明衡の脳裏に今上帝をめぐる系図が瞬時に浮かんだ。今上さまの父君は先々代の帝。その前の帝は先々代の兄上、今上さまには伯父君にあたられる方。そして先代、十九才でご他界遊ばされた先帝は伯父君の息子、つまり今上さまの従弟。現東宮は先帝の息子。弟君とはいったい――。
 そこまで考えをめぐらせて、明衡はようやくはっと気づいた。
「まさか、六の宮……惟仁(これひと)さま!?」
 帝は小さく、けれどたしかにうなずいた。
 そんなばかな、と言いかけて、明衡はとっさに口をつぐんだ。が、それきり言葉が出てこない。
 なかば硬直した明衡の前で、帝はゆっくりとうなずいた。
「十六年前、行方知れず(ゆきかたしれず)になった惟仁親王だ。生きておればもう三十二……いや、三になるのか。が、朕が思い出せるのは十七であった六の宮の姿だけだ。今の少将よりもまだ若い……」
 帝には故人も含めて八人の男兄弟があった。存命の者は帝を除いてすべて仏門に入っており、また同じ母宮から産まれたのは六の宮ひとりきりだった。
 帝がまだ「さかしまの東宮」として長く不遇の時を過ごしていたあいだ、誰よりも支えになってくれたのが皇族出身でおおらかな人柄の母宮と、同じ母から産まれた弟宮であったという。
「朕の父院はほとんどの男皇子を仏門に入れ、皇統にかかる費用を少しでも軽減なさろうとされた。が、六の宮だけは万一朕が東宮のまま世を去るようなことがあった時のためにと、臣籍にも下されず親王のままとどめおかれたのだ」
 同じ帝の息子でも親王と皇子には天と地ほどの開きがある。皇位継承権を持つのは、親王宣下を受けた者だけだった。
「だがあれは、窮屈な内裏での暮らしを嫌い、ずっと臣籍降下を願っていた。兄君のことは臣下としてお支えいたしますゆえと……。朕も、何にも縛られず心の赴くままに歌を詠み、心のままに人を愛したいというあれの願いをわかっていたが――手放したくなかったのだ。この、敵ばかりの宮中でただふたりきり、母君と六の宮だけが、朕の味方であった……」
 そしてある年の冬、惟仁親王は宮中から忽然と姿を消してしまった。ただ一首の歌を兄宮のもとに残して。
   ひとのゆきし都大路のわだちより
      などかは踏まぬ つごもりの雪
 ――至高の座に昇るため、大勢の人が轍(わだち)を刻んでいった都人の道よりも、真っ白に積もった大晦日の雪に、どうして自分の足跡を残さないことがありましょう。私は人と同じ栄光を求めるよりも、自分だけの道を歩いていきたいのです。たとえそれが道なき原野へ分け入ることであろうとも――
 その時のことは、明衡もぼんやりと覚えている。剃髪し、修行のため深山へ分け入っていく六の宮の姿を見た者がいるとか、いいや太宰府から唐天竺目指して船出していったのだとか、さまざまなうわさが飛び交ったものだ。だがそれきり六の宮の行方は杳として知れず、いつか彼はすでに死んだものとして扱われるようになり、誰の口にも上らなくなっていった。
「朕は即位したのちは、六の宮こそ東宮にと思っていた。そのため、あれの後ろ盾となってくれる貴族との縁組みを進めていたのだ。六の宮がひそかに通っていた女がいることも知ってはいたが、無視をした。内裏に影響力を持つ大貴族の婿となり、その援助を受けることが、あれには絶対に必要なのだと考えて……」
 帝の声は、押さえきれない慟哭にふるえていた。そこにいるのは一天万乗の君などではなく、己のあやまちを悔い、弟の行く末を案じるひとりの人間でしかなかった。帝の後悔と哀しみが、明衡の胸にも突き刺さるようだった。
「主上。六の宮のお手跡(て)などはお持ちでらっしゃいますか?」
「少将、なにを……」
 困惑の表情を浮かべる帝に、明衡はなにも説明しなかった。
 今はまだなにも言えない。明衡の思い込みにすぎないかもしれないのだ。その思いこみが外れていたら、帝にさらに深い悲しみを与えることになってしまう。
 帝も明衡の考えを無言のうちに察したようだった。
「しばし待て」
 文箱の中から一通の結び文を出す。すっかり黄ばんでしまった古い陸奥紙(みちのくがみ:越後などで漉かれた紙。薄く丈夫で、真新しいものは純白)には、六の宮が最後に残したつごもりの雪の歌が記されていた。惟仁親王が兄宮に残した書き置きだ。
