「あ、あんた……っ! 生き返ったの!? どうやって!?」
 自分でも間抜けなセリフだとは思ったけれど、それ以外の言葉が出てこない。
「私は死んでなどいない。最初からな」
 相変わらず苛ついて神経質そうに、清巳は答えた。そして、それ以上は説明するのも嫌だというように顔をそむけ、割れた窓へ駆け寄った。
「大浦の服の中を探せ! 地下室の扉の鍵を持っているはずだ。その扉を出て、廊下をまっすぐ行け。突き当たりを左、その先の階段をあがって、正面の扉を破れ。奥の部屋の窓から外へ出られる!」
 兵吾も、信じられないという表情で清巳を見上げた。門前で清巳が銀色狼に襲われる場面を見ていなかった征貞だけが、顔色を変えない。
「外に出たら、庭を回って来い。正門のところで合流しよう」
 二人とも清巳に疑いの目を向け、うなずきもしなかった。
 が、兵吾が清巳の言葉どおり大浦の衣服の中から扉の鍵を見つけると、すぐに扉を開け、廊下へ飛び出す。
 一瞬、征貞が凛を見上げた。なにも言わず、ただ小さくうなずいて見せる。
「ゆきさん……っ!」
「私たちはこちらからだ。ついて来い!」
 清巳が凛の腕を掴んだ。返事も待たずに、乱暴に引っ張る。
「きゃっ!」
 凛は、腕を引っ張られるまま、清巳について走り出すしかなかった。
 対人狼部隊の生き残りたちも、気味悪そうに顔を見合わせながらも、やがて清巳のあとを追った。
「あ、あんた……っ、死ななかったって、どうして……!?」
 清巳になかば引きずられるようにして暗い廊下を走りながら、凛は切れ切れに言った。
「そんなに、怪我してるのに……!」
「私の血じゃない。あの狼の血だ」
 自家発電装置が壊れたのか、廊下には何の灯りもなかった。
 真っ暗な隧道のような廊下を、清巳はまったく迷いもせずに走り抜けていく。
「私の喉ぶえに食らいつくその瞬間に、あいつは息絶えた。間一髪、あいつの牙は私に届かなかったんだ。私は怪我もしなかった。ただ、大浦たちの隙をつくために、死んだふりをしただけのことだ」
 何度も廊下の角を曲がり、時に小部屋を通り抜け、階段を昇り、降り、次第に凛は自分がどこを走っているかもわからなくなった。
「粕谷財閥は、創立者である祖父の代から陸軍と深く癒着し、その秘密研究に資金援助をしてきた。時にはこうして粕谷の名前で彼らの実験を行わせていた。当初は単純に人間の肉体強化が目的だったが、二年ほど前、偶然にも彼らはこの国に隠れ住んでいた人狼――狗神を捕獲した。それがあの穂高だ」
 捕らえられた兄を捜して、弟も帝都に姿を現し……そして、死んでしまった。
「それからだ、連中の研究が方向転換したのは。狗神の能力を人間に移植できないかと人体実験を続け、何体もの失敗作、制御不能の化け物を産み出し続けた。ついには天然の狗神すら、薬物漬けにしてその精神を破壊してしまった。あれはもう、狼ですらない。ただの殺戮機械だ。私の屋敷で暴れ、華子や雪代を殺したのも、ヤツだ。だが、もう終わりだ。人造人狼など、これ以上必要ない」
 暗闇の中に、甲高く清巳の足音が響く。清巳のものだけだ。凛は粕谷邸で靴をなくして足袋裸足だし、対人狼部隊たちはこの暗さに迷ってしまうのか、どんどん引き離されていく。
「ど、どこに向かってるの!?」
「出口だ。外で、あの二人が待っている」
 そう言われてしまえば、凛には反論できない。建物の中の地理がまったくわからない。
 ここは、粕谷製薬の研究所だ。清巳は、この建物内の間取りは熟知しているのだろう。だから照明がなくとも、迷わずに走れるのだろう。
 だけど。
 ――おかしい。
 凛の中で、なにかがささやく。
 なにかおかしい。おかしい、こんなの……!
