――今夜、大きな事件が起こる。そこで、俺たちの勝利は確定する。
 ――あなたは絶対に、その場に居合わせてはいけない。
 ――今夜一晩、自分の局に閉じこもって、何があっても外へは出ないように。
「こ、これは……! いったい、どういうことなんでしょう……」
 小侍従は怯えたように、声をふるわせた。
「わからないわ。でも……」
 わたくしは、柏木の言うとおりにしようと思っていた。
 こういった大がかりな宴の演出を任せることは、単に芸術的な才能のみならず、廟堂での実力をも認めたということを、広く知らしめる一種の儀式なのだ。
 ……つまり、源氏の君が柏木の力を認めた、ということ?
 もしかして、柏木が繰り返しわたくしに言い聞かせたとおり、本当に彼は、勝ったのだろうか。源氏の君を――皇統源氏をうち破ることができたのだろうか?
 そうであったらいい……そうだと、信じたい。
 不安そうな顔をしながら、小侍従は柏木からの短い手紙を何度も読み返した。
 が、やがて、思いきったように顔をあげると、わたくしに手紙を返す。
「やっぱりわたし、ちょっと様子を見て参ります」
 裾をさばいて、立ち上がる。
 わたくしは黙ってうなずいた。
「では紗沙さま。ごめんあそばして」
 小侍従は緊張を隠しきれない様子で、わたくしの居間から足早に出ていった。
 やがて風に乗って、優雅な管弦のしらべが聞こえてくる。
 切れ切れの歌声は誰のものだろう。そして時折混ざる、拍手と歓声。
 まもなく、試楽の宴は最高潮に達したようだ。
 空気が冷たく湿っている。雨が近いのかもしれない。
 御簾の向こうには月影がさしているが、次第に強まってきた夜風に、庭木が大きく揺れている。
 黒い雲が流れてくる。次第に月を覆い隠していく。
 それにつれて、わたくしの不安も募っていく。
 じっとしているのに心臓が激しく脈打ち、手のひらがしっとりと汗ばんでくる。
 いったいなんだろう、この不安は。
 今日この日、すべてのかたがつくと、柏木の文にあったのに。
 どうしてわたくしは、その言葉が信じられないのだろう。
 ふと源氏の君の眼が、脳裏をよぎった。あの硬く冷たい、石のような瞳が、今この瞬間もじっとわたくしを見つめているような気がした。
 わたくしは御帳台の帷を、少しめくった。
 今なら、女房たちもいない。西の対を抜け出せる。
 考えるより先に、一歩、足が前に出ていた。
 その時、格子にさっと人影が映った。
 大きな、男の影。
「だ、誰!?」
 問いかけに答える間もなく、その人物は格子を突き破って、室内にもんどりうって倒れ込んできた。
 がたがたがたッ!と、局全体が地震みたいに揺れた。
「きゃああッ!!」
 わたくしは思わず悲鳴をあげた。
 背の高い姿が、折れた木材の上にどさっと音をたてて投げ出される。
 深い青緑に淡い紫を重ねた、移ろい菊の襲の直衣。
 冠は歪み、蒼白な表情は冷たい脂汗に濡れている。
「か、柏木!?」
 わたくしは立ち上がった。
 袴の裾を蹴って、あわてて柏木に駆け寄る。
「柏木、柏木!? どうしたのっ!!」
 わたくしの呼びかけに応えたのは、絞り出すような苦悶の叫びだった。
「う、う……があああッ!」
 人の声とも思われない、まるで獣の咆吼のような叫び。
 胸元を、喉を、掻きむしる。顎から首にかけて、真っ赤に血のにじむ爪痕が刻まれた。
 柏木はそのまま床に這い、のたうち回った。
「しっかりして、柏木! 柏木っ!!」
 どうすることもできなくて、わたくしは懸命に柏木を抱き起こそうとした。
 柏木がわたくしを見上げた。
「さ、しゃ……」
 その眼が、怖ろしいほど虚ろだった。
 柏木は震える手を、わたくしのほうへ差し伸べた。
