【お題 ・ 8 その仮面を壊して】
「ん……」
寝返りを打とうとして、さまたげられ、由佳はふと目を覚ました。
薄く目を開けると、鋭角的な顎のラインが見える。薄く開いて、規則正しい呼吸を繰り返す唇、とおった鼻筋、額に乱れかかる黒髪。
眼鏡は外されて、ベッドヘッドに置かれている。鼻梁にうっすらと眼鏡の痕が残っているのが、キスしたくなるほどいとおしい。
詮史は由佳を抱きしめるように腕を伸ばし、眠っていた。その胸を枕にして、由佳は夢もない眠りに浸っていたのだ。
ぐっすりと眠る詮史は、普段よりも少し稚く見え、まるで傷つきやすい若者のようだ。
チェック柄の遮光カーテンの隙間から、薄青い朝の光がこぼれている。時計の針はようやく5時を回ったばかりだ。
「……寒ぅ」
由佳は毛布を肩まで引っ張り上げた。
もともとこのベッドは女性用のシングルサイズだ。二人で眠るにはあまりにも小さいし、背の高い詮史は窮屈そうに脚を折り曲げている。
それでも、詮史がこの部屋に泊まった時には、こうして二人で眠るしかない。
一人暮らし用のワンルームアパート。バストイレはユニット、キッチン部分を除けば居住部分は6畳分もないだろう。若い女が親元を離れて一人暮らしするなら、この程度の部屋が分相応だ。
この部屋に詮史が来ると、まるで部屋も家具も、全部ままごと遊びの玩具のように見えてしまう。
何をするわけでもなく、とりたてて話もしないのに、部屋の中すべてが彼の存在感に埋め尽くされてしまう。もう詮史以外、何も見えなくなってしまうのだ。
……本当は、この部屋で詮史に抱かれたくない。
壁は薄いし、おまけにここは二階。ちょっとでもどたばた暴れれば、その物音は丸ごと下の部屋に響いてしまう。
もちろんそれで、隣人が「うるさい」と怒鳴り込んでくるわけではない。たまたま顔を合わせた時に嫌味を言われるわけでもない。隣に住んでいてもろくに挨拶もしない、都会流の付き合いだ。けれど、自分のはしたない声を聞かれていたかもと思えば、部屋から外に出るのも恥ずかしい。
そんな由佳の思いを、詮史は少しも斟酌してくれない。逆に、由佳が声を怺えようとすればするほど、容赦なく由佳を責める。
泣かされ、喘がされ、気を失うまでいかされて。
この肩にすがりつき、何度も何度も許しを請うた。
よく見れば詮史の肩や背中には、細い爪の痕が幾筋も残っている。昨夜、由佳が夢中でつけてしまったのだろう。
「いいよね、このくらい」
黒髪の乱れかかる額を、指の先でこつん、と軽くつついて。
「ん……っ」
詮史が小さく身じろぎした。
「あ!」
起こしてしまったかと思い、あわてて離れようとした由佳を、強い腕が引き留める。
詮史が由佳のウエストをぐい、と抱き寄せた。
けれど詮史は目覚める様子もない。布団がずれた肌寒さに、眠ったまま手近にあったぬくもりを抱え込んでしまったようだ。
母親の背中に縋りつく、頑是無い子供のように。
「あきふみ、さん……」
由佳はそうっと、詮史の頭を両腕に抱きかかえた。裸の胸――ちょうど心臓の真上に、詮史の耳が当たる。
詮史がさらに強く、由佳を抱きしめる。
由佳は身をかがめるようにして、黒い髪にくちづけた。
「詮史さん」
……どんな夢を見ているの? そんなに心細いの?
目覚めている時は、けしてこんな姿は見せないだろう。詮史自身、自分の中にこんな脆いものがあるなんて、自覚してもいないに違いない。
けれど――だからこそ。
これが本当の、貴方ね。
由佳にはそう思えた。
誰も知らない、詮史本人さえ知らない、本当の瀬谷詮史。
独りが怖くて、愛されたくて、懸命に誰かに縋ろうとする。
たとえ今のこの有り様を、誰かが詮史の目の前に突き付けたとしても、彼はけして認めようとはしないだろう。
彼は、自分自身にプライドを持っている。
会社での業績、地位、そして周囲から寄せられる個人的な崇拝。男は、同じ男でありながらどうしてと羨望と嫉妬の入り交じる目で彼を見据え、女は一度でいいからこんな男に抱かれたいと憧れる。
それらはすべて、詮史が自分の力で勝ち得たものだ。
周囲から浴びせられる欲望や敵意、賞賛すべてを受け止め、けして揺るがない。その強さをこそ、彼は自分自身と信じてきたはずだ。
……けれど。
人間は誰だって、弱い。
独りでいるのは、つらい。誰かに縋り、支えられ、そして愛されたいと願う。
そんな、人間として当たり前の想いまで、詮史は自分自身に禁じているのかもしれない。ともすればそれは心の弱さになり、付け入られる隙となる。
彼が残酷なやり方で女を抱くのも、そのせいかもしれない。女に甘え、溺れてしまわないように、逆に女を突き放し、圧倒的な力で支配しようとする。そうやって、彼自身が自分に課した「こうあるべき自分」を保つのだ。
詮史自身すらそれが素顔と信じている、有能で、強く、冷徹な瀬谷詮史の仮面の下に、若くやわらかく、傷つきやすい、本当の詮史を隠し込んで。
――もしも私が、その仮面を壊して、本当のあなたを見つけることができたら。
由佳はそっと、詮史の額に頬を寄せる。
もしも私が、本当のあなたをこうして抱ける時がきたら。
その時には言ってあげる。
大丈夫。あなたを独りぽっちにしないから。
こうして、あなたを抱いていてあげる。もう二度と怖い夢を見ないよう、私があなたを守ってあげる。
ずっと、ずっと、私が一緒にいてあげるから……。
詮史はまだ、目を覚まさない。夢の中でただじっと、赤ん坊のように、由佳の鼓動を聞いているのかもしれなかった。