きい……と、かすかに板が軋む音に、達哉はふと目を覚ました。
 普通なら、そんな小さな物音で起きたりはしないだろう。だがここしばらくは、ぐっすり眠ったためしがない。どんな些細な変化でも、すぐに目が覚めてしまう。
 古い板壁の隙間から、冷たい夜風が吹き込んでくる。達哉は小さく身体を丸め、傍らに置いていた日本刀を抱きかかえた。まるでその刀が凍えた身体を暖めてくれるとでもいうように。
 壁には古く汚れた仮面がずらりと並び、空洞の両眼で達哉を見下ろしている。そのほとんどは神楽舞などで使われる能面のようだが、中にいくつか、外国製と思われるものも混じっていた。
 アラヤ神社。その小さな社に、達哉は身をひそめていた。
 ここはすべての始まりの場所。自分の罪が刻まれた場所。
 けしてとどまりたい場所ではない。できることなら、二度と目にしたくなかった。
 けれど「向こう側」の記憶を背負って孤独な闘いに身を投じた達哉には、ここしか戻ってくるべき場所がなかったのだ。
 家にも、もちろん学校へも戻れない。特異点となってしまった自分と接触する人間が増えれば、それだけ既視感という形で「向こう側」の記憶を呼び覚まされる人間が増えることになってしまう。家族にも、友人にも、もう逢えない。
 幾夜こうして、眠れない夜を過ごしただろう。独りぼっちで膝をかかえ、灯りすらない社の中にうずくまって。
 目を閉じれば、かつての記憶が自分を責める。離ればなれになってしまった友。守ろうと誓って、守れなかった大切なひと。
 そして……。
「―――ッ!」
 いきなり、達哉は顔をあげた。
 刀の鞘を左手で掴み、すぐさま抜けるように身構える。
 ――誰か、来た。
 壁際に身を寄せ、扉の隙間から息を殺して外を窺う。そうしろと、自分の中に目覚める無数のペルソナ、その中のどれかひとつが命令している。
 身体中の神経が一気に張りつめる。ぴりぴりと青白い火花を放ち始めたみたいだ。
 だが。
 達哉は、叫び出しそうになる口元を、慌てて片手で覆った。
「なんで……。なんで、こんなところに――!」
 社の外に立っていたのは、リサだった。






