【お題 4 ・ 煙草】
「それでは、永島陽介くんのボストン支社栄転を祝して、乾杯!」
「乾杯!!
 にぎやかな歓声とともに、三〇近いグラスが一斉に宙へ差し出された。
 大型商業ビルの中にある、南仏の家庭料理とアットホームな雰囲気が売り物の、小さなフレンチレストラン。今夜は「夕方六時より八時半まで貸し切り」の看板が出されている。
 詮史がこの店を訪れたのは初めてだが、まあ悪くないと思う。料理もそこそこだし、ワインの品揃えも及第点をつけてやれる。商業施設のテナントという利便性も、このあと二次会三次会に流れるには打ってつけだ。
 レンガを模した壁材にドライフラワーのリース、アンティークの磁器人形という内装が、家庭的と言うより少々可愛らしすぎて、三〇を過ぎた男が入店するにはいささか気恥ずかしい感もあるが。――有り体に言えば「おばさんの少女趣味」だ。
 その分、一般事務職の女の子たちは、きゃっきゃと声をあげてはしゃぎ、壁に作りつけの銀の燭台や、窓から見下ろす都会の夜景を、ロマンティックだと誉めている。クリスマスや誕生日に、こんな店で彼氏と二人きりになれたら素敵、と。
 ……まあ、いいさ。詮史は乾杯に使ったビールに口をつけた。
 別に、詮史のためにこの店が選ばれたわけではない。
 今夜の主役は、同期の若い連中に囲まれ、励まされたり冷やかされたりしている、あいつだ。
 来週には第二営業課を離れ、鷹取商事ボストン支社に配属になる部下。
 直属上司である第一外商部の部長に、この春からアメリカの支社に派遣する若いのを一人、ピックアップしてくれと命じられた時、詮史は迷わず配下の若い営業マンの名を挙げた。
 営業成績は課内でも常にトップクラス、英会話も堪能で、誰が見ても適切な人事と言えるだろう。おまけに永島はまだ身軽な独身だ。
 二、三年の海外支社暮らしを経験すれば、帰国した時の評価も一段と高くなる。実際、詮史自身もフィラデルフィア事務所、ロンドン支社と渡り歩き、現在の地位まで昇ってきた。
 指名された永島自身、そのことを良く理解し、出世の糸口を掴んだと喜んでいるようだ。
「その永島とやらは、まだ独身か。男一人で海外生活じゃ、いろいろ不便かもしれんなぁ」
 部長がそんなことを言い出したのは、彼の妻が大の仲人好きだからだ。
 詮史のところへも、部長夫人から縁談が持ち込まれたこともある。が、詮史に離婚歴があり、しかもその理由が詮史の女癖の悪さだとさりげなく伝えると、それからはぱたっと沙汰止みになった。
 ――たしかに自分の性癖は誉められたものではない。それが部長夫人の想像した乱行と一致しているとは限らないが。
 渡米の準備に忙殺されている部下を、せめて部長夫人の猛攻から救ってやるために、詮史はやんわりと部長に釘を刺しておいた。
「今どきの若い連中は、恋人くらい自分でちゃんと見つけられますよ。我々の頃とは時代が違うんですから。いらぬ気を回すと、かえって余計なお世話だと恨まれますよ、部長」
 とは言ったものの、永島はおそらく単身で渡米するだろうと、詮史も思っていた。
 でなければこの送別会で、同じ課の女子社員があんなに永島の回りにまとわりついているはずがない。
 彼女たちは、そういう気配にとても鋭敏だ。永島の周囲にわずかでも女の影がちらついていれば、あんなに熱心に永島の気を惹こうとはしないだろう。
 ……同じことは、詮史の周囲にも言える。バツイチの事実も、部長夫人とは違って彼女らには何の障壁にもならないらしい。仕事中も、ふと気づけば、潤むような熱い視線を背中に感じたりする。
 抜け駆けは許さないという彼女たちの暗黙のルールが、とりあえず課内の雰囲気をおだやかに保っているようだ。
 詮史はビールから水割りにグラスを持ち替え、静かに壁際へ寄った。
 いつも課内の中心にいる詮史だが、こうして人の輪から外れ、部下たちの様子を観察するのも悪くない。
 ふと、同じように隅っこに立つ由佳の姿が目に入った。
 同じ一般事務の女性と仲良く話し込み、美味しそうに料理を口に運んでいる。どうやらあの二人は、課内の出世頭より南仏の田舎料理のほうに興味があるらしい。
 美味しそうというか、なんだかとても幸せそうに料理を味わっている由佳に、詮史は思わず小さく笑ってしまった。