 怪我もしなかったって、そんなはずはない。凛はたしかに見たのだ。銀色狼の鋭い牙が、清巳の喉ぶえを食いちぎるのを。
 穂高が粕谷邸で暴れ、華子たちを殺した? でも、粕谷邸の庭にあった狼の体毛は茶色かった。穂高はあんなにも美しい銀灰色の毛並みをしていたのに。
 清巳に引きずられながら、凛はすでに息切れし始めている。兵吾のおかげで、体力はかなり回復している。妖狐の血を引く凛が、人間の脚力に後れを取ることなど、あるはずがないのに。
「あんたは――!」
 凛は思いきり足を踏ん張り、暗闇の中に立ち止まった。
 渾身の力で、清巳の手を振りほどく。
「あんた……。いったい、なんなの――」
 清巳も立ち止まった。
 ゆっくりと振り返る。
「それは、私のほうが訊きたい」
 じろりと凛を睨む。その瞳孔が、血のように赤かった。
「お前、狐の眷属じゃなかったのか。どうして狼の匂いがするんだ」





   五、北帰行

        金襴緞子の帯 しめながら
               花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
                             (童謡「花嫁御寮」より)

「あんた……。あんた、その目……っ!」
 闇の中でもはっきりとわかる、赤く光る狗神の目。青白く血の気の失せた肌と相まって、まるで真っ赤に炎を噴き上げるコークスみたいだ。
「狗神……!!」
 いや、違う。これは、そんなものではない。
 大浦たちの非道な研究が産み出した、悪夢のいきもの。
「強い力が、欲しかったのさ」
 ぎ、ぎ――と鈍い音がした。
 清巳の手の中で、ライフル銃がへし曲がっていく。鉄の銃身がまるでアメ細工みたいだ。
「昔から病気ばかりで、ろくに外に出ることさえ出来なかった。父も、一族の親類どもも、こんな役立たずは早く死ねと言わんばかりの目で、私を見ていた。いいや、面と向かって言ったやつもいたよ。お前などさっさと死ねとな。だから……力が欲しかったのさ。連中を見返してやる力、誰よりも強く、どんな人間をも足元にひれ伏させるほどの力が」
 凛の目の前に、清巳は右手を突き出した。その爪は鎌のように鋭く長い、けものの爪だ。
「見ろ、この力。私の身体のどこにも、病などひそんでいない。どんな怪我も十分と経たないうちに完璧に癒える。誰も私を傷つけられない! ……ただ、やたらと腹が空くのが難点だがな」
「だ、だからって、あんた……」
 幼い頃からひ弱な体質を誹られ
(そしられ)、親からも疎まれ続けて、それを見返すために財閥の当主自らが、人体実験の材料となったのか。
 凛は、昨夜の惨劇を思い出した。
 身体を引き裂かれ、人狼に殺された粕谷華子。
「あ、あんたが殺したの――華子さんも、みんなも……!」
「華子ね。あれは食いでがなかったよ。やはり女は力が弱い。雪代も、女中たちも、生き肝を喰らっても、私の力にはならなかった。――それでも一時、飢えを満たすくらいはできたがな」
 清巳は感情のない声で言った。まるでホテルで食べた西洋料理のできばえでも評しているみたいに。自分が人を殺したという実感すら、持っていないのだろうか。
「だが、お前は違う」
 じりじりと清巳が近づいてくる。凛へ向かって手を伸ばす。
 凛は思わず後ずさりした。
 すぐに背中が壁にぶつかる。逃げ場がない。
「お前は妖狐の仲間か、それとも月絵のように狗神の一族なのか? ――いや、狼だ。強い狼の匂いがするぞ……」