 ほほに触れようとしたのか、けれどその手はがくりと落ち、わたくしの衣の袖を掴んだ。
 表情が苦悶に歪む。柏木の指がぎりぎりとわたくしの腕に食い込み、袿の袖が引き裂かれた。
 ごぼッと嫌な音をたて、柏木の唇から大量の血が泡をたててあふれ出す。
「きゃあああッ!!」
 夜目にもあざやかな、真っ赤な血。
 柏木の口元から喉、胸元、わたくしの衣まで深紅に染める。ぼたぼたと床に飛び散る。
「柏木ぃぃッ!!」
 だだだ……ッと、渡り廊下を突っ走ってくる、荒々しい足音。
 残った格子も御簾も跳ね上げられ、几帳が蹴り倒される。
 けれどわたくしには、その騒音もまったく聞こえていなかった。
 柏木の、両眼の光が、急速に失われてゆく。
 わたくしの腕に食い込んでいた指から力が抜け、だらりと床へ落ちた。彼の身体をかかえるわたくしの腕に、岩のような重みがずしりとのしかかる。
 唇がかすかに動いた。けれどもう、声が出ない。
「……だめ、だめ、柏木……っ!」
 わたくしは必死で、柏木の身体を抱きかかえた。
「起きて、ねえ起きて、柏木……。だめよ……!」
「さ……っ――」
 柏木がかすかにわたくしを呼ぶ。
「ええ、そうよ。わたくしよ……!」
 わたくしは柏木のほほを撫でた。血塗れになったほほを。袖が、指が、柏木の血に染まった。
「ねえ聞いて、柏木。とても嬉しい報告があるの。わたくし、身ごもったのよ。あなたの子――わたくしとあなたの子供よ……!」
 柏木が笑った……ような、気が、した。
「そうよ、赤ちゃん。わたくしたちの……。ねえ、柏木……」
 ……笑わなきゃ。
 柏木がほほえんでくれたのだもの。
 わたくしも、笑顔で応えなければ。
「ねえ……ねえ、柏木……っ」
 光が消えた。
 まぶたが落ちた。
 そしてそれきり、柏木は二度と眼を開けなかった。
「どうして……どうして、柏木……」
 しわがれた声が遠くで聞こえた。わたくし自身の声だなんて、とても思えなかった。
「勝ったのでしょう……? ねえ、あなたは勝ったのでしょう? そうでしょ、柏木。わたくしにそう言ったじゃない! 必ず勝ってみせるって!! なのに、どうして――!!」
「退いて――おどきください、姫宮さまっ!!」
 荒々しい声とともに、わたくしはまるで突き飛ばされるように、柏木のかたわらから引き離された。
「いやあああッ!! 柏木、柏木いッ!!」
 わたくしは絶叫した。自分が泣きわめいていることにすら、気づかずに。
「誰か! 女房たちはいないか、姫宮のお付きの者はどうした!!」
 怒鳴っているのは、夕霧だった。
 絶命した柏木を、夕霧はいきなり両腕に抱え上げた。
「いやああっ!! やめて!! ど、どこに――柏木を、どこに連れていくのッ!」
 思わず夕霧に取りすがろうとしたわたくしを、駆けつけた女房たちが左右から袖をつかみ、押さえつける。
「姫宮さまっ!!」
 その中には、小侍従の姿もあった。
 わたくしは暴れた。めちゃくちゃに腕をふりまわし、女房たちの手を振り払おうとする。
「姫さま、いけません! どうぞお静まりあそばして! どうぞ、どうぞ――!」
「物の怪だ! 物の怪が現れたぞ!!」
 柏木を抱えたまま、夕霧は叫んだ。
「誰ぞ、姫宮のもとに宿直せよ! 者ども、物の怪を追い散らせッ!!」
 たちまち、武装した舎人が走ってくる。
 階段の下に、片膝をついて控えた舎人たちに、夕霧は命じた。
「柏木衛門督の従者を呼んでまいれ。衛門督の車をここまで引き入れるのだ。ほかの客人にはけして気づかれるな!」
 よく訓練された舎人は、命令を実行するべく、放たれた矢のように走っていった。
 高欄のすぐ横にまで、牛車が引き入れられる。
