楓子はなすすべもなく、簀に引き出された。力任せに引っ張られた腕が折れそうだ。
 騒ぎを聞きつけて、四条邸の使用人たちもわらわらと集まってきた。身分の低い使用人には姿も見せない、声も聞かせないのが貴顕の女性の常だが、方子の頭からはそんな常識も吹っ飛んでしまったらしい。顔を隠しもせず、大声で楓子を罵り続ける。
 何事かとこちらを眺める使用人たちに混じって、屋敷の主人である権大納言忠友の姿もあった。が、妻の癇癪が怖いのか、陰に隠れて様子をうかがうばかりだ。
 二の姫峯子の姿もある。彼女は自分の従妹が衆人環視の中で無体な仕打ちを受けるのを、さも面白そうににやにやと笑いながら眺めていた。
「北の方さま、乱暴なお振る舞いはおやめ下さい! 私はどうしても彼女に確かめねばならぬことがあって――」
 明衡が止めに入ろうとしても、
「少将どの、あなたもあなたです! うちの峯子に言い寄っておきながら、うかうかとこんな娘に誑かされるなど――!」
 激昂した方子はまったく聞く耳を持たなかった。
「誤解です、北の方さま。私は本当に大切な話があって……」
「まだこんな娘をおかばいあそばすのですか、少将どの! あなたは何もおわかりではないのです! 我が家の事情に口をお出しにならないでくださいまし!」
「教えてさしあげればよろしいのよ、お母さま」
 高く澄んだ声が響いた。
 人垣を押しのけ、顔の前に形ばかり扇をかざして、峯子が進み出てきた。
「峯子、あなたは下がっていなさい!」
「この娘がどんな生まれの娘か、全部少将さまにお教えすれば良いのよ、お母さま。そうすれば少将さまだって、これは一時の気の迷いだったとすぐにお気づきになられるわ」
 取り澄まして峯子は言った。ちらりと楓子を見やる目つきには、猫が鼠をいたぶるような残忍な喜悦が満ちている。
「そりゃあ我が家の恥を打ち明けることになるけれど、少将さまは他人の秘密をもらしたりなさる方じゃないわ。それよりは真実を知っていただくことのほうがずっと大切よ」
「峯子……」
 まだ返事をしかねている母親を押しのけ、峯子は明衡の前へ進み出た。
「少将さま。この楓子はわたくしの従妹、母の異母妹の娘ですの」
 媚びるような峯子の猫なで声。
 楓子の背筋が凍りついた。
「や、やめて……!」
 声が出ない。
 峯子を止めたい。自分の出生の秘密を、少将に知られたくない。
 嫌われたくない。蔑まれたくない。この人だけは。
 ……やめて、お願い。少将さまに――明衡さまにだけは……!!
「ですけどねぇ、お恥ずかしいことに、父親が誰だかわからないんですのよ!」
 勝ち誇るように高らかに、峯子は言った。
「この娘は、母親がどこの馬の骨ともわからない男を相手に孕んだ、それは卑しい、恥ずべき娘なんですのよ!!」
 ……ああ――!!
 楓子は袖に顔を埋め、声もなく床に伏した。
 父親のわからない娘。恥ずべき娘。今まで何度となくそう罵られてきた。けれどそのたびに楓子は、心の中で反論してきた。それでもお父さまとお母さまは心から愛し合っていらした。その愛のあかしがわたしなのだと。
 けれど今はもう、その信念も出てこない。
 ……知られたくなかった。この方にだけは、知られたくなかった。
 出自は低いが才能ある者として、明衡に注目されるのはけして嫌ではなかった。もしかしたらこれからも、友人として好敵手として、機知にあふれた歌のやりとりを続けていけるかもしれないと思っていた。
 けれどこんな形で真実が暴露されてしまっては、明衡も二度と楓子に近づこうとはしないだろう。
 ……どうして。
 お父さまとお母さまが愛し合ったことは、そんなにも罪深いことだったの。子どもの私までがこんな形で罰を受けなければならないほど、許されないことだったの!?
