細い手が、毛布の下からそっとさしのべられた。うなだれた駿の髪を、静かに撫でる。
 その手は弱く、今にもぱたりと落ちてしまいそうなくらい力無く、けれどたしかにあたたかかった。
 駿は夕夏の手を握りしめた。ベッドの端に肘をついて崩れそうになる上半身を支え、夕夏の手を両手で包み込む。
「あたし……ずっと、帰り道がわかんないって、思ってた。真っ暗で、何にも見えなくて――だから、待ってればきっと駿が迎えに来てくれるって、思ってた。駿があたしを助けてくれるって……」
 たとえば幼い日、縁日で迷子になった夕夏を、駿が見つけた時のように。
 どんなことがあっても、必ず駿が助けてくれる。みんな、駿が何とかしてくれる。そう思って、すべてを駿に預け、すがっていた。
 六年間、ずっと同じ場所に、真っ暗な迷路の中にじっと立ちつくしていた。
「でも、それじゃだめなんだよね。あたしの迷路は、あたしの中にあるんだもん。……駿にも、誰にもわかんないよね。あたししか、出口はみっけらんないんだ……」
 でもね、と、夕夏はかすかに微笑んだ。
 駿も、笑みを返そうと思った。けれど上手く笑えない。不器用に、唇の端がひくついただけだった。
「出口から、駿の声が聞こえたんだよ。夕夏、帰ってこい、夕夏……って。駿が、あたしを呼んでくれたの」
 ――つらかったでしょ。
 声にならない夕夏の言葉が、つないだ手から静かにつたわってくる。
 何度も何度も、あたしを呼んでくれたよね。駿も、きっとすごくつらかったよね。声が嗄れて、喉が破れそうになって、それでもずっと、駿はあたしを呼んでてくれたんだよね。
 でももういい。
 もう、大丈夫だよ。
 あたしは帰ってこられたから。
 ここにいる。駿の前に、ちゃんといるから。
 駿が、あたしを助けてくれたんだよ……。
「うん……」
 幼い子供のように、駿はうなずいた。それしか、返事ができなかった。
「あたしね、ほんとのこと、みんなに言うよ。もう、痛いのも怖いのも隠さない」
 かすれる声で、夕夏は言った。
「きっと、ママとケンカになるな――。だってママ、隠すことがあたしを守ることなんだって、たぶん今でも信じてるだろうし……」
 ああ、そうだな――と、駿はあいづちをうったつもりだった。けれどやはりそれは、声にならなかった。
「今まで――ありがと。駿……」
「え――」
「ずっとあたしを待っててくれて、ありがと……」
 握った小さな手に、かすかに、けれど確かに力が籠もる。そっと駿の手を握り返す。
「もう……大丈夫だよ。大丈夫……」

 間に合った。
 あの時は離してしまった夕夏の手を、今度は離さずに、ずっと握っていられた。
 ――ここに、いる。夕夏が、生きて、駿の前にいる。
 今はただ、それだけで充分だった。
「お帰り、夕夏……」







 眠れない、夜が明けた。
 窓の外が明るくなり、鳥の声が聞こえ始めた頃、依里の携帯電話が鳴った。
「そう……。無事だったのね、夕夏ちゃん。良かった――」
 病院の公衆電話から連絡してきた駿に、依里はそっとささやいた。
 依里だけがいる、マンションの部屋。まだ病院にいる駿とは違って声をひそめる必要はないのに、つい、ささやき声になってしまう。
「よく、がんばったね。駿くん」
「うん――」
 念のために精密検査をして、二、三日後には自宅に戻れるって――そんなことを、駿は小声で淡々と説明した。
 そして、
「あいつ……。もう、いいよって――言ったんだ」
 ――もういいよ、駿。もうあたし、自分でちゃんと歩けるよ。
