FAKE −13−
喪って初めて、慈乃の存在の大きさに気がついた。彼女が自分を受け入れてくれたから、わたくしの孫と呼んで抱きしめてくれたから、自分は那原に、この久川別邸に居ることができた。ここを故郷だと思うことができた。
もう取り返しがつかない。慈乃がいなくなってしまった今、自分の故郷はふたたびなくなってしまったのだ。
――後悔なんかしないと、そう思っていた。自分の嘘の責任をとらなければいけない時がきても、絶対に後悔はしないと。
けれど今、あふれ出す後悔と自責の想いは、嗚咽となって言葉にすらならない。
罪を償うどころか、謝ることさえ許されないのが、私への罰……!
「自分を責めることはない。慈乃様は、幸せだったんだ」
直之がそっと桜子の肩に手を回した。冷たい雨の中、その温かさが喪服をとおして桜子の肌に触れる。
「どうしてそんなことがわかるの。家族だと信じていた人間に嘘をつかれたままで、どうして幸せだったと言えるの!?」
真っ赤に泣きはらした目で、桜子は直之を見上げた。
直之は苦しげな目をして唇を噛み、無言で桜子を見つめるだけだった。
「どうして何も言ってくれないの! あなたは何でも知ってるじゃない。私の質問に、何だって答をくれたじゃない! どうして今だけ黙っているのよ!!」
桜子は直之のあたたかな手を振り払った。彼の正面に向き直り、広い肩や胸をこぶしで叩く。
自分でもどうしようもなかった。ただ子どもみたいに泣きわめき、傷ついた野生動物のように暴れるしか、あふれ出す想いを身体の外に出すことができない。
流れ落ちる涙だけでなく、全身で泣き続ける桜子の哀しみと痛みを、直之は黙って受け止めていた。
「お嬢様」
同じく涙で顔をくしゃくしゃにした菊が、後ろからそっと近づき、桜子に傘をさしかける。
「濡れたままじゃ、お風邪を召します。お屋敷に戻りましょう」
とよが、ひとりでは歩けそうにない令嬢の肩に手を添え、支える。
女中たちも男の使用人も、屋敷から支給された揃いの喪服を着ていた。それは生前、慈乃自身が家令に命じて用意させていたものだった。
まるで家族のように寄り添いあう令嬢と女中たちを、直之はその場にじっと立ちつくしたまま、見送った。
桜子たちの後を行こうとはしなかった。
「ご存知だったんですね、大奥様。もう……ご自分があまり永くないってこと――」
しゃくりあげながら、菊が言った。
「そうだね……。最期まで毅然とした方だった。ああいう方を、本物の貴婦人というんだろうね」
とよはお嬢様の濡れた髪を撫で、小さな頭を、自分の娘にそうするようにそっと自分の胸元へ抱き寄せた。
「おしあわせでしたよ、大奥様は。桜子様とご一緒の時は、本当におしあわせそうでした」
「とよさん……」
――本当に?
「奥様は、このお屋敷で、おひとりきりで逝かれることを覚悟なさっておられました。家族の誰にも看取られることなく――。だから使用人のあたしたちだけで奥様のお葬式ができるよう、喪服を用意してくださってたんですよ。でも、奥様はひとりぼっちじゃなかった。桜子様に、たったひとりのお孫さまに手を取られて、仏様になられましたもの……」
直之も同じことを言っていた。
声にならない想いが、のど元までこみ上げる。
私と一緒なら、どんなことでも楽しいとおっしゃってくださったお祖母様。本当におしあわせだったの? 私と一緒にいて、しあわせだと思っていてくださったの……!?