「ち、違う。あたしは狗神じゃ……」
 凛ははっと気づいた。
 この身体には、さっき兵吾から分けてもらった狗神の《気》が残っている。あれだけそばに寄り添っていたのだ、彼の匂いもまだ残り香となっているだろう。
 清巳はそれを察知し、間違えているのだ。凛も狼の眷属だと。
「大浦たちが造り出した化け物も、喰えばそれなりに私の力になった。あんな醜い出来損ないでもな。だったら、本物の人狼を喰えば、さらに強い力が得られるはずだ……! 大浦たちも、それを狙って実験を繰り返していたんだからな」
「食べる……!? あたしを!?」
 清巳は笑った。欲望に歪み、どこか壊れたような表情だった。
 その気味の悪い笑みが、凛の視界いっぱいに広がった。
 清巳の身体がふくれあがる。内側から衣服を引き裂き、あの出来損ないの人造人狼そっくりの姿に変わっていく。
 腕に茶色い剛毛が生え、顔の輪郭が長く尖っていく。けものの骨格が現れ始めている。
 壁際に追いつめられ、凛にはもう逃げ場がない。
 その喉もとに、清巳の爪が伸びた。
 かり……と小さな音をたて、凛の喉をひっかく。赤い血が珠になって噴き出し、やがてつうっと流れ落ちた。
 清巳が舌なめずりをする。凛の血を見つめている。
 ……逃げなきゃ。
 頭のどこかで、小さな声がする。
 早く逃げなきゃ。でないと、食べられる。こいつに、喰われてしまうから。
 わかっているのに、身体が動かない。壁に貼り付いた指さえ動かせない。まるで生きたまま壁のレリーフになってしまったみたいだ。
「弱肉強食。それが世界の掟だろう。兎が狐に喰われ、狐が狼に喰われるように、弱いものは強いものが生きのびるための餌になる。そして私は――お前より強い」
「だが弱いものにも、闘う力はある」
 低い、けれどびんと腹の底に響く声がした。
「どんな小さな命にも、生きるために、闘う権利はあるんだ」
 いきなり、清巳の左肩から鋭い槍の穂先が飛び出した。
 信じられないものを見るように、清巳は茫然と、自分の肩から生えた刃を見下ろす。
 右手で掴み、引き抜こうとするが、穂先はびくともしなかった。
「むやみに動くな。この槍を下へ少し引けば、お前の心臓を切り裂ける」
 それは、征貞の三ツ折れ短槍だった。
 ――かつて、短槍であったもの、と言ったほうがいいだろうか。組み立て式の柄は半ばで折れ、長さが三尺ほどになってしまっている。
「ゆきさん!」
 声が、出た。
 征貞の黒い、深い湖のような瞳を見た瞬間、恐怖の呪縛がすべて解けた。
 ばきッ! と、鋭い音がした。
 清巳の爪が、槍の穂先に食い込む。
 鉄の刃がひび割れ、砕け散る。細かな破片がばらばらと床に落ちた。
「どんな命にも生きるために闘う権利がある……か。なら、私にもその権利はあるはずだな? 人狼となって敵と戦い、食い殺す権利が!」
「お前が望んで人狼になったんなら、俺は何も言うつもりはねえ。それは、お前自身が選んだ生きざまだ」
 征貞は静かに言った。
「だが、凛の命をてめえにくれてやるわけにはいかねえ」
 ぱっと清巳が身を屈めた。
 水平に脚を飛ばし、征貞の足を刈ろうとする。
 間一髪、征貞は後ろへ跳び、不意打ちをかわした。
 清巳が立ち上がる。折れた槍に手をかけ、苦悶の絶叫とともに強引に引き抜く。
「なぜそんなに、小娘にこだわるんだ!? こんな役立たずを救ったところで、お前に何の利益がある!? 自分の命を捨ててまで守ってやる理由がどこにあるんだ!?」
「ばぁか」
 闇の中、征貞が微笑した。
「死なせたくねえ。それ以外に、理由