 ごめんね、駿。重かったでしょ。あたしのこと全部背負って、ずっとあたしを支えててくれて。
 駿に甘えて、あたし、何にもしなかったね。自分で歩こうともしなかったんだ。
 でも、もういいよ。
 駿は先に行って。
 あたし、一人で歩けるよ。
 きっとのろくて、すぐ転んじゃったりして、すごくみっともないと思うけど。でもあたし、自分で歩くよ。
 だから駿は、駿のために歩いて。
 あたしのために振り返らないで。
 駿の行きたいところをちゃんと見て、自分のために歩いていって。
 大丈夫だよ、駿。いつかきっと、あたし、駿に追いつくから。何年かかっても、きっと。
「そう……」
 携帯電話を耳にあて、依里は小さくうなずいた。
「夕夏ちゃん、笑ってた?」
「うん……。やっぱ――すげえ疲れたみてえな顔してたけど……笑ってたよ。俺の顔みて、ちゃんと笑った」
「そう」
 依里も、微笑んだ。
 ふと、電話の向こうで駿が口を閉ざす。
 わずかな沈黙に、依里も何も言わなかった。駿が自分の想いを語るのを、ただ静かに待つ。
 そして、少年は言った。
「俺……しばらく、あいつに逢うの――やめようと思う」
 依里は黙って、駿の言葉に聞き入った。
「俺――夕夏に、俺のツラ見るたびに六年前のこと思い出して怖いんだろって言ったけど……ほんとは、逆だったんだ。夕夏の顔見るたびに、俺があの事件のこと思い出して、怖かったんだよ。またこいつを助けられなかったらどうしよう、見失ったらどうしようって……」
 けれどもう、夕夏は迷うことはない。自分の足で歩き始めたから。
「でも、夕夏に言われた。今度は俺自身のために、ちゃんと前見て、歩いてくれって――」
 ――もう、大丈夫だよ。
 もう、あたしのこと、待っててくれなくて、いい。
 夕夏がそう言って、笑ったんだと、小さな声で駿は言った。
 ――ほんとはずっと駿のそばにいたいけど、でも、それじゃまた駿に甘えちゃうから。だからもう、あたしを待っててくれなくていいよ。駿は、駿の生きたいように、生きていいんだもん。
 依里にも、夕夏の声が聞こえるような気がした。あたしは、あたしの力で生きていかなくちゃいけないんだよね、と。
「俺ももう、六年前のことに縛られてちゃだめなんだ。今までずっと、あいつのために、あいつのためにって、そればっか考えてたけど、ほんとはそれじゃだめなんだよな……」
 うん、そうね。声には出さず、依里はうなずく。電話の向こうの駿に、そんな仕草が見えるはずもないけれど、でも必ず、依里の気持ちは彼につたわっていると思う。
「俺は――俺自身のことを、ちゃんと考えなきゃだよな。俺が自分の力で生きて、歩いて、誰にもよっかからずに自分で自分を支えてなきゃ――他の誰も、支えてなんかやれねえんだ」
 どんなにつらいことがあっても、それに縛られず、前に進む勇気を持つこと。傷ついた自分をありのままに受け入れて、痛みも苦しみも、膿んで汚れた傷跡も、すべてそのまま抱えて、それでも前に向かって歩き続けること。
 痛い、つらい、と立ち止まって、泣いてばかりいることは容易い。でもそれでは、いつまで経っても傷口はふさがらない。たとえ治った傷の痕が醜くひきつれてしまっても、それすら受け入れる勇気を――駿は、持とうとしている。
「つらいよ?」
 確かめるように、依里は駿に問いかけた。
「うん。わかってる」
 短く、駿は答えた。
「ありがとう、依里さん。――あの時、依里さんが言ってくれなかったら、俺、今でもまだ迷ったまんまだったと思う」
 あの時、依里が駿に言ったこと。
 ……きみは、どう思っているの?