 プラチナブロンドは月光を浴びて、銀色に淡く輝いている。ステージ衣装ではなく私服なのだろう、シンプルなシャツブラウスと、タイトなカプリパンツ。飾り気のない服装は、達哉が見慣れたリサの姿だ。
 そして、湖水のように透きとおる、あのブルーアイズ。
 リサの瞳はわすれなぐさの色ね。「向こう側」で、舞耶がそう言った蒼い瞳。
 その瞳で、リサは真っすぐにアラヤ神社の社を見つめている。
 中にいる達哉を、見透かすように。
 ――いや、そんなはずはない。そんなはずはないんだ。達哉はほとんど無意識のうちに、強く首を横に振っていた。
 リサは何も覚えていない。淳や栄吉と同じく、「向こう側」のことも、達哉のことも、何も覚えていなかったのだ。
 やがてリサは周囲をゆっくり見回した。まるで、今、初めて自分がどこにいるのか気づいた、とでもいうように。
「また、来ちゃった……」
 小さなつぶやき。
 聞きたくない。
 聞こえなければいい、と、達哉は願う。
 けれど。
「どうしてかな。子供ん時からずっと、ここへは来てなかったのに」
 ためらいながらも、リサが社へ近づいてくる。ふふ、とかすかに笑う声。こつん、と小石を蹴った音がした。
「アラヤ神社、か……」
 達哉は目を閉じた。壁に背をつけ、顔をそむける。
 もう、リサを見つめていられない。
「神社なら、神様がいるんでしょ……?」
 リサの声がふるえている。
 知っている。これは、涙を怺えている時の、リサの声だ。
「ねえ、いるんなら教えてよ! あのひとは誰!? どうして私を助けてくれたの!?」
 リサの声が突き刺さる。どんなに耳をふさいでも。
「周防達哉……学校の先輩。……違う。そんなんじゃない。そんなんじゃないよっ!」
 青い瞳からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
 短い参道となっている石畳にぺたりとしゃがみ込み、リサは幼い子供のように泣きじゃくった。
 硬い敷石に爪をたて、うつむいた肩をふるわせる。
「答えてよぉ……っ! 答えてよ、ねえ、神様ぁっ!! 絶対、知ってるんだよ! 私、絶対あのひとを知ってるの!! なのに、どうして思い出せないの!! 教えてよぉっ!!」
 それは、達哉へ向かっての詰問と同じだった。
 ――答えて。私の記憶を返して。
 白いほほを、涙の雫がころがり落ちる。灰色の冷たい敷石に、リサの涙がいくつもいくつも黒い染みを作った。
「私、なにを忘れちゃったの!? とっても大事なことだったはずなのに――あのひとのこと、絶対、絶対忘れちゃいけなかったはずなのに!! そうでなかったら、こんなに苦しいはずない!」
 優しいプラチナブロンドの髪を、細い指がくしゃくしゃにかきむしる。強く擦った目元が、紅い。
「こんなの……ひどい……。いやぁ――絶対、いや……。私、私……っ!!」
 違う――違う、リサ。
 思い出すな。
 食い破るほど強く、達哉は唇を噛みしめる。
 右手が勝手に動いた。社の扉を開けようと。
 達哉は左手に掴んだ刀を置き、咄嗟にその手で自分の右手首を掴んだ。
 自分で自分の手を引き戻す。
 渾身の力と、そして持てる意志の力すべてを振り絞って。
 心があらがう。このまま飛び出していきたいと、身体中が抵抗している。
 ――だって、リサが泣いている。
 泣いているんだ……!!
 達哉はがくりと両膝をついた。
 閉じられたままの扉にすがりつき、爪をたてる。古くささくれだった板に、皮膚が裂かれ、爪が剥がれそうになるのにもかまわずに。
 この扉は絶対に開けてはいけない。
 ……忘れてしまえ、リサ。みんな、忘れてしまえ。そうすれば、もう苦しいことも哀しいことも、みんななくなるから。
 「向こう側」で聞いた、舞耶の言葉が脳裏によみがえる。
 私のことは、早く忘れなさい。
 人を縛る女にはなりたくないと、自らの死に際して舞耶が遺した最後の言葉。
 あの時、達哉はそれを必死に否定した。忘れられるはずがない、絶対に忘れたくない、と。
 けれど今、舞耶の言葉が達哉自身のものとなって、繰り返し心に響き渡る。
 忘れてくれ。俺のことなんか、忘れて……リサ。
 違う、違う、と、なにかがちりちりとふるえて、達哉の想いを否定する。
 そのかすかな感覚を、達哉は覚えていた。これは、ヴィーナスの共鳴。リサの中に眠るペルソナが、達哉の――あるいは達哉のペルソナであるアポロの存在を感知して、共鳴している。深層心理の底に眠りながらも、懸命に応えている。
 違う。
 ヴィーナスが、言う。――「向こう側」を忘れて、あなたは幸せになれた? 
 すべてを捨てて、どうして幸せになれるの?
 私の胸には、あなたの名前の形そのままに、大きな穴が空いている。この欠落を、いったい何で埋めろと言うの。
 あなたとともにあった時間が、私の宝物だった。その中で得た痛み、苦しみ、どんなに惨い傷も。私にとってはすべてが宝物だった。
 あなたを愛することだけが、私のすべてだったのに!
 扉の向こうで、リサはもう言葉もなく、泣きじゃくっている。小さくしゃくり上げる声だけが聞こえる。
「リサ……」
 達哉は汚れた扉にすがりつく。
 駆け出せば、ほんの数歩の距離だ。なのに、この手はけしてリサに届かない。
 この距離が、罪の重さ。
 二人のペルソナがふるえ、共鳴していた。






