FAKE −15−
 「貴君」とは、自分と同等、あるいはそれ以下の立場にある若い男性に向かっての呼びかけだ。伯爵の甥であっても、自分自身は爵位を持たない直之が、現男爵に向かって言うべき言葉ではない。
 直之を囲む男たちも一斉に直之を睨んだ。その殺気立った表情は、いかに最先端の洋装に身を包んでいようと、彼らが暴力を日常とする人間であることを如実に語っている。
「いや、失敬。貴君とは友人づきあいができそうな気がしたものでね」
 周囲の空気などまるで感じていないように、直之はにこやかに言った。
 ……友人?
 直之のその言葉に、桜子は息を飲んだ。
 ……どういうこと?
 この男が誰なのかわかっていて、そんなことを言っているの!?
「他家を訪問するには、いささか常識はずれの時間だった。今日中にご挨拶しようと気が急いていたものでね。ぼくもついさっき、東京から戻ってきたばかりなのだが、伯父から久川家にすばらしい提案があるもので、一刻も早くそれを伝えなければと思って」
「阿久津伯爵から……」
 その名前に、竜一郎は興味を持ったようだった。口元に皮肉な笑みを浮かべ、直之を囲む男達を、おとなしくしていろと軽く手で制する。
「あらためて出直してこよう。その時にはぜひ、伯父の提案に耳を傾けていただきたい。けして損にはならないはずだ」
「事業の相談ならば、東京の財閥を通してくれ。こんな堆肥臭い田舎の別荘で聞くべき話じゃないだろう」
「それもそうだ。では、失礼する」
 竜一郎と、そして桜子とに軽く一礼し、直之はくるっときびすを返した。
「あ……!」
 桜子は思わず、彼の背中を追おうとした。
 ――行かないで!
 けれど、声が出ない。身体が動かない。
 硬直した桜子に目もくれず、直之は久川邸を出ていこうとする。
 ――行かないで、直之さん。どうして行ってしまうの。私を助けに来てくれたのではなかったの!? それなのになぜ、私を見もせずに行ってしまおうとするの!?
 あなたは、私を助けてくれたじゃない。私の嘘を知っていて、自分は良い相棒になれるはずだって、そう言ってくれたじゃない!
 まさか……まさか、私を見捨てるの?
 この状況を見て、私の嘘が見抜かれたとわかったから。これ以上私と関わりあうより、本物の久川竜一郎についたほうが得だと考えたから!?
 私を、裏切るの? 三つ目のアレクセイ!
 桜子の中に渦巻く悲鳴のような想いは、直之には届くはずもなかった。
 竜一郎の配下の男たちが、まるで花道のように左右に分かれ、直之を通す。その中を、直之は悠々と、まるで和やかな夜会が終わったばかりのように、歩いていった。
 ――行かないで、直之さん。行かないで!
 扉が開き、そして閉まる。
 それはまるで鉄の壁のように、彼と桜子とを隔ててしまう。
 もう、彼の声も聞こえない。今までずっと桜子を励まし続けてくれていた、直之の声が。
 そして直之の姿は、桜子の視界から完全に消えてしまった。
「な、お……」
 もう、彼の名前も出てこない。
 気づけば、久川邸の使用人たちも固唾を呑んで桜子を見つめていた。
 昨日までの優しさと親愛に満ちた表情は、どこにもない。みな、得体の知れない化け物でも見るような目で、じっと桜子を見ている。
 渦を巻くような不安と不信が、桜子の全身を押し包み、突き刺さる。
 ……もう、信じてくれないの?
 誰も私を信じてくれない。
 私に手を貸してくれる人は、いない。私は、ひとりぽっち。
 ――自業自得よね。
 乾いた声が、頭の中に響いた。
 まるで年老いた魔女のようにしゃがれたその声は、紛れもなく自分自身の声だった。
 ずっとみんなに嘘をついて、騙してきたんだもの。誰にも信じてもらえなくて当然。
 あなたは――私は、自分のものじゃないものを、ずっと盗んできた。別の人の名前、身分、生活……そして、幸せ。
 今まで半年ものあいだ、別の人の幸せを横取りしてきたんだもの。今さら誰かに助けを求めようなんて、図々しいわ。
 それとも、阿久津直之に泣いてすがれば、彼がどうにかしてくれるとでも思っていたの?あなたは彼に、何一つしてやっていないくせに。
 そこまで彼に甘えて、愚かになっていたの!?