 なまじわずかな希望や憧れを抱いてしまったがゆえに、それすら打ち砕かれた絶望は鼓動も止まりそうなほどつらく、深い。
 声も出ない。ただ涙だけがあとからあとからあふれて、止まらない。
 袿の袖に乱れ散る黒髪を、優しく力強い手がそっとかきあげた。
「顔をおあげください、姫宮さま」
 おだやかに、楓子の心にそっと忍び入るかのような声。
「え……」
 ……今、この方はわたしを何とお呼びになったの?
 楓子はわずかに顔をあげた。
 その目の前に、明衡の手が差し伸べられる。おつかまりください、というように。
 思わずその手に、自分の手を重ねる。すると明衡の力強い腕が優しく楓子の身体を支え、起こした。
「二の姫。あなたはこのお方の父君がどなただかわからないとおっしゃったが、それはあなた方権大納言家の方々がご存知ないというだけのこと。私はこの方のお父君の御名(おんな)を存じ上げております」
 明衡の腕が楓子を抱き寄せた。まるですべての苦しみや哀しみから楓子を守るように。
「お、お父君? 御名?」
 峯子は驚愕の表情で、明衡の言葉を意味もなく繰り返した。蔵人少将がこれほどの敬称で言い表すなど、よほどの相手に限られるのだ。
 楓子も声をなくしたまま、明衡の腕の中で彼の顔を見上げるしかなかった。
 明衡は強く、射抜くような視線で周囲の人間たちを見回した。
「この方のお父君は、今上さまの御弟宮、今は亡き六の宮惟仁親王殿下である!!」
 楓子の身体がふわりと浮いた。
 明衡が楓子を両腕に抱き上げる。
 誰もが声もなく、明衡の行動を止めることもできなかった。
 峯子はぽかんと口を開けたまま、棒きれのように立ち尽くしている。方子は腰でも抜かしたか、だらしなく床にへたり込んでいる。
 楓子もただ茫然と、人形のように明衡の腕に抱かれているだけだった。
 ……なに? この人は今、なんと言ったの?
 わたしのお父さまが、いったい誰であったと?
 あの薫りが、かつて父が焚きしめていた、そして明衡が今も焚きしめるあの馥郁たる薫りが楓子の全身を包む。
 明衡がそっとささやいた。
「お顔をお隠しあそばされませ、姫宮さま。この場では、あなたがもっとも尊い身分の女君なのです」
 そして凍りついたような沈黙の中、明衡の声だけが凛然と響き渡る。
「これより、このお方にお目通りを願うならば、宮中へ赴かれるがよろしかろう!」




「たしかに……。たしかに似ている。あれの面影がある――」
 かすかに声をふるわせ、こちらへ手を伸ばそうとする人にこそ、楓子はどこかで見た面影があるような気がした。
 ……似てらっしゃる。この方は、そう、わたしのお父さまに似ていらっしゃる。
 黒絹の直衣に至高の冠、鬢(びん:こめかみ)には少し白いものが混じる。
 ……このお方が今上の帝。
 わたしの、伯父さま……?