(わけ)なんてねえよ」
 ――死なせたくない。
 凛は、その言葉を反芻した。
 そうだ。それ以外に、この思いを言い表す言葉なんて見つからない。
 征貞を、死なせたくない。
 このひとが生きている。ただそれだけで、しあわせだから。
 あなたに、生きていてほしいから。
 あなたの目が見えなくなったら、あたしの目をあげる。
 足が折れたら、あたしの足をあげる。
 だから、死なないで。
 あなたがこの世界に生きていてくれるのなら。
 ――あたしは、なんだってできる。
「臨・兵・闘・者・開・陳・列・在・前ッ!!」
 中空に印が切られ、早九字が飛ぶ。
「がアアアアァッ!!」
 清巳が吠えた。完全に人間の声ではなかった。
 耳もとまで裂けた大きな口に、ぬらぬらと唾液にまみれた牙がずらりと並ぶ。
 鋭い爪が、征貞を襲う。髪を、皮膚をかすめ、引きちぎる。
「おん・きりきり・おん・きりきり・おん・きりうん・きゃくうんッ!」
 生ける者死せる者すべてを縛る、不動明王、呪縛の真言。
 だが、それが効かない。
「真言が発動しねえッ!?」
 真言や呪文を駆使する呪術の闘いは、精神と精神の闘いだ。より強い精神、強い魂を持つ者が、相手の呪力を押さえ込み、支配する。連戦で疲弊しきった征貞に、真言を発動させるだけの精神の収斂
(しゅうれん)はもはや不可能だった。
 呼吸を整え、時間をかければまだ可能かもしれない。だが、清巳の攻撃がそれを赦さなかった。
 鎌のような長い爪が襲いかかる。兵吾のサーベルより、さらに早い。
「くそッ!」
 征貞は両腕を交差させ、かろうじてその刺突をふせいだ。腕に清巳の爪が突き刺さり、深々と抉った。
 爪にしたたる征貞の血を、清巳がべろりと舐める。
「ああ……良いな。いい血だ。強い男の力を感じるぞ……。これを取り込めば、私はさらに強くなる――」
 赤い目に恍惚の色が浮かぶ。完全に常軌を逸している。
「はははははッ! いいざまだな、咒禁師! ヴァチカンから来た、あの魔術師もだ。あいつも喰って、すべて私の力に変えてやる。そうだ、みんな喰ってやる――喰って、喰って、みんな、私のものにしてやる! 私がこの世界で最強の人狼なんだッ!!」
 タガの外れた高笑いを響かせながら、清巳は征貞の身体を引き裂き、抉り続けた。血飛沫がほとばしり、清巳の全身をまだらに赤く染めていく。
「見ろ、この力を! 私は失敗作などではない、私に敵う者など誰もいない! きさまの生き肝を喰らい、生き血を啜り、私はさらに強くなる! さらに進化するぞ!! 誰ももう、私を止められない!!」
 その時。
「清巳兄さま。わたしはあなたを赦さないわ」
 すずやかな声がした。
 闇の中に白く、華奢な美しい姿が浮かび上がる。
 絹の洋装に包まれた優美な肢体、長くつややかな黒髪。白い面差しはその名のとおり、月光のように美しかった。
「……つ、月絵……っ!」
「よくも――よくも穂高を、わたしの恋人を殺したわね……。赦さない。絶対に赦さないわ。穂高の苦しみを、恨みを、今ここで思い知らせてあげる……!」
 音もなく、月絵が清巳に近づいていく。宙を滑るような優雅な足取りだった。
「ば、馬鹿な……っ! 馬鹿な! お前は死んだはずだ!」
「わたしは狗神の命を分け与えられた女。あなたの弾丸などで死にはしないわ」
 月絵はまっすぐに清巳に指を突き付けた。
「出来損ない」
「な、なんだと……っ」
「なんて醜い姿かしら。その姿を鏡で見てごらんなさい。きっと直視できないわ。あなたはしょせん、大浦たちが造り出したまがいもの。出来損ないの失敗作よ。――わたしこそが本物の人狼よ!」