 柏木の従者たちは、朱に染まった主人の亡骸を見て、恐慌をきたした。
「か、柏木さま!」
「若さまッ! 若さま、ど、どうしてこんな――!!」
 腰を抜かしてその場にへたりこんでしまう者、土足で高欄によじのぼり、柏木と夕霧にとりすがろうとする者。
「うろたえるな!!」
 再び、夕霧が一喝する。
「衛門督どのは宴の最中、いささかご気分が悪くなられただけだ! ほかのお客人にご迷惑のかからぬよう、黙ってお邸までお帰りになられる! わかったな!!」
「そ、そんな……っ。夕霧大将さま、な、なにを仰せで――」
 蝋のように青ざめて脂汗を浮かべる従者たちを、夕霧はぎッと睨み据えた。
「よけいなことはしゃべるな。早う車を出せ!」
「だ、出せとおっしゃるのは……どこへ――。三条のお屋敷へでしょうか……」
「一条へ行け。私もあとからすぐに行く。三条にはなにも告げるな。私の許しがないうちは、ほかの誰にも知らせてはならん!」
「は、はい……」
 鞭で打ち据えるような鋭い叱責に、柏木の従者たちはなかば茫然とうなずき、従うしかなかった。
 夕霧は柏木の亡骸を牛車の中へ運び入れた。
 御簾が降ろされ、中の様子は一切見えなくなる。
 ……行ってしまう。柏木が、行ってしまう。
 牛車は変わり果てた主人を乗せて、ぎしぎしと車輪を軋ませながら、動き出した。
「私も出るぞ。誰か、父上のもとへ行け。宴席を中座することを詫びていたと伝えよ」
「はッ! ただ今、お車の用意を」
「牛車は目立つ。誰ぞ、馬を引け。それから、誰ぞ一条へ先触れせよ。あそこは女所帯だ、騒ぎは起こすな。私が行くまで詳しい事情はけして言ってはならぬぞ!」
 その間に、柏木を乗せた牛車は中庭から車宿りの横を抜け、六条院の敷地から出ていこうとしていた。
「ま、待って……。待って、柏木……!」
 わたくしは思わず、手を伸ばした。左右から女房たちが止めるのを振り払い、牛車のあとを追って、中庭へふらふらと降りようとする。
 行ってしまう。柏木が、わたくしの手の届かないところへ。たった一人で行ってしまう――!
「姫宮さま!」
 夕霧がわたくしの前に立ちふさがった。
「どこへお行きになるのですか」
「ど、どこって……。だ、だって、柏木が……柏木が――!!」
「柏木? 柏木衛門督が、どこに居りますか?」
 夕霧は顎で、牛車が去ったばかりの車寄せを示した。
「な……な、にを言うの、夕霧……」
「あなたは何も見ておられないはずだ」
 冷酷な瞳がわたくしを見据える。その眼差しは、父親の源氏の君とうり二つだった。
 冷たく黒く、何の感情もない眼。
 人の眼とは思えない。
 なにかもっと違うもの、もっと怖ろしい、人外の――鵺の、眼。
「ど……どういうこと……」
「今宵、ここには誰も来ていない。柏木は宴席を抜け出し、すぐに自分の邸へ戻ったのだ。あなたが柏木の姿を見たはずはない!」
 夕霧もまた、直衣を柏木の血に染めている。床には点々と喀血がしたたり、格子も几帳も壊れている。それなのに。
「良いか、皆の者! 今宵、ここでは何も起きなかった! 姫宮さまは悪い物の怪に憑りつかれ、いささか心迷うておられるだけだ! 何を口走ろうとも、それはすべて物の怪の言わせていること、一切まともに取り合ってはならん!」
 舎人たちを局の四方に配置し、命令をくだす。
「さあ、弓弦を鳴らせ! 声をあげよ! 姫宮を物の怪よりお守りするのだ!」
 悪霊調伏、怨敵退散の怒号とともに、弓弦打ちが始まる。舎人たちは四方の空に向かって空の弓を引き、鋭い音をたてて弦を打ち鳴らした。
「いやああっ! いやあ、離してっ! 離して!! 柏木が――柏木があ……っ!!」
 泣き叫ぶわたくしを、女房たちが無理やり御帳台の中へ押し込める。