 帝は明衡が差し出した古今集を手に取った。明衡が四条大納言邸の楓子の部屋から持ってきたものだ。
「間違いない。六の宮の手跡だ。ご覧、少将。十五番と十六番の歌の順番が逆だ。あれが写し間違えたのだよ」
 覚えている、とつぶやき、帝はわずかにうつむいた。その目元に光るものがある。
「かえでの姫よ。そなたは朕の弟宮、惟仁親王の忘れ形見だ」
「わたしが、親王殿下の……」
 鸚鵡返しにつぶやいてみても、まるで実感がわかない。
 けれど、
「今までつらい思いをしたのだろう。淋しかっただろう。これからは朕を父の代わりと思い、この宮中で暮らすが良い」
 御簾を出て自ら、平伏す楓子に手を差し伸べてくれる人は、たしかに同じ血の通う家族のぬくもりを感じさせてくれた。遠い過去の記憶に封じ込めていた、優しいあたたかさを。
「主上さま……」
 楓子のその言葉に、帝はゆっくりと首を横に振った。
 ……伯父さま。この方が、わたしの。
 大切な家族を亡くした痛みをともに分かち合う、ただひとりの肉親。
 差し出された大きな手に、楓子は自分の手をそっと重ねた。力強くあたたかなぬくもりが楓子の手を包む。母を亡くしてからずっと得ることのできなかった、家族のぬくもりがそこにはあった。
 ……もう、淋しくない。嬉しい時、哀しい時、ともに涙を流してくれる家族がいてくれる。わたしはひとりぽっちじゃない。
「少将。礼を言う。よくぞ姫を見つけてきてくれた」
「もったいないお言葉でございます」
 明衡は、いつの間にか御簾のそばにいる楓子よりさらに一段下がり、殿上の間の片隅にひっそりと座していた。帝と楓子の語らいを邪魔するまいとするかのように。
「今にして思えば、わたくしも亡き親王殿下の御霊(みたま)に導かれ、姫宮さまにお会いできたのでございましょう」
「そうやもしれぬ。朕が六の宮の香をそなたに教えようと思った時、すでにあれの魂が朕をも導いてくれていたのやもしれぬ。六の宮が姫を守るため、そなたを使者に選んだのであろう」
 やがて帝は短く手を鳴らし、女官たちを呼んだ。
 殿上の間の外に控えていた典侍、掌侍たちがしずしずと進み出て、楓子の手を取る。
「姫宮さま、さあ、こちらへ」
 ふっくらした顔にえくぼの浮かぶ年配の女官に導かれ、楓子は殿上の間を後にしようとした。
 ふと振り返ると、明衡も深く一礼し、帝の前を辞そうとしている。
「あの、少将さま……」
 思わず明衡を呼び止めようとした楓子を、典侍が小さくたしなめた。
「少将、とお呼びなされませ。もしくは明衡、と」
「でも……」
 いいえ、いけません、と典侍は首を横に振る。
「いかに姫宮さまに尽くそうと、少将どのは源姓のただびと(この場合は皇族以外の人間を指す)でございます。お言葉には充分お気をつけ遊ばしませんと」
「少将が、ただびと……」
 ……では、わたしは?
 昨日までは渡殿の隅に隠れるようにして、まともな人付き合いもできず、一日中誰かのための縫い物に追われていたわたしは――。
 楓子はそのまま典侍に導かれ、一旦後宮の貞観殿、別名御匣殿まで下がった。
 そこにはみごとな女装束のひとかさねが用意されていた。
 紅の匂の五つ衣(紅のグラデーションを五枚重ねる袿)に金箔摺りの裳。綾織りの唐衣は見る角度によって微妙な光沢をたたえ、身動きするたびに光の波を生む。身の丈にあまる黒髪はていねいにくしけずられ、黄金の釵子(さいし)を飾る。五色の糸を垂らした袙扇(あこめおうぎ)を手にすれば、姫宮の名にふさわしい、女性としての最礼装ができあがった。
「なんてお美しい……」
 典侍が涙ぐんだ。
「わたくしはご幼少のころの六の宮を存じ上げております。お父君さまが姫宮さまのこのお姿をご覧になられたら、どれほどお喜びでしょう」
「ありがとう……」
「さ、今一度主上のおん前へ。伯父上さまが首を長くなさってお待ちでございましょう」
 ふたたび典侍に手をあずけ、渡殿へ向かって歩き出そうとした時。
 楓子は御簾の外に、ふと人の気配を判じた。
 わずかな風が運んでくるこの薫り。自分を、そして彼を導き、巡り逢わせてくれたこの薫り。
「お願い。少し、待っていてください」