「主上、これは……! よろしいのですか!?」
「良い。少将に預ける。なにごとも、少将の思うようにいたせ」
 明衡はもう一度深く一礼し、六の宮の文をおしいただいた。
 ……おそらくあのかえでという娘は、六の宮の行方を知っている。年令からして、宮中を出奔して隠遁した六の宮に、女童として仕えていたのだろう。もしかしたらその幼い時に六の宮に歌才を見出され、宮から身分不相応な高い教育を与えられたのかもしれない。
 ならば、権大納言邸での扱いにも納得がいく。田舎育ちの女童ではとうてい貴人付きの女房になどなれないが、あれだけの歌才と教養を捨ててしまうのも惜しい。それゆえに権大納言家ではあのように飼い殺しとも言える扱いで、かえでを一人前の女房扱いせず、閉じこめてその才能だけを利用しているのだ。きちんと女房の待遇を与えれば、それなりの給金を支払い、節季ごとに新しい装束を揃えてやる必要もある。四条権大納言はその出費を惜しんでいるのだろう。
 かえでが六の宮ゆかりの者だとわかれば、帝もきっとお喜びになるだろう。かえでを掌侍、あるいは女嬬(にょうじゅ)として召し抱えようとなさるに違いない。その時は自分がかえでの後ろ盾になろうと、明衡は考えていた。かえでの出自が低いのも、いくらでもごまかしが効く。何なら両親に頼んで仮親になってもらえば良い。田舎で産まれ育った遠縁の娘を引き取り、養女にしたとでも言えば良いのだ。
 これなら、かえでを召人や愛人にするのではなく、仕事を斡旋するだけだ。かえでも嫌だとは言わないだろう。しかも、蔵人が帝の公務を補佐する秘書官ならば、掌侍は帝の身の回りの世話をする小間使い、側仕え。帝の公と私とを支える役職の者どうしが親しく意志の疎通が図れれば、宮中の業務はさらに円滑になるはずだ。
 ともに宮中で働く蔵人と女官という立場になれば、かえでも改めて自分の話を聞いてくれるに違いない。対等な立場に立って、また一からふたりの関係を築いていけば良い。
 必ずその時が来ると、明衡は確信していた。
 きっとそのために、自分はかえでのもとへ導かれたのだ。かえでを救い、そして主上のお心を安んじるため、誰よりもそれを願う人に――この香を調香した人物によって。




「さつきまつ 花たちばなの香をかげば 昔の人の袖の香ぞする……」
 上げた格子から暮れゆく空を眺め、楓子はふと古い和歌を口ずさんだ。橘の時季ではないが、つい口に出てしまった。
 昨夜のことが忘れられない。
 少将が漂わせていた、あの薫り。白檀を基調にさまざまな香料を配合した、複雑で気品ある薫り。
 ……あれは、お父さまの薫り。
 ――良い子だね、楓子。さあ、もう一度手習いをしてごらん。そう、とても上手だよ……。耳の奥にこだまする、優しい声。
 今まで思い出すこともできなかった父の声、父の面影が次々に楓子の脳裏によみがえる。
 楓子は、昨夜、少将が残していった蝙蝠の扇を手にとった。半分ほど開き、ゆっくりと顔に風を送ってみる。するとまた、どこか異国めいた香りが優しく楓子を取り巻いた。この薫りがきっかけとなって、眠っていた記憶が一気に目覚め始めたのだ。
 ……そうよ、間違いない。あれはお父さまの薫り。お父さまのお袖から、いつもあの薫りがこぼれていた。
 では、私のお父さまは少将にゆかりある方だったのかしら。
 そうだとすれば、少将に相談すれば亡き父のことがわかるかもしれない。
 ……知りたい。お父さまのこと。
 どうして母が父と逃げなければならなかったのか。どうして父が病に倒れた時、誰にも助けを求められず野辺に埋もれるように死んでいかねばならなかったのか。
 ……もしかしたら本当に、私のお父さまは仏道の修行を逃げ出して愛欲に溺れた僧侶だったのかもしれない。
 それでも楓子は、両親を責める気にはなれなかった。
 お父さまのもとへ行きますと、おだやかに死んでいった母。亡き夫を心から愛していたからこそ、あんなにも安らかに息を引き取ることができたのだ。それほど強い愛が両親を結びつけていたのなら、いっとき仏の修行から道を踏み外すこととなっても、み仏は両親をあえて引き離したりはなさるまい。ふたりの魂をきっとお許しくださるだろう。