「……リサ」
 優しい声がした。
 上質の和服に身を包んだ女性が、鳥居をくぐって静かにリサへ歩み寄ってくる。その髪はリサと同じプラチナブロンドだが、普段着用の紬の和服も櫛でまとめた髪型も、とても自然に見えた。
「こんなところにいたのね、リサ」
「ママ――」
 ようやくリサは立ち上がった。
 リサの母親は、その涙を見ても、何も問いかけようとはしなかった。ただ、たもとからハンカチを出し、リサの涙に汚れたほほをそっと拭う。
「ずいぶん探しましたよ。お父様も心配していらしたわ。それに、あなたのお友達も……」
「みーぽとあさっち?」
「ええ、そうよ。二人とも、あなたが携帯電話にも出ないって、わざわざ家にまで来てくださったのよ。あんな事件(こと)があったばかりで、大変な時期なのに」
「うん……」
「さあ、帰りましょう。家に着いたらちゃんと、お父様に謝るんですよ。お友達にも、電話してね」
 母親に肩を抱かれるようにして、リサはアラヤ神社に背を向けた。けれどその脚は、なかなか前に進まない。
「ママ……私、私――っ」
 身体をこわばらせ、リサは立ち止まってしまった。
「リサ。いいのよ」
 母親は、そっと愛娘を抱きしめる。
「お母さんに言えないことがあるなら、それでもいいわ。でもね、これだけは忘れないで頂戴。お父様も私も、いつもあなたのことを思っているわ。他にも大勢、あなたのことを心配してくれる人達がいるのよ」
「ママ……!」
「独りぼっちだなんて思わないで。お母さんは、いつでもあなたの味方よ」
 うつむいたままだったリサが、ようやく顔を上げた。
 娘を見つめる母親は、変わらず優しい笑みを浮かべていた。
 リサは母親の肩に額を押し当てた。小さくしゃくり上げる声が聞こえ、やがてリサは幼い子供のように泣きじゃくった。
 その髪を、母の手がゆっくりと撫でる。
「ごめんなさい、ママ、ごめんなさい……」






 境内に人影がなくなると、達哉はそっと社の扉を開け、外へ出た。
 冷たく硬い敷石を踏む。
「これで……良いんだ」
 達哉の覚えているリサは、いつもこっそり隠れて泣いていた。
 自分の気持ちを素直に表すことができなくて、周囲にも、そして自分自身にも嘘ばかりついていた少女。つらいとも哀しいとも言えずに、誰にも見つからないよう、独りぼっちで膝を抱え、声を殺して泣いていた。
「リサ」
 この手が、ぬくもりを覚えている。
 そんな淋しい泣き方をさせたくなくて、でも何を言えばいいかもわからなくて、ただがむしゃらに抱きしめた。
「泣くな、リサ」
 最初、リサは嫌がって達哉の腕をふりほどこうとした。泣き顔はブスだから、そんな顔を見られたくない、と言って。
 けれどかまわず抱きしめると、やがて少女は大人しくなった。
 そして初めて、声をあげて泣いたのだ。大切な友達が消えてしまった、みんな自分のせいだ、と。
 達哉には何も言えなかった。
 リサが泣き疲れて眠るまで、ただじっと抱いてやることしかできなかった。
「これで、良かったんだ……」
 ふるえる唇で、達哉は懸命に笑みの形を作ろうとした。
 もう、リサは独りぼっちじゃない。
 大切な家族、信じ合える友達。リサの涙を受け止めてくれる人達がいる。
 それこそが、達哉の望んだことでもあったはずだ。
 達哉は敷石に片膝をついた。
 ざらついた表面を指先でなぞる。
 そこにはまだ、うっすらとリサの涙の跡が残っていた。
 アポロがふるえる。
「お前も……泣いてるのか」
 愛の女神ヴィーナス。火山神バルカン(ヴォルカヌス)の妻であり、太陽神アポロの最愛の恋人。
 太陽が、泣いている。失って還らない恋人を想って。
「リサ……」
 達哉はがくりと両膝をついた。
 ――泣かせたくなかった。
 笑顔でいてくれると、信じていた。
 ただみんなが――きみが、幸せでいてくれることだけを、望んでいたのに!
「リサァァァァーッ!!」
 達哉は叫ぶ。
 もう、身体を支えていることもできない。
 額を冷たい敷石に擦りつけ、自分で自分の両腕を戒める。
 この手が覚えている。リサを抱きしめた時のぬくもり。小刻みにふるえていたリサの身体。
 いいや、そんなはずはない。この身体は自分のものじゃない。本当の身体は、「向こう側」に置いてきた。あの壊れてしまった小さな世界に。
 この腕が、知っているはずはないのだ。あの哀しい少女の体温を。
 涙があふれる。
「リ、サ……。リサぁ……っ!」
 たった一度、抱きしめただけだった。
 何も言っていない。きみにまだ――俺は、何も言っていないんだ……!!
「ああぁ……あァ……ッ!!」
 少女の名を呼ぶ声は、もう言葉にもならない。少年は傷ついた若い獣のように呻き、咆吼する。
 消え残る少女の涙の上に、今また少年の涙が新たな跡をつける。
 それだけが、少年に許された抱擁だった。









                                                       
水底の太陽 〜FIN










                              ゲーム系はね。自分がプレイヤーとして遣り込んでる分、
                             書けば思い入れも深くなっちゃうってわかってるんですけど
                             ね……。
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【水 底 の 太 陽・2】

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