 清巳の目に驚愕と恐怖がよぎる。
「だ、だ――黙れえェッ!!」
 清巳が、月絵に向かって突進した。
「私を馬鹿にするなッ! 私が最強だ、最強の人狼なんだッ!!」
 長く伸びた腕が振り抜かれ、月絵の身体を一撃で吹っ飛ばす。
「きゃああっ!」
 月絵の身体が背中から壁に叩きつけられた。
 だが、床に崩れ落ちた身体は、その瞬間に別人に変わっていた。
 凛だった。
 小振り袖と行灯袴に包まれた小さな身体が、ぐったりと横たわる。
「な……っ!?」
 清巳が愕然とする。
 その背後に、ゆらりと背の高い人影が立つ。
 気づいて、振り返ろうとした瞬間には、もう遅かった。
 指で正式の印を組み、腹の底から吐き出される呼気とともに、深みのある声が真言を唱える。
「おん・きりきり・おん・きりきり・おん・きりうん・きゃくうんッ!」
 不動の真言が発動した。
「ぎゃあアアアアァッ!!」
 清巳が絶叫した。
 巨体が床に倒れ込む。
 その身体が見えない縄に縛られ、引き絞られるように、弓なりにのけぞる。真言に抵抗しようとするのか、何度も跳ね上がり、がくがくと大きく痙攣する。まるで断末魔の苦しみのようだ。
 口の端から白い泡を噴きこぼしながら、清巳の身体が変わっていく。人造人狼の姿が消えていき、凛たちが最初に粕谷邸で出会った、どこか脆弱で神経質そうな若者の姿がふたたび現れる。
 細い身体を、征貞は思いきり蹴り上げた。
「ぐあッ!」
 清巳をうつ伏せにし、その背中を力一杯踏みつける。そして征貞は、清巳のうなじに五鈷杵を押し当てた。
「こいつは刃物じゃねえ。だが、てめえの脳天をぶち割るぐれえのこたぁできる」
「な……ッ!?」
 清巳の身体が大きくふるえ出した。
 凛はのろのろと身体を起こした。身体中が軋むような痛みをこらえ、顔をあげる。
 まだ少しかすんでいる凛の目にも、清巳の激しい怯え方ははっきりと見てとれた。
「ま、待て! 待ってくれ! 頼む――ま、待って……!!」
 さきほどまでの人造人狼の力、殺戮への欲望は、もはやかけらも見あたらない。戦意も誇りもなくした、ただの貧相な、どこにでもいる人間の男だった。
「ゆ、ゆきさん……」
 身体を引きずるようにして、凛は少しずつ二人のほうへ近づいていった。
「血清の効果が切れたんだ。……この研究所とすべての研究記録を焼き払えばいい。そうすれば私は、二度と人狼兵士にはなれない。あの力を使うには、定期的な血清注射が必要なんだ」
 その血清を精製していた大浦たちは、みな死んだ。研究記録を処分してしまえば、ふたたび人狼兵士を造り出すことはできないだろう。
「それで、てめえはどうするつもりだ」
 清巳は答えなかった。ぐったりと床にのび、征貞に抑えつけられるままになっている。
「たとえ人狼の力が使えなくなったとしても、てめえはもう人間じゃねえ。今までと同じく、人と交わって暮らせると思うな」
 征貞は立ち上がった。清巳の身体から離れる。
 そのかたわらに、凛はひっそりと寄り添った。
 仏道、修験道は、悪霊や怨霊を成敗し、滅ぼすのではない。改心させ、二度と悪事を働かぬよう諭して、その成仏をうながすだけだ。闘いを放棄した者に、征貞は刃を向けない。
 ……これも、征貞の選んだ道。各務征貞の生きざまなのだ。
 凛は、傷だらけになった征貞の手に、そっと自分の手を添えた。
「人の世を捨てろ。てめえはけものになることを自ら選んだ。これから先はその選択どおり、けものとして生きるしか、てめえの道はねえ」