答は、どこからも聞こえてこなかった。
ただ雨だけが降り続けていた。
やがて慈乃の初七日が過ぎる頃には、久川別邸も少しずつ普段の落ち着きを取り戻してきていた。
入れ替わり立ち替わり訪れていた弔問客も減り、小作人たちはいつもの農作業に戻った。使用人たちはまだ服に喪章をつけたり、化粧を控えたりしてはいるが、美しい洋館はいつもどおり穏やかに運営され、ゆっくりと時が動き始めていた。
たださすがに、令嬢の顔にすぐ笑顔が戻ることはなかった。
哀しみにうちひしがれたお嬢様に、女中たちもかける言葉が見つからなかった。
彼女の唯一の慰めは、阿久津伯爵の甥御が毎日屋敷を訪れ、見舞ってくれていることだろう。
欧州式の礼儀作法を身につけている彼は、けして令嬢とふたりきりになることはなく、くつろいで話をする時も庭を散歩する時も、必ず女中頭のとよを立ち会わせていた。その紳士的な気遣いに、女中たちは阿久津直之氏こそがお嬢様の心を癒してくれる白馬の騎士だと、うわさしていた。
「今、お嬢様に必要なのは、新しいご家族よ。優しい旦那様に、可愛い赤ちゃん!」
「そのとおりね。爵位なんかなくたっていいのよ。あんなにお優しい殿方がお嬢様のおそばにいてくださったら、大奥様だってきっとご安心なさるに違いないわ」
「それに、阿久津伯爵家はひとり娘の美音子様に婿養子を迎えて、家をお継がせになられるのでしょ? だったら、直之様はどこかのお家の婿養子にならなきゃいけないんだもの。もう、条件はぴったりじゃない!」
けれど桜子は、その直之の礼節がはがゆく、不安だった。
どうして彼は、ふたりきりで話をしようとしてくれないのだろう。ふたりきりでなければ話せないこと、相談したいことがたくさんあるのに。これでは何も打ち明けることができない。
自分はこれからも那原に居て良いのだろうか。これからも久川別邸の人々を騙し続けて、それで得られるものはいったい何なのか。
騙されたと知った時の、彼らの怒りや憎しみを見るよりは、今すぐにでもここから消えてしまったほうがましではないのか。
けれどこの屋敷を出ていったとしても、もちろん行くあてもない。
歩のことも気にかかる。春先から次第に身体は回復し始め、今ではかなり長いあいだ戸外を歩くこともできるようになった。それでも完全に治癒したとは言い難い。たとえば学校生活を送れるようになるには、もう少し時間が必要だろう。あの少年をひとりここに残していくこともできない。
そういう不安や悩みを、直之にだけは打ち明けたかった。
なのに、いつもそばにほかの誰かがいるのでは、本当のことなど何も言えない。まるで直之が、桜子の相談を聞くのを拒んでいるみたいだ。
――どうして、直之さん。もう私に、力を貸してはくれないの……?
表面上はなにごともない様子を装いながら、桜子は不安に曇る瞳で直之を見つめているしかない。
直之はその瞳に気づいているのか、いないのか、上辺の笑みを崩すことはなかった。
そのくせ、ふと気づけば直之の目が、暗い炎を宿してじっと桜子を見つめている。
そうやって片時も桜子から目を逸らさず、桜子のすべてを自分の瞳の中に写し取ってしまおうとするかのように。それはまるで、必死に祈りを捧げる目のようでもあり、去りゆく母親の背中を見つめる幼子のようでもあった。
――そんな目をしないで。
絡みつくような直之の視線は重たく息苦しく、その目に絞め殺されてしまいそうだ。
なのにどうしても、その目から視線がそらせない。冬の嵐のような灰色の瞳に、心も命も全部吸い込まれていきそうな気がする。
私に何が言いたいの。私の何が、あなたをそんなに苦しめているの!?
いいえ、あなたに言いたいことがあるのは、私のほうなのに……!
「……今、なんとおっしゃいまして?」
「だから、ぼくはしばらく那原を離れるかもしれないと、そう言ったのです」
淡々と直之は自分の言葉を繰り返した。
「それは……。ずいぶん急なお話ですのね」
「いいえ、そうでもありませんよ。このところ那原に居続けで、伯父の手伝いもほったらかしでした。そろそろ伯父もしびれを切らしていることでしょう。一度東京に戻って、溜まった仕事を片づけてこなくては」
「え、ええ。そうですわね。あまりご家族のもとを離れていては、いけませんわ……」
口が勝手に動き、あたりさわりのない会話を紡ぎ出していく。直之もそれに合わせ、上手にその場をつないでいた。
けれど桜子の心は、まったく別だった。
――どうして!? どうして、直之さん。
冷たい恐怖が心臓をつらぬく。彼がいなくなってしまう。一番そばにいて欲しいと願っているのに、私を見捨て、私を置いていってしまう。
どうして? お祖母様が亡くなって、嘘を見抜かれる心配がなくなったから? もう私をかばう必要はないと思っているの? 私はまだこんなにも不安で、あなたの助言を欲しがっているのに。
それとも私の利用価値がなくなったから?