「お静まりあそばして、女三の宮さま」
「誰か、姫さまにお薬湯を。お召し物も変えなくては」
「護持の僧をお呼びして。浄めの祈祷をしていただきましょう」
 帷が降ろされ、壊れた格子も血の痕も、わたくしの眼前から覆い隠される。
 なにもかも見えなくなる。
「柏木、かしわぎ……っ!!」
 そしてわたくしは意識を失った。



 
  《小侍従の語れる》
 わたしは見ていました。
 ええ、すべてを見ていましたとも。
 どうしてこんなことになったのか、わたしは、紗沙さまにすべてをお話ししなければなりません。
 あの日、あの時。
 試楽の宴は、東の空に白い月が昇るころ、始まりました。
 宴は、それはすばらしいものでした。
 楽人たちの装束は青と蘇芳色
(すおういろ)で統一され、とても荘厳な雰囲気でしたわ。最初は通例通りに赤や葡萄染め(えびぞめ)の装束を夕霧さまが用意されていたのですが、それでは秋の風情をうち消してしまうと、柏木さまが変更なさったそうです。
 美しい音曲、子供たちの愛らしい奉納舞、居並ぶ貴人の方々。
 御簾の端からは女房たちの衣の裾が、まるで色とりどりの花びらのようにさし出され、本当に絵巻物の世界がそのまま具現化されたようでした。
 源氏の君は、催しが行われる庭の正面にあたる建物にお席を設けていらっしゃいました。尾花襲
(おばながさね)の直衣に少し褪めた縹色(はなだいろ)の指貫。宴の主催者として、わざと控えめな色遣いの装いをなさっていたのでしょう。
 そばに立てめぐらせた几帳の陰には、紫の上がいらっしゃったのでしょう。几帳の端からほんの少し、お袿の裾が見えていました。
 その両脇に、式部卿宮、蛍兵部卿宮など、宮中の主立った方々がいらっしゃいます。髭黒大将も、玉鬘の君と一緒においででした。
 柏木さまはやや離れた、東側の廂の間にいらっしゃいました。
 演出者として宴全体が見渡せるよう、隅のほうにおいでなのだろうと、わたしは思っていました。
 けれど、宴が始まっても、柏木さまは楽人も舞人も見てはいませんでした。
 ただ一点を、まるで突き刺すような眼で、見据えておられました。
 ――源氏の君を。
 誰もがみな、宴に夢中でした。柏木さまがそんな怖ろしい、今にも源氏の君を憑り殺しそうな眼をして睨みつけていることなど、誰一人として気づいていませんでした。
 源氏の君も悠然と、宴を楽しんでいました。
 ……いいえ。気づかないはずはありません。
 気づいていてなお、柏木さまの火を噴くような眼差しを平然と受け流し、笑顔さえ浮かべていたのです。
「柏木どの。あなたの音曲の才能は以前から知っていたが、これほどの冴えとは思わなかった。さすがは太政大臣殿のご子息だ。あなたのおかげで本当に素晴らしい宴になった。ありがとう」
 そう言って、源氏の君は柏木さまを扇で差し招きました。
「今宵のあなたの尽力に、お礼の盃をさしあげたいのだ」
 年長の者から若人へ、誉め言葉とともに褒美の盃が手渡される。それは、宴の光景としてはごくふつうのものだったでしょう。
 そして、廟堂の実力者たちが居並ぶ席で、源氏の君がこうして柏木さまの才をお褒めになる、それは源氏の君が柏木様の実力を真に認めたと、内外に知らしめることでもあったのです。息子である夕霧さまよりも、柏木さまのほうが優れている、と。
 実際、誰も疑ってはいませんでした。短く拍手さえ起きたほどです。
 おそらくみな、思ったことでしょう。これで柏木さまの内裏での出世は確約された、源氏の君が柏木さまの実力をお認めになったのだから、と。一旦は夕霧さまに追い抜かれた柏木さまですが、巻き返すのは時間の問題、その後は柏木さまの一人舞台になるかもしれないと、かすかにそんなささやきも聞こえてきました。
