あの高い高い城壁の向こうには、本当の天国があるのだよ。
 流魂街に居た時に、誰かからそう聞かされた。我々をけして受け入れない、あのまばゆくそそり立つ壁の内側には、輪廻の理(ことわり)から解き放たれた者たち、選ばれた者たちが集う、永遠(とわ)の園があるのだと。
 恋次はそれを信じて疑わなかった。
 たとえ城壁の内側で待ち受けていたものが、死神になるための激烈な試練であっても。
 それまでの自己流の鍛錬など、子供の遊びにすぎなかった。死神になることを望んで四方の流魂街から集まってくる者たちは、数え切れない。訓練と称する物は、彼らを鍛え、育てる為に行われるのではない。真に死神となれる適性のある者と、そうではない者とを選別するために行われるのだ。
 そして振り落とされる者のうち、再び現世へ生命として生まれ出る魂はまだ幸運だ。流魂街へ逃げ戻る者でさえ。
 大概の者はその厳しい鍛錬に耐え切れず、霊力が枯渇し、魂ごと霧散してしまう。そうなればもはや、転生することすらできない。「無」に還るのみだ。虚(ホロウ)に食われた魂が辿る運命と同じく。
 それでも死神たちは、消えゆく魂たちに一片の憐れみを向けることもなかった。そんな弱者は存在する価値すらないということなのだろう。
 そして恋次も、見えているのはただ、前だけだった。
 やがて授かった死覇装。そして斬魄刀。名を、蛇尾丸。
 刀としての形状すら持たず、鞭のように相手に食らいつき、噛み千切る。これが己れ自身の有り様(ありよう)かと、初めて見た時には愕然とした。
 だが同時に、誇らしくもあった。
 この力が、俺の姿。
 他者の追随を許さぬ、この圧倒的な強さ。敵に一切の憐憫を持たぬ厳酷な正義。これこそが、自分の本質であるのだ。
 死神の名を、責を負うのに、これ以上ふさわしい姿があるだろうか。
 それでもまだ、恋次はルキアに逢うことはできなかった。
 一兵卒として部隊に配属され、虚(ホロウ)を狩って現世と尸魂界とを奔走する日々。
 仲間は次々に斃れていった。ある者は虚の餌食となり、ある者は霊力を使い果たして魂ごと霧散した。
 その中で恋次は生き残った。闘い、勝ち抜いた。彼の赤い髪は敵の返り血が染みついてその色になったのだと、噂されるほどに。
 そしてある日。
「貴君の隊に所属する阿散井恋次という男を、私の隊に貰い受けたい」
 感情の抑揚がまったくない、けれど天上の楽のように響く声が、恋次の名を告げた。
「お話は伺っています、朽木隊長。先だって、副官殿が殉職されたとか。お気の毒でした」
「痛み入る」
 忘れようもない、この声。この姿。
「しかし朽木殿。貴方の隊は、いささか損耗率が高すぎるようですが――」
「だから、少しは骨のある男が必要なのだ」
 黒い死覇装の袖が、翼のようにひるがえる。かつては見えなかった彼の霊力の有り様も、死神となった今の恋次になら見ることができた。
 それは、彼の頭上高くまで包み込む、漆黒の羽根。すべての光を拒絶する、どこまでも深い闇。一切の輝きを拒否するが故に、見る者の魂まで吸い取るような光沢を帯びている。
 今ならわかる。彼の強大な力が。彼は何もしていない。ただそこに立っているだけだ。だがその身から放たれる霊力は、周囲にいる者すべてを圧倒し、畏怖させる。打ちのめす。恋次は拳を握りしめ、懸命に両足に力を込めた。そうしていなければ、すぐにも気力が萎え、彼の前にひざまずいてしまいそうだった。
 それは支配ですらなかった。絶対的な服従、信仰にも似た盲目的な崇拝。
 朽木白哉。彼の真実は、こういう姿であったのか。
「……と、いうことだ。どうする、阿散井」
 所属隊の長に声をかけられ、恋次はようやく我に返った。
 白哉の感情のない視線が、自分に向けられている。白皙の美貌は以前かいま見た時とまったく変わっていなかった。
 この男は、わかっているのだろうか。かつて彼自身の気まぐれが、流魂街でぼろ屑のようにうずくまっていた幼い子供の運命を、大きく変えてしまったことを。そしてその無力な子供こそが、今、目の前に立っている男だということを。
 白哉の顔からは、何の想いも読みとれない。
「慎んで拝命いたします」
 恋次は深々と頭を下げた。
 そして。
 白哉に付き従って向かった中庭で。
「白哉兄様」
 歌うような声が、白哉の名を呼んだ。