あなたにとって私は、もう何の価値もない存在なの?
「そんな哀しいお顔をなさらないで。用事を済ませたら、すぐに戻ってきますよ」
「え、ええ……」
その言葉に、笑顔に、桜子は戸惑いを覚えるばかりだ。
なぜなら、彼は三つ目のアレクセイ。そのすべてがフェイク。彼自身がそう言った。
「そろそろおいとまします。いろいろ準備もありますから」
直之は立ち上がった。
とよが応接室の扉を開け、直之はそのまま廊下へと出た。桜子も、見送るために彼の後ろについていく。
玄関ホールでは、すでに執事が直之のインヴァネスコートを持って、待機していた。
コートを受け取ると、直之は見送ってくれた桜子に軽く頭をさげた。
「東京から戻りましたら、またお邪魔いたします」
「ごきげんよう、阿久津様」
桜子はにこやかな笑顔で挨拶を返した。まわりの使用人たちに疑われないよう、微笑を保ち続けるのに必死だった。
「俺の忠告、ちゃんと守れてるじゃないか」
すれ違いざまに、直之は桜子にだけ聞こえるよう、ささやいた。
直之の忠告――華族階級の挨拶は、朝でも昼でも、みんな「ごきげんよう」。
「これなら、もう俺の手助けはいらないな。大丈夫、自信を持て。きみ以外に、『久川桜子』はいないんだ」
――大丈夫、なんて言わないで。
自分を信じてなんか、いられない。私はあなたみたいに、強くない。
ひとりで立っていることさえ、こんなに苦しいのに……!
「この先、迷うことがあったら、思い出すんだ。自分にとって何が一番大切なのか。それさえ忘れなければ、必ず道は見えてくる」
「直之さ……!」
桜子は思わず、直之を呼び止めようとした。
が、その時にはもう、直之は風のような素早さで、扉をくぐり抜けてしまっていた。
「あ……」
車寄せから馬車が走り出す。砂利道を車輪が駆ける大きな音が、あっという間に遠ざかっていく。
その音を聞きながら、桜子はぼんやりと考えた。
――どういうこと? あなたの言葉は、私にはみんな難しい謎かけのようだわ。
今すぐにでも走って追いかけ、直之の口から答えを聞きたい。
誰かを追いかけ、すがりつきたいなんて、そんなことを思ったのは、いつ以来だろう。遠い昔、千住の下町で祖父母と暮らしていた幼い頃は、そんな気持ちを抱いたこともあった。そして素直にそれを表し、祖父や祖母の手にしがみついていた。
けれど久川家に引き取られてからは、そんなことは一切なくなった。誰かに何かを求めても、叶えられたことなど一度もなかった。逆に邪険に振り払われ、つけあがるなだの何だのと、残酷な言葉を浴びせられることのほうが多かった。
手酷い拒絶に合い、傷つけられるよりは、最初から人に何も求めないほうがいい。
――俺の手助けはいらないな。
それは、もう私には関わらない、この屋敷へは来ないということ?
自分を助けてくれる人など、この世にはいない。すべて自分でどうにかしなければ、何も望みは叶わない。自分の力で得られないものは、諦める。いつかそういう生き方が身に付いていた。
それなのに今は、直之にそばにいて欲しいと願っている。懸命に自分を抑えていなければ、身体が勝手に彼の馬車を追いかけ、走り出してしまいそうだ。
こんな気持ちになってはいけないと、ずっと自分を戒めてきたのに。
誰かに甘え、寄りかかって生きることを覚えてしまったら、そのあと、自分ひとりの力で生きていくのがさらにつらくなる。今までは耐えられたことが、我慢できなくなってしまう。
いつの間にか、直之がそばにいてくれることに、慣れきってしまった。
すぐに戻ると直之は言った。けれどその言葉を信じて、もしもそれが嘘だったら。
――そうよ、嘘だったらいったいどうするの。二度と戻ってこない人に、それでもすがりつこうとして、ぐずぐずと泣くつもり?
