FAKE −16−
「言え、歩っ! あの女の名前を言え!!」
「――さ、かわ……っ、さくらこ、さまです……っ!」
 首を絞められ、呼吸もできない状態で、歩は言った。
「いい加減にしろっ! 殺されたいのか!!」
 竜一郎はふたたび、歩の身体を床に叩きつけた。うずくまり、激しく咳き込む歩を、今度はその背中を思いきり踏みつける。
「あの方は、久川桜子様です! ぼくのお仕えする、ただひとりのお嬢様ですっ!!」
 踏みにじられ、蹴られながら、渾身の力を込めて歩は叫んだ。
 歩が始めて、久川桜子の名を口にした。この那原に来てから、絶対に「お嬢様」としか言わなかったのに。少年もまた嘘をついた。
 ――私を守るために。
「お、おやめください、若様。相手はまだ子どもです」
 見るに見かねた吉沼家令が、思わず手を伸ばし、竜一郎を止めようとした。
 が、
「うるせえ、じじい! 引っ込んでろ!」
 竜一郎の配下の男たちが、老家令を乱暴に突き飛ばす。小柄な老人は力無くよろめき、そのまま後ろへ尻餅をついてしまった。
「やめて! この人たちは関係ないわ、ひどいことをしないで!」
「おまえ次第だ」
 冷たく、竜一郎は言った。
「おまえがいつまでもしらっばくれているなら、このガキだけではなく、あいつらも道連れになるんだぞ」
「そんな……っ」
「このガキがくたばったら、次はあのくそ生意気な女中だ。それからそのじじいに――。おまえが強情を張れば張るほど、怪我人や、下手すりゃ死人が増えていくことになるぞ!こんなふうにな!」
 止める者のいなくなった竜一郎は、他人をいたぶる悦びに口元を歪め、さらに激しく歩を蹴りあげた。硬い革靴の爪先が少年の腹部にめり込み、その身体が一瞬、床から浮き上がる。
「うあ……っ!」
 悲鳴はもう、力なくかすれた呻きでしかない。歩の顔面は鼻血か、口の中を切ったのか、真っ赤な血にまみれていた。
「やめて……。もうやめてください、竜一郎様……!」
 男たちに掴まれたまま、桜子はまるで気絶したかのようにうなだれた。自分を押さえつける腕をふりほどこうとする力も、もう出てこない。
「だ、だめだ、お嬢様……っ!」
 歩が必死に桜子へ手を伸ばそうとする。その手を、竜一郎が踏みにじる。
「お嬢様、だめですっ! ぼくのことなんか、かまわないで!! お嬢様あっ!」
 歩の命がけの悲痛な叫びに、久川邸の使用人たちもかたく目を閉じ、身をすくませた。これ以上聴いていられないと、両手で耳をふさぐ者もいる。
「――もう、いいわ」
 つぶやくように、桜子は言った。
 がくりと床に膝をつき、壊れた人形のように座り込む。
 自分の立場を、嘘を守るために、歩の命を賭けるわけにはいかない。
 ……これしか、歩を、みなを守る方法がないのなら。
「お願いでございます。もう、おやめください、竜一郎様……」
 それは、特権階級にある者の言葉ではなかった。その者に仕え、常にひれ伏し続けている者の言葉だった。
 桜子は両手を床につき、うなだれた。
 竜一郎が唇を歪めるようにして、声もなく笑った。肩で荒く息をつきながら、ようやく歩への暴力を止める。
 そして竜一郎は、桜子の目の前に立った。勝ち誇った笑いを浮かべ、力無くうなだれる娘を見おろす。
「言え。おまえの名前は、なんだ」
「わ、わたくしの……」
 涙が落ちた。床に置いた手の甲に、ぽたりと小さな泉を作る。
「私の名は――三沢多恵です」





    4  本当の春が来る

 桜子は屋敷の屋根裏部屋に閉じこめられた。
 部屋というより、単なる物置として使っている場所だ。暖房設備どころか、座る場所もろくにない。窓は内側から板が打ちつけてあり、ろうそく一本すら与えられなかった。