 黒死蝶が群れ飛ぶ中庭。暗い回廊が幾重にも取り巻く瀞霊廷で、そこだけは陽光が降りそそぐ。この庭は黒死蝶を繁殖させるための花園だった。色とりどりの花が絶えることなく咲き乱れている。
 その花に埋もれるようにして、小さな姿が立っている。
 るり色の光彩に囲まれて、ひときわ深く幻想的な輝きを放つ、その羽根。陽光の下では日差しに透けて、淡い水色のようにも見える。
 ほっそりとした指が宙に差し出されると、その先端に黒い蝶が停まる。肩にも、髪にも。
「ルキア」
 その名前を口に出したのは、何年ぶりだろう。胸の奥では何度も何度も繰り返してきた、それこそ数え切れないくらいに。けれど実際に言葉として発してしまうと、その名前自体がもろく溶けて消えてしまいそうな気がしていた。
 今、その姿を見届けて初めて、声に出すことができた。
「ルキア!」
 見知らぬ男からいきなり名前を呼ばれて、ルキアは一瞬、戸惑ったように見えた。
 だがすぐに、
「恋次? 恋次か?」
 白い小さな顔に、ぱっと花の咲くような表情が現れた。
 外見がどれほど変わっても、魂の本質は変容しない。それを見抜くことができれば、すぐに相手が誰であるのかがわかる。ルキアも恋次の霊力のかたちを見抜き、目の前にいるのが誰であるのか、気づいたのだろう。
 覚えていた――ルキアが、自分のことを知り、覚えていてくれた!
 ルキアは、別れた時とほとんど変わっていなかった。青みがかった光沢を放つ漆黒の髪、同じ色の大きな瞳。両手で包み込んでしまえるほど小さな顔の中で、半分以上をその眼が占めているようだ。細い顎、花の色の唇。
 背丈は、成長した恋次から見ると、胸のあたりまでしかない。首も腰も華奢で、片手で掴んで振り回せば、すぐに折れてしまいそうだ。
 そして、その背中に見えるるり色の羽根。
 かつてよりも大きく、美しくなった。無数の光の鱗粉をまとい、優雅に広がっている。
「……ル――」
 もう一度、その名前を呼びたいと思った。けれど声が喉の奥に絡みついて、上手く出てこない。
 恋次の横をすうっと音もなく、黒い影が通り過ぎた。
「そうか。お前たちは古い知り合いであったな」
「兄様」
 白哉が花園の中に足を踏み入れた。ルキアの肩に停まる黒死蝶に指を伸ばす。
「今月から私の隊に所属することになった。今後は顔を合わせることも増えるだろう。昔語りなどするがいい」
 ルキアは白哉の美貌を見上げ、微笑んだ。
 ――似ている。
 回廊の中程に一人残り、中庭を見つめていた恋次は、そう思った。
 白哉とルキアに血のつながりはない。何のゆかりもない二人が、けれど驚くほど良く似ている。
 漆黒の髪と白磁の肌。黒曜石の瞳。ほっそりとして白く長い指のかたちまでも。まるで本当の兄妹であるかのようだ。
 そして何よりも似通っているのは、二人の霊力のかたちだった。
 二人の背に広がる、蝶の羽根。
 ルキアのそれは虹色の鱗粉を帯び、白哉の羽根はすべてを吸い込むような真の闇だ。
 だがそのかたちは、鏡に映したようにそっくりだった。
 嗚呼――。吐息のように、恋次は思った。
 陽光に満ちた花園に、自分は入っていけない。この暗い回廊と、中庭とを、さえぎるものは何もない。二人が立つ場所まで、ほんの数歩の距離だ。
 けれど恋次は、二人のそばに行くことはできなかった。
「おいで。お前にふさわしい場所へ連れていってあげよう」
 あの時の白哉の言葉は嘘ではなかった。白哉はルキアをもっともふさわしい場所へ連れてきたのだ。即ち、白哉自身の隣へ。
 自分には、あの中へ割り込んでいくことはできないのだ。
 何を憂うことがあるだろう。白哉が何を考え、何を望んでルキアを手元に置いているのかはわからないが、あの夫婦蝶のような姿に疑問を差し挟む者などいない。恋次が望んだとおり、ルキアは幸福でいるのだ。あの美しい羽根を誰かに傷つけられることもなく、さらに華やかに広げて。
 もっとも美しい女は常に、もっとも強い男に守られてあるべきなのだ。
 これで良いのだ。自分はこのまま、あの美しい蝶々を遠くから眺めているだけで、いい。
 恋次は諦観とともに、そう思った。
 だが。








 ルキアの消息が途絶えた。
 魂葬に赴いた現世で、忽然と消えてしまったのだ。
【 黒 死 蝶 々   U】
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