 ……ああ、でも、本当はもっとひどい人だったら? お父さまが都を追われた罪人だったとしたら。
 楓子がそんな罪人の娘だとわかったら、少将はいったいどんな表情をするだろう。この権大納言家の人々のように、ひどくけがらわしいものでも見るように蔑みの目を向けるだろうか。
 ……この扇も、返せとおっしゃるかしら。
 楓子はひどく戸惑った。少将が憐れみをこめておいていった扇を、手放したくないと思っている自分がいる。扇に残る香りが亡き父を思い出させるばかりではなく、この扇は少将の――少将と出逢えたあの夜の、たったひとつのよすがなのだ。
 ……もう一度、逢いたいと思ってる、私。少将明衡さまにお逢いしたい。お逢いして、もっといろんなことをお話しして、そして、そして……。
「いけない。ぼーっとしてたら、いつまで経っても仕立物が終わらないわ」
 暗くなってきた室内に灯りをともし、楓子は気を取り直すように縫いかけの衣装に手を伸ばした。見事な袍(ほう)は権大納言の出仕用の正装だ。
 染色や裁縫は家政を預かる女性に必須の能力だが、現実には身分の高い女性ほどこういう肩の凝る手仕事を嫌がるものだ。大貴族の屋敷ではたいがい裁縫専門の下級女房を雇っている。が、四条大納言家ではそのほとんどが楓子の仕事とされていた。
 楓子は蝶が舞うような軽やかな手つきで、袍を縫い上げていく。これが終わったら表袴(うえのはかま)、峯子の袿もある。冬用の綿入れで、あたたかそうだ。
 男性用の装束を縫いながら、ふと母のことを思って手が止まる。
 ……お母さまもこうして、お父さまのご装束を仕立てたことがあったのかしら。
 愛する人のために心をこめて一針一針縫うならば、手のかじかむ寒い夕暮れの縫い物もけしてつらくはなかったろう。そうして母が縫い上げた装束に、父はどんなねぎらいの言葉をかけただろうか。
 そう考えると、今まで単なる労働としか思えなかった裁縫が、初めて母と自分をつなぐものに感じられた。思い出の中の母に、いつか現在の楓子自身の姿が重なっていく。そしておぼろげな父の姿が、くっきりとあざやかな印象の笑顔にすり替わる。
 冠の下からこぼれる、しゃっきりとして少し硬そうな黒髪。優美で、それでいて意志の強そうな眉。そして、見つめられると心のすべてを見透かされてしまいそうな、深い深いあの瞳。わがままを言う時はまるで小さな子どもみたいで、かと思えばひどく思慮深く謎めいて見えたりもする。まるで彼を見つめているだけで、先の見えない不思議な物語の中へ迷い込んでしまうみたいだ。
「ちょっと楓子! 袴一枚縫うのに、どれだけかかってるのよ!」
 ぼんやりした楓子の夢想を、けたたましい金切り声が打ち砕いた。
「私の袿はどうしたの、早くしてよ!!」
 ばさばさと衣の裾をひるがえし、峯子が室内に入ってくる。無論、入るわよ、の一言もない。
 楓子ははっと我に返った。慌てて両手を床につき、平伏して峯子を迎える。
 妙にほほが火照る。このほほの赤さを峯子に見咎められなければ良いのだが。
「すみません。今、仕上げています。大納言様の表袴と袍はそこに」
 できあがっていた装束を示すと、峯子は高慢な仕草で顎をしゃくり、うしろに控えていた女房に持っていくよう命じた。
「わたしの袿、早くしてよ。それの他にも袴とか単衣とか、縫ってもらいたいものは山ほどあるんだから。ああ、そうそう。そろそろ紅の袴(既婚女性の袴)も作らなくちゃ!」
 峯子は自慢たらたらだった。宰相中将との婚儀が正式に決まったのかもしれない。
「羨ましい? あらごめんなさいねえ。ほんと、あんたってお気の毒。親の罪で一生、まともな殿方には縁がないんですものねえ。それとも母親に倣って、そこらの下人(げにん)か破戒坊主とでも通じてみる!?」
 楓子は唇を咬み、ただじっと怺えた。いつものこと、いつものことと懸命に自分に言い聞かせる。
 が、
「あら……。なにかへんね」
 峯子があたりを見回した。くんくんと鼻を鳴らし、
「何か良い匂いがするんじゃなくて? あんたまさか、香なんか焚いてるの?」
「えっ!?」
 楓子は息を飲んだ。少将の扇に残っていた薫りが、今もまだ室内にかすかに漂っているのだ。
「そんな、まさか……。姫君のお気のせいでしょう」
 ……扇――! 少将さまの扇は!?