「厩にくくりつけてやっても良かったんだが、それじゃ見張りをするヤツまで馬糞臭い中に突っ立ってなきゃならないからな。情けをかけて、屋敷の中に置いてやるさ」
 竜一郎はそううそぶいた。
 扉には急造の閂がかけられ、その上、見張りの男が椅子を置いて座り込んで、屋敷の人間を近づけないようにしている。
 さきほどまで桜子が着ていた御納戸色の紬は、竜一郎に取り上げられてしまった。
 若い娘が着るには地味すぎる色合いのそれは、慈乃の着物を仕立て直したもので、上質の結城紬だった。
 那原に来てからあつらえた桜子の着物はみんな、花柄や御所車など若い娘らしい華やかなものばかりで、服喪中にはふさわしくない。そのため、慈乃の着物から地味なものを選んで着ていたのだ。そうやって祖母の形見を身につけていると、少しでも慈乃のぬくもりを感じられるような気もしていた。
 だが、泥棒同然の女にそんな良いものを着せておくわけにはいかないと、竜一郎は桜子をみなが見ている前で裸同然にしようとしたのだ。
 さすがにそれは、若い娘にあまりにひどい仕打ちだと、とよやほかの使用人たちが涙ながらに訴え、桜子は女中部屋で着替えることを許された。
 祖母の紬の代わりに渡されたのは、古ぼけたメリンスの袷
(あわせ)だった。とよが自分の住まいからあわてて持ってきたものだ。
「すみません、お嬢様。こんな、あたしの古着なんかで……」
 安物のメリンスは生地に張りもなく、肌触りもちくちくして着心地が悪い。
 けれど桜子はとよに深く頭をさげ、それを受け取った。
「ありがとう、とよさん」
 黄菊の模様の袷はかなり色あせてはいるが、きちんと手入れされている。多恵だった時に東京の久川本邸で与えられていた単衣
(ひとえ)よりも、よほどましだ。
 女学生風の庇髪もほどいて、三つ編みにした。小豆色の足袋だけは、竜一郎も見落としたのか、取り上げられることはなかった。
 そして桜子は、屋根裏部屋に閉じこめられた。
 暗い部屋の中にひとりぽつんと座る。灯りとなるのは、扉の隙間から漏れるわずかな光だけだ。
 夜が更けるにつれ、寒さが身体の芯まで凍みてくる。春とはいえ、山里の夜はまだ火がないと過ごせないほど冷えるのだ。自分で自分の肩を抱いても、少しも温かくならない。
「……莫迦ね」
 ふと、桜子は自分を笑った。
 このくらいの寒さがつらいなんて。以前はもっと寒い、苦しい思いをしていたのに。若様とお嬢様に逆らった罰だと、食事も満足に与えられず、土間に敷いた藁茣蓙
(わらござ)の上で寝かされたこともあった。それに比べたら、ここは一応板敷きの部屋だ。屋根も壁もしっかりとすきま風を防いでくれている。
 それに、この暗闇も今夜一晩だけのことだ。
 ――明日になったら、私はいったいどうなるのかしら。
 竜一郎はきっと、朝一番に那原の町から駐在を呼ぶだろう。
 そして自分は、犯罪者として警察に引き渡される。
 そこから先のことは……考えるのは、よそう。
 後悔はしない、と誓った。久川桜子の名を名乗った時から、いつかこんな時が来ることを、覚悟していたはずだ。
 いいえ、むしろこれで良かったのかもしれない。
 もう、嘘をつかずに済む。いつこの嘘があばかれるのかと、びくびくと怯えて暮らすこともない。自分の嘘がばれた時、誰がどれだけ傷つくのかと、そんなことばかりを思い悩む必要はなくなったのだ。
 ――そうね。私、幸せだった。
 この半年あまり、自分は本当に幸せだった。これから先の一生をすべて引き替えにしてもかまわないくらい。那原で暮らしたこの半年で、自分は一生分のしあわせを使い果たしたのだ。
