合したものだ」
 明衡は娘を落ち着かせるように、低い声で話しかけた。
「これと良く似た香を使っていた人物とは、誰なのだ?」
「それは……!」
 娘が返答につまった。その困惑が明衡にもつたわってくる。
「心配しなくていい。秘密があるなら、俺は絶対もらさない」
 が、彼女はかたくなに顔をあげようとはしない。よほど重大な秘密なのだろう。
 この娘が、権大納言家の人々の手紙の代筆を任されるほど高い教養と、それだけの教育を受けられる身分を持ちながら、これほど不当に扱われているのも、もしかしたらその秘密のせいかもしれない。そうだとしたら、どこに権大納言家の監視の目が隠れているかもしれない現状で、娘の口から秘密を聞き出すのは非常に困難だ。
 今は引いたほうが良いと、能吏としての明衡の勘が告げている。――ほかにも、確認しなければならないことはある。
「わかった。今はなにも問うまい。だがこの先、助けが必要なことがあったら、いつでも俺に連絡するといい」
「少将さま」
 低く咳払いが聞こえる(人がいる、と伝える礼儀。ノックがわり)。良成だ。
「そうだ、そなたの名前は? これから何と言っておまえを訊ねれば良い?」
「わたしは……」
 娘は一瞬ためらった。が、意を決したように、
「かえで、と申します」
「かえで……」
 初夏、色とりどりに咲き乱れる花々の中、冴え冴えとした新緑を見せる樹。そして厳冬の直前にのみ、色鮮やかに染まってみせる樹のさまは、この少し強情であまりにも可憐な娘にふさわしい。
「けれどこの屋敷でその名を口にされましても、まともに答える者はいないでしょう。わたしはここではいないも同然……いえ、本来いてはいけない者なのです」
 どういうことだ、と明衡が問い返す前に、良成が渡殿の端に姿を見せた。声は出さず、手招きで「お早く、お早く」と明衡を急かす。
 何かもう少し、かえでに言葉をかけたい。けれど何を言って良いのかわからない。かえでもただ無言で明衡を見上げているだけだった。
 後ろ髪を引かれる思いで、明衡は簀を離れた。
「少将さま、お急ぎください! 権大納言が少将さまのご不在を不審がっています」
「もう気づかれたのか」
 小さな人工の川を渡り、池に面した南庭(なんてい:寝殿造りの主棟・母屋の南に広がる庭。人をもてなす時はこの庭に面した簀や釣殿に席を設ける)に回り込む。
 いかにも退屈そうな楽の音がとぎれとぎれに聞こえてきた。
「座が白けているようだな」
「はあ。今宵の宴には権大納言の北の方や姫君も出席されているようですし」
 仕方がない。今夜は二の姫の婿がねを集めて見比べるのが一番の目的なのだ。しかも権大納言はこの四条邸に婿入りした身で、気の強い家付き娘だった北の方にまったく頭があがらないという。屋敷の女主人や求婚している姫がいる場で、招かれた若公達もどんちゃん騒ぎはできないだろう。
 母屋の御簾の下から、思わせぶりな出し衣(いだしぎぬ:御簾などの裾から衣装の端を出して、その襲の美を見せること)がこぼれている。ひときわ艶やかな打ち絹(砧で打って光沢を出した高級な絹)の紫苑襲は、おそらく北の方だろう。
 間の抜けた楽の音に、退屈そうにひそひそとうわさ話ばかりしている客たち。年配の者など、柱を背にこっくりこっくりと寝入ってしまっている。今夜の主賓であるはずの宰相中将も、きょろきょろと落ち着きなくあたりを見回してばかりいた。おそらく、戯れに一夜の相手をさせる女房でもいないかと探しているのだろう。
 明衡は目立たないようそっと、宴席の端に紛れ込んだ。
 ――そのつもりだったが。
「少将さまには、今までどちらへおられましたのでしょう」
 そばの御簾の中から、とりすました声が明衡に呼びかけた。
「この美しい月を眺めてしみじみと物語などさせていただきたいと願っておりましたのに、よもやこの屋敷でのもてなしがなにかお気に障ることでもありましたのかと、心傷めておりました」
