凛花(りんか)がオレたちの家の隣に引っ越してきたのは、小二の春だ。
 オレは入学式を終えたばかりの、ぴっかぴかの一年生。兄ちゃんは三年生だった。
 初めて会った時の凛花は人見知りがひどくて、両親の後ろに隠れたまま、ろくに挨拶もできないヤツだった。なんか、えらくうじうじしたのが来たな、と思ったのを、覚えている。
 ふあふあしたくせっ毛に、ちょっと色の淡いビー玉みたいな瞳。抜けるように白い肌。汚れ一つないきれいなチュニックは、小さなフリルとリボンがついている。ビクビクおどおどした態度は、なんていうか、人間というよりハムスターとかモルモットとか、そういう小動物みたいだった。
 兄ちゃんが、
「オレ、真壁 周(まかべ しゅう)。こいつ、オレの弟の拓(たく)。おまえ、名前は?」
 と話しかけたとたん、凛花は泣きべそかいてぴゅーッと逃げだしちまったんだ。
「ごめんなさいね。あの子、一人っ子で育ったせいか、ちょっと臆病で……」
 おばさんが謝っているあいだも、凛花はおじさんに抱っこされて、びーびー泣いていた。
 それを見て、オレはあっけにとられた。
 なんで泣くんだよ、あいつ。兄ちゃんもオレも、なんにもしてねえじゃん。ただちょっと名前訊いただけなのに。
 それにあいつ、オレよりおっきいんだろ。もう二年生だろ。なのに親に抱っこされてって、それってアリなのか!?
「周くんと……拓くん? お願い、凛花と仲良くしてやってね」
 きれいなおばさんに――正直言って、凛花ん家のおばさんは、うちの母さんより美人だ――優しく頼まれて、オレはへどもどして返事もできず、黙ってうなずくしかなかった。
「心配いらないよ、おばさん。ここらの子どもはみんな、オレの友達だからさ」
 胸を張ってそう答えた兄ちゃんが、とても誇らしかった。
 たまたま近所に同じ年頃の女の子がいなかったせいもあって、凛花はいつもオレたち兄弟のあとをくっついて歩くようになった。
 だけど、これが鈍くさいのなんの。
 年下のオレがもう補助輪なしで自転車に乗ってるのに、凛花のピンク色の自転車からはなかなか補助輪がとれなかった。
 一輪車もローラーブレードももちろんまるでダメ。野球もサッカーも、ゲームもど下手くそ。走りゃ転ぶし、セミが目の前に飛んできただけでびっくりして泣き出すし。
 遊び仲間のなかでいつもみそっかすになるのは、最年少のオレではなく、凛花だった。
 ちょっと離れた運動公園まで行けば、男顔負けのホームランバッターやエースストライカーの女の子だって、ごろごろいるのに。
 ……あの頃のオレは、凛花が女の子だってこと、オレたちとは違うんだってことが、良くわかってなかったんだと思う。
「凛花、おっせー! さっさと来ねえと、置いてくぞ!」
「ま、待って。待って、周ちゃん、たっちゃん……!」
 オレたちのMTBタイプの自転車のうしろを、ピンクのカゴがついたミニママチャリみたいな自転車できこきこきこきこ一生懸命ついてくる凛花が、焦れったくてしょうがなかった。
 でも不思議と、ついて来なけりゃいいのにとは、思わなかったんだ。
 どんなにトロくても泣き虫でも、オレたち兄弟のそばにいれば、誰も凛花をいじめない。兄ちゃんはこのあたりの子どもら全員を束ねるリーダーだったし、オレだってケンカじゃ誰にも負けない。……兄ちゃん以外には。
 凛花を泣かせるヤツは、オレたちが許さねえ。
 オレは凛花より年下だけど、凛花の兄貴みたいな気分になっていたんだ。
 その凛花が、本当はオレたちとは全然違う存在(もの)なんだってこと、凛花が女の子なんだってことに気が付いたのは……三年前。
 凛花が中学生になった時。
 隣どうしのオレたちは、当然同じ中学校へ行くわけで。兄ちゃん、凛花、オレと毎年ひとりずつ順番に入学式を迎えることになる。
 入学式から帰ってきたあと、もうすっかり学ランがサマになっている兄ちゃんの隣に、セーラー服を着た凛花が並ぶと、オレはなんとなく気後れして、ふたりに近づくのも少しためらった。
 まるでオレとふたりとのあいだに見えない境界線が引かれてしまったみたいだった。
 セーラー服姿の凛花は……とても可愛かった。
 ふかふかくるくるの天パはいつのまにかやわらかいウェーヴを描く巻き毛になり、リボンでまとめると、小さな輪郭をきれいにふちどる。白くなめらかな頬と、きゅっとつぐまれた小さな花びらみたいな唇。透きとおった茶色の水晶みたいな瞳は、昔のままだ。
「たっちゃん。あ、あの……このかっこ、あたし――そんなに、ヘン?」
 おどおどと問いかけられても、オレは返事もできなかった。