 縫いかけの生地の下にあった扇を、楓子は峯子に見つからないようそっと自分の袿の下に隠した。
 その瞬間、お付きの女房と目があってしまった。
 ……見つかった!?
 けれど女房はそ知らぬ顔で目を伏せ、なにも言わなかった。どうやら楓子をかばってくれるつもりらしい。
「……ふん、まあいいわ。とにかく、私の袿を早く縫いなさい。それが終わるまでは食事は抜きって、お母さまがおっしゃってたわよ!」
 まだ不満そうな顔をしながら立ち去る峯子に、楓子は黙って頭を下げた。
 峯子が出ていくと、とたんに身体中の力が抜ける。楓子は思わずため息をつき、ぐったりと壁に寄りかかった。この部屋には脇息などないのだ。
 そして衣の下からそっと少将の扇を取り出す。
「良かった……」
 一本の扇をまるで恋人のようにしっかりと胸に抱く。
 扇の残り香が導く面影は、楓子の中でもはや亡き父と少将明衡とが分かちがたく混然としてしまっていた。
 が、いつまでもこうしてはいられない。楓子は下働きの女童に頼んで燭台に火を灯してもらい、頼りない灯りのもとでふたたび縫い物を始めた。
 よけいなことを考えないよう、ひたすら針を動かす。
 どのくらいそうやって、針の動きに神経を集中させていただろう。
 格子の外はすっかり暗くなり、虫の音が淋しげに響く。秋の夜は長い。
 ふと気づくと、その虫の音がぴたりと止んでいた。
 ほとほと、ほとほと……と、格子を叩く音がする。
 楓子は顔をあげた。
 誰、とは問わなかった。
 さやかな秋の夜風が運ぶこの薫りが、訪問者の名を教えてくれる。
「ここを開けてくれ」
 格子の向こうで少将明衡が言った。
「どうしてもそなたに確かめてもらいたいものがあるのだ。頼む、この格子を開けてほしい」
「少将さま?」
 声の様子が昨夜とまるで違う。ひどく真剣で、楓子の胸に突き刺さるようだ。
 楓子は一瞬ためらったが、すぐに意を決し、格子に手を伸ばした。
 持ち上げた格子の隙間から、明衡の横顔が見える。十六夜(いざよい)の月明かりに照らされたその表情はどこか険しく、恋に浮かれ騒ぐ好き者の印象など微塵もなかった。
「これを」
 室内を覗き込まないようにしながら、明衡は一枚の陸奥紙をそっと差し出した。
「ひとのゆきし……」
 凛として力強く、いさぎよささえ感じさせる筆の運び。何もかもを捨てて旅立つ決意が見てとれる。
「その手跡に見覚えはあるか」
 明衡の問いかけに、楓子は息を飲んだ。
 ……ある。この筆跡を、わたしは知っている。
 楓子は一旦蔀のそばを離れた。文机の上に置いてあった古今集を手に取る。
「ご覧下さいまし」
 手擦れて、紙もすっかり黄ばんでしまった古い歌集。楓子がただ一冊の和歌の教本と暗記するほど繰り返し読んだその本は、楓子の父が書写したものだ。
「これは……!」
 月明かりのもと、手紙と古今集の筆跡を見比べた明衡は、絶句した。
 ふたつの筆跡は、あきらかに同一人物の手によるものだった。
「この古今集は、わたしの父が書き写したものと聞いております」
「……父!?」
 驚愕する明衡に、楓子は小さく、けれどしっかりとうなずいた。
「では、そなたは――。こ、この香を使っていた人物というのは……!」
「はい。亡きわたしの父です」
 明衡は言葉もなく、楓子を見つめた。格子を強く握り締めた手が、関節も白く浮き上がり、かたかたとふるえている。
 ……いったいどうしたの。少将さまがこんなに驚かれるなんて。
 やはり自分の父は、その名を口の端に昇らせるのもためらわれるほど、厭わしい人物だったのだろうか。
「そなたの……そなたの、父君の名は――?」
 今度は楓子が言葉を失う番だった。
 ……言えない。
 言えない。父の名も身分も、その顔すらわからないなんて――!