 高貴な女性はめったなことでは他者に肉声を聴かせないのが常だ。お付きの女房が北の方だか姫君だかの言葉を取り次ぎ、しゃべっているのだ。
「あ、いえ……。こちらのお庭から拝見する月はひときわ美しく、つい時を忘れて眺めてしまいました」
「いいえ、少将さまのお屋敷の美麗さ、庭の造りの妙にはとうていかなうものではございません。とはいえ、このようなあばら屋からご覧になる月も、幾分はしみじみともののあはれを誘う風情があるのやもしれません」
「北の方さまのお心配りが庭の草木一本一本にまで行き届いていらっしゃると、たいへん趣深く拝見させていただきました」
 物語の登場人物のような、浮世離れした会話。これぞ月卿雲客の会話です、と手本にでもしたいくらいだ。
 とはいえ、これではどこまでが女主人の考えなのか、さっぱりわからない。女主人がぼーっとして気の利いたことなどまったく言えなくても、慣れた女房なら勝手に「女君のお言葉」をでっち上げてしまうのだ。
 そのことを思うと、さきほどのかえでの言葉ひとつひとつが、さらにあざやかに明衡の中によみがえる。
 あれはすべて、本当のあの娘の言葉。思うがままのこと。その率直さは、鮮烈な驚きすら感じさせる。あの娘の誇り高さも孤独も、すがりつくように懸命に明衡を見上げていたあの瞳も、すべてが真実だからこそ、こんなにも強く心を揺さぶられる。
 本来、人と人とはそうあるべきなのかもしれない。何の飾りも隠し立てもなく、己の思うがままのことを率直に語り合ってこそ、本当に理解し合えるのかもしれない。
 だとしたら、着飾ったこの貴族たちはなんと愚かだろう。華美と富に目が眩んで、すべての真実を見失っている。
「こんなところにおられたか、少将どの」
 瓶子を片手に、よろよろと屋敷の主人、四条権大納言藤原忠友が近寄ってきた。
「こちらはあまりに端近、ささ、あちらで一献」
 忠友は明衡の袖を引き、強引に立ち上がらせようとした。
 ……この酔っ払い。
 しかたなく明衡は忠友に従い、引っ張られるままに釣殿へ向かった。
 池の上に張り出した釣殿は壁のない吹き抜けで、秋の宴席ではさすがに寒い。
 が、忠友は酔いが回っているせいか、えらく上機嫌だった。
「うちの姫がよけいなおしゃべりでご迷惑をおかけしたのではないかな」
「いえ、そのようなことは――」
 では、あの御簾の内にいたのはやはり二の姫だったのか。
「さきほどまではどちらにおられたのかな? いやいや、弁明など結構。お若いのですから、せいぜい楽しんだがよろしかろう」
「はあ……」
 酒臭い息を吐きかけられ、明衡は思わず身を引いた。だが忠友は気にもせず、さらに顔を近づけてくる。そして好色な笑みを浮かべ、ささやいた。
「それで、お気に召した女はおりましたかな?」
「いや、私は別に――」
「隠さんでもよいではないか。いや、ここだけの話、ご執心の女が居れば召人として婿殿に差し上げてもかまわぬぞ」
「なにを――!?」
 明衡は思わず言葉を失った。酔いに任せて何を言い出すのだ、この男は。
「いやあ、婿殿とお呼びするのは少々気が早かったですかな。だが儂は、二の姫の婿にはぜひ貴公をと望んでおる。それをうちの妻が勝手に、宰相中将なんぞに話を持ちかけおって……。儂はあの若造の父親の太政大臣とは内裏でずっと反目しあっておるというのに、儂の立場などまるでわかっておらん。二言目にはこの屋敷は自分のものだ、女房も女童も私の財産だと……。いや、何でもない。ともかく、貴公が我が家の婿となってくれれば、気に入った女は何人でも差しだそう。な、いかがかな? なんなら今宵にでも――」
「いいえ、結構です!」
 ついに我慢できず、明衡は忠友を突き放すように立ち上がった。
 この男は、そしてこの屋敷の住人はみな、自分のために働く人間はすべて自分の財産、自分のわがままでどんな扱いをしてもかまわないモノとしか思っていないのだろうか。いや、この屋敷の住人ばかりではない。貴族というものはみな、自分たちより身分の低い者はすべて同じ人間とも思っていない。人でないもの、鬼や虫と同等のものとしか見なしていないのだ。
