ふと気づくと、優しい手がそっとわたしの髪を撫でつけていた。
「……たかまつ」
 わたしはうっすらと眼を開け、無意識のうちにその名前をつぶやいていた。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
 高松は少し困ったような、どこか淋しげな笑みを浮かべ、わたしを見下ろしていた。
 彼がわたしの部屋に入るのには、何の妨げもない。わたしの部屋のドアロックは、わたしの指紋と、そして高松の指紋のみで開くように設定されている。
 高松は枕元に足を組んで座り、上から包み込むようにそっと手を伸ばして、わたしの髪を撫でた。
「ご気分はいかがです? ――夕食は食べなかったのですか?」
「うん……。でも、もう平気」
 わたしは全身が軋むような痛みをこらえ、なんとか身体を起こした。高松がそっと手を貸してくれる。
 そのまま高松はわたしをシーツでくるみ、そっと胸元に抱き寄せた。
 あたたかい体温がわたしを包む。自分からその胸に頬を寄せると、とく、とく、とく……と高松の規則正しい鼓動が響いてきた。
 こんな時、高松はいつもなにも言わない。けれど彼の手に染みついた実権植物の優しい匂いが、わたしをいたわるように包み込んでくれる。さらりと乾いて、どこか異国の香料のような、高松の匂い。
 わたしは、護られている。こうして高松の腕の中にいれば、なんにも怖いことはない。
 わたしもいつもは、その優しさに甘え、なにも言わずに眠りにつくはずだった。
 けれど。
「高松。どうしてわたしを抱かないの?」
 高松の手が、ぴくりとふるえた。
「こんなわたしを抱くのは、嫌? こんな……、ほかの男の玩具にされた女――」
「およしなさい。そんなふうにご自分を卑下してはいけません」
「だって……ッ!」
 わたしは力の入らない両腕を精一杯突っ張り、高松の胸元から無理やり自分の身体を引きはがした。それでも――彼の顔を見る勇気は、なかったけれど。
「だったらなんで、わたしに優しくするの!? 高松だってわかってるんでしょ。シンちゃんはわたしのことなんか、使い捨ての玩具くらいにしか思ってない。マジック伯父様だって、ほかのみんなだって、そう。わたしなんか、男の慰み者になるしか価値がないって、そう思ってる! だから高松だって、自分のしたいようにすればいいのに!」
 顔をぎゅっと伏せたまま、わたしはまるで小さな子どもみたいに甲高く喚いた。半分、泣いていた。
「わたしなんか……どうせ、わたしなんかっ!!」
 高松がすっとわたしの頬へ手を伸ばした。
 ……ぶたれる。
 とっさにそう想い、わたしは思わず身をすくませた。
 けれど高松の大きな手は、わたしの頬をそっと包み込んだ。
「そして私に、あなたのこの涙に付け込む卑怯者になれ、と?」
 優しい指先が、わたしの目元に触れた。
 知らないうちにあふれていた涙を、その指先が拭う。少し硬くて、ざらついて、あたたかい指が。
 わたしは顔をあげた。
 黒い優しい瞳が、わたしを映している。泣きぼくろのせいなのか、高松のほうがまるで泣きそうな表情に見えた。
 そして高松は、もう一度わたしを自分の胸元に抱き寄せた。
「私も、あなたを抱きたい。……今すぐにでもね」
 静かに、高松は言った。
 その声は、まるで子守歌のようだった。遠い昔、まだひとりでは眠れないほど幼かったわたしに、今よりももう少し若かった彼が不器用に唄ってくれた、古い子守歌。
「けれどそれは、あなたの望みでもあって欲しいのですよ」
「わたし、の……?」
 ええ、と、高松は小さくうなずいた。
「あなたが本当に望むのなら、グンマ様。私はこのまま、あなたを抱いて話さない。あなたを抱いて、抱いて――それこそ、あなたを滅茶苦茶にしてしまうまでね」
「高松……」
「でも、そうではないのなら――あなたがただ、自分をさらに傷つけたいだけなのなら、私はそれを許すわけにはいかない」
 高松はそっとわたしの髪を撫で、後れ毛をかきあげた。そしてわたしの前髪に唇を寄せる。
 かすかに触れるだけの、優しいキス。
 ……どうして。
 どうしてそんなに、優しくしてくれるの。
 わたしがなにをしても、許してくれるの?
 高松がそんなふうに優しいから、わたしはいつもあなたに甘えてしまう。言葉も話せない赤ん坊が、母親に甘えてすがりつくみたいに。
 ……それでも、いいの?
