壱 、 虜 囚


 真っ暗な森を、一人の男が疾駆していた。
 月光もろくにささない鬱蒼とした森の中、男はまったくつまづきもせず、怖ろしいほどの速度で駆け抜けていく。まるで夜行性の獣のようだ。
 だがその背後から、さらに敏捷な動きで仮面をつけた人間達が追いかけてくる。枝から枝へと飛び移り、あるいは大木の幹を飛び石のように蹴って、あっという間に男との距離を詰めてくる。
 ざあ、ざざあっと樹々がうねり、風が鳴る。
 銀色の刃が飛んだ。
 男の脚を狙って、仮面の者達の手から閃光のように放たれる。
 男は右に跳び、左に転げ、必死に刃をかわした。
 一気に跳躍して、頭上の太い枝に飛びつこうとした時。
「うあぁッ!!」
 男の右足に焼けつくような痛みが走った。
 鋭く研がれたくないが、男のふくらはぎに深々と突き刺さった。
 跳躍し損ねた男は、そのまま地面にもんどり打って倒れ込んだ。
 そして再び顔を上げた時には、男は既に仮面の一団に取り囲まれていた。
 逃げ道は、ない。
「馬鹿な男だ。どこの手の者か知らぬが、よりによって、木の葉の隠れ里に忍び込もうとはな」
「よほど命がいらぬと見える」
 仮面の者達がじりじりと近づき、男を囲む輪を縮めてくる。息も詰まるような圧迫感が男を襲った。
 男は足の激痛を堪え、上半身を起こした。ほとんど意識しないうちに、左前腕部を右手で抑える。そこには、筋肉の内側に異様に硬い感触があった。
 ――近づけ。男は胸の内で念じた。近づけ。少し、あともう少し。仮面の者達をにらみ据えながら、この武器をもっとも有効に使うタイミングを図る。
 が。
「うかつに近づくな。左腕に何か埋め込んでいるぞ」
 仮面に抑えられ、幾分くぐもった声が冷ややかに言った。
「……なッ――!」
 男は思わず絶句した。
 隠し武器の特殊火矢は、直接腕の中に埋め込まれ、腱のわずかな収縮で己れの肉を突き破って飛び出す仕組みになっている。
 肉眼で見えるはずがないのに。
「自害用の毒物は右下の奥歯に仕込んである」
 仮面の群れから一人、若い男が進み出てきた。
 うなじで束ねた、長い漆黒の髪。鍛え抜かれ、引き締まった刃のような体つき。
 若者は無造作に手を挙げ、自ら獣を模した白い仮面を外した。
 その下から現れたのは、女と見紛うほどの美貌だった。
 だが、追いつめられた男の視線を強く引きつけたのは、そんなものではなかった。
 額に巻かれた古びた包帯、そしてその下から男を見据える、眼。
 瞳孔がない。まるで半透明の水晶玉が二つ、眼窩
(がんか)に嵌(は)め込まれているようだ。
「き、貴様、その眼……ッ!」
 男は掠れる声で呻いた。
「ネジかッ! 貴様、日向ネジ――『白眼のネジ』だなッ!!」
 ネジは低く嗤
(わら)った。
「ほう、面白いな。心臓のそばにも爆発物を埋め込んであるのか。鼓動が止まると作動する仕掛けらしいな」
 男はもう、声もなかった。蒼白な顔面に脂汗を滴らせ、喘ぐような呼吸を繰り返しながら、ネジを見上げている。
 ネジが一歩、男の方へ足を踏み出した。
「く、来るなッ! 近寄るな、さもないと――!!」
 闇雲に振り回される男の腕を払いのけ、ネジは男の額に指を当てた。
 そのとたん、男はまるでゼンマイの切れた玩具のように、ぴたりとその動きを止めてしまった。
 身体の内側で落雷のような音が響き渡った。鼓膜が破れたかと思う。そしてその瞬間、身体の自由がすべて奪われてしまったのだ。
 自分の中に何かがぬるり、と流れて込んできたのがわかる。それが、目の前の若者が伸ばし、自分の額に押しつけた指先から流れてくるのだけは感じ取ることができた。だがそれ以上のことは、自分の身体にいったい何が起きているのか、男にはまったく理解できなかった。