 それほどまでに自分を見失っていたのなら、破滅するのも当たり前だわ。
 胸の中に、どす黒い絶望が広がっていく。まるで自分の中に大きな底なしの淵が生まれ、なにもかもがそこに吸い込まれていくようだった。
 涙も出てこない。
「まあ、警察を呼ぶのは明日でもいいか。それまでこの女が逃げないよう、縛り上げてどっかにつないでおけ!」
「ち……、ちょっと、待ってよ――」
 小さく、ふるえる声がした。
「お、お嬢様が偽者だって……、そ、そんなの、何の証拠があるのよ……」
「――なんだと?」
 不愉快そうに口元を歪め、竜一郎は振り返った。
「今……、誰か、なにか言ったか」
 桜子も茫然として、使用人たちのほうを見た。
「だって――だって、そうじゃない。おかしいじゃない。あんた、東京の若様だって言うけど……その証拠はあるの!?」
 年輩の使用人たちを押しのけるようにして前に進み出たのは、菊だった。
「あんたの顔、たしかに若様によく似てる。十年前に見た若様の面影がある。でも、そんなふうに顔半分、包帯で隠してたんじゃ、よくわかんないよ!」
「お、おやめ、菊!」
 後ろからとよが制止しようとするのもかまわず、菊はしゃにむに前へ出た。
「それに、あんたはなんか、身の証しになるものを持ってるの? お嬢様は、久川家の指輪を持ってらした。大奥様がたしかに本物だっておっしゃった!」
「こ、この……ッ!」
 竜一郎の白い目元に、かッと血の色が昇った。
「奉公人の分際で、主人にたてつく気か!」
 竜一郎は高く右手を振り上げ、力いっぱい菊の頬を平手打ちした。
「きゃっ!」
 長身の男に張り飛ばされ、小柄な菊の身体は吹っ飛び、床に倒れ込んだ。
「菊!」
 慌ててとよが駆け寄り、菊を抱き起こす。
「わ、若様。あまり乱暴なことは……」
「なんだッ! なにか文句があるのか!」
 いさめようとした家令をも、竜一郎は頭ごなしに怒鳴りつけた。
 そして、怯える使用人たちをじろりと見回す。
「言いたいことがあるなら言ってみろ! その代わりおまえら全員、明日からこの屋敷で働けると思うなよ!」
 使用人たちのあいだに、声にならない動揺が広がった。
 ――やるかもしれない。この男なら。
 桜子は小さく息を飲んだ。
 もともと竜一郎は、生まれながらの特権階級育ちで、弱い者、身分の低い者に対する思いやりなど欠片も持ち合わせていなかった。それは本物の桜子も同様だったが、自分の屋敷で働く使用人など、最初から同じ人間とも思っていないのだ。そうでなければ、年端もいかない子どもを半死半生になるまで鞭打つなどということが出来るはずがない。
「あんた……、最低だ――!」
 床にうずくまったまま、菊がつぶやく。
 涙にかすれた、本当に小さな独り言を、けれど竜一郎は聞き逃さなかった。
 絣の上に白い半襟を縫いつけた菊の衿もとを鷲づかみにし、竜一郎は少女の身体を無理やり引き起こし、力任せに揺さぶった。
「いい度胸だな! もう一度言ってみろ、小娘がっ!」
「――おやめなさい!」
 背後から細い手が伸び、竜一郎の腕を強く掴んだ。
「わたくしの屋敷で、無法な真似は許しません」
「……なんだと?」
 ぎぎ……と、歯車の音がしそうな緩慢な動きで、竜一郎が振り返った。自分の後ろに立つ娘を、血走った目でにらみ据える。
 その目を、桜子は真正面から受け止めた。黒曜石のように輝く瞳が、真っ直ぐ射抜くように竜一郎を見る。
「ここはわたくしの屋敷よ。その子はわたくしの小間使いです。たとえあなたが本物の久川竜一郎であろうと、わたくしの目の前でこんな乱暴は許しません!」
 ――怖れない。なにが起きても、けして怖れてはいけない。
 恐怖に囚われてしまったら、私の負けになる。
「たとえ本物、だ……?」
「菊の言うとおりよ。あなたが本物のわたくしの兄であるという証拠は、なにもないわ!」
 人は、自分の信じたいものを信じる。直之の言葉が脳裏をよぎる。
 桜子は、固唾を呑んで自分たちを見つめる使用人たちの目を、強く意識した。彼らの緊張する息づかいさえ聞こえてくるようだ。
 ――彼らが、久川財閥の新しい主人として、信じて、ついていきたいと思うのは、どちらかしら?
