どうしたらいいんだろう。
 あなたを抱きしめたいのに。
 この手であなたをぎゅっと抱きしめて、その涙にくちづけて、一緒にいるよと言ってあげたい。ずっとずっと一緒だよ、吉さんは一人じゃないよと言ってあげたいのに。
 ごめんね、吉さん。もうあたし、あなたのところへ行けないよ。
 ああ、この火はやっぱりあたしの翼じゃなかった。
 だってあたしは、吉さんのところへ行けない。吉さんがあんなに懸命に手を伸ばして、あたしの名前を呼んでくれてるのに。
 走ればたった数歩のこの短い距離を、あたしは飛んでいくことができない。
 あなたのために生まれてきたのに。あなたのために死にたかったのに。
 なのにそんなにも、あなたを泣かせて、傷つけてしまったなんて。
 あたしはいったい、何を間違えちまったんだろう?
 お七の身体が燃えていく。
 そのほほに、初めて涙がこぼれた。
 たった一粒の涙は、唇までつたい落ちることもなく、炎にあぶられてじゅっと蒸発して消えていく。
「お七っ! 連れていけ、俺も連れていけ、お七いいいッ!!」
 喉が裂けるほど、吉三郎が叫んだ。
 その声はもう、お七に届かない。
 ――ああ、奇麗だね。
 ほら見て、吉さん。火の粉があんなに舞い上がって、炎がまるで花びらみたいに踊っているよ。
 奇麗だね、吉さん。華が咲いたみたいだね。
 あの華だよ。吉さんに抱かれた時に、あたしの中に咲いた華。吉さんが咲かせてくれた赤い華。
「だれか――誰か、俺を殺してくれッ! 殺してくれええッ!!」
 泣かないで。
 大好きだよ。
 大好きだよ。吉さん。
 吉さん……。
 吉三郎の膝ががくりと崩れた。痩せた身体が竹の柵をつたうように、ずるずると地面にくずおれていく。
 手が届かない。お七のもとへ、この手がどうしても届かない。
 人の世の理が、この世にあるものすべてが、お七と吉三郎を引き離す。
 そして、お七の魂は燃え尽きていった。