 ここまで敵に追いつめられたら、後は自分で自分の胸を突き、心臓のそばに仕掛けられた爆弾を作動させる。その覚悟もとうに出来ていた筈なのに。
「どうだ、動けまい」
 男はまばたきすることさえ出来ず、茫然とネジの美貌を見つめるしかなかった。
「今、お前の『気』
(チャクラ)の流れは、すべて俺のコントロール下にある。お前はもはや、自分の意志では指一本動かせない」
「う……うぅ……っ」
 男の口から獣のような呻きが漏れた。それが男にできる、精一杯の抵抗だった。
 ネジの指がわずかに振れた。すると男の口が大きくぱかりと開く。
 別の仮面が男の前にしゃがみ込み、その口の奥を覗き込んだ。
「どの歯だって?」
「右下の奥だ」
「ふぅん」
 仮面の者は男の目の前で軽く手をひらひらと振ってみせた。その指先が一瞬、きらりと小さな光を放つ。蜘蛛の糸のように細い、人の眼にはほとんど見えない糸が、その指にまとわりついていた。
 五本の指にくくりつけた極細の仕掛け糸が、まるで意志あるもののように開いた男の口中へ入り込む。
「えーっと、右の奥、下の歯か」
 仕掛け糸を操る指が、踊るようにうごめいた。そして、今度ばかりはネジの支配に逆らって、男が獣のような悲鳴を上げた。
「ぎゃあぁッ!!」
 やがて口中から引き抜かれた糸には、血まみれの歯が二本、絡め取られていた。
「おやおや、手先が狂った。余計な歯まで一緒に引き抜いちまった」
「たいした違いはないだろう。どうせ里へ連れ帰れば、地獄の責め問いが待っている。それが終わるまでに、歯が一本だって残っているかも怪しいもんだ」
「まあ、入れ歯の心配はいらんだろうさ。どうせ尋問部屋から出る時には、死体になってるんだからな」
 仮面の者達は、冷ややかな声で男の行く末を嘲笑った。
 だがネジの顔には、わずかな笑みも、感情の一片すら浮かんではいなかった。男の「気」を支配する指先に全神経を集中させているのか、視線すらまったく動かさず、まるでその手に提げた仮面そのもののようだ。
 部隊の指揮官が軽く右手を挙げた。それを合図に、ネジはようやく男の額から指を離す。
 そしてネジは再び仮面をつけ、白皙の美貌を覆い隠した。
 指揮官は背後にいる他の仲間に、顎をしゃくって指示をした。
「連れていけ。尋問部隊の専門家がお待ちかねだ」






 庭の奥から虫の音がする。
 ヒナタは濡れ縁から草履をつっかけ、庭の踏み石を渡って離れの茶室へと向かった。
 母が生きていた頃は、折に触れて使われていた茶室も、今はほとんど閉めきりになっていた。それに伴い、囲む庭も手入れが行き届かなくなっている。踏み石を渡っても、伸びた雑草が着物の裾をかすめ、夜露が絹地を湿らせる。
 けれどヒナタは、そんなことは一向に気にしなかった。
「ネジが戻ってきた。今、離れの茶室で休ませておる」
 日向一族の頭領である父・ヒアシからそう聞かされたのは、広い日向屋敷がそろそろ寝静まろうとする頃だった。
 夜着への着替えは一人でするからと侍女を下がらせようとした時、前触れもなく頭領づきの小者
(こもの)がヒナタを呼びに来たのだ。
「父様がお呼び? 判りました。すぐ参ります」
 着替える前で良かったと、ヒナタはすぐに自室を出た。
 幼い頃のように父手づから稽古をつけてもらうことはなくなったが、それでも朝餉夕餉
(あさげゆうげ)の時などには必ず顔を合わせている。妹のハナビもいるその席で話をせずに、こうして後で父が改まって自分を呼びつける時は、大概あまり良くない話だと相場が決まっている。