 突然屋敷に乗り込んできて、乱暴な振る舞いをし、使用人たちを脅す男か。
 半年以上彼らの主人として屋敷で暮らし、慕われてきた、この私か。
 桜子の中で、いろいろな思考がめまぐるしく駆けめぐった。
 もしもこの男が屋敷の主人となれば、当然、私はここを追い出される。おそらく、主家の令嬢の名を騙った詐欺師として、警察に連行されるだろう。
 そして使用人たちは、この傲慢な男に仕えなければならない。
 それどころか、この屋敷も農場も、売り払われてしまうかもしれない。使用人たちは、職も住居も失ってしまうのだ。
 そんなことは、誰ひとりとして望まないはずだ。
 私が主人であれば、そんな事態にはならない。
 彼らもわかっているはずだ。自分たちを守ってくれるのは、私のほうだということを。
 ――そうよ。負けない。負けられない。
 ここで私が負けてしまったら、つらい目に遭わされるのは私だけではない。この屋敷にいる人々みんなが、哀しい想いをしなければならないんだわ。
 桜子は懸命に自分に言い聞かせた。
 誰の力も頼らない。どんな絶望にも、私は負けない。そうよ。どんなに苦しくても、どんなにぼろぼろに傷つけられ、踏みにじられても、私は前を向いてきた。
 わたくしは久川桜子。この人達を守れるのは、今はわたくししかいない!
「偽者はあなたよ。誰だか知らないけれど、兄の名を騙り、これ以上死んだ兄の名誉を辱めることは許しません」
「俺が、偽者だと言うのか!」
「そうよ。本物の男爵家の嫡男なら、無抵抗の婦女子に暴力を振るうなどという恥ずべき行為をするはずがないわ! わたくしの兄の竜一郎は、そんな卑劣な男ではありません」
 使用人たちのあいだから、低く歓声があがった。苦渋に満ちた表情で顔を背けていた彼らが、わずかに桜子たちのほうを見た。
 その目にはまだ、困惑や怯えがあり、桜子を完全に信じているとは言い難い。竜一郎と桜子とを交互に見比べ、どちらの言葉を信じれば良いのか決めかねているようだ。
 けれど、必ず彼らはわたくしを信じてくれるわ。人は、自分の信じたいものをこそ、信じるのだから。
「それに、この屋敷や農場を処分するですって? お祖父様とお祖母様が生涯大切になさっていたこの土地を手放すなんて、おふたりを敬慕なさっていたお兄さまなら、絶対に口になさらないわ。ましてここで働く人たちを解雇するなんて、そんな無責任なことは冗談でもおっしゃらないはずよ! それだけでも、あなたに久川の名を名乗る資格はないわ」
 そして、これだけは約束する。
 わたくしはたしかに大嘘つきの娘だけど、それでも絶対に、あなた達を裏切らない。あなた達を見捨てて、自分ひとりだけ逃げ出したりはしない。わたくしは最後まであなた達の味方よ!