 ……一番腹が立つのは、俺自身がそういう驕り、鼻持ちならない貴族根性をどこかに持っていたということだ。あの娘が、かえでが、俺にそれを教えてくれたのだ。どんな人間にも譲れぬ誇りがあること、魂があるということを。
 たしかに今夜は、得難い教訓を得た。
 しかもその教訓を与えてくれたのは、自分よりも年若い、三日月のように可憐な娘だった。
 だからだろうか。あの娘の面影が胸に宿って、消えない。まるで自分の胸のどこかに、あの娘が住み着いてしまったかのようだ。
 ……こんなことは、初めてだ。どんな女に通っても、契りを交わしても、女のもとを離れればすぐに自分自身に戻れたのに。
「まことに申しわけございませぬが、少々酒を過ごしました。私は明朝も参内せねばなりませぬゆえ、今宵はこれで失礼させていただきます」
「し、少将どの……」
「いえ、人など呼んでいただかなくとも結構です。私の従者が車宿り(屋敷内に牛車を引き入れる場所)に控えておりましょうゆえ」
 そのまま明衡は足音も荒く、母屋へ戻る橋を渡り始めた。あっけにとられる忠友になど、もう目もくれなかった。




 明朝早く、明衡は御所に参内した。
 日が昇る前に出仕しなければならないのが内裏に仕える貴族、役人たちの日常だ。遅くとも午前六時には政務を開始していなければならない。出仕の時は帝の勅許がないかぎり、黒い直衣を着用する。
 明衡は蔵人少将として、まず主上のいる清涼殿へ向かった。清涼とのは帝が日常の生活を送る棟である。ふだん帝が居る御帳台の前には「殿上の間」と呼ばれる空間があり、ここには帝の許しを得た者しか入れない。「殿上人」の呼び名はここから来ている。
 主上は御帳台の御簾を高く巻き上げさせ、朝粥をしたためている最中だった。
 そばには洗顔のための角盥(つのだらい)や鏡を用意して、典侍(ないしのすけ)や掌侍(ないしのしょう)などの女官たちが控えている。みな、先代から仕えており、明衡よりも年上の者ばかりだ。御代替わりに際して女官をすべて入れ替えるのはよくあることだが、手間も金もかかる。それを懸念して今上帝は、先帝から仕えていた者たちをそのまま役にとどめ置いたのだ。
「来たか、少将」
 明衡が平伏し、声を発するより早く、帝が言った。大仰な礼儀作法や形式主義を嫌い、何事も率直を尊ぶ人である。それがまた、旧態依然の藤原氏たち大貴族からは煙たがられている理由のひとつでもあった。
「先だって朕(ちん)が教えた香を使ってくれているのだな。良い薫りだ」
「ありがとうございます」
 明衡は一度低頭し、それから意を決して顔をあげた。
「つきましては主上。いささかお耳に入れたきことがございます」
 たとえ主上の前でもいつも屈託ない明衡の声が、いつになく硬く緊張していることに、帝もすぐに気づいたようだった。控えていた典侍たちに軽くうなずきかけ、無言で「下がっていよ」と命じる。女官たちは一礼し、さやかな衣擦れの音だけを残して殿上の間を下がった。
 殿上の間にふたりしかいなくなると、帝はゆっくりと明衡を手招きした。
「いかがした」
「は」
 明衡は静かに膝をすすめ、御帳台のすぐ前まで進み出た。ここまで来れば、内密の会話が外に漏れる心配はない。
「主上。お教えいただきましたこの秘伝の香……恐れながら、その名(めい)すら、私は伺っておりませんでした。この香を調香なさいましたのは、いったいどなたでございましょう」
 おだやかな帝の表情にも一瞬緊張が走った。
 明衡は頭を下げ、帝の返事を待った。
「この香は、朕の同母弟(おとうと)が調香したものだ」
「主上の弟君……」




BACK   CONTENTS   NEXT
【 袖薫る少将 ・ 参 】
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送