 うつむいたまま、凛花を見ていることもできず。
 そのくせ凛花が兄ちゃんと話し始めると、ふたりがこっちを見ていないからと、まるで盗むようにじっと凛花を見つめて。
 ああ、凛花は……凛花は、こんなにきれいで、可愛い女の子だったんだ。
 気づいた時には、もう遅かった。
 オレだけじゃなく、近所の悪ガキ連中誰もが凛花の可愛さを認めた時には。
 凛花は兄ちゃんの彼女になっていた。
 そりゃ、誰も文句は言えねえよ。兄ちゃんは頭も良いし、スポーツもできる。中学じゃサッカー部の主将もやって、不動のエースストライカーだった。高校はサッカー推薦で入学、一年ん時はさすがにスーパーサブ扱いだったけど、二年でレギュラーに固定、県下随一の駿足サイドバックだ。オレにとっても、自慢の兄貴だ。
 そして、凛花をずっと護ってきたのは、兄ちゃんなんだ。
 兄ちゃんはきっとわかっていたに違いない。初めて会ったあの時から、凛花が自分たちとは違うこと、オレや近所の悪ガキどもとはけして一緒に扱っちゃいけない存在なんだってこと。
 オレたちが河原で石投げしたり、公園の松の木に登ったり、ちょっと危ない遊びをする時は、兄ちゃんは必ず
「凛花は来るな。そこで待ってろ」
 て、言った。
 それは凛花を仲間はずれにするんじゃなく、女の子の凛花に危ないことはやらせないという、兄ちゃんの気遣いだったんだ。
 そして凛花も、素直に兄ちゃんの言いつけに従った。兄ちゃんが迎えに来るまで、言われた場所でじっと大人しく、兄ちゃんを待っていた。
 オレと兄ちゃんが所属する地域の少年サッカークラブの試合がある時、凛花は必ずうちの母さんといっしょに応援に来ていた。恥ずかしいのか、声も出さず、いつも人垣の陰に隠れるようにして。でも、どんなにボロクソの負け試合でも、土砂降りの雨の中でも、凛花は絶対に途中で帰ったりせず、最後まで試合を観ていた。
 ――あれは「オレたち」を応援してたんじゃなく、凛花はいつも兄ちゃんを、真壁 周を応援しに来てたんだ。
 それに気づいてなかったのは、もしかしたらオレだけだったのかもしれない。
 凛花はもう、自分じゃ自転車を漕がない。なにかある時は、兄ちゃんの自転車の後ろに乗っていく。兄ちゃんの背中にぴったりくっついて。少し恥ずかしそうな、でも、とても幸せそうな顔をして。
 そしてこの春、凛花は兄ちゃんを追いかけて、私立鷺沼高校に入学した。つきっきりで受験勉強を教えたのも、兄ちゃんだった。
「今度はたっちゃんの番だね。がんばって。また三人で同じ学校通お? たっちゃん、周ちゃんと同じで頭いいから、楽勝だよね!」
 なんて、凛花は無邪気に笑うけど。
 ――兄ちゃんと同じ高校なんか、ぜってェ行くもんか!!
「どうしたんだろ……。たっちゃん、なんかこのごろ、機嫌悪いみたい。サッカーの試合ももう観に来るなって言われたし……。県大会、応援に行きたかったのに」
「気にすんな。おふくろも同じこと言われてたから。負け試合見られんの、嫌だったんじゃねえか?」
 違げーよ。凛花が来たら、兄ちゃんだってついてくるじゃんかよ。ピッチのすぐ横でいちゃくらいちゃくらされてたんじゃ、オレが試合(ゲーム)に集中できねえっつーの!
「あいつ、今ごろ反抗期なんだよ。遅っせーんだ」
 うるせえ、勝手に言ってろ、エロボケ兄貴。
 で、オレは兄ちゃんより少しでも上のランクの高校に合格するべく、中三の夏の残り全部を受験勉強についやすことにした。……全国大会まで勝ち進んだ兄ちゃんたちの学年と違い、オレが主将を務めた今年のサッカー部は、県大会の準決で負けちまったんだよ!
 親に頼んで予備校の夏期講習に通い、模試も受けた。……結果は、
「悪いこたぁ言わん。もう少し志望校のランク落とせ、真壁」
 と予備校の講師に言われちまった。――ちっくしょおっ、諦めるもんかぁ!
 今日も午前中は予備校、いったん家帰って昼メシ食ったら、午後からは涼しい図書館でまた勉強、というつもりだったんだ。
 母さんはパート仲間のおばちゃんたちとカラオケに行ってるし、兄ちゃんは凛花とデートだ。ひとりきりの昼メシだけど、ま、それも気楽でいいや。
 そんなことを考えながら、玄関の鍵を開けると。
「――えっ!?」
 これ、兄ちゃんの靴だ。
 見間違えるもんか。このでけえ靴。兄ちゃんの態度そのまんまに、エラそーにぶん投げられてる。
 しかも玄関のすみっこにきちんと揃えてあるこのサンダル、凛花のじゃねえか!? そうだよ。覚えてる。こないだの夏祭りん時に履いてたやつだ。
 なんでふたりがうちにいるんだよ! 今日はデートしてくんじゃなかったのかよ!