 その後、吉三郎の行方は杳として知れない。
 誰が建てたものか真新しいお七の卒塔婆の前で、前髪立ちの小姓が喉をついて死んでいたとも、江戸に居づらくなって逃げ出したのだとも、街の人々はうわさしあった。
 けれどそのうわさも、江戸の街に青嵐が吹くころには、誰の口にものぼらなくなった。
 やがて夏が過ぎ、野分の風が吹くころ。
 目黒明王院から一人の若い僧侶が諸国行脚に旅立った。
 今は西運と名乗るその僧は、剃髪した吉三郎だった。
 痩せて別人のように面変わりして、目元には坊主どもに受けた暴行の傷痕が今もうっすらと残る。
 あの朝、八百屋市左ェ門の仮宅で吉三郎を捕らえた僧侶たちは、そのまま彼を円乗寺へ連れ戻した。
 逃げた寺小姓を寺の者総出で追いかけたのは、単に恥をかかされたからだけではなかった。あの時、納所坊主がわめいたように、寺の金箱から幾ばくかの金銭がなくなっていたからだ。その他にも帳簿を調べると、かなりの額の帳尻が合わなくなっていた。
 盗んだ金を出せと、吉三郎は凄まじい折檻を受けた。木刀で殴られ、蹴られ、失神すると容赦なく凍りつくような井戸水を浴びせられた。
 このまま本当に責め殺されるのかと思った時、真相が明らかになった。
 金箱から消えた金の一部が、納所坊主の手荷物の中から出てきたのだ。
 寺の会計をあずかる納所坊主は、その立場を利用して以前から横領を繰り返していた。くすねた金は色里での遊興に使っていたらしい。そして自分の罪が露見しそうになると、ちょうど良く寺を逃げ出した吉三郎にぬれぎぬを着せようとしたのだ。
 納所坊主は破門され、身ひとつで寺を追い出された。「役人に突き出さないのが仏の慈悲」と、かつて自分が吉三郎に向かって言った台詞が、そのまま彼自身の運命になった。
 その一方で、無実の罪で吉三郎を死ぬほど折檻した僧侶たちは、吉三郎にろくに謝りもしなかった。
「すまなかったな、吉三郎。だがお前も悪いのだ。お前が黙って寺を抜け出したりするから、あらぬ疑いを招いたのだ」
 それでもさすがに吉三郎が気の毒だと思ったのか、それともこのまま円乗寺で吉三郎に死なれてはあまりに寝覚めが悪くなると考えたのか、僧侶たちは伝手を頼って吉三郎を別の寺へ移した。
 戸板に乗せられて、目黒にある明王院に運ばれた吉三郎は、そこで手当てを受け、三日三晩生死の境を彷徨ったのち、どうにか一命をとりとめた。
 そして、まだ起き上がることもできない時に、お七の処刑を聞いたのだ。
 吉三郎は明王院の僧侶が止めるのも聞かず、鈴ヶ森の刑場へ走った。
 素足のまま、よろけながら必死に江戸の街を抜け、そしてお七の名を叫び続けた。
 けれど吉三郎の手は、とうとうお七に届かなかった。
 お七の身体は、懲罰の炎に焼き尽くされた。
 紅蓮の炎に包まれて燃え尽きていったお七の姿は、今も吉三郎の胸に焼き付いて、消えない。
 ――お七。
 お七。姿を変えて、今でもこうして生きながらえている俺を、お前は薄情だと恨むだろうか。どうして今すぐ私のところへ来てくれないんだと。
 だけどお七。俺の命は、お前が命を賭けて愛してくれた命だ。お前が奇麗と言ってくれた命なんだ。
 死ぬことなら、いつでもできる。
 死にたかったよ、お七。お前と一緒に。何度も自分で死のうとしたよ。
 でも、できなかった。
 今、俺が死んでしまったら、この世にお前が愛したものが、なにも残らなくなってしまうから。
 お七。お前の生きた証がなくなってしまう。
 俺たちが出逢ったこと。暗い闇の底で、身体と心を寄り添わせ、あんなにもひとつになれたこと。みんな、意味も痕跡もなくなってしまう。
 だからお七。許してくれ。俺はもう少し、生きていていいか。
 本当のことを言えば、俺はまだ、自分が生まれてきたわけ、今もこうして生きている意味なんて、わからない。このままずっとわからないままかもしれない。
 こうして墨染め衣に姿を変えたからといって、お前や俺を縛り付ける人の世の理から逃げ出せたとも思えない。重たいくびきは、今も俺の首に嵌ったままだろう。
 そうだ、お七。あの時、お前が一粒の涙で悔いたように、俺たちはなにも壊すことも飛び越えることもできなかった。
 それでも、なにかひとつでいい、お前と俺が生きた証を、この世に残すまで。
 俺とお前が生まれてきたこと、お前が俺を愛してくれたこと。それがけして無駄ではなかったと思えるように。
 もう少し、俺は生きてみようかと思うんだ。
 真新しい杖をつき、明王院の門前から吉三郎は歩き出した。
 墨染めの袖を、初秋の風が揺らしていく。
 その風には、お七の甘い息吹が溶けているような気がした。
 ――いるのか、お七。俺のそばにいてくれるのか。
 うん、いるよ、吉さん。あたしはここにいるよ。
 ずうっと、吉さんといっしょだよ。だってあたしは、吉さんの女房だもの。
「ありがとう、お七」
 吉三郎は声に出し、つぶやいた。
 ありがとう、お七。俺を愛してくれて。
 お前に愛されなければ、俺はきっと虫けらのままだった。他人に殴られ、踏みにじられて、世を恨んで拗ねて、醜くいじけて死んでいくだけの、何の価値もない命だった。
 それでもお前は俺を愛してくれた。俺を奇麗だと言ってくれた。
 俺を奇麗にしてくれたのは、お前だ、お七。
 お前が焼かれたあの炎で、俺の罪業も一緒に焼き滅ぼしてくれたんだ。
 誰に嘲笑われても、責められても、この思いは消えない。俺たちだけは、俺たちの恋がけして何の意味もないものではなかったと知っている。
 俺がこの世に生きていることが、その証だ。
 お前の命が、俺の命だ。
 ――本当? 吉さん。
 本当だとも。これからは、ずっと二人一緒だ。
 もうなにも、俺たちを引き離せない。
 死よりも強い命の輝きが、俺たちを結びつけている。
 ――うん、いっしょだね。あたしたちはずっと、ずうっといっしょだね。
 あれ、どうしたの、吉さん。また泣いてるの?
 もう泣くことなんかないのに。ほんとに吉さん、泣き虫なんだから。
「すまない。もう泣かないさ。お七と一緒なんだからな」
 吉三郎は微笑んで、涙のにじむ目元を強くこすった。
「行こう、お七」
 ――うん、行こう。吉さん。
 吉三郎は、迷うことなく歩き始めた。
 そして埃っぽい風の中、一人の若い僧侶が江戸の街から消えていった。





 その後、西運は諸国行脚の修行ののち、隔夜日参荒行一万日の願をかけ、目黒不動堂から浅草観音堂までの往復一〇里を歩き続け、五〇年あまりの歳月をかけてついにこの行を達成させた。
 この間に人々から寄せられた浄財で、西運は目黒川にかかる木造の橋を堅牢な石造りのものにかけかえ、また目黒行人坂の石畳を整備するなど、数々の社会事業を成し遂げたという。
 現在、西運上人ゆかりの目黒行人坂大円寺には、彼の木像とともに、お七地蔵がひっそりと祀られている。
 夢見るようにこくびをかしげた愛らしい地蔵像は、西運の夢枕に立ったお七の姿を映したものだと言われている。






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