 この前、父の部屋に呼ばれた時に聞かされたのは、通常任務から医療班配下の施薬院
(せやくいん)への配置転換だった。それは、下忍の頃から組んでいたキバ、シノとのチームの解散をも意味していた。
「お前を里の外へ出すわけにはいかぬ」
 能面のように感情のない顔で、父はそう告げた。
「これは火影様、並びに三長老ご直々
(じきじき)の裁定だ。これ以上、血継限界を里の外へ流出させるわけにはゆかぬ、と」
 父の言葉に、ヒナタにもすぐに思い当たることがあった。
 日向の白眼と並び、木の葉の里の隠し武器として受け継がれてきた、うちは一族の写輪眼。その後継者たるイタチ、サスケの兄弟が二人ながらに里を裏切り、抜け忍となったことは、里の上層部に大きな衝撃を与えた。
 もともと写輪眼の能力は、白眼をベースに人為的に変異を起こし、DNAレベルから改造して、より戦闘に特化した形に進化させたものだという。
 言い換えれば、写輪眼はこれでひとつの完成形であり、手を入れる余地はない。だが白眼はその能力の基礎であり、その遺伝子をさらに違う形へと発展させることも考え得る。既存の白眼、写輪眼ともちがう、第三、第四の血継限界を創り出すことも可能なのだ。
 それを他の隠れ里、あるいは里に属さない戦闘集団に、奪われるわけにはいかない。事実、ヒナタも幼い頃から何度となくこの眼を狙う者達に襲われ、そのたびに救われてきた。多大な犠牲を出しながら。
 これ以上、自ら危険の中に飛び込むような真似はできない。ヒナタは、里の決定を黙って受け入れるしかなかった。
 もとから、自分は戦闘行為にはあまり向いていないと悟っていた。これ以上実戦部隊に留まり続け、一つチームを組む仲間達に迷惑をかけるよりも、同じ忍の勤めでも他者の命を救う医療行為に携わることは、むしろ自分にとって気持ちの安らぐことではないかと、ヒナタは思った。
 逃げるのではない。里のため、ここでともに生まれ育った同胞
(はらから)のため、最良の方法を選ぶだけだ。
「新しい仕事場は施薬院管理の薬草園だ。明日にも訓示が発せられよう」
「はい。――でも、父様……」
 ふと気づき、父に訊ねる。
「兄様は――ネジ兄様は、どうなるのです? 兄様は暗部へお行きになられたと聞きました」
 里の任務の中でも最も危険なものが集中し、実質的に里の最精鋭部隊として扱われる暗部。そこに籍を置いているのであれば、里の中に閉じこもっていることなど不可能だ。
 白眼の能力を最大限に利用する場は、暗部を置いて他にはない。日向一族も必ず複数の者を暗部に所属させるよう、里の上層部から要請されている。それは木の葉の里への忠誠を示すことであり、また里の内外へ日向一族の力を誇示することでもある。父のヒアシも、一族頭領の地位に立つ以前は、暗部にいたという話だ。
 ヒナタも頭領の娘として、日向一族を代表して暗部へ加わるべきだったのだろう。だがヒナタにはその任が勤まらないことを、誰もが知っていた。そして誰がそれを言い出すよりも早く、ネジが独りで暗部への配属願いを出したのだった。
 本来なら、一族の者の動向はすべて頭領であるヒアシの決裁を待たねばならない。だがネジの独断を知っても、ヒアシは何も言わなかった。まるでそれがごく当然であるかのような顔をして。
 ネジは自分の身代わりになってくれたのだ。その思いが、常にヒナタを責め続けていた。自分の力が足りないばかりに、ネジを危険な仕事へと追い込んでしまった。
 でも、これでようやく安心できる。ヒナタは胸の奥でほっと安堵のため息をついた。ネジにも同じく白眼の保持が命じられたのなら、おそらく彼は暗部を抜けることになるだろう。