 清巳は床に倒れ込み、顔を伏せたまま、身動きもしなかった。絶望に打ちひしがれた姿だった。
 征貞は深く息を吐き出し、真言を解いた。
 そのまま凛の肩を抱き、暗い廊下を歩き出す。
 凛も黙って、征貞に従った。
 振り返る必要はない。そう思った。
 だが、その二人の背中に、いきなり清巳の笑い声が浴びせられた。
「あーはははははッ! 甘いな、咒禁師ッ!」
 完全に狂った、化鳥のような声。
 背後から清巳が襲いかかる。その動きは、けものの敏捷さを失ってはいない。
 皮膚は一部に狼の体毛が生え、一部は人のままだ。牙も不揃いに並び、人の歯とけものの牙とが入り交じっている。毛が抜けてぼろぼろの尾が生え、顔の輪郭は奇妙に歪み、その姿は人間と人造人狼とがまだらに混じり合った醜悪な合成獣
(きめら)と化していた。
 ねじくれ、血に染まった爪が振り下ろされる。
「血清など、もう必要あるものか! たとえ力を失っても、きさまを喰えばいいだけのことだ! きさまの生き肝を喰らえば、狗神の力はよみがえるはずだ!!」
 清巳の牙が征貞のうなじに食らいつこうとした瞬間。
「父と子と、聖霊の御名に於いて、弥栄
(アメン)
 祈りとともに、一発の銃声がとどろいた。
 純銀の弾丸は、狙い違わず清巳の眉間をぶち抜いた。
 醜い姿が、どうっと床に倒れる。
 二、三度、びくっ、びくっとうごめき、やがてその痙攣も消える。
 そして粕谷の人狼は死んだ。
「きさまらのせいで、とうとう最後の一発まで使ってしまった。これで本当に弾丸切れだ」
 吐き捨てるように、兵吾は言った。
 右手には、引きちぎられた銀の鎖を握っている。自決用にと首にかけていた弾丸を使ったらしい。
「ふん……。だが、ただの腑抜けでもなかったようだな」
 征貞が黙って振り返る。その手には五鈷杵が握られ、いつでも印を切り、真言を発動できる構えを取っていた。
「よけいなことをしたとは思っていないぞ。もともと粕谷の人狼は、すべて我々が駆逐するつもりだったんだ」
 そして靴音を響かせ、兵吾は足早に歩き出した。
「急げ。私の兄弟たちが、建物に火を放っている。ここへもすぐに火の手が回るぞ」
 その言葉どおり、急にきな臭い臭いが漂い始めていた。
 ばちばちと火が爆ぜる音が聞こえてくる。
「ゆきさん!」
「ああ。走れ、凛!」
 煉瓦の壁を炎が舐めていき、どこかで連続して爆発音が聞こえる。ガラスの割れた窓から、炎がまるで生き物のように空へ向かって噴き上がった。
 征貞の背中を追い、凛は走った。
 そして三人は、焼け落ちる研究所から飛び出した。






 黒煙が渦を巻き、空へ立ちのぼる。
 何度か小さな爆発を繰り返し、粕谷製薬秘密研究所は、その研究成果のすべてとともに焼け落ちていった。
 その炎は、この研究のために命の尊厳を弄ばれ、非道に殺されていった者たちすべてを弔う荼毘の炎のようだった。
 煙と熱で喉が焼け、ひどく痛い。目も、開けているだけで涙がにじむ。それでも外の空気はとても甘く、身体の隅々にまで染みとおっていくように、凛には感じられた。
 前庭では、散乱した人造人狼の死体を、対人狼部隊の生き残りたちが火災の炎の中へ放り込んでいた。この炎で灰にする以外、処分の方法がないのだろう。
 殺された同胞たちの亡骸は、自動車に乗せて連れ帰るらしい。
 無言の祈りと悔恨が満ちる中に。
 粕谷月絵の姿があった。





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