 楓子は凍りついたように立ち止まった。
 思いつめたような楓子の表情に、典侍は少しためらった。が、すぐに姫宮の言葉に従い、女官たちを引きつれて奥へ下がる。
 楓子は一歩、御簾のそばへ近づいた。
「少将さま」
 言葉に気をつけてと言われたことも忘れ、声をかける。ここまで近寄れば、御簾に映る影は明衡だとはっきりわかる。
 が、
「おあげになってはなりませぬ」
 厳しい声で明衡は言った。
「御簾をおあげになってはなりませぬ。あなたはもはや後宮にお住まいになられる御身、姫宮にあられます」
 その言葉に、楓子は息を飲んだ。
 皇統の血を引く姫宮は、滅多な男には嫁げない。帝の血筋をうかつに広げないための決めごとは同時に、姫宮として生まれた女性の神秘性をも強調することになった。位を授けられた内親王ともなれば、婚姻が許される相手は帝か東宮にほぼ限られていた。
 後宮に住まうということはすなわち、楓子が今上の帝に嫁ぐことを意味する(この時代、叔父と姪、叔母と甥の婚姻は認められていた)。
 帝の同母弟の遺児、姫宮として後宮に入るならば、楓子の高貴さにかなう女性はいない。今は不在となっている中宮の地位も、約束されたも同然だ。
 ……中宮。この国の女人で、もっとも位尊き一の人。
 けれど本当に、それが自分の願いだったろうか。
 そして少将は、それを願って自分を救ってくれたのだろうか。
「いのちだに……」
 低く、明衡がつぶやいた。
   いのちだに心にかなふものならば
      なにか別れのかなしからまし
 ――私たちの命をかけた願いが叶うのならば、あなたとの別れもなにを哀しむことがありましょう――
 病を癒すため都を離れて湯治の地へ向かう友に送った別れの歌。古今集の一首だ。
「だめだ。……歌が、歌が、詠めない――」
 明衡の声がかすれ、ふるえる。
 胸の中で渦巻く思いが、ひとつとして言葉にならない。ただ滾つ瀬のように荒れ狂うばかりだ。
 それは楓子も同じだった。
 この世のすべてを和歌に託せると思っていた。自分の感情はみな歌の世界に昇華できると。だが現実に激流のような思いを体験してみれば、声もなくして愚かに立ち尽くすだけの自分がいる。
 この御簾を取りのけたい。昨夜までは格子のこちらと向こうで、はっきりと互いの顔を見ることができたのに。どうして今は、彼の顔を見つめることさえ許されないのだろう。
 ……どうしたらいいの。なにを言えばいいの、わたし――。
「どうぞ……末永う、おすこやかに――」
 明衡が立ち上がる。
 さやかな衣擦れの音を残し、静かに立ち去っていく。
 その袖に焚きしめられたあの薫りが遠ざかる。風に吹かれてかき消されてしまう。
 楓子の手が、ひくっと小さく動いた。まるで誰かを招くように、胸の前まであがる。
 だがそれきり、動かなかった。
 いつの間にか典侍たちが楓子のかたわらに戻ってきていた。動こうとしない楓子の手を取り、そっと促す。
 どこか雲を踏むようなおぼつかない足取りで、楓子は歩き出した。
 後宮は麗景殿、弘徽殿など独立した多くの建物が渡り廊下で結ばれた複雑な構成になっている。その建物のひとつひとつに帝、あるいは東宮の寵愛する后妃が女主人として住み、互いに妍を競っているのだ。
 大殿油(おおとなぶら:室外の灯明)が灯され、いっそう陰影深くなった後宮を、楓子は典侍に導かれるまま、黙って歩いていった。
 簀の板を踏む足先がひどく冷たい。そんな感覚はあるのに、どこか現実感が欠けている。
 ……わたしは何をしているの。どこへ行こうとしているの。
 わたしはいったい、何を望んでいたのかしら……。
「かえでの姫」
 低く優しい声に名を呼ばれ、楓子ははっと我に返った。
 気づけば、ふたたび清涼殿に戻ってきている。
 御簾は高く巻き上げられ、帝の姿が暗がりの中、浮かび上がるように見えた。
「いかがしたのだ、かえでの姫よ。なぜそのような顔をする」
「主上……」
 優しく問いかけられても、返事ができない。
 自分でもわからない。何がこんなにも哀しくて、苦しいのか。
 自分を家族と思い、いつくしんでくれる人がいる。この人のそばでなら、もう何も怖いこともつらいこともない。