 だが、
「あやつのことは案ずるに及ばぬ」
 父はにべもなく言い捨てた。
「いざとなれば自分で両眼を潰すくらい、とうに覚悟はできておるだろう。ましてやあやつがおるのは暗部だ。たとえあやつを細切れ肉に変えてでも、白眼の秘を里の外へ漏らしたりはせぬ」
「そ、そんな……」
「暗部とはそういう所だ。あやつもそれを承知で、自ら志願したのだ」
 これ以上ネジのことは口にするなと、父はヒナタに厳命した。ネジが暗部に所属している限り、彼のことは死んだと思え、と。
「大体、何事だ、ヒナタ。あやつを兄などと呼ぶとは。あやつはたがか分家の惣領
(そうりょう)。いずれ一族の姫頭領となるお前の、足元で死ぬべき男だ!」
 家長であるヒアシがそんなふうだから、ネジも、彼の父であるヒザシの死後はほとんど日向屋敷に寄りつこうともしなくなった。ヒナタがネジの姿を見かけるのは、冠婚葬祭や年賀の挨拶など、一族の者が勢揃いする席でだけになっていた。
 ごく稀に任務の報告などで里の詰め所を訪れた時、ちらりとネジの姿を見かけることもあった。けれどそんな時もネジは、ヒナタの存在になどまるで気づいていなような顔をして、一言も声をかけてくれなかった。
 遠くから眺めるネジの姿は、一分の隙もなく張りつめ、幼い頃に兄と呼んで慕った人とはまるで別人のようだった。
 そのネジが、自分から日向屋敷を訪れてくれた。父も彼を受け入れ、休む部屋まで与えたという。
「侍女に言いつけて、酒肴
(しゅこう)でも整えさせよ。あやつも永(なが)の任務から戻ってきたばかりのようだ。少しねぎろうてやるがいい」
 父はそう言ったが、そんな言葉などヒナタの頭からとうに消し飛んでしまっていた。そして父がどんな顔をしてその言葉を言ったのかも、ヒナタはまったく気づかなかった。
 何も持たず、侍女も連れず、まるで子供のように庭を走り抜ける。
 ネジに会うのに、礼儀作法など何も必要ない。幼い頃はともに育った従兄妹同士であり、ある意味、それ以上に近しい間柄の自分達だ。
 庭の片隅にある茶室から、ほのかに灯りがこぼれているのを見て、ヒナタは胸の奥から湧き上がるうれしさを抑えきれなくなった。
「兄様、ネジ兄様」
 中からの返事を確かめもせず、狭いにじり口をくぐり抜ける。
 室内は、外から見た時よりも少し薄暗いように感じた。部屋の片隅に置かれた灯明で、ろうそくの炎がちらちらと揺れているだけだ。
 その灯りに照らされて、ネジは円窓の下に座っていた。
 見慣れた端正な横顔、黒髪はもう背中まで届くほどに伸びている。暗部に所属して、任務の時は常に仮面を付けるようになったためか、以前のように木の葉の紋様の額あてはなく、代わりに少し古びた包帯が額に刻印された服従の印を隠していた。
 炉には炭が赤く熾
(おこ)り、部屋の空気を暖めている。炉にくべられた香木がほのかな薫りを漂わせ、しばらく使っていなかった室内のほこりっぽい匂いをごまかしていた。
 ネジの膝元には簡単な酒肴が供されている。料理に箸をつけた様子はないが、ネジの手には白磁の盃があった。
 その盃が、ぽろりと畳の上へ落ちた。
「兄様?」
 ヒナタは怪訝
(けげん)そうに、兄と慕う男の顔を見上げる。
 その顔は血の気を失い、凍り付くような驚愕の色を浮かべていた。ヒナタが初めて見る、ネジの表情だった。
「ヒナタ様……! なぜ……なぜ貴女がここに――ッ!!」
【こよひはつきも】
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