 源氏の君は優雅に盃を差し出し、柏木さまを待っていました。
 柏木さまは黙って立ち上がりました。
 演奏を続ける楽人たちを邪魔しないよう、その後ろを回って、目立たないように源氏の君のもとまで歩いていきます。
 お客のみなさまは、その時にはもう、ひときわ盛り上がる舞の様子に釘付けで、柏木さまのほうを注視されている方はいらっしゃいませんでした。源氏の君が最初に柏木さまを呼ばれたことで、もう源氏の君の意思表示は終わった、と、判断したのでしょう。
 わたしも、同僚の女房たちが居並ぶ御簾の陰から、ぱっと立ち上がりました。
 こっそり廂の間を抜け、紫の上付きの女房たちの中に紛れ込むようにして、源氏の君のそばへ近づいたのです。
 さいわい女房たちはみな、舞の見物に夢中で、誰もわたしには気がつきませんでしたわ。
 こういう席では、たとえ御簾や几帳の陰に座っていても、扇や袖でさりげなく顔を隠すのが礼儀ですもの。一人や二人、ほかのところの女房が紛れ込んでいたって、わかるものじゃありません。
 紫の上に悟られませんようにと祈りながら、わたしはじりじりと源氏の君のそばへ近づいていきました。できるだけ背中を向けて、顔を見られないようにしながら、それでも源氏の君と柏木さまのお声だけは、すべて聞き取ることができました。
 ええ。聞こえました、はっきりと。
「もう、終わりですよ」
 柏木さまは、そう言いました。
 口元にかすかに勝利の笑みを浮かべて、源氏の君のかたわらに坐ります。その眼だけは変わらず、火を噴くようでした。
 その手に、源氏の君は盃を持たせました。
 盃は、夜空の月のような玻璃の盃。
 それに、源氏の君自ら澄んだ酒を注ぎます。
 柏木さまはそれを手にしたまま、口をつけようとはなさいませんでした。
 その様子を眺め、
「さあ……それは、どうだろう」
 ご自分の盃に酒を注ぎながら、源氏の君はおっしゃいました。
「おまえは良い余興を考えてくれた。ああ、なかなかおもしろかったぞ、柏木。私もひさしぶりに、退屈せずにすんだ」
 柏木さまの表情が、はっきりと怒りに歪みました。今すぐにでも源氏の君を殺してやりたい、その眼がたしかにそう言っていました。
 けれど源氏の君は、眉ひとつ動かしません。
 たとえ柏木さまが今ここで抜刀しても、この方は、泰然とした笑みをくずさないのではないか、そう思いましたわ。
「あなたがこんなにも愚かだとは、思わなかった!」
 柏木さまは低く、そう言いました。
 掠れるほど押さえたその声を聞いていたのは、わたしと、源氏の君だけだったでしょう。
「私を愚かだと思うか? 年老いて、まともな判断もできぬようになったと、そう言うのか」
「俺はすべてを知っているんだ。それでもあなたはまだ、そうやって笑っているつもりか!」
 源氏の君は、黄金の盃を口元へ運びました。
「私を笑うなら、それもかまわぬ。だが柏木、これだけは覚えておくが良い。時はけして、逆さまには流れぬものだ」
「な……ッ!」
「すでに決したことは、今さら誰がなにを言おうとももはや動かぬ。それが世のならいだ。焦るな、柏木。誰の上にも平等に、うつろいの時はやってくる。私の上にも、おまえたちの上にも、な」
 柏木さまはぎりぎりと唇を噛みしめ、源氏の君を睨み据えました。
 源氏の君は真っ向から受け止め、小揺るぎもしません。
 二人の間に、青白い火花が散るようでした。
「さあ、飲みなさい、柏木。私からの祝いの酒だ」
 源氏の君はびんと張りのある声で、回り中に聞こえるようにそうおっしゃいました。







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