 美味しそうにものを食う女は、とても可愛いと思う。
 そんなふうに見られているとも知らず、由佳は友達の女子社員と皿の上のものを交換したりしている。
「……おっと」
 小声でつぶやき、詮史はさりげなく視線をそらした。
 こんな様子を誰かに見られて誤解されたら――誤解とも言えないが――自分より由佳が、つらい立場に立たされるだろう。社内恋愛抜け駆け禁止のルールを破った者に、制裁として与えられる女子社員同士のいじめがどれだけ陰湿なものか、詮史にも容易に想像がつく。
「課長! そんなとこに引っ込んでないで、こっちに来てくださいよ! 海外赴任の経験者として、永島になんかアドバイスをお願いします!」
 幹事を務める部下に手招きされて、詮史は苦笑しながらゆっくりと壁際を離れた。


 やがて詮史は、人目を避けるようにそっと店の外へ出た。
 店内は禁煙、煙草を吸うには店の外へ出なければならないらしい。商業ビルのテナントなので、店外とは言っても建物の中、階段の踊り場付近に設けられた喫煙jコーナーへ行くだけだ。
 通路には外食を楽しむ客たちがあふれているが、階段付近にはほとんど人影はない。他のフロアへの移動はみな、エレベーターかエスカレーターを利用するのだろう。階段は非常通路扱いで、通常ここに来るのは喫煙者のみというわけだ。
 詮史は背広の内ポケットからJSPの黒い箱を出し、一歩、階段を下りようとした。
 が。
「牧野さん、二次会には来てくれないの? つまんねえなー」
「ごめんなさい。あんまり遅くなると、駅からのバスがなくなっちゃうんです」
 耳に馴染んだ声が聞こえた。
「大丈夫だって。二次会が終わったら、俺が送っていくよ」
「だめですよ。永島さん、今夜の主役なんだから。ちゃんと最後までみんなと一緒にいなくちゃ」
「もう、誰も気にしてねえよ。どうせみんな、酒が呑めりゃ、理由なんかどうでもいいんだから」
 詮史は反射的に一歩、後ろへ下がった。そうすれば自分の姿は階段の手すりの影になり、踊り場にいる二人からは見えないはずだ。
 事実、踊り場の二人は階上の人間に気づきもしない。自分たちの会話が硬い壁や天井に反響して、ここまで聞こえているなどとは、想像してもいないだろう。
「ご、ごめんなさい……。わたし、そろそろお店に戻ります」
「待ってよ。もうちょっといいだろ、由佳ちゃん」
 ――由佳ちゃん、だと!?
 詮史の手の中で、JSPの箱がぐしゃりと握りつぶされた。
「ね。このまま二人でどっかしけ込んじまおうか」
「な……っ! な、なに言って――」
 二人の人間が揉み合う、息苦しいような気配が伝わる。
「永島さん、酔っぱらってるんでしょ。悪い冗談ですよ、こんな……!」
「あれっぽっちの酒で酔っぱらったりしねえよ。ねえ、俺、本気だよ? わかってんだろ? 由佳ちゃんさえ良ければ、一緒にアメリカ連れてったって……!」
 ――そんなことを抜かすから、きさまは国外へトバされるんだっ!!
「い、いやっ! やめて下さい――やめて!」
 詮史は、がつんっ!と革靴の足音を響かせた。
「あっ!?」
 踊り場の永島が、初めて階上の人間に気づいた。
 その隙に、由佳は永島の腕の中からぱっと逃げ出した。そのまま踊り場の横へ駆け込む。そこには小さな「女性用化粧室」の看板があった。
「きみも煙草か?」
 にこやかな笑顔を作り、詮史はゆっくりと階段を下りていった。
「あ……は、はい。課長もですか?」
「ああ。まったく、喫煙者は肩身が狭いな」
 一本口にくわえると、思わず握りつぶしてしまった箱を見られないよう、さりげなく内ポケットに戻す。
 永島はすかさずライターを差し出した。表情に安堵の色が浮かんでいる。さきほどの一幕を見られずにすんだと思っているらしい。
 詮史も何事もなかったような顔をして、その火を受けた。
「一服もいいが、早く店に戻れよ。みんな、主役が戻るのを待ってるぞ」
「は、はい。じゃあすいません、先に戻ります」
 まるで逃げるように、永島は階段を駆け上がっていった。
 その後ろ姿を、非常に剣呑な目つきで睨み据えながら、詮史は深く紫煙を吸い込んだ。
「あの……課長?」
 背後で、ひどく心細げな声がした。
 振り返ると、女性用化粧室のドアを細く開け、由佳が顔を覗かせている。
「いつまでそんなところに隠れているつもりだ。出てきなさい」