 だから、これでいい。
 埃だらけの床に座り、壁にもたれかかって、桜子は目を閉じた。
 どのくらい、そうしていただろう。
「……さま。お嬢様」
 暗がりの中、小さなノックの音とともに、かすかに桜子を呼ぶ声がした。
「え……?」
「お嬢様、そこにおいでですか!?」
「――菊? 菊なの!?」
 桜子ははっと目を開けた。慌てて声のするほうへ、扉のほうへと手を伸ばす。
「はい、菊でございます! ――ちょっとあんた、ここを開けてよ。少しっくらい、いいじゃない」
「ふざけんな。ここにゃ、誰も近づけるなって言われてんだぞ」
「何も、お嬢様を逃がそうってんじゃないんだから。ただちょっと、お顔を見たいだけなのよ」
 扉の向こうで、低く抑えた声で言い争う気配がする。菊と見張りの男が押し問答を繰り返しているようだ。
「わかったわよ。ほら、あと一円払うから。これで目ぇつむっててよ!」
 わずかな沈黙のあと、がたがたと閂が外される音がした。
「十分だ。それ以上は無理だからな」
「わかってる! ありがと、恩に着ます!」
 そして、扉が開いた。
 オレンジ色のランプの光がさっと室内を照らす。それだけでも、暗闇に慣れた桜子の目にはまぶしすぎた。
「お嬢様!」
 半分だけ開けられた扉から、転げるように菊が屋根裏部屋に飛び込んできた。手にはランプと、古びた毛布がある。そしてその頬には、竜一郎が殴った痕が今も赤くはっきりと残っていた。
「お嬢様、ご無事ですか!?」
「菊、あなたこそ……! どうしてここへ来たの!?」
「外の見張りに袖の下を渡して、開けてもらいました。あたしのお小遣いだけじゃ足りないだろうって、吉沼さんやとよさんもお金出してくれて」
 半分べそをかきながら、菊は桜子にしがみついた。
「お寒かったでしょう、お嬢様。こんなに身体が冷たくなって……!」
「危ないわ、菊。竜一郎様に見つかったら、あなたがどんなひどいお仕置きをされるか――」
「はい。だから、あんまり長居はできません」
 菊は持ってきた毛布で、桜子の肩を包み込んだ。
「ごめんなさい、お嬢様。あたし……あたし、こんなことしかできなくて……!」
 そのまま桜子の肩にしがみつき、込み上げる泣き声を必死で噛み殺そうとする。
「いいのよ、菊。ありがとう。とてもあたたかいわ」
 ふるえる菊の肩を、桜子もそっと抱いた。
「わかっているでしょう? 私は『お嬢様』じゃないわ。あなた達をずっと騙していたのよ」
「いいえ! いいえ、お嬢様!」
 菊は強く首を横に振った。
「お嬢様は、お嬢様です! 誰が何を言ったって、あたしらにとっちゃ、お嬢様が本物の久川桜子様なんです!」
「菊……」
「お嬢様はあたあしをかばってくださった。あたしらを守ろうとして、頑張ってくださったのに。なのにあたしらは、何にもできなくて……!!」
 涙で顔をくしゃくしゃにして、菊はそれでも懸命に笑おうとした。
「菊は幸せ者です。こんなにお優しいお嬢様にお仕えすることができて……。お嬢様が教えてくださったことは、一生、菊の宝物です」
 菊、と名を呼ぼうとした。けれど胸の真ん中にひどく熱いものがつかえて、声が出てこない。
「忘れないでください。あたしらはみんな、お嬢様の味方です」
 その言葉は、桜子こそが言いたかった言葉だった。
 ――忘れないで。私は最後まであなた達の味方よ。
 言いたくて、でも、けしてつたわらないと思っていた言葉だった。
 あるいは、こんな大嘘つきの娘が口にしたところで、誰にも信じてもらえないと。
 ――なのに、今、あなた達がそれを私に言ってくれるの?