 ……夕夏ちゃんのためではなく、きみ自身のために。
 それは、駿が依里に言ってくれたことだ。――あんたの気持ちはどうなの。あんた自身は、それでいいの。
 依里はただその言葉を、そっくりそのまま繰り返しただけだ。
 駿の答は、駿自身の中にあった。それを見失っていた駿に、依里はほんの少しきっかけを与えただけなのだ。初めて逢ったあの夜に、駿が同じことをしてくれたように。
「……また、泣きそうになったら、依里さんとこ行っても、いい?」
「うん。いつでもいいよ。私はかまわないから」
 依里はうなずいた。
 それでも――待っているわ、とは、言わなかった。
 わかっている。
 駿はもう二度と、この部屋へは来ない。
 たとえ苦しくて哀しくて、涙をこぼす時があっても、小さな子供みたいに抱きしめられて、優しく慰められることを、駿は二度と望まないだろう。
 そうやって一時優しい誰かに甘えていても、もう一度歩き出すためには、自分の力しか頼るものはないと、今は知っているから。
 夕夏が、もう駿に甘えることなく自分の力で歩き出そうと決めたように。依里自身が、自分の心から逃げてはいけないと、もう知っているように。
 駿もまた、どんなに傷ついても、一人で泣いて、苦しんで、そして傷を癒してふたたび歩き出すだろう。
 駿に必要なものを――私はもう、何も持っていない。
「そろそろお家に帰るんでしょう?」
「うん――そろそろうちの親も心配するだろうし。さすがに今日は、学校休む」
「そう。そのほうがいいね。おやすみ、気をつけてね」
 依里は、通話ボタンを切ろうとした。
 けれどその瞬間、ふと手が止まる。
「依里さん?」
 電話の向こうから、小さく駿の声が聞こえてきた。
 さ。よ。な。ら。
 かつてそうしてみたように、声には出さず、唇の動きだけでつぶやいてみる。
 駿には、聞こえるはずもない。
「どうかした? 依里さん」
 何も気づかない駿の無邪気な声が、依里の胸に突き刺さった。
「ううん、なんでもない。またバイクで家まで帰るんでしょ? 疲れてるんだから、ほんとに気をつけてね。これできみが事故っちゃったら、洒落になんないぞ」
「大丈夫だって。二日三日徹夜したって平気だもん。俺、若いから」
「うん、そうね。じゃ――切るよ!」
 意を決し、依里は先に通話を切った。
 通話が切れる瞬間の、あのぶつっという音だけは、どうしても聞きたくなかった。
 携帯電話をテーブルに置き、ベランダへ出る。
 朝の冷たい風が吹いている。
 空は、昨日までの天気が嘘のように青く澄み渡っていた。
 白く、飛行機雲が横切っている。
 ――夏が、近い。
 夏になったら、一緒に海に行こうね。そんな駿の言葉が耳によみがえる。
 あの時すでに、そんなことは無理だと依里は思っていた。
 駿の行く道と、依里の道とは、もう二度と交わることはない。交差する二本の直線が、接点を過ぎればあとはただ永遠に離れていくばかりのように。
 ぽろ……と、涙がこぼれた。
 そうよ。大丈夫。一人でだって、泣けるじゃない。
 抱きしめてくれる人がいないと淋しすぎるなんて、そんなのはただの言い訳だった。一人で傷つき、一人で泣く勇気がなかったことへの、自分だけの力で立って歩く勇気がなかった自分への、卑小な言い訳。
 でも、そんなに弱い人間なんて、いるはずはない。
 人は誰だって、本当は一人で生きているから。
 誰と寄り添い、誰と交わっても、最後には必ず離ればなれになって、自分だけの道を歩いていく。
 だからこそ――わずか一瞬の光芒のように、すれ違う刻がいとおしいのだ。
 もう二度とこの瞬間は訪れないと思うから、ともにいる人と精一杯の想いを交わし、相手にも自分の中にも実りをもたらしたいと願う。
 それが……本当に誰かを好きになるということ。
 人は誰も一人きりで歩くから。
 だから、誰かを好きでいたい。
 駿。あなたに逢えて良かった。あなたを好きになって、良かった。
 あなたと過ごしたこのわずかな時間が、きっと私を強くする。
 私も歩いていく。自分の力で、けして後ろを振り返らずに。
 もしも。
 もしももう一度、駿。あなたに逢うことができたら。
 そうね。今度こそ一緒に海へ行きましょう。
 肌を焼きたくない、水着姿が恥ずかしいなんて、言わないわ。
 あなたと、この手からあふれるほどの思い出を作りたい。
 その時には必ず、私も自分の力だけで歩いているわ。誰に甘えることもなく、泣いて自分を弁護することもなく。
 傷ついても、泥まみれでも、ちゃんと前を見据えて歩いているわ。
 人はみな――そうやって生きていかなければならないものだから。
 だから、駿。
 今は、今だけは、夢を見てもいいでしょう。
 いつかもう一度、あなたと過ごす日のことを。
 いつか、来る夏を――。


                                       −終−





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