そんなことはできない。そんなみっともない真似をしたら、今まで懸命に歯を食いしばり、ひとりで生きてきた時間を、唯一の魂のよりどころだった自分の誇りを、自分で無駄にしてしまうことになる。
凛と顔をあげていなければ。たとえどんなことが起きようとも。それが自分の誇りであったはずだ。
わかっているのに、心はまだ、扉の向こうに消えてしまった直之に向かい、流砂のように流れていこうとしている。行かないで、そばにいてと声にならない声をあげ続けている。
どうして? いつだって諦めることは簡単だったのに、どうして彼にだけはこんなふうに心が言うことを聞かないの?
彼のあの瞳を見ていると、言ってはいけないことを言ってしまいそうな気がする。
たとえば――もう何もいらないから、ここにいて、とか。ずっと私のそばにいて、とか。
そんな卑屈な甘えが直之に通用するとは思えない。むしろ、怯懦な姿に呆れられるだけだろう。
彼が賞賛してくれたのは、勇敢で毅然とした娘。どんな困難にも怖れずに立ち向かった久川桜子。ぐずぐずと男に甘えて縋るような女ではない。
桜子は懸命に顔をあげ、直之の望む自分を保とうとした。
「さ、お嬢様。お部屋に戻りましょう」
「ええ」
とよに促され、玄関ホールをあとにする。振り返ってはいけない、直之の姿を捜してはいけないと、懸命に自分に言い聞かせながら。
それから数日後、直之は言葉どおり東京へ戻った。
駅に向かう直前、直之は久川別邸に立ち寄ってくれたが、応接室まであがることはなく、玄関先で二言三言言葉を交わしただけですぐに立ち去ってしまった。
「ご機嫌よう、阿久津様。お身体にお気をつけて」
「ありがとう。東京から手紙を差し上げます」
冬の嵐の瞳は、いつものように桜子のすべてを吸い込んでしまいそうに深く、謎に満ちていた。
桜子はその瞳が怖かった。見つめられているだけで、この身体の奥底にあるものが、自分でも知らなかったなにかがあばかれてしまいそうな気がする。
なのに、その瞳をもっと、ずっと見ていたい。彼の瞳にある謎を、桜子もすべてあばいてみたいと思う。
私の中のなにかが、彼に向かって流れていく。そして彼のなにかが、私の中へ激しく音をたてて注がれている。
――それはもう、喉のすぐここまで来ていて、今にもあふれ出しそうだわ。
けれどふたりのあいだで交わされた、上流階級にふさわしい儀礼的な会話は、互いの心情をかけらも伝えてはくれなかった。
直之の訪問がなくなると、瀟洒な洋館は急に静かになってしまい、まるで無人の建物のように感じられると、桜子は思った。
ほかにも来客はある。慈乃を弔問する者もまだちらほらと訪れるし、桜子を慰めようと近隣の夫人達も手紙を送ってくれたりしていた。
だが、それらの人々の声は桜子の耳にはまったく届かない。表面上は笑顔で彼らを迎え、上手に会話していても、心はいつも違うところばかりを向いている。
来客があった時以外は、自分の部屋の窓からぼんやりと外を眺めてすごす時間が多くなった。
そこに立てば、郵便馬車が長い馬車道を走ってくるのをいち早く見つけることができるからだ。
――莫迦ね、私。
手紙を書きますと言った直之の言葉を信じて、来る当てもない手紙を待ち続けているなんて。
彼はきっと、私のことなど何とも思っていないだろう。手紙を書くと言ったことすら、忘れているに違いない。
「大丈夫です、お嬢様。阿久津様はすぐお戻りになられますって」
桜子の気を引き立てようと、菊がことさらはしゃいだ声で言った。
「わたくしは別に……」
直之のことなど考えていない、と言おうとしても、
「直之様と一緒にいらした阿久津伯爵夫人やご令嬢の美音子様は、まだ阿久津家の別邸に残ってらっしゃるそうですわ。おふたりを残して直之様が東京に引き上げてしまうなんて、あり得ませんもの」
菊はまるで自分自身が直之を待ちわびているかのように、嬉しそうに言った。
桜子はなにも答えることができず、窓辺にもたれて外を眺めるしかなかった。
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