「ありがとう……」
 涙にかすれる声で、桜子は懸命にそれだけをつぶやいた。
 ずっと、ひとりだと思っていた。
 この那原に来て、やっと居場所ができたと思ってはいたけれど、それでもやはり自分はひとりなのだと、誰も自分を守ってはくれないと思っていた。
 ――でも、違った。
 私はこんなにも優しい人達に囲まれていた。
 那原は私の故郷。
 それは、私を抱きしめてくれる人達がいるから。
 この人達こそが、私の愛するふるさと。
「ごめんなさい。ごめんなさい、菊……!」
 守りたかった。この人達を。この人達の居場所を、笑顔を。
 それは力及ばなかったけれど。
 せめて、私は最後までこの人達を裏切らずにいたい。
 ――迷ったら、思い出せ。自分にとって一番大切なものはなんなのか。そうすればおのずと道は拓けてくる。
 直之の言葉が脳裏によみがえる。
 そうね、直之さん。あの言葉は、こういうことだったのね。
 この人達が信じてくれるお嬢様であり続けたい。何があっても誇り高く、美しく。その名の通り、満開に咲く桜花のように、この山里に春をもたらす存在でありたい。本当の久川桜子でありたい。
「菊。もう泣くのはよしましょう」
 桜子はそっと菊の肩を押しやった。互いの顔がちゃんと見えるように。
「時間がないわ。必要なことを教えて。竜一郎様は今、どうなさってらっしゃるの? 本当にこの屋敷も農場も売り払ってしまわれるおつもりかしら」
「……わかりません。今は一階の喫煙室で、お仲間と一緒にお酒を召し上がってらっしゃいます」
 菊もしゃくり上げながら、桜子の質問に答えた。
「あたし、あの人がこのままお屋敷に居座るんなら、明日にでもお暇をいただくつもりです」
「だめよ、菊。そんなことを言っては」
 菊の家は、このあたりの農家がみなそうであるように、けして裕福ではなく、幼い弟や妹が五人もいる。長女の菊が働かなければ、弟たちを満足に学校へ通わせることも難しい。
「すぐに決めてはだめよ。まずご両親に、それにとよさんや吉沼さんにも良く相談なさい」
「……はい」
「歩さんはどうしていて? ひどい怪我をしているのではなくて?」
 最後に歩を見た時は、ぐったりと床に伏し、起き上がることもできないようだった。
「高畑くんなら、今は向坂医師のお長屋にいます。怪我も、打ち身や捻挫で、あんまりひどいことにはなってないって」
「そう。良かったわ」
 嘱託医のもとにいるのなら、歩の身もひとまず安心だろう。
「阿久津様は――」
 ためらいながら、菊が言った。
「伯爵様のご別邸にも、農場の人が確かめに行ってくれたんですが……。ご別邸の人達も、直之様が今どこにいらっしゃるか、わからないって――」
「大丈夫よ」
 桜子は、菊を力づけるようににっこりと微笑んだ。
「直之様からのご伝言なら、わたくし、もういただいているわ」
「本当ですか、お嬢様!」
 菊の顔にぱっと安堵の色が浮かぶ。
 さらに桜子はうなずいて見せ、無言で着物のふところを抑えた。そこに大事なものがしまってある、と示す。
 その時、どん!と激しく扉が叩かれた。
「おい、いい加減にしろ! いつまでくっちゃべってるつもりだ!」
 しびれを切らした見張りが、外から乱暴に扉を叩き、蹴っている。
「もういいわ。お行きなさい」
 桜子は、菊に立つよう促した。
「お嬢様。でも……」
「わたくしは大丈夫。もう、何も怖くないわ」
 それは、昨日までとまったく変わらない、落ち着いて幸福そうな令嬢の笑顔だった。
 待ちきれなくなったのか、見張りが自分で扉を開け、屋根裏部屋に入ってきた。
「おら、出ろ!」
 菊を引きずり出そうと、手を伸ばす。
「おやめなさい」
 桜子は立ち上がり、菊を背中にかばった。
「乱暴な振る舞いはやめてください。この子が怯えているわ」
「なんだと!?」
「大きな声を出さなくとも、この子はちゃんと主人の言いつけを守ります」
 毅然とした態度は、人の上に立つ者の威厳を持っている。見張りの男は気圧されてたじろぎ、言葉につまった。
 その間に桜子は菊の肩を抱き、そっと廊下へ押し出してやる。
「さ、お行きなさい。竜一郎様に見つからないようにね。ほかのみんなにも、心配はいらないと伝えてちょうだい」
「はい、お嬢様」
 しょんぼりとうなだれ、それでも菊は若い女主人の言いつけに従った。
「ふ、ふん! そんな取り澄ましたツラをしてられるのも、明日の朝までだぞ!」
 吐き捨てるように言い、見張りはばたんと大きな音を立てて扉を閉めた。
 また、がたがたと音がして、閂がかけられる。
「お嬢様、お嬢様! どうぞご無事で――」
「うるせえ、さっさとあっちへ行け!」
 革靴の大きな足音とよろけるような小さな足音とが交錯し、やがて扉の向こうは元通りしんと静まりかえってしまった。





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