 その、はずなのに。
 ……これ以上望むことは何もないはずなのに。
 心が、言うことを聞かない。
 望んではいけないことを、人を、求めてやまないのだ。
「言ってごらん」
 帝が静かに御帳台を降りてきた。
 楓子の前まで歩み寄り、膝をつく。楓子と同じ目の高さになり、その顔をそっと覗き込む。
「心のままを、言ってごらん。姫」
 大きな優しい手が楓子の髪を撫で上げた。少し乾いたその指先の感触は、記憶の中にある父宮のそれとそっくりだった。
「朕はかつてあやまちを犯した。もう二度と、同じあやまちを繰り返したくない」
 帝はゆっくりと言った。それはどこか、自分自身に言い聞かせているかのようだった。
「のう、姫よ。我らはともに互いの存在を知った。今は同じ都の空の下にいる」
「主上……」
 楓子は顔を上げた。見上げた帝の顔は、まるで泣き笑いのようだった。
「逢いたいと思えば、いつでも逢える。文も交わせる。互いに、初春の祝い歌を交わす家族もおらなかったことを思えば、なんと幸福なことではないか」
 はい、と返事をしようと思った。けれど声が出てこない。しゃくりあげるのを怺え、唇を咬むので精一杯だ。
「言うてごらん。姫。そなたの望みを教えておくれ」
「……い、たいのです――」
 ふるえる唇から、涙にかすれた声がこぼれた。
「お会いしたいのです。蔵人少将に……明衡さまに――、お会いしたいのです……!!」
 ……願うことは、ただ、それだけ。
 逢いたい。あの方に逢いたい。
 その顔を、瞳を見て、声を聞いて。そしてあの薫りに触れたい。
 それから先のことなんて、なにもわからない。考えられない。
 ただこの心が、身体中すべてが、あの方を求めている。
 逢いたい。逢いたい。ただ、逢いたい。
 こぼれ落ちる涙を、優しい指先が拭った。
「幸せにおなり、我が姫よ」
 帝が自ら楓子の手を支え、立ち上がらせる。
 暗がりに包まれた清涼殿に、朗々と一天万乗の君の声が響いた。
「参議たちを集めよ。御前定(ごぜんのさだめ:帝が臨席しての大臣たちの会議・御前閣議)を招集する。これより、朕が弟宮、亡き惟仁親王が遺児、女一の宮(この場合は長女を意味する)を朕が猶子となし、正三品内親王の格を持って、蔵人少将源明衡がもとに降嫁させる!」




 楓子は走った。
 後宮の長い渡り廊下を、濃き色の袴をたくしあげ、釵子も扇も放り出して、幼い女の子のように走り抜けていく。
 長く裾を引く衣冠束帯姿。宮中に出仕する公達はみな同じような装束だが、けして間違いようがない。
 ……だって、この薫り。この薫りが、あの方のことを教えてくれる。
 夜の空気に溶け残る薫りを辿って、楓子は走った。
 幸せにおなり、我が姫よ。その言葉が亡き父の、そして母の声と重なって、今も耳の奥にこだまする。
「明衡さま!」
 明衡が振り返る。驚き、なにか言おうと唇がわななく。けれど何も言葉が出てこない。まるで人形のように立ち尽くす。
 その腕に、楓子はみずから飛び込んだ。
「雁よ。わたしも雁よ」
 楓子は言った。
「あなたが北へ帰る雁なら、わたしもついていく。同じ群れになって、どこへでも飛んでいくわ」
「姫……!」
 明衡は楓子を抱きしめた。渾身の力で強く抱き、黒髪に顔をうずめる。その髪を撫で、頬を寄せ、そしてくちづける。
「いいえ。あなたは私の月だ」
 馥郁たる薫りが楓子を包む。そして楓子の香りが明衡を包んだ。まるで二羽の鳥が互いに羽根を広げ、寄り添い、あたため合うように。
「そしてこの雁は、ただ一心に月を目指して飛んでいくのですよ……!」


  蔵人少将源明衡より、後朝の歌
   有明に 疾くうつそみは 立ち去れど
     きみがそばにぞ かげはあらまし

  返し
   有明の きみがゆくてに かげ立たば
     あくがれいずる 我がたまと見よ


                                          (終)



参考文献  古今和歌集 佐伯梅友校注 (ワイド版 岩波文庫) 




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