 そんなことを言ったら、明衡に軽蔑されてしまう。この四条大納言邸の人々にどれほど嘲られようと、罵られようと、楓子はじっと耐えてきた。耐えることができた。けれど明衡に軽侮されることだけは、どうしても耐えられない。
 どうしてこんなことを思うのだろう。今までずっと、ひとりぽっちで平気だったのに。
 この男性と二度と逢えなくなるかもしれないと思うと、息もできなくなるほど苦しい。わずかに歌を交わし、言葉を交わしただけの人なのに。
 初めて、自分を対等の人間として扱ってくれた人だから、楓子の存在を認めてくれた人だからだろうか。
 明衡の意識の中には、楓子の存在がある。居場所があるのだ。
 ……この方に疎まれ、嫌われてしまったら。わたしは、わたしは――!
 蔀の内と外で、ふたりは互いに言葉をなくしたまま、ただじっと見つめ合うしかなかった。
 だがその時、
「あそこでございます、お方さま!」
 庭の暗がりから、鋭い声がした。
「ご覧くださいまし、ほら、あそこに男の影が! わたくしの申し上げましたとおりでございましょう! ええ、わたくしはこの目ではっきり見ましたもの! あの人の部屋に男物の蝙蝠が落ちているのを。それをあの人は、姫君の目につかないよう、慌てて隠しましたのよ! あれは絶対に男からもらったものだと思っていました。そのとおりでしたわ!」
「まあぁ……ッ!! なんということを、あの娘……ッ!!」
 ばさばさと衣をさばく音、そして荒っぽく簀を踏みならし、こちらへ渡ってくる足音。
「いけない、北の方だわ!」
「北の方? 権大納言の正妻か?」
「お立ち去りください、少将さま! 早く!」
 だが、間に合わなかった。衣の裾を持ち上げ、大股で走ってきた方子が明衡の行く手をふさぐように立ちはだかる。
 方子の鬼女のような形相が、楓子にも見てとれた。そして方子の背後に隠れている、告げ口をした女房の小狡そうな表情。
 方子が女房たちに密告を奨励していることは知っていた。同僚の非を密告した者にこっそり褒美を与えることで、女房や使用人たちが互いに監視し合うようにし向け、それで仕事の手を抜く者がいなくなると考えていたのだ。そして今夜はその密告者の目が楓子に向けられていたわけだ。
「まあ……っ! まあ、あなたは――!」
 簀に棒立ちになり、扇で顔を隠すという最低限の礼儀すら忘れて、方子はまるで引きつけでも起こしたような声をあげた。
「く、蔵人少将……!!」
 明衡を指さしたきり、続く言葉が出てこない。陸にあげられた魚みたいに、口をぱくぱくさせるばかりだ。
 おそらく方子は、楓子のところへ忍んできている男はもっと身分の低い地下人(六位以下の役人、貴族ではない)か何かだと思っていたのだろう。こんな渡殿の片隅に住む娘に目をつけるのは、せいぜいそんな男か市井の職人くらいだろうと。それがまさか、自分の娘の婿がねのひとりに数えていた、帝の御覚えもめでたい当代随一の若公達だったとは。
「こ、この――この、泥棒猫ッ!!」
 方子は金切り声をあげた。耳を覆いたくなるその声は、娘の峯子にそっくりだった。
「出ておいで、この恩知らず! おまえのような賤しい娘を今まで養ってやった恩も忘れて、よりによってうちの姫の婿がねに手を出すなんて! なんて恥知らずな娘だろう!!」
 方子は明衡を押しのけるようにして、楓子の部屋の妻戸を開けた。そして楓子の手を掴み、無理やり外へ引きずり出す。
「おおかた、おまえのほうから文でも送って、色目を使ったのでしょう! 少しばかり歌が上手だからって鼻に掛けて、なんていやらしい! さすがにあの異母妹(いもうと)の娘ね、母親にそっくりですよ!」




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