「はい……」
 まるで叱られた子供みたいにしゅんとした顔で、由佳がトイレから出てきた。間抜けな永島とは違い、自分たちのやりとりを詮史に聞かれてしまったことをちゃんと察しているらしい。
「あの、わたし……」
 それだけ言って、由佳は言葉に詰まってしまった。
 先ほどの出来事はけして自分の望んだことではないと、言いたいのだろう。そのくらい、詮史にもわかっている。
 が、理解することと、それでも腹が立つと思う感情は別物だ。
「きみも早く戻りなさい」
 声がつい、刺々しくなる。我ながら大人気ないと、詮史は思った。
「いえ……。わたし、課長のあとから戻ったほうがいいと思うんです」
 うつむいたまま、由佳はぽそっと言った。
「課長が立ち去るまでずっとトイレに隠れてたってことにすれば、さっきのこと、本当は課長に見られてたんだって、永島さんに気づかれずにすむんじゃないかと……」
「ああ、そうか。すまない、そこまで気が回らなかった」
 詮史は素っ気なく答えた。内心、あの馬鹿をそこまで気遣ってやる必要などどこにある、と思いながら。
 けれど事が露見して一番つらい思いをするのは、渡米する永島でも詮史でもなく、やはり由佳なのだ。
「じゃあ、僕が先に戻ろう」
 まだ長いままの煙草を、詮史は備え付けの灰皿でもみ消そうとした。
「……待って」
 由佳が手を伸ばしかける。
「あ――すみません。でも、課長が煙草吸ってるとこって、初めて見たから……」
「そうか。社内は完全分煙だし、きみの部屋でも一度も吸ったことはなかったからな」
「どうしてですか?」
 無邪気に、由佳は詮史を見上げている。
「どうしてって――女の子の部屋で吸うわけにはいかないだろう。布団や服に臭いが移る」
「ああ、そうですね。それはちょっと嫌」
 由佳は小首をかしげ、それから小さく、悪戯っぽく笑った。
「でも、煙草を吸う詮史さんの手って、すごく恰好いい」
 見上げる由佳の視線が、まるで耳元をくすぐるようだ。
 柄にもない、と、詮史は思った。こんなたわいない誉め言葉に照れるなんて。
 吸いさしの煙草を、灰皿に放り込む。
 そして詮史は、由佳を腕の中に抱き込んだ。
「え……」
 由佳に、何が起こったのか理解するだけの余裕を与えず、唇を重ねる。
 まるで盗むようなキス。ふっくらした下唇を舌先でなぞり、戸惑う由佳の中へするっと忍び込む。
 それでも由佳は、キスに応えようとしない。由佳が小さく嫌がるのにもかまわず、詮史は由佳の口中を思うままにかき乱した。なめらかな舌先が絡み合い、小さくはじけるような淫らな水音をたてた。
 逃げようとする小柄な身体をしっかりと捕まえ、詮史自身に強く押しつける。詮史の昂まりを感じ取ったのか、由佳がびくりとふるえるのがわかった。
 やがてわずかに唇が離れると、由佳は紅潮したほほで目を伏せた。
 強引なキスで濡れて紅く染まった唇を右手で隠し、うつむく。
「いや……。こんなの――」
 誰かに見られたら、ということだろう。潤んだ瞳が不安げに揺れている。
 詮史は大丈夫だよとささやいてやろうとした。自分は永島のような間抜けとは違う、背後にはちゃんと気を配っている。誰かが階上にいる様子はない。
 が、
「やっぱりキスの前に煙草吸わないで、詮史さん」
「え?」
「やっぱり嫌。もういっぺんキスするなら、せめてうがいしてきて」
 今度は、詮史がその言葉の意味を理解する前に、由佳がするっと腕の中から逃げ出した。
「誰か来ちゃったみたい、隠れなきゃ!」
 小声でささやき、由佳は小魚みたいに跳ねて、女子トイレに駆け込んだ。
 階上から複数の足音と、にぎやかな話し声が聞こえてくる。
 詮史は憮然として、二本目の煙草に火をつけた。
 ――恰好いいとうっとりしておきながら、次にはうがいしてこい、だと!?
 からかわれたわけではない。由佳は単純に、思ったとおりのことを口にしただけだろう。
 だが。
 あの小生意気な言いぐさに、いったいどんな罰を与えてやればいいだろう。泣こうがわめこうが、今夜はけして許してやるものか。
 詮史は一次会が終わったあとのことをあれこれ考えながら、深々と紫煙を吸い込んだ。
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