 一階のリビングや台所には、人の気配はない。ふたりはたぶん、二階の兄ちゃんの部屋だ。
 階段の下で耳を澄ましても、上からは何の反応も聞こえない。ふたりの世界にどっぷりで、オレが帰ってきたことにも気づいてないのかもしれない。
 正直、オレは腹も減ってるし、炎天下をチャリンコ漕いできて汗だくだ。さっさとシャワー浴びて、メシ食いたい。
 だけど……どうしよう。オレの部屋も二階、兄ちゃんの部屋の隣なんだよな。自分の部屋に入らなきゃ、着替えが取り出せない。
 このまま階段登ってったら、足音で絶対気づかれる。
 もし――もしも、万が一、兄ちゃんの部屋ん中がヤバい状況になってたら。
 気不味すぎんだろ、それ!?
 い、いや。兄ちゃんも、オレが昼メシ食いに戻ってくるってのは知ってるはずだ。今朝、母さんに昼メシはどうするか訊かれた時に、
「いらねえ。外で食ってくる」
 て、答えてた。
「あ、そう。じゃあ、たっちゃんの分だけ用意しとけばいいのね」
 母さんもそう言ったはずだ。
 そ、そうだよ。兄ちゃんもちゃんと判ってるはずだ。
 それに、いくら兄ちゃんだって、真っ昼間っから彼女とヤッてたりしねえよな。
 そう思って、階段を登っていったら。
「ん……っ! ん、や、あ――し、周ちゃん……っ!」
 ――真っ最中かよッ!!
 ドア! ドア、隙間空いてんぞ、兄ちゃん!!
「周ちゃん、ちょっと……待って。今、なんか音しなかった……?」
 甘い、優しい声。少しかすれてるけど、間違いない、凛花の声だ。
「あ? なんも聞こえねえよ。気のせいだろ」
 気づけよ、バカ兄貴!!
「ううん、そんなことない。今、たしかに……」
「よけいなことに気ぃとられてんじゃねえよ。俺のことだけ見てりゃいいんだよ!」
 そーゆーおまえは、もちっと回りに気ぃ配れ! 頭ん中、エロエロでいっぱいかよ!
 でも、ここでドアの外にオレがいることに気づいたら。
 凛花――泣く。ぜってェ泣く。
 高校生になった今でも、あいつ、本当はすげえ泣き虫だから。
 オレは凛花を泣かせたくない。
 可能な限り足音を忍ばせて、オレは自分の部屋に入った。
 しっかりきっちり、ドアを閉めて。
 聞こえない、聞こえない。隣の部屋の物音なんて、なーんにも聞こえない……。
「周ちゃん、周ちゃ、あ、あん……っ!」
 どんだけ安普請なんだ、この家は!
「い、いやぁ、そんな……。見ちゃ、やだぁ……」
「なんだよ、見せろよ」
「だ、だって、こんな……あ、明るいのに……」
 そりゃ、前から携帯でしゃべってる兄ちゃんの声が丸聞こえだったり、オレがヘッドフォン使わずにレーシングゲームやってたら、「うるせーぞ、拓ッ!」て兄ちゃんに壁蹴飛ばされたりしてたけどさ。
「や、あ、ま、待って、周ちゃん、そこ……そこは、や、……あーっ!」
 よりによって、凛花のこんな声……。
 暑さで逆上せてた血液が、一気に下半身に集まってふくれあがる。
 頭ん中がガンガンする。目の前がぐるぐる回ってるみたいだ。
 布団でもかぶって耳をふさいでいたいけど、最悪なことにオレの部屋のクーラーは今、壊れてる。閉めきりだった部屋の中は蒸し風呂状態だ。
「いや、む、無理……っ。もぉ、無理。そんな、奥まで入れちゃ、やだ……っ」
「無理じゃねえだろ。いつも全部入ってんだから」
「い、いやあ……っ! いたい、周ちゃん、い、痛い……っ!」
 ――兄ちゃんの下手くそッ!! 凛花、痛がって泣いてんじゃんかよ!
「おまえが暴れっから痛てえんだよ! 大人しくしてろ、すぐ悦くしてやっから!」
 兄ちゃん、サイテー!
「ったく……そんな顔すんな、凛花。ますますいじめたくなんだろーがよ――」
 鬼畜。どS。ど変態っ!!
 凛花も凛花だ。なんでそんな最低男の言いなりになってんだよ。一発タマ蹴りくらわして、さっさと逃げ出せよ!
「あ、あ……っ。し、周ちゃん、周ちゃん、大好き……っ」





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【 おにいちゃんにはかなわない 1 】

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