「ごらんなさい。これが、わたくしが本物の久川桜子であるという証です。久川男爵家の貴婦人に代々受け継がれる、紅玉の指輪よ!」
 桜子は左手をゆっくりと顔の前にかざした。その中指に輝く、血のように赤い紅玉の指輪を。
「本来ならこの指輪は、わたくしの母から兄の妻となる女性に引き継がれるはずでした。ですが、あの震災で兄が未婚のまま世を去ったため、妹のわたくしがこうして守っているのよ」
 そして桜子は、一歩、前へ踏み出した。
 少しでも気を緩めれば、全身ががたがたと震えだしてしまいそうだ。できることなら今すぐにでも、悲鳴をあげてここから逃げ出したい。
 けれど。
「あなたが本物の久川竜一郎であるなら、ご自分でそれを証明なさるのね。この指輪に勝るたしかな証拠を、ここに出してごらんなさい!」
 胸を張り、敢然と顔をあげて、桜子は言った。
「証拠もないままわたくしの兄の名を辱め、わたくしを侮辱しようというのなら、久川家女当主の名において、けしてあなたを許しません!」
 今度は竜一郎が息を飲み、後ずさる番だった。
 ――の、はずだった。
「……証拠、か」
 にやりと、竜一郎は嗤った。
「俺が本物の久川竜一郎である証拠か。そんなものは、たしかにない。この顔以外にはな」
 低く、まるで呪いの言葉を唱えるようにつぶやきながら、竜一郎はぴたぴたと自分のほほを軽く叩いた。焼けただれて包帯に覆われた左半分ではなく、無傷で、かつての美貌をとどめた右半分を。
「だが、おまえが桜子でないという証拠なら、見せてやるさ!」
 その叫びと同時に、桜子の前にひとりの少年が転がり出てきた。
 後ろから乱暴に突き飛ばされたのだ。
「歩さん!?」
 簡素な綿ネルの寝間着を着ただけの歩を、竜一郎の配下が襟首を掴んで床に押さえつける。
 使用人長屋で休んでいたところを、無理やり引き立てられてきたのだろう。力ずくでねじ伏せられ、亀のように床に押さえつけられて、歩は苦しげに呻いた。寝間着の袖が大きくまくれあがり、肩から腕に広がる火傷の痕が見える。
「ひさしぶりだな、小僧。えー……名前はなんだったか? 覚えていないな」
 ひどく面倒くさそうに竜一郎は言った。
「わ、若様……!」
「そうか。おまえも俺の顔をちゃんと覚えていたか。――そりゃそうだろう。襁褓もとれない赤ん坊のころから拾って、面倒を見てやった大恩あるお家の若様だからなあ。見忘れたなんぞと言いやがったら、それこそ打ち首ものだ」
 せせら笑う竜一郎に、歩はぎりぎりと歯を食いしばり、今にも噛み殺してやりたそうな目で睨んだ。
「俺の顔がわかるなら、この女が誰なのかもちゃんとわかっているんだろうなぁ?」
 竜一郎の指が、桜子を指し示す。
 歩は驚愕に大きく目を見開いた。息を飲み、竜一郎と、そして桜子とを交互に見つめる。
「良く考えて言えよ? なあ、小僧」
 歩の前にしゃがみこみ、竜一郎は乱暴に歩の前髪を掴んだ。そのまま身体を引きずり起こされ、歩は苦痛の声をあげた。
「さあ、言え。あの女は誰だ」
「あ……あの方は――っ」
 歩は懸命に声を絞り出した。
「あの方は、ぼくがお仕えするお嬢様ですっ!」
「なんだと、このガキっ!」
「お嬢様です! あの方は、久川家のお嬢様です!」
 歩の声が玄関ホールの高い天井に響き渡り、その場にいる者すべての聴覚を打ち据えた。
「――このおッ!」
 竜一郎は、歩の頭をまるでボールのように、力いっぱい床に叩きつけた。がつッと鈍い音がする。
「でまかせを言うなッ!」
「でまかせなんかじゃない、あの方は本当に――」
「まだ言うか、こいつ!!」
 竜一郎は激昂した。立ち上がり、押さえつけられたままの歩のこめかみや肩口を容赦なく蹴り上げる。
「やめて! 何するの!」
 思わず飛びだそうとした桜子を、竜一郎の配下が乱暴に押さえつけた。ふたりがかりで桜子の腕を掴み、無理やり引き戻す。力任せに捕まれた腕が、骨が折れそうなくらい痛い。
 ほかの使用人たちの前にも、竜一郎とともに来た男たちが立ちふさがる。ひどく陰惨な目つきの男たちににらみつけられ、誰も歩を助けに行けなかった。
「さあ言え! あの女は、おまえと同じ久川家の使用人、女中だった女だとな!」
 竜一郎は少年を蹴り続けた。
 容赦ない暴力を避けようと、歩は両腕で頭を抱え、懸命に身体を小さく縮める。
 その襟首を、竜一郎は掴んだ。少年の身体を無理やり引き起こし、首に両手をかける。
 小柄な歩の身体が宙づりになった。かろうじて爪先が床についているが、呼吸はほとんどできず、顔が見る見るうちに赤黒く鬱血していく。
「や――やめて、やめてええっ!!」
 桜子は悲鳴をあげた。
 必死に暴れ、左右から自分を抑える男たちの手をふりほどこうとする。が、暴力に慣れた男たちの力にかなうべくもなかった。
「やめて、お願い、竜一郎さんっ! やめてくださいっ!!」
「はははっ! 竜一郎――竜一郎か! 俺はお前の兄じゃなかったのか!?」
 桜子の懸命の訴えをかき消すように、竜一郎が高く笑う。





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