「あなたを誰にも傷つけさせたくないのです。あなた自身にも」
 そしてわたしは、どうしてこんな優しい手に背を向けて、別の人のことばかり、追い求めてしまうのだろう。わたしを傷つけるだけの人を。
 シンちゃんの言うとおり、わたしは思い上がっているんだろうか。
 ――わたしなら、彼の苦しみがわかる。彼と似ている、わたしなら。
 青の一族の後継者でありながら、一族の証である金の髪も蒼い瞳も持たずに生まれてきたシンちゃん。一族特有の容姿を持ちながら、その力をまったく持たないわたし。わたしたちは互いに欠けたものばかり、相手の中に見ている。
 そんなわたしだから、シンちゃんの痛みも苦しみも理解してあげられる。シンちゃんがほかの誰にも言えないことを、わたしなら受け止めてあげられる。
 心のどこかでそんなことを思って、……だから、こんな子どもじみた彼の暴力を、わたしは責めもせずに許してしまっているのだろうか。それが本当は、けしてシンちゃんのためにはならないんだと、わかっているのに。
 シンちゃんが好き。大好き。彼にふりむいてもらいたい。昔のように優しく、笑いかけてもらいたい。
 そして同時に、高松のこの手も、けして失いたくはない。
 抱きしめられる心地よさ、わたしを受け入れてくれるこのぬくもりに、甘えることが、本当は高松をひどく苦しめているのだと、知っていながら。
 わたしの心は、どうしてこんなにも欲張りで、聞き分けがないんだろう。
 人は誰も、いつか世界でただひとりの運命の人に巡り逢い、幸せになれるのだと、幼い時は思っていた。その人に心も体も満たされて、ふたり寄り添い、支え合いながら生きていくのが、人としての理想なんだと。
 でも現実はそんなお伽話のようにはいかない。自分自身の心ですら、手に負えなくて持て余している。
 それでもいいの?
 ねえ、高松。教えて。それでもいいの? こんなふうにぐらぐら揺れる不安定な心で、わたしは――人は生きていてもいいの?
 人はみんな、そうやって自分の心を持て余し、自分の心に傷つけられながら、生きているものなの?
「お眠りなさい」
 答えるかわりに、高松は低い声でささやいてくれた。
「どんなに思いつめても答が見つからない時は、無理に考えてはいけません。今はただ、ゆっくりと眠って、みんな忘れてしまえば良いのですよ」
 ――人は誰も、いつかは答の出ない問題に無理にでも決着をつけなくてはいけない時が来る。自分の心をふたつに引き裂いて、大切な想いを封じ込めて、そうして生きていかなければいけない時が。
 けれどまだその時ではないのなら、無理やり自分の想いをねじ伏せる必要がないのなら。
 ――眠ってしまえばいいのですよ。今はまだ、なにも考えずに。
 彼の優しい手が、そう語ってくれていた。
 高松、と、彼を呼んだつもりだった。
 けれどその言葉は、声にならなかった。
 ……本当にいいの? わたしはまだ、あなたに甘えていて、いいの?
 あなたのその優しさは、わたしたち――わたしやシンちゃんよりもずっと大人だから? それともあなた自身が、かつて同じように傷ついて、苦しんできたから?
 高松のぬくもりと鼓動に包まれて、わたしはいつか、とろとろと眠りの坂を下り始めていた。
「そう……。お眠りなさい、グンマ様。今はなにも考えず、ゆっくりと。眼が覚めるまで、私はあなたのそばに居ますよ――」
 この声を聞いていれば、わたしはもう泣かずに眠れるのだった。






 それから間もなくして、シンちゃんがガンマ団を脱走した。
 しかも、青の一族の秘宝「青の秘石」を強奪して。
 彼の執念が、半年以上わからなかった弟のコタローちゃんの幽閉場所がガンマ団日本支部であると、ついに突き止めたからだった。
 けれど彼は、最愛の弟のもとへ辿り着くことはできなかった。
 彼が逃亡に使った小舟は嵐に遭って沈没し、シンちゃんはそのまま行方不明になってしまったのだ。
 けれど青の一族の宿命は、けして彼を死なせなかった。……青と、赤のふたつの秘石は。
 一族のさだめに導かれるまま、ついに彼はあの島へ辿り着いた。
 彼の、そしてわたしたち青の一族すべての、運命の島。
 南海の孤島、地図にも載らない謎の島。
 そして彼はその島で、自分の生まれた意味を知り、過酷な運命を乗り越えてやがて本当の自分を取り戻すことになる。
 そして、わたしも。……わたしたちも。
 わたしや高松、サーヴィス叔父様。マジック伯父様。わたしたち皆も、ずっと目をそらし、逃げ続けていた自らの宿命とあやまちとに、向き合わなくてはならなくなる。
 この世に残された、最後の楽園。奇跡の命に満ちた神の